スノードロップの抱擁

梨町

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9.追憶

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 幼い頃の夢を見た。
 しんしんと、雪が降っている。窓の外を見渡すと、そこには真っ白な雪景色が広がっていた。記憶の限り初めて見た雪景色。絵本の中から出てきたような幻想的な景色だ。綺麗だと思うより先に、少しだけ怖気付いた。前が見えないほど降る雪は世界を閉ざしてしまいそうだったから。

「満?」

 優しい声に振り向けば、そこには月也がいた。十歳上の中学生で成長期に差し掛かって身長がどんどん伸びているという。そんな月也は満にはひどく大人びて見えて、憧れだった。目が合うと、月也が陽に向かって柔らかく微笑んでくれる。

「満は雪、好き?」

 月也の質問に、少し考えて満はかぶりを振った。

「ううん……寒いもん」

 部屋の中にいても、暖房を点けなければとても寒い。外に出たらもっと寒いのだろうと思うと、どちらかといえば憂鬱だ。
 満は体を撫ぜる冷えた空気に身を竦めた。しかしすぐに風は温かい何かによって遮られる。

「満、こっちにおいで。寒いだろ」

 いつの間にか毛布を広げた月也が、陽の体を包んでいた。二人で毛布に包まって身を寄せ合う。

「寒くない?」

 気遣う月也の言葉に満は小さく頷いた。冷たい空気を遮る毛布と、月也の体温で温かくなる。満よりずっと大きな体に抱き締められて身を寄せていると、何よりも安心できた。

「……暖房、点けられたらいいんだけどな。勝手に点けてると、父さん怒るから」

 月也はどこか憤りを堪えた様子で絞り出す。
 父親は、とても怒りっぽい人だった。エアコンを勝手に操作すれば怒り、テレビを勝手に見れば怒る。そして息子たちの脆弱さを嘲笑うように暴力を振るう。
 今は外出をしているが、その間に勝手なことをしていればやはり怒るのだ。とにかく満と月也は、何が父親の機嫌を損ねるか分からないため、余計なことはせずに身を寄せ合って寒さを凌ぐしかなかった。
 母親は、物心ついた頃にはもういなかった。満を産んでからすぐに一人で逃げてしまったのだと、月也は言っていた。母の話をするとき、月也は苛立ち混じりに語気を強める。それが少しだけ怖くて、満は両親の話をするのが苦手だった。月也の優しい顔が大好きだったからだ。
 そんな満の様子に気が付いたのか、月也は満を安心させるように、そっと満の柔らかい髪を撫でた。

「そんなことより、満にプレゼントがあるよ」
「ぷれぜんと?」

 両親がほとんど親らしいことをしないこの家で、満にプレゼントなどを与えてくれるのは月也だけだった。月也が満のためを想って何かを用意してくれるということが、満は嬉しくて仕方がなかった。プレゼントと聞いた瞬間、期待に胸が膨らむ。物自体は、何でもいいのだ。月也が笑ってプレゼントを差し出してくれる、その瞬間が何よりも大好きだった。

「はい。これ、あげる」
「これ、なあに?」

 渡されたのは、小さな木箱だった。箱には小さな白い花の絵が彫って描かれている。何かこの中に入っているのだろうかと開けると、その瞬間、箱から控えめな音で音が鳴り出した。

「これはオルゴールっていって、開けると音楽が流れる箱なんだ。学校の授業で作ったんだ」
「つき兄、すごい。音、きれいだね……」

 オルゴールの歯車が回り、凹凸が吸い込まれていくたびに一音一音丁寧に紡がれていく。不思議に思いながら初めて見るオルゴールを夢中で見つめていたが、次第に音が弱まり、最後には止まってしまった。物悲しい気持ちになり、縋るように月也を見遣る。月也は優しく微笑むと、箱を閉じて側面にある小さな発条を巻いた。

「ここを巻くと、何回でも音を鳴らせるんだ。もう一回開けてみて?」

 おそるおそる満が箱を開けると、再び音が流れ出す。満は感動しきりで、月也に抱き着いた。

「すごい! ありがとう、つき兄。だいすき!」

 その言葉を聞いた瞬間、月也は心底嬉しそうに破顔する。

「満が喜んでくれて嬉しい。俺も満のことが大好きだよ」

そして満と同じように、ぎゅっと力強く抱き締めてくれた。
 満は、寒い冬の日が得意ではない。けれど、こうしてひとつの毛布の中で月也と寄り添い、温もりを分かち合うことは好きだった。月也に甘えている時間は他のどんなときよりも安心できたし、幸福すら感じていた。

「あ、満。この箱の外も見て」
「お花の絵? なんていうお花?」

 箱には小さな白い花が描いてあるが、満は初めて見る花だった。お辞儀をするように下を向いた控えめな花びら。背景に描かれた青い空とのコントラストが美しかった。

「これはスノードロップっていう花だよ。先生が持ってきた花の本に描かれていたんだ。その本に花言葉とか逸話とか載ってたんだけど、満っぽいなって思って」
「ぽい?」
 月也の言っている意味が少しだけ分からなくて首を傾げた。月也は笑って、満の頬にキスをした。

「そう、ぽいの。これは天使の花なんだ。で、お前は俺の天使だから」
「満、天使さんじゃないよ。満だよ」
「あはは。そうだな、満だな。でも俺の宝物で、天使みたいに純粋なのが、可愛いんだよ」
「宝物! あのね、ぼくこのオルゴールを宝物にする。大事にするね」
「満に大事にされるなら、オルゴールも大喜びだ」

 月也はぎゅうぎゅうと満を抱き締める。ふざけて「くるしいよう」と声を漏らせば、顔を綻ばせて声を上げて笑った。月也が嬉しそうなのに釣られて、満も嬉しくて笑った。

「満、満。本当に大好きだよ」

 月也が、今度は満の額に唇を触れさせる。くすぐったさに身を捩りながら「ぼくも、だいすき」と返すと、月也は少しだけ、泣きそうな顔で笑った。

「満、俺さ……」

 月也が何か言い掛けたそのとき、玄関の扉が開く音がして二人は体を硬直させた。その音は、二人にとって幸福な時間の終わりを意味していた。一瞬にして部屋が凍ってしまったのではないかと錯覚するほどに、体の温度が下がっていく。
 月也は満の手を握り締めながら部屋の隅に移動して、なるべく小さくなるように身を縮こませた。満を守るように抱き締める。魔法使いの映画で見た透明マントを被るように、自分たちは透明人間なのだと言い聞かせながら息を詰めた。

「おい、クソガキどもぉ」

 無遠慮に足音を響かせながら帰ってきたのは父親だった。舌足らずな声から、酒を飲んできたのだろうとすぐに分かった。

「チッ、寒いじゃねえかぁ……クソ、暖房くらい点けろよ!」

 ガンッ、と音を立てて何かが蹴られる。毛布と月也に隠された満からは何も見えない。理不尽な親の怒鳴り声に、小さな満は為す術もない。

「おい月也ァ、酒出せよ」

 頭上から、震えた吐息が降ってきて、月也の手が満から離れていく。無意識にそれを追いかけそうになるが、月也に押し戻される。
 月也は無言で冷蔵庫に向かうと、ビール缶を父に差し出す。すると父親は盛大に舌打ちをして——そして鈍い音が聞こえて、満の体はびくりと跳ねた。それと同時に月也の小さな呻き声が聞こえてきて、父が月也を蹴り飛ばしたのだとわかった。

「注いで渡せよ、馬鹿が! んなことも言わねえと分からねえのかぁ⁉」

 缶で渡さないと怒る日もあれば、グラスに注がないと怒る日もある。アルコールで滅茶苦茶になった父の思考は月也にも満にも理解ができず、ただただ理不尽でしかない。その日、外れを引きませんようにと祈るしかない毎日だった。
 何度も何度も鈍い音が聞こえてくる。月也の小さな呻き声も聞こえてきて、満は泣きそうになった。耳を塞ぎたくなる。

「クソ、こんな雪の中外出たってのに全然当たんねえし……あ?」

 父の怒声と月也を蹴る音がぴたりと止まる。静寂の中、聞こえてきたのは発条の回る小さな金属音と、綺麗な音楽だった。

(オルゴール、開いてる!)

 先ほど驚いたときに気付かず落として、箱の蓋が空いてしまっていたらしい。
 満は慌てて拾うと、蓋を閉めてオルゴールを隠すように抱きかかえた。

「オイ、何の音だよ」

 満が被っていた毛布が、呆気なく剥ぎ取られる。視界が開けると、そこには顔を赤くした父が仁王立ちしていた。その脚の間から、向こうに倒れている月也が見える。月也は真っ青な顔で、「満!」と叫んだ。

「これか?」
「あっ……!」

 父は満からいとも簡単にオルゴールを取り上げると、雑に蓋を開く。すると、この緊迫した空間には不釣り合いな癒しの音楽が流れ出した。
 そしてそれは、見事に父の神経を逆撫でたようだった。

「なんでこんなモン持ってんだ? 耳障りなんだよッ」

 怒声と共に、父はオルゴールを壁に叩き付けるように投げ捨てた。小さな箱の蓋は呆気なく外れ、中のオルゴール本体が飛び出して床に落ちる。

「おい、まさかこんなもんに金使ってねえだろうな?」
「使ってない! 学校の授業で作ったんだ……ッ!」

 必死の形相で月也が叫んだ。父はそれを聞くと鼻で嗤い、オルゴールの本体を拾った。

「男のくせに花の絵なんか描いてんじゃねえよ、気色悪い」

 そして、もう一度床に叩き付けた。容赦ない打撃に、オルゴールは金属の鈍い音を響かせて、事切れたかのように反応しなくなる。
 満はただ茫然とそれを見ていた。たった十数分前に月也から貰ったものだった。大事にすると、月也に伝えたのに。ボロボロになったオルゴール、木の破片が飛び散っている箱。スノードロップの絵は、中心から真っ二つに割れてしまっていた。

「あー、クソ。俺は寝るから邪魔すんじゃねえぞクソガキども」

 そう言うと、父は隣の寝室へと引っ込んでいった。嵐のようなひとときが過ぎ去ったが、満も月也も、しばらくその場を動くことができなかった。
 何分経っただろうか。月也がゆっくりと立ち上がり、茫然としていた満もはっと我に返った。

「つき兄っ……」

 駆け寄ろうとすると、月也は人差し指を唇の前に添えた。静かにしろということだろう。満は思わず息を止める。そして、ゆっくりと月也に近づいた。

「痛い……?」

 起き上がった月也は腹を摩りながら「大丈夫だよ」と答えた。そして満を安心させるように、頭を優しく撫でる。

「それより、ごめん。俺がオルゴールなんて渡したから」

 満はかぶりを振る。決して月也のせいではないと精一杯伝えたかった。そしてオルゴールの破片を掻き集める。

「あっ、こら満! 破片は危ないから……」
「やだっ」

 小さく抗議して、満は破片を集めて服で包むように抱き締めた。

「満の宝物だもん……」

 ぽろぽろと涙が溢れてくる。それを見た月也は、痛みを湛えたように顔を歪ませた。

「満、大丈夫だよ。絶対、お前は俺が守るから……」

 まるで自分にも言い聞かせるかのように小さく囁いた月也に、頭を抱えられる。抱き締められた安堵から、余計に涙が止まらなくなる。怖い。怖い。でも、どうすることもできない——二人はただ、息を潜めながら、六畳の世界で生き延びるのに必死だった。

「……る……満、母さんよ。ねえ満、起きて!」

 名前を呼ばれてはっと目を開けると、場面は変わっている。目の前には髪の長い女性がいた。しかし、それが誰だかわからない。今何をしていたっけ? 混乱する満を、女性は力強く抱き締めた。

「満、分かる? 母さんよ」
「お母、さん……?」

 突然の母の来訪に頭が追い付いていない。その日は父が出掛けており、月也も学校に行っていた。何もない満だけが家にいた。
 家にいるとき、部屋の隅で毛布に包まって息を潜めているのが満の習慣だ。
 そのまま寝てしまっていたところを、突然現れた母に起こされたようだ。腕の中には、壊れたオルゴールの破片を詰めた箱が収まっている。お守りのように、いつも肌身離さず持っていた。母に抱き締められて落としそうになり、慌てて抱え直した。
 感慨も何もなく、ただされるがままに抱き締められていた。なぜなら満にはほとんど母の記憶がなく、顔の造形すら曖昧なのだ。目の前にいるのが母親と言われても、それが本当かどうかすら分からない。
 満が困惑していたそのとき、玄関から扉を開ける音がする。一瞬父親が帰ってきたのかと思い体を強張らせたが、すぐに力は抜けた。足音から、帰ってきたのが月也だと分かったからだ。
 いつもは静かに入ってくる月也が、慌てたように駆け出す音が聞こえた。音を立てて部屋のドアが開く。そして満を抱き締めている母の姿を認めると、一瞬にして顔を歪ませ、眉を吊り上げた。

「何してるんだ! 満を放せ!」

 滅多に聞かない月也の怒鳴り声に、満は目を瞠って肩を竦めた。驚いたのは目の前にいる母も同じだったらしい。焦ったように満から離れた。

「つ、月也? 私よ、母さんよ……?」
「そんなことは分かってる! 何しに来た!?」

 月也は激昂した様子で、今すぐ掴みかからんばかりに母に詰め寄っていく。

「母さんが来たことがバレたら、父さんがどうなるかわからないのか……!? それとも、俺たち二人を連れて行けるようになったのか⁉︎」
「それは……」

 視線を迷わせる母に、月也はひどく傷付いたように顔を顰めた。声を震わせて、力の入っていない手で母の肩を押す。

「帰ってくれ。父さんが戻ってくる前に」
「ごめんなさい、月也。でも、私やっぱりあなたたちが心配だったの。一目顔を見られればと……」
「そんなの、ただの母さんの自己満足だろう⁉︎ アンタが無事に帰れたとして、その後でとばっちりを喰らうのは俺たちなんだ。満に何かあったら、俺は……っ」

 今度は母が傷付いたように眉を下げた。今にも泣きそうな母の表情に苛立ったように、月也は舌打ちする。そして母から守るように満との間に立ちはだかる。

「他に言うことがないのなら、今すぐ帰ってくれ」
「でも……っ」
「母さんがいたときより、父さんのキレやすさは酷くなってる。なぜか分かるか? 母さんが勝手に、一人で逃げたからだよ!」
「月也……ごめんなさい、私……」
「謝らなくていいから帰って。迷惑だし、アンタのためでもある。父さんはまだ帰ってこないと思うから、今のうちに早く——……」

 月也がそう言った瞬間、玄関から絶望の音が聞こえてきた。三人とも、同時に息を呑んだ。

「なんで、今日に限ってこんなに早いんだよ……ッ」

 悔しそうに、月也が小さく絞り出す。母はどうしたらいいのか分からないというように、おろおろと視線を泳がせている。満は月也の服の裾をぎゅっと握った。
 ぴたりと、玄関の物音が止んだ。
 ごくりと生唾を飲み込む音が聞こえる。自分のものか、他の二人のものか。それすらも分からなくなるほどの緊迫感が部屋を包んでいた。 
 ドアの向こうに、まるで魔王でもいるかのようだ。しかしこの場にいる三人にとっては、同じような存在と言っても過言ではないのだ。
 大股でこちらに近づく足音。もうすぐ魔王が乗り込んでくる——そう思っても、誰もその場から動けなかった。
 かくして守りのドアは開け放たれた。そこにいたのは魔王……ではなく、父だ。父は母の姿を目に留めると、ゆるりと目を細めた。

「お前……なんでここにいる?」
「……ッ」

 母は何かを言おうとするが、恐怖で声が出ない様子だ。満と月也は、ただ事の成り行きを見守っているしかない。こちらに飛び火しないように、祈りながら息を潜めているしかなかった。

「俺から逃げたくせに、今更なんでここにいるって訊いてんだよッ!」
「嫌っ……やめて!」

 父は母の長い髪を引っ掴むと、引きずるようにしてその場に押し倒す。馬乗りになると、躊躇もなくその顔を拳で殴った。

「痛いっ、やめて、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 母の謝罪が虚しく響く。父はその声を聞くとさらに怒ったように拳を振り上げた。額に浮かぶ青筋は、まさしく鬼の形相だ。
 父は自分の元から逃げた母のことを、ひどく憎んでいる。
 月也はずっとその場から動かず、満を父の視界から隠すように庇って立っていた。月也が壁となり、そこで何が起きているのか直接的には見えない。ただ、つんざくような母の叫び声だけが聞こえてくる。

「殺してやる、殺してやる……!」

 怨念の籠った声が聞こえたかと思うと、父はキッチンに走り込んで何かを取り出してきた。母の苦しそうな呻き声が響く。

「嫌、ごめんなさい、やめて……っ、——ッ、あああああああああああッ」

 甲高い断末魔と一緒に、床にどろりと広がる赤色が見えた。これはなんだ——……何が起こっているのか分からない。けれど酷いことが起きているのだということだけは理解することができて、満の手は震えていた。
 少しすると、床に何か重いものが落ちる音が聞こえてきた。ずるり、と衣擦れの音が聞こえたのを最後に、母の呻き声はもう聞こえなくなった。父は血だまりの中に包丁を落とした。母を刺した凶器だろう。

「母、さん……」

 一部始終をまっすぐ見つめていた、愕然とした月也の声は掠れていた。満と繋いだ手に力が籠る。

「……お前らもだ」

 地を這うような低い声が、体に巻き付くようだった。金縛りにあったように動けなくなる。それは父の声というよりも、何か獣の唸り声のようであった。

「お前らも、殺してやる……」

 震えながらも満がそっと顔を覗かせると、月也の向こう側に、ぐったりと倒れた母の姿が見える。その腹はぐっしょりと鮮血に濡れていた。涙と鼻水と殴打の痕でぐちゃぐちゃに乱れた顔が恐ろしくて、満は込み上がってきた涙を抑えることができなかった。
 父は息を荒げながら、焦点の定まらない視線をしばらく宙に彷徨わせていた。そしてふと、月也と満を捉える。歯止めの効かなくなって溢れた母への憤怒が、こちらに注がれているのがわかる。

「こいつと、一緒に逃げようとしていたんだろう」
「……知らない。母さんは勝手に来ただけだ。俺たちは関係ない!」
「口ごたえするなぁッ」

 父の叫びとともに、月也が横に吹っ飛ぶ。思い切り、平手で殴られた。倒れた月也の頬には真っ赤な張り手の痕が残ってしまっている。

「どいつもこいつも、クソが、俺ばかりこんな目に……もういいだろ、全員殺してやる」

 ぶつぶつと怨嗟の言葉を吐き出す父は、それはもう本当に悪魔か何かのようだった。満はただ茫然と見つめて、逃げることもできないまま、目の前の父を見上げていた。
 父の視線が、満に定まる。

「先にお前から殺してやる……」
「やめろ!」

 月也の悲痛な叫び声などものともせず、父は満に向かって手を振り上げた。
 バン! と、大きな破裂音が鳴る。何が起きたか分からなかった。目の前が眩しく、ちかちかと点滅するように視界が一瞬真っ白に染まる。
 少し遅れて、じくじくと頬に刺激が走った。痛いのか熱いのかすら、分からない——。
 満は床に突っ伏していた。月也と同じように、張り手で殴り飛ばされたらしい。視線だけで見上げると、すぐに父が近寄ってくる。

「死ねっ、クソガキが!」

 自分の実の息子だと分かっているのかいないのか、それはもう判別もつかない。
 父はただただ空き缶を潰すかの如く、ゴミのように満を何度も蹴り飛ばした。
 お腹が痛い。顔が痛い。脚が痛い。
 もうどこが無事なのかも分からない。蹴られた部分から波紋のように痛みが広がって、それは呆気なく満の全身を侵した。
 痛みに涙をこぼし、口からは胃液を吐き出してしまう。体の外側も内側も痛くて、本当にこのまま死ぬのだろうかと、恐怖に襲われる。

「つき、に……」

 縋るように、手を伸ばす。その手はすぐに、父の足によって潰された。骨が軋む鈍い音が体の中から響いて、満は声にならない悲鳴を上げた。

「……ッ、やめろ!」

 そのとき、月也の叫び声と共に、父の呻き声が聞こえた。月也は父に飛びかかると背後から羽交い締めにして、そのまま床に倒れ込んだ。

「クソ、てめえ!」

 間髪入れずに月也は倒れた父の上に馬乗りになる。そのまま父の首を、押さえつけるように締め上げる。

「ぐぁっ、ぁァ……!?」

 じたばたと暴れる父の上で、月也は昏い目をしていた。全体重を乗せるように首を締める。成長期に差し掛かった月也の体格で全体重を乗せられたら、大人の男性でも抵抗するのは難しいかもしれない。
 けれど、それであっさり大人しくなる父ではなかった。手足をばたつかせて、月也の背を何度も膝で蹴る。その衝撃に月也の手が一瞬緩むと、その隙に父は月也を突き飛ばした。

「ゲホッ、この野郎……」

 咳込んだ父は、額に青筋を浮かべて月也を睨みつける。

「殺してやる。お前も、満も」

 緩慢な動作で立ち上がり、倒れ込んだ月也にゆらりと近づく。月也は父が近付くとすぐに立ち上がって素早く周りを見渡した。そして、血だまりの中に落ちている包丁を見つけ、それに飛びついた。
 月也は父にその切っ先を向けた。刃物から滴り落ちる母の血が、この光景の禍々しさを増幅させている。
 冷静さを失った父が、月也に向かって拳を振り上げたのは、月也が刃を向けたのとほとんど同時だった。
 ——その瞬間、ぐちゅり、と嫌な音を立てて、血に塗れた包丁が父の胸に押し込まれた。
 呼吸を乱しながら、月也は満を見遣る。
 その瞳にはきっとボロボロになって転がっている満が映っているのだろう。こちらを見て、月也はひどく辛そうな顔をする。

「満。満、満——大丈夫、大丈夫だ」

 まるで自分にも言い聞かせるように、月也は満の名前と慰めの言葉を繰り返す。月也の手は、傍から見てもわかるくらいに、ひどく震えていた。
 月也の下に、父の体が転がる。凄惨な光景に眩暈がした。悪魔のように満たちを脅かした男の命は、呆気なく消えてしまった。

「満……大丈夫。お前は、俺が……」

 守るから——そう言って、月也は満に向かって微笑んだ。その瞳から涙が溢れていて、怖くて仕方ないのを自分の中に押し込めて、満のためだけに笑って見せる。
 鼻声混じりの呟きを聞きながら、泣かないで、と思う。倒れたままでは届かないとわかっていながらも、月也に向かって手を伸ばす。

「守ってくれて、ありがとう……」

 それが声になって、月也にちゃんと届いたかは分からない。そのまますぐに、満は意識を失ってしまった。その後十年以上、月也と会えなくなることなど知らずに——。

   ◆

 カーテンの隙間からこぼれた朝陽を浴びて、満はゆっくりと瞼を開けた。
 そして夢の内容を反芻すると、頭が一気に覚醒して飛び起きた。
 暴力を振るう父親の姿を、覚えていた。
 そして、満と毛布を分け合って、満を抱き締めてくれたのは、父ではなかった。父ではなく——。
 ベッドの中に、月也はいなかった。
 部屋の外から微かに香ばしい匂いが漂ってくる。月也がよく朝食に作っているベーコンエッグの香りだった。フライパンで焼いている、じゅうじゅうという音も微かに聞こえてくる。月也はキッチンにいるようだ。満は転がり落ちるようにベッドから抜け出した。
 勢いよくリビングの扉を開け放つと、思った通り月也はエプロンを着けてキッチンに立っていた。駆け込んできた満を見て目を丸くした。

「おはよう、満。そんなに慌ててどうした……の……」

 料理中なのも構わずに、満はその体に飛びついた。焼かれたベーコンの香ばしい匂いに混じって、月也の体から香る仄かで優しい肌の匂いを思い切り吸い込んだ。頭の中を月也の匂いが満たして、ひどく安心した。

「み、満? どうしたの? ちょっと待って、火を止めるから……」

 密着しているため、月也の心音がわずかに速まったのが分かる。構わずにぎゅうぎゅうと抱き締める力を強めると、頭上から月也の戸惑う気配を感じた。
 コンロを止めるスイッチの音が聞こえると、月也の腕が満の背に回る。そのまま、満に負けない力で強く抱き締めてくる。

「満、どうしたの? 怖い夢でも見た?」

 月也は子供をあやすように満の頭頂を撫でる。その優しさに、感極まって涙が溢れそうになり、鼻を啜った。

「思い出した。思い出したよ、月也」
「え?」

 満が顔を上げると、戸惑う月也の視線とかち合う。覗き込むと、その瞳の中には、今にも泣きそうな満の姿が映っていた。

「最初、月也と再会したとき……父さんのこと、優しい人だって言っただろ? でも、違った……。記憶違いだったんだ」
「どういうこと?」

 抱き着いたまま近距離で月也を見つめると、動揺しているようで月也の瞳が揺れる。思わずその唇を奪いたくなって、しかし、寸でのところで堪えた。一人で浮かれていることを自覚する。浮ついた気分を抑えるために、一歩月也から離れて深呼吸をした。今は冷静に話がしたい。
 月也は、満が何を話すのかと固唾を呑んで見守っている。

「……俺が父さんだと思っていたの、月也だったんだ。同時に、父さんが本当はどういう人だったかを思い出した。俺は怖くて、その記憶に蓋をしていたんだと思う」
「…………」
「ショックな記憶を忘れるために、父さんのことを思い出さないように、脳が優しかった月也の記憶を、父さんの記憶にすり替えたのかもしれない。大事にされていたことだけを、覚えていたかったのかな」
「満……」

 月也の手がそっと頬に触れて、自分が涙を流していたことに気が付いた。月也は流れた雫を一つ指で掬う。

「俺のこと、大事にしてくれていたのは月也だったんだな。俺を宝物だって……ずっと、伝えていてくれたのは月也だった」

 ぽろぽろと、溢れた涙が流れ落ちていくのを止められない。涙が滲んで、目の前にいる月也がよく見えない。視界を晴らしたくて瞬きをしても、またすぐに視界は滲む。

「守ってくれて、ありがとう。月也、迎えに来てくれてありがとう……」
「……ッ」

 涙に濡れた頬を緩めて笑うと、月也が満の両頬を掴み、勢いよく満の唇を奪った。何度も角度を変えて口づける。優しいキスから、次第に深く、舌を絡ませるキスになっていく。涙の塩っぽい味が混ざりながらも、構わず互いに夢中で貪り合った。

「ん、んぅ……っ、ふ……っ、つき……月也……」
「満……みつる……」

 口づけの合間で、確かめるように互いの名前を呼び合う。ずっと欠乏していた何かが、満たされていくような気がした。
 何分経ったのかわからないほど、夢中になって長く口づけを交わしていた。顔は涙と唾液と鼻水でぐちゃぐちゃになっているだろう。口端から零れた唾液を手で拭いながら、その顔を隠したくて月也から顔を背けようと踵を返した。
 その瞬間に後ろから腕を引かれて、背中から抱き込まれる。まるで一つになるようにぴったりと重なった。

「愛してる、満」

 耳元で囁かれて全身に熱が灯る。後ろから体を撫でられて、ぞくぞくと下腹部から湧き上がる情欲に打ち震える。

「ずっと、俺には満だけなんだ。ねえ、それを思い出してくれたの……?」

 熱い吐息混じりに囁く月也の声は艶っぽく、興奮しているのが伝わってくる。
 腰に押しつけられた欲望は固く、その存在を主張している。布越しでは分からないはずなのに、その熱すら伝導されてくるようだった。
 満が頷くと、月也が小さく笑った。そして突然、満の耳を食んだ。

「……っ!?」

 唇で柔く縁にかぶりついたかと思えば、熱く濡れた月也の舌が耳孔を擽るように撫でる。逃げようにも抱き込まれた体では動けず、ただその愛撫を享受するしかない。
 初めて味わう刺激に戸惑いながらも、その刺激から与えられる甘い快楽が脳を満たして何も考えられなくなっていく。先ほどのキスでゆるく勃ち上がっていた満の性器が質量を増した。後ろから抱き込まれているとルームウェアを押し上げるそれがはっきりと見えてしまい、恥ずかしさで顔が熱い。

「ねえ、ベッドに行こうか。満に触りたい。……だめ?」

 月也が示唆するベッドで行うことを思うと、少しだけ怖気付いた。経験はないし、涙と唾液で濡れた顔を見られることに抵抗があった。

「でも、俺、今ひどい顔してる……」

 言い訳のようにそう言うと、月也は何を馬鹿なと言うように笑い飛ばした。

「何言ってるの。俺を想って泣いてくれた、満の可愛い顔なのに。……それに、結局また泣かせてぐちゃぐちゃにしちゃうかも。ごめんね?」

 一体どんなことをされるのか想像もつかなくて、満は体を緊張させた。また前のように触れ合うのだろうか。それとも、それ以上のことを——?
 首筋に触れるだけのキスをして、月也は満を解放した。と、思えばすぐに満の手を引いて寝室に連れ込んだ。
 フライパンに取り残されたベーコンの香ばしい香りが遠くなって、満は少々罪悪感を抱いた。

「……ごめん、せっかく朝食を作ってくれてたのに……」
「気にしないで。今日は休みなんだから、後でゆっくり焼き直して食べよう。それとも、お腹空いた?」
「いや、そんなに空いてはいないけど……」
「じゃあ、いいよね。先に満を食べさせて」

 月也は満を優しくベッドに押し倒しながら、舌なめずりをする。まるで獲物を前にした肉食獣のような仕草。けれど、その眼差しはどこまでも優しく、満を愛おしいと思っているのがありありと透けて見える。
 ルームウェアにしているトレーナーを脱がされ、月也の眼前で半裸になる。月也はじっと真剣に眺めると、ほうと溜め息をついた。

「な、なに……」
「いや、肌白くて綺麗だなと思って……ねえ、野暮なこと訊くけど、誰にも触らせたことはないんだよね?」
「ない、けど……?」
「そっか。じゃあ俺が初めて、かぁ」

 月也はしみじみと感慨深さを堪能しているようだった。おもむろに満の肌の上を手のひらで撫でて、口元をゆるめた。

「昔ね、まだ誰も歩いていない真っ白い積雪の上を、満と一緒に歩くのが好きだったんだ」

 突然語り始めた月也に満は目を丸くする。一体何の話だろうかと思っていると、月也が身を屈めて満の首筋に口づけた。そして、鎖骨から胸骨、肋骨と、肌の上から少し浮いた骨を確かめるように口づけを落としていく。

「小さい満の足跡が雪の上に残るのが可愛かったんだ。俺と一緒に歩くと、足跡の大きさの違いがまた愛おしくて……。それで後ろを振り返ると、二人分の足跡だけ残ってるんだ。俺たち二人だけの世界みたいで、ずっとそこにいたいと思ってた。まあ、寒さに耐えきれなくなって大体すぐに帰るんだけど」

 月也が舌を伸ばしてべろりと首筋を舐め上げる。獣みたいな仕草で味わうように、至るところを舐められて恥ずかしさに目を伏せた。

「……あの日も、雪が降ってた。父さんを殺した後、満が気を失って、どうすればいいか分からなくて。救急車を呼べばいいのに、気が動転してたんだろうな。血まみれの服のまま、満を抱き上げて雪の中を出て行ったんだ。病院に連れて行かなきゃと思って」
「え……?」

 それは初めて聞く話だった。確かに、雪が降っていた記憶はある。しかし、満は気をうしなって目が覚めたらもう病院にいたのだ。てっきり、救急車か何かで運ばれたものだと思っていた。

「満を抱き上げて真っ白な雪の上を歩いていたんだけど、振り返ると当然残ってるのは一人分の足跡で、しかも血の赤色が白雪に混じってた。すぐに近所の人が気付いてくれて通報されたんだけど……あの光景はちょっと怖かったな」

 乾いた笑みを浮かべながら、月也は満の胸に頬を摺り寄せる。満は、何気なくその頭に手を伸ばした。柔らかい髪を撫でると、月也が上目にじっと見つめてくる。

「あれ、下手したら寒さで満のことも殺してたよね。後々振り返って大いに反省した。本当に無事でよかった」

 月也が鼓動を確かめるように、左胸に寄せた。そして鼓動が聞こえて安心したのか、笑みを湛えてそこに再び口づけを落とす。けれど今度は、触れるだけではなくて、強く吸い上げられ——月也が唇を離すと、そこには赤い花びらのような痕が残っていた。

「んっ……なに……?」
「キスマーク。要は軽い皮下出血なんだけど、数日で消えるから安心して。……俺の気持ち的には、ずっと残っていて欲しいけどね」

 月也が出来立てのキスマークを指で撫でる。そして、首筋、胸、腹、二の腕……と、至るところに吸いついて肌に痕を散らしていく。

「ん……っ」

 肌に吸い付かれるたびに肩が跳ねた。肌の上を微電流が走るような、痛みと紙一重の甘い刺激にぞくぞくした。十箇所は痕を付けられただろうかというところで、月也は体を起こして再び満の上半身を俯瞰して眺める。

「誰も触ったことのない満の体に、俺の痕が残ってるの、すごくいい。やらしくて可愛い。記念に写真撮りたい」
「え……写真は無理……」
「んー……、じゃあ、満も俺につけてくれない?」
「えっ」

 何が「じゃあ」なのかと、想像もしていなかった申し出に目を丸くする。
 月也は手早く自分のシャツを脱ぎ捨てると、満の体を起こして胡坐を掻いた。

「どこがいい? 肌が薄いところとか、柔らかいところは付けやすいよ。鎖骨あたりがやりやすいと思うけど」
「え、やるのは確定なのか?」
「だめ?」
「だめ、ではないけど……。じゃ、じゃあ鎖骨で……」

 そう答えたところで、段々と月也のおねだりに弱くなってきている自分に気が付いた。
 まだ何もしていないのに、満の返事だけで月也はにっこりと満足げに笑っていた。

「はい、どうぞ。濡れてるほうがやりやすいと思うから、まず舌で軽く舐めて、そこを唇で挟んで吸い上げてみて」
「や、やってみる」

 膝立ちになり、月也の鎖骨にそっと唇を寄せる。初めて触れる他人の肌に緊張しながら、舌を出してちろちろと控えめに鎖骨の周りを舐める。しっとり濡れた部分を唇で柔く食み、意を決して吸い上げる。……が、痕は付かなかった。

「あ、あれ。付いてない?」
「……ふふ……っ、ごめん、こらえきれない……っ」

 月也が一旦ステイだと言うように満に手のひらを向けたかと思うと、体を折り曲げて背を震わせる。抑えきれない笑い声が漏れ聞こえて、満はむっと口を尖らせた。

「そんな笑うなよ! 初めてなんだぞ!」
「違う違う、ごめんって。あんまり満が可愛いから……。舌出して必死に舐めてるのが子猫みたいなんだもん、可愛すぎる……ふふ……っ」

 ひとしきり悶えてから、月也は一息つくと背筋を伸ばして体勢を整えた。

「はぁ。最高だなぁ……」

 月也は満にハグをして、触れるだけの口づけをする。

「ていうか……そう言う月也はなんか慣れてるけど、経験豊富なのか?」

 散々笑われた意趣返しに揶揄ってやると、途端に月也はすっと真顔になる。

「あると思う? ずっと満を想っていたのに」
「は? 待って、月也って本当に経験ないの? 前に恋人がいたか訊いたとき、はぐらかされた気がするけど……」
「ないない。まあ爺さんの手前、世間体もあるから周りに合わせて彼女を作っていたことはあるけど、そういう気は起きないから一切触れなかった。大体それですぐに別れを切り出されるんだよね。というわけで、俺の肌に触れるのも満が初めてだよ?」

 事もなげに言い切る月也に、満は唖然とした。まさか、こんな慣れた雰囲気の月也が童貞だとは想像もしていなかった。
 しかし、そのことに心の奥で仄かに喜んでしまう自分がいる。満は自分の中の独占欲の芽を自覚する羽目になった。

「ああ、でもちゃんと満を傷つけないように知識は持ってるから大丈夫。安心して身を任せて」

 月也は得意げに言う。それは確かに、ここまでの手慣れた様子から信じることができた。
 それにしても、満といつかこういう日が来るかもしれないと念を入れていかがわしい調べ物をしていたのだろうか? そんな月也を想像すると、少し可愛く思えた。

「で、キスマークだけど。もう少し強く吸ってみて? 噛みつくくらいの勢いでいいから。俺は満にならどんな痛いことをされても構わないし」
「怖いこと言うなよ」

 満は鎖骨の上の乾いた肌をもう一度舐めた。そして吸いついて、今度はちょっと強すぎるかもしれないと思うくらい、勢いよく吸ってみる。そしてぱっと離すと、そこには見事に赤い花びらが現れていた。

「で、できた……」

 失敗を経たおかげか、満の中に密な感動が生まれていた。感慨深くその上を撫でてみると、くすぐったいのか、わずかに月也は身じろいだ。それから少し残念そうな顔をして「自分だとあんまり見えないから後で堪能する。写真も撮る」などと宣っていた。

「さて、満のチャレンジも成功したし、俺も可愛い満が見られて満足したから、次に進もうか?」

 笑い合ってなんとなく淫靡な雰囲気が霧散していたので、わずかに緊張した。再び押し倒され、口づけられる。

「ここ、感じられるようにしようね」

 月也が差し示したのは満の胸の頂だった。そんなところ、意識して触ったことなどないので戸惑った。
 月也の指が、最初はつつくように軽く触れる。次第にその指は大胆にそこを摘まんで捏ねていく。両胸をそれぞれ好き勝手にいじられるが、まだ口腔を弄られたときのような直接的な快楽にはなっていない。くすぐったいという違和感が大きかった。
 月也は片方の胸に唇を寄せると、舌先で転がすように舐る。肌より熱い舌と吐息が触れると、ぞく、と背が震えた。
 体のうちのたった二点の小さな粒を弄られていると、どうしてもそこに意識が集中してしまい、段々感覚が過敏になっていく感じがした。
 片方は少々じれったいくらいに優しく摘まんで捏ねられて、もう片方は舌や唇で愛撫される。時折甘噛みのような強めの刺激を与えられた。その刺激の差異で、余計にむずむずとしたくすぐったさが増していく。

「んぅ……っ」

 唐突に、今まで優しく撫でられていただけの片側を強く摘まんで引っ張られた。思わず声が出てしまい、口元を抑える。

「どんな感じ?」

 漏れた声で分かるだろうに、愉しそう訊いてくる月也を満は恨めしそうに睨んだ。体の奥で熱が疼いて下腹部が窮屈になっている。思わず両脚を摺り寄せると、月也がそれを遮るように自身の脚を間に挟む。

「つ、きや……っ」
「大丈夫、俺が触ってあげるからね」

 月也はそう言うと、満の下着ごとボトムスを剥ぎ取る。下着を脱がされたときに先走りが糸を引いているのが見えて、その淫らさに羞恥で逃げ出したくなった。当然、月也に跨られている状態では叶わなかったけれど。
 いつの間にこんなに先走りが溢れていたのか、満の性器は蜜に塗れていた。月也は自身の性器を取り出すと、以前と同じように一纏めにして扱いた。
 月也の質量の大きい熱が満のそれに触れるだけで、肌が粟立つ。それで裏筋を擦られると、脳髄まで快楽の波に呑まれていくようだった。
 思わず声が出そうになり、口元を手で覆った。

「っ……ふ、ぅ……」
「駄目。声、殺さないで。聞かせて……?」
「あっ、まって、や、あぁ……っ」

 口元を抑えていた手を外されてから、一層強く全体を擦られる。先端のくぼみを強く撫でられると、満は勢いよく白濁を吐き出した。

「あは……満、先っぽ弱いね? 可愛い……」
「んっ、今だめ……っ」

 果てたばかりで体中が敏感になっているのに、満が弱いという先端を軽く撫でられて腰が引けた。しかし逃がさないとばかりに、月也は片手で腰を掴んで引き戻す。

「大丈夫、強くしなければ気持ちいいだけだよ。ああそうだ、自分で触ってみてよ。俺の、イかせて?」

 お願い、と額に口づけられて、満は視線を上げて月也を見遣る。微かに滲んだ視界の中の月也は、うっとりと蕩けた表情を浮かべていた。
 そっと両手を引かれて月也と自身のそれを握らされる。その上から月也の手が覆い、もう一度最初から高めていくようにゆっくりと手を動かす。
 すでに屹立が張り詰めている月也はじれったいだろうに、ゆっくりと満に合わせて手を動かしてくれた。それに合わせて、されるがままになっていた満もゆるゆると手を動かし始める。自分の手の中に欲望の熱を感じて、わずかに胸が高鳴った。

「そうそう、その調子……」

 はぁ、と興奮した吐息を漏らしながらも、月也はまだ余裕がありそうだった。その表情を変えてやりたくて少し強めに擦り上げると、月也の息が少し乱れる。その反応に、甘く胸が疼いた。
 いつの間にか、自身の性器も再び角度をつけている。親指を雁首部分に引っ掛けるようにすると、気持ちよさに頭が痺れそうだった。

「ちょっと冷たいかも」

 月也はそう言うと、どこから取り出したのかコンドームとローションボトルを持っていた。手早く指にゴムを装着すると、ボトルを傾けてとろりと自分の手の内に中身を落とす。くちゅくちゅという粘質の高い水音に、満は目を丸くした。

「どこから出したの、それ」
「ベッドのヘッドボードの引き出しに入れてたよ。いつ、こういうことになってもいいように準備は万端」

 月也は複数種類のゴムを並べて見せてくれた。満はまじまじと見てしまう。ローション付きだのイボ付きだの、馴染みのない言葉の羅列だった。 

「ゴムってこんな種類があるのか……? ていうか、月也やる気まんまんじゃん……」
「呆れた? 買ったのは前回のことがあってからだけどね。満が、許してくれるんじゃないかなって期待しちゃってたから」

 月也はローションを少し手で温めてから、手に絡めて満の臀部に触れた。
 双丘の奥の秘部にそっと触れて、入り口にローションをたっぷりと纏わせる。そしてゆっくりと、その奥に指を押し込んでいく。

「う、ぁ……っ!?」

 尻の中に指を挿し入れられるという未知の感覚に、緊張からか鼓動が逸る。たっぷりと塗りたくられたローションは、月也が指を動かすたびにぐちゅぐちゅと淫靡な音を響かせた。
 月也の骨張った長い指が、狭い肉の壁を掻き分けながらゆっくりと慎重に侵入してくる感覚が腹の奥から伝わってくる。

「満、ほら手が止まってる。初めてで後ろだけってきついだろうから、前も触ろうね」
「そんなこと言っても……っあ、ぁ……っ」

 あらぬところに指を挿し入れられて、その未知の感覚に耐えながら手を動かすなんて器用なことはそう簡単にはできなかった。生理的な涙で濡れた頬を拭うように、月也が口づける。

「大丈夫だから、気持ちいいことだけ考えて?」

 月也は秘部に入れていないほうの手で満の手を支え、ゆるゆると動かす。そして秘部に挿し入れた指は時折折り曲げたり、中をかき混ぜる動作をしたりしながら奥に進んでいく。両手で異なる刺激を満に与える月也に、内心で思わず感嘆した。こんなところまで器用にこなしてしまうのか。

「あ、はぁ……っ、ぁ……っ」

 じっくりと掻きまわされて解れてくると、月也は挿入する指を増やした。中でばらばらと指を動かされて、下腹部からぞわぞわと這い上がってくる快楽に満は身悶えた。

「あ、んんっ、なんか、変……っ」
「大丈夫だよ、気持ちよくなってるだけだから。……こことか、どう?」
「え? あっ、~~ッ!?」

 指をぎりぎりまで引き抜いて、浅いところにある一点を擦られると、脳天まで貫くような気持ちよさが満を襲った。ぞわっと肌が粟立ち、目の前がちかちかする。そこを優しく叩かれると、ひっきりなしに声が漏れ出てしまう。

「っ? あっ、や、ぁ……っ? なに、……だめ……っ」
「だめ、じゃないよね? 気持ちいい、でしょ?」
「ぅ、あぁっ、きもちい……っ、こわい、月也……っ」
「まだ指だけなんだけどなぁ……?」

 月也はうっとりと顔を緩ませて満の顔をじっと見つめている。
 満は初めて味わう感覚に混乱して、縋るようにシーツを掴んだ。もう、自分の性器に触れている余裕はなかった。

「初めてなのに、もう後ろだけで感じられる満の才能が怖い……。自分でするときもこんなに感じちゃうの?」

 満はかぶりを振る。そもそも、自慰なんてどうしようもないときの処理で手早くやるのが普通だと思っていた。
 それに、藤山の家で、万が一養母でも部屋に入ってきたらと思うと気が気ではなく、気持ちよさを感じるより煩わしさのほうが大きかった。
 月也は指を増やして、今度は奥のほうをぐりぐりと刺激する。自分ですら触れたことのない体の内側を擦られる違和感も恐ろしさも、すべて快楽に呑まれてしまったように機能しなくなっている気がする。月也の触れる場所が、全部気持ちいい。
 そして初めてなんて嘘だろうと思うくらい、月也は丁寧に上手に触れて満を気持ちよくしてくれる。

「んっ、月也、ぁ、つきや……っ」
「……ッ、満……可愛い。俺の満」

 何度も何度も、名前を呼び合う。月也が堪らなくなったように、満に口づける。口腔を弄られて舌を絡ませると、脳が痺れて思考は役に立たなくなっていく。
 満は月也の頭に腕を伸ばす。引き寄せるように抱き締めると、月也が一瞬驚いたように身を竦ませた。けれどすぐに、深く溶け合うように唇へかぶりつかれる。

「いきなり入れるのは痛いかもしれないから、今日は指だけにしようね……」

 息を乱しながら、どこか自分に言い聞かせるように月也は呟いた。

「次は、これを挿れたい」

 月也は限界まで欲望を燻らせている熱を満の腹に押しつけた。ここまでの流れを考えれば、指で解されている部分に挿れるということだろう。
 直接見なくても、腹に触れた質量だけで分かるくらい、月也の性器の質量は指とは段違いだった。それがこの腹の中に収まるのか考えると、緊張か興奮からか、腹の中が切なく収縮した。

「中締まった。期待しちゃったの? ああ、だめだ、満が可愛すぎる。もっとめちゃくちゃにしてあげたい……」

 月也はうっとりと瞳を蕩けさせながら呟いた。しかし、口ではそう言いながらも、満の中で動く月也の指は決して丁寧さを損なわなかった。
 欲望にぎらつく視線を享受すると、月也の興奮が伝播するようだった。その興奮を抑え込んで優しく触れてくれているのを感じると、早く月也の願望を叶えてあげたいとすら思った。
 月也は仕上げのように、奥を突きながら満と自身の性器を一まとめに扱く。甘い嬌声が響くと、月也は心底嬉しそうに破顔した。
 どろどろと思考が蕩けて、ただただ月也に与えられる快楽しかわからない。それも、奥を突かれているからか性器を擦られているからか分からない。すべてが溶けあって、満を快楽の波の中に放り出してしまったようだった。

「つきや、ぁ、もう……っ」
「いいよ、イって?」
「——ッ!」

 びくびくっと背がしなって、満は二度目の精を放つ。視界が一瞬ホワイトアウトしたが、すぐに月也の顔が見えたことに安堵した。
 月也はまだ達していなかったようで己の屹立を扱くと、満の腹の上に濃厚な白濁を放った。月也が一回果てるまでに満は二回達してしまったことから、自分はもしかして堪え性がないのかと少し心配になった。

「はー……っ、……満のお腹に俺の精子ぶっかかってるの、やらしすぎるね……。また勃ちそうになる……」

 月也は満の腹の上に放たれた白濁を指で少しだけ塗り広げる動作をしたが、すぐにはっと我に返った。

「ごめん、すぐに拭くね」

 そう言うと、ウェットティッシュをヘッドボードの引き出しから取り出して満の腹や汗に濡れた肌を軽く拭った。
 甲斐甲斐しく世話をする月也に、満はされるがままになる。初めて指を挿れられて快楽に溺れてしまった。そのあまりの衝撃と二度果てた虚脱感で、呆然としていた。
 これは、何度もしていたら頭が馬鹿になるんじゃないかと思う。それより、月也のものをちゃんと挿れたらどうなってしまうのだろう——そう考えて身震いした。自分がどうなってしまうのかと思うと恥ずかしさと恐ろしさで肌が粟立った。

「満、シャワー浴びよう。歩くの辛そう?」
「いや、大丈夫だよ」

 満は月也に手を引かれて体を起こすと、そのままベッドを下りて立ち上がる——つもりだったが、腰が抜けてベッドに座り込んでしまった。

「ご、ごめん。ちょっと休んでから行く……」
「ううん。俺が運んであげるよ」

 月也はそう言うと、満の膝裏に手を差し込み、軽々と横抱きする。月也と比べればかなり小柄なほうではあるが、まさかこうも軽々抱き上げられてしまうとは思わず、衝撃を受けた。

「あ、ありがと……」

 妙な敗北感に打ちひしがれつつ礼を言う。
 月也は存外普通の顔をしながらそのまま歩き出すと、器用にドアを開けて浴室まで直行した。
 浴室に入ったところでそのまま下ろされるのかと思いきや、月也は満をなかなか下ろしてくれない。

「月也? どうしたんだ? 壁に掴まれば立てると思うから一旦下ろし……」
「ちょっと待って」

 月也は満を抱いたまま浴槽の縁に腰掛ける。
やたら神妙な顔と声色に、何か変なことをしたかと戸惑った。まさか、自分との行為を後悔しているのでは——、と落ち着かない気持ちになりながら見守っていると、月也は突然俯いた。かと思うと、満の肩に顔を押しつける。

「………………」
「つ、月也?」
「…………あ~~~~~~~~、満が可愛すぎる……っ」
「は?」

 月也が突然唸り声を上げ、満は唖然とする。月也の満への惚気が浴室いっぱいに反響した。

 「ねえ、なんでそんなに可愛いの? 指挿れただけなのにあんなにとろとろになっちゃってさー……? ああ、満が俺以外に見つからなくてよかった、本当に。こんなに可愛い姿、他の誰にも見せられない。見た奴の記憶は消してやる。ああ満、可愛い可愛い可愛い……っ」
「落ち着け!?」

 堰を切ったように怒涛の勢いで喋り倒す月也に圧倒され、満は顔を引き攣らせた。
 月也の本当の笑みを知っているのは自分だけだ、なんて自惚れていたが、あれでも月也が普段は相当理性を働かせていたのだと思い知った。その愛情の底なし具合に、愛情を向けられている当人ながら感心してしまう。
 すりすりと頬を摺り寄せられる。体中を撫で回され、また変な気分になりそうで満は月也の手を握って静止させた。

「俺に身を任せる満の可愛さといったら限度がないな。何度も頭の中では抱いていたけど、本物の蕩けた顔がやっぱり一番可愛い。痕つけてもらったときは本当に堪らなかったな……子猫みたいで。そして天使。俺だけの天使……」
「あの、とりあえず俺を離してくれない……? この格好で聴いてるの、なんか居た堪れないんだけど……」
「やだ。もうちょっと満の体温を感じさせて」

 突然駄々っ子のようになった兄に呆れながらも、そんな様子に思わず顔を綻ばせてしまう。こんな姿こそ、満の前でしか見せない姿なのだろうと思えば、微笑ましさがあった。
 満はなんだか愛おしくなってきて、月也の後頭部を軽く撫でた。この光景だけ見たらどちらが弟なんだか、と思う。
 しかも、ベッドでのピロートークではなく風呂場でひたすら月也の自分に対する惚気を聴いているのは珍妙な光景だった。
 しかし、いつも兄として満を守ってくれる月也なのだ。たまには甘えさせてもいいだろうと満は受け入れた。

「満、何があっても俺と一緒にいて」
「うん。……月也も……一緒に、いてくれる?」

 ずっと自分を大事にしてくれていたのが月也だと分かったことで、満の中に芽生え始めていた小さな気持ちが花開いたようだった。
 満の問いに、月也は感激したように瞳を輝かせた。

「……っ、もちろんだよ。むしろ、もう満が離れたいって言っても、絶対離さないから」

 月也のあからさまな執着に慄きながらも、満は頷いた。 
 きっともう、満は月也から離れられないだろう。この気持ちが何なのか、答えはもうほとんど分かっていた。

   ◆

 それから、また一か月ほど経った後のことだった。
 バイト帰りに夜道を歩いていると、背後から車が近づいてくる。満が道を空けるためにそっと歩道の端に寄ると、その車は満を追い越していった。が、次第にスピードを落とし、そのまま停車した。
 この辺りではあまり見かけない外車。そのフォルムに見覚えがあり、満は立ち止まった。すぐに車のドアが開き、運転手が降りてくる。
 満の前に現れたのは、思った通りの車の持ち主——伯父の照彦だった。

「伯父、さん……」

 満が呼びかけると、照彦は人当たりのよさそうな笑みを浮かべて、満に近づいてくる。

「満くん。久しぶりだね。なかなか連絡を貰えないから焦れて会いに来てしまった」
「こんな遅くに、ですか?」
「人目があると話しにくい話題じゃないか?」

 照彦の言わんとすることを理解して、満は押し黙る。月也の弱みを知りたいのだと言っていた件だろう。

「それで、どうだろう。件の証人になる気は?」

 照彦はにこやかに手を差し出した。風貌だけならやり手のセールスマンといった雰囲気で、この人に怪しい壺を売られたら、判断力の弱い人であれば思わず買ってしまうかもしれないなと思った。
 しかし、満にはもう迷いはなかった。

「すみません、できません」
「……前に会ったときから、君は少し変わったようだな。ずいぶん、あの悪魔に絆されてしまったようだ」

 照彦の口元が引き攣ったのを、満はじっと見据えていた。その視線に一瞬たじろいで、照彦はもう外面を保たなくていいと判断したのか、浮かべていた笑みを消した。

「月也は、悪魔ではありません。俺の、大事な兄です。……貴方のことも、少し聞きました。月也を悪魔と呼ぶのは、自分ができなかったことを、月也がやってのけてしまったからですか?」
「……なんだと?」

 照彦から発せられた地を這うような低い声に怯みそうになる。目を眇めて睨みつけられるが、それでも満は腹に力を入れて、視線を逸らさなかった。

「少し、葛木商事のことを調べたんです。月也は、二十四歳で大きなプロジェクトを成功させたそうですね。売上が低迷していた自社のインテリアブランドのリブランディング……。一年で大きなヒットを生み出して、SNSでも話題になった。俺は、SNSを見たことが無かったから知らなかったんですけど、色んなところでインタビュー記事が出てましたね。若きマーケティング責任者のリブランディング成功までの道筋って」
「…………」
「もう少し深掘りしたら、その商品ラインの古い記事も見つけました。責任者の名前は、伯父さんのものだった。それだけじゃない。他にも月也の記事はたくさん出てきました」

 満が月也の消息を追っていた頃には、調べたところでその名前がヒットすることはなかった。しかし今改めて調べてみれば、葛木商事と葛木月也の名前で多くのサイトや記事がヒットしたのだ。
 特に、ちょっと背伸びをしたい若者の心を掴んだモダンで洗練されたデザインを低価格で提供するというインテリア部門のリブランディングはSNSでも話題になったのだという。そのインタビュー記事は「御曹司のマーケターが美形すぎる」と話題になり、かなり広く拡散されていたようだった。しかも、それだけではなく他にも、ここ数年で月也は多くの成果を上げていたのだ。
 月也は自分が社内で高い地位を得たことに対しては感慨が薄いようでさらりと説明していたが、そんなに簡単なことではないはずだ。
 その頃から葛木商事の株価は上がっており、株主からの評価も上々。月也が照彦を差し置いて経営企画部の統括マネージャーというポストを与えられるのも大いに納得した。

「……貴方は兄を悪魔のような男だと、許せないと言っていたけれど……貴方は、自分が挽回できなかったことを月也が果たしたから、嫉妬しているだけ……」
「違うッ!」

 夜の静かな住宅街に、照彦の声が響いた。その怒気に身が竦んだ。わなわなと身震いする照彦は今にも掴みかかってきそうな気迫で、満は思わず後退る。

「……月也は、満くんの兄だろう?」
「……? そう、ですけど……」

 照彦はハッ、と鼻で嗤う。

「それなのに、君は何も分かっていない。理解した気になっているだけだ。そんなネットの記事が何だと言うんだ? そんなもの、いくらでも事実を誇張して書ける」
「それは、さすがに……」
「いや、あいつは見てくれだけはいいからな、そこに注目されただけだろう?」

 照彦は不適な笑みを浮かべた。
 満は、なんとなく照彦のことが分かってきていた。この人はプライドが高いから、若い月也が自分より成功を収めたことを受け入れられず、ねじ曲がった認識で自分を納得させようとしているのだ。
 月也が照彦を「プライドが高くで扱いにくい」と評していたが、きっとそれは的を射ている。

「他の社員との対談インタビューも読みました。社内でも、評判がいいと……」
「それも出鱈目だッ!」

 照彦の怒号に肩が跳ねる。照彦はどこまでも、月也のことを認めたくないらしい。

「…………」

 頭に血が上ってしまったことを自覚したのか、照彦は一度自分を落ち着かせるように深呼吸をした。
 次は何を言われるのかと恐々していると、照彦は優しそうな笑みを浮かべて満を見る。今さら笑みを向けられてもただ不気味なだけで、満は鳥肌が立つのを感じた。

「……たとえ月也が本当に優秀だったとしても、過去の罪が消えるわけではないと思うんだよ、私は」

 照彦は胸ポケットから、小さな紙切れを差し出してきた。それは新聞の切り抜きで、よく読まなくとも葛木家で起きた事件の記事だとわかった。図書館でコピーしたその記事の切り抜きを、満も何度も何度も読んだのだから。

「……月也は、俺を守ってくれただけなんです。決して、殺したくて殺したわけじゃない……」

 すべてを思い出した今ならはっきりと言える。月也はただ、満を守りたかっただけなのだ。きっと月也が反撃していなければ、満などあっさり殺されていただろう。

「この記事を事実だと認めるということかね」
「事実ですが……ここに書いてあることが、すべてではないです」
「これが事実なら、君も辛かっただろう? 目の前で親を殺されたんだ。それも、実の兄の手によって」

 気味が悪いくらい優しく語りかける照彦に違和感を覚えて口を閉ざせば、「そう構えないでくれ」と嗤われる。

「世間に知らしめてやろうと思わないのか? 君を不自由にした兄を恨めしく思わないのか」
「思いません。……昔は、そう思っていました。あの日の光景の悪夢に魘されるくらい、恐ろしいと思っていました。でも、今は違う。むしろ月也が俺を救ってくれました」

 昔は、父の暴挙が信じ難くて、すべてを月也のせいにしていた。けれど今は、そんなことは思わない。
 この記事に書かれていることは事実で——父が母を殺し、父を月也が殺害したという事実は、同時に月也が満を守った証拠でもあった。客観的に見れば、残虐な一家で起きた恐ろしい事件だと思われるかもしれない。実際、蛙の子は蛙だと、悪魔の子は悪魔なのだと罵られることもあった。
 それでも満だけは、月也の勇気を知っている。

「フン……殺しは殺しだろう。頭がおかしいな。月也も、君も。私の愚かな弟によく似ているよ」

 照彦は吐き捨てるようにそう言い放つと、もう用は済んだとばかりに車に乗って去っていく。
 一人残された満は夜空を見上げた。空に浮かぶのは丸い月——今日は満月のようだった。
 月に見守られながら深い溜め息をついた。この短い時間で、アルバイトなど目じゃないほどに、どっと疲れた。
 早く帰って、湯船に浸かりたい。月也と、ソファに並んでゆったりと話がしたかった。
 満にはもう帰る場所がある。それだけで、伯父と対峙したように、どんな困難でも乗り越えられる気がした。強くなれている気がしていた。


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