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街の風、鳴らない音
冷めたカレーと夢の温度
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朝、目が覚めたとき、美咲はもういなかった。
テーブルの上には、ラップのかかった皿と、付箋が一枚。
「カレー作ってあるから、チンして食べてね。美咲」
温かさが抜けきった文字だった。
電子レンジに皿を入れてスイッチを押すと、モーター音とともに何かが空回りするような音がした。
昨夜のギターは、そのままソファの上に置きっぱなしだった。
構いもせずにスマホを開くと、バンドのグループLINEが目に入る。
【水野】:今日、スタジオどうする?
【拓真】:行けるけど……どうすんの、今後。
【水野】:正直、そろそろ方向性とか考えないとだよね。
俺だけが、“既読”をつけていなかった。
言い返す言葉も、建て直す案もなかったから。
ピッ、という音とともに、レンジが止まる。
皿を取り出すと、カレーの匂いが鼻をついた。
でも、スプーンを口に運んでも、味がしなかった。
まるで“温度”だけが残っていて、心に届くものは何もない。
「……こんなんじゃ、ないのにな」
自分の声が、やけに虚ろだった。
テレビをつけても、朝のワイドショーが騒がしく笑っていた。
売れっ子バンドの新曲情報、武道館ワンマンの告知。
何年後かの“未来”が、別の誰かの手で普通に掴まれていく。
今の俺の現実とは、まるで違う場所の話みたいだった。
ふと、美咲のトートバッグが目に入った。
昨夜、玄関に脱ぎ捨てたままだったそれを拾い上げてみる。
中には、折りたたまれたポスターと、俺たちのバンドのフライヤーが数枚。
全部、自分で刷って、手で切って、持ち歩いてくれていたんだ。
「なんで……お前が頑張ってんだよ」
情けなくて、吐き気がしそうだった。
スタジオには行かなかった。
その代わり、午後からやっていたバイトに顔を出した。
高円寺の駅前にある24時間営業のレンタルスタジオで、受付兼機材管理のアルバイト。バンドマンをやっていることを伝えると、店長が「じゃあちょうどいいな」って採用してくれた。
でも最近、バンドマンという自覚すら揺らいでる。
楽器を持ってるだけで、音楽してるって言えるのか。
少なくとも、今の俺には言えなかった。
「お、今日珍しく時間通りじゃん」
カウンターでパソコンをいじっていた女性が顔を上げる。
店の先輩、木崎さん。
歳は三つ上。元々音楽専門学校でPAを目指してたらしいけど、今はこうして受付業務をしながらフリーター生活を送っている。
「なんかあった? 顔ひどいよ」
「寝不足っす」
「またライブでしょ。客、いた?」
グサッと来るようなことを、さらりと言う人だ。
でも、悪気はないのが分かっているから腹も立たない。
「うーん、五人?」
「うち三人は彼女と友達でしょ」
「……よくわかってるじゃん」
「だって、毎回同じ人がチラシ持ってるもん」
「やめて、見ないで、そういうの」
笑いながら返すと、木崎さんも笑った。
「まあ、いいじゃん。バンドやってるってだけで勝ち組だよ」
「それ、たまに思うけど……最近、自信なくなってきたかも」
「だよね。わかる。わたしもPAやってたとき、毎日そんな感じだった」
言葉にしなくても伝わる共通の“沈み方”。
ここにいると、夢の燃えカスみたいな会話が妙に心地いい。
その日、スタジオを利用していたバンドのひとつが、俺たちよりずっと若かった。高校生か、大学生か。
キャッキャ笑いながら、でかい音を鳴らしていた。
何度もミスって、でも最後には「今の良くね!?」って爆笑していた。
あの頃、俺たちも――いや、俺も、ああだった気がする。
仕事を終えて帰宅したのは、夜の十一時過ぎだった。
玄関の灯りはついていたが、部屋の中は静まり返っていた。
美咲はリビングでうたた寝をしていて、テーブルには食べかけのサラダと、缶チューハイがひとつだけ置いてあった。
「ただいま」
小さな声で言うと、美咲が薄く目を開けた。
「おかえり……ごめん、起きてるつもりだったのに」
「いや、いいよ。寝てて正解」
俺はキッチンに向かい、さっきの缶の横に新しいのを置いた。
冷蔵庫から取り出した唐揚げ弁当をレンジに入れる。
今日も、音楽とは無関係の一日だった。
「バイト、どうだった?」
「うん、まぁ普通。木崎さんがうるさかった」
「木崎さんって、あのちょっと派手な……」
「そう。あの人、見た目よりめっちゃ毒舌」
「ふふっ、でもそういう人、ちょっと羨ましいかも」
俺はチンという音と同時に弁当を取り出し、テーブルに置いた。
テレビをつけると、バラエティ番組が芸人の大声で騒いでいる。
でも、食欲はまったく湧かなかった。
「ねぇ、悠人」
「ん?」
「……あたし、来週の土曜、友達と飲みに行っていい?」
「え、うん、いいけど。誰と?」
「高校の同級生で、久々に会うんだって。女子だけ」
少しだけ言いよどんだその言葉に、胸の奥がざわついた。
でも、それを問い詰めるほどの根拠も、気力もなかった。
「そっか。じゃあ、楽しんできなよ」
「……うん」
沈黙が、ゆっくりと部屋を満たしていく。
レンジで温めた唐揚げは、もう冷めかけていた。
俺たちは今、何かを温め直してばかりだ。
それが音楽でも、夢でも、恋でも、関係なく。
その夜、美咲が背を向けて眠るのを、俺は黙って見ていた。
テーブルの上には、ラップのかかった皿と、付箋が一枚。
「カレー作ってあるから、チンして食べてね。美咲」
温かさが抜けきった文字だった。
電子レンジに皿を入れてスイッチを押すと、モーター音とともに何かが空回りするような音がした。
昨夜のギターは、そのままソファの上に置きっぱなしだった。
構いもせずにスマホを開くと、バンドのグループLINEが目に入る。
【水野】:今日、スタジオどうする?
【拓真】:行けるけど……どうすんの、今後。
【水野】:正直、そろそろ方向性とか考えないとだよね。
俺だけが、“既読”をつけていなかった。
言い返す言葉も、建て直す案もなかったから。
ピッ、という音とともに、レンジが止まる。
皿を取り出すと、カレーの匂いが鼻をついた。
でも、スプーンを口に運んでも、味がしなかった。
まるで“温度”だけが残っていて、心に届くものは何もない。
「……こんなんじゃ、ないのにな」
自分の声が、やけに虚ろだった。
テレビをつけても、朝のワイドショーが騒がしく笑っていた。
売れっ子バンドの新曲情報、武道館ワンマンの告知。
何年後かの“未来”が、別の誰かの手で普通に掴まれていく。
今の俺の現実とは、まるで違う場所の話みたいだった。
ふと、美咲のトートバッグが目に入った。
昨夜、玄関に脱ぎ捨てたままだったそれを拾い上げてみる。
中には、折りたたまれたポスターと、俺たちのバンドのフライヤーが数枚。
全部、自分で刷って、手で切って、持ち歩いてくれていたんだ。
「なんで……お前が頑張ってんだよ」
情けなくて、吐き気がしそうだった。
スタジオには行かなかった。
その代わり、午後からやっていたバイトに顔を出した。
高円寺の駅前にある24時間営業のレンタルスタジオで、受付兼機材管理のアルバイト。バンドマンをやっていることを伝えると、店長が「じゃあちょうどいいな」って採用してくれた。
でも最近、バンドマンという自覚すら揺らいでる。
楽器を持ってるだけで、音楽してるって言えるのか。
少なくとも、今の俺には言えなかった。
「お、今日珍しく時間通りじゃん」
カウンターでパソコンをいじっていた女性が顔を上げる。
店の先輩、木崎さん。
歳は三つ上。元々音楽専門学校でPAを目指してたらしいけど、今はこうして受付業務をしながらフリーター生活を送っている。
「なんかあった? 顔ひどいよ」
「寝不足っす」
「またライブでしょ。客、いた?」
グサッと来るようなことを、さらりと言う人だ。
でも、悪気はないのが分かっているから腹も立たない。
「うーん、五人?」
「うち三人は彼女と友達でしょ」
「……よくわかってるじゃん」
「だって、毎回同じ人がチラシ持ってるもん」
「やめて、見ないで、そういうの」
笑いながら返すと、木崎さんも笑った。
「まあ、いいじゃん。バンドやってるってだけで勝ち組だよ」
「それ、たまに思うけど……最近、自信なくなってきたかも」
「だよね。わかる。わたしもPAやってたとき、毎日そんな感じだった」
言葉にしなくても伝わる共通の“沈み方”。
ここにいると、夢の燃えカスみたいな会話が妙に心地いい。
その日、スタジオを利用していたバンドのひとつが、俺たちよりずっと若かった。高校生か、大学生か。
キャッキャ笑いながら、でかい音を鳴らしていた。
何度もミスって、でも最後には「今の良くね!?」って爆笑していた。
あの頃、俺たちも――いや、俺も、ああだった気がする。
仕事を終えて帰宅したのは、夜の十一時過ぎだった。
玄関の灯りはついていたが、部屋の中は静まり返っていた。
美咲はリビングでうたた寝をしていて、テーブルには食べかけのサラダと、缶チューハイがひとつだけ置いてあった。
「ただいま」
小さな声で言うと、美咲が薄く目を開けた。
「おかえり……ごめん、起きてるつもりだったのに」
「いや、いいよ。寝てて正解」
俺はキッチンに向かい、さっきの缶の横に新しいのを置いた。
冷蔵庫から取り出した唐揚げ弁当をレンジに入れる。
今日も、音楽とは無関係の一日だった。
「バイト、どうだった?」
「うん、まぁ普通。木崎さんがうるさかった」
「木崎さんって、あのちょっと派手な……」
「そう。あの人、見た目よりめっちゃ毒舌」
「ふふっ、でもそういう人、ちょっと羨ましいかも」
俺はチンという音と同時に弁当を取り出し、テーブルに置いた。
テレビをつけると、バラエティ番組が芸人の大声で騒いでいる。
でも、食欲はまったく湧かなかった。
「ねぇ、悠人」
「ん?」
「……あたし、来週の土曜、友達と飲みに行っていい?」
「え、うん、いいけど。誰と?」
「高校の同級生で、久々に会うんだって。女子だけ」
少しだけ言いよどんだその言葉に、胸の奥がざわついた。
でも、それを問い詰めるほどの根拠も、気力もなかった。
「そっか。じゃあ、楽しんできなよ」
「……うん」
沈黙が、ゆっくりと部屋を満たしていく。
レンジで温めた唐揚げは、もう冷めかけていた。
俺たちは今、何かを温め直してばかりだ。
それが音楽でも、夢でも、恋でも、関係なく。
その夜、美咲が背を向けて眠るのを、俺は黙って見ていた。
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