4 / 132
街の風、鳴らない音
ずっと応援してるよ、って
しおりを挟む
翌朝、目を覚ましたときには美咲の姿はなかった。
代わりにキッチンには、テーブルの上に並んだ朝食セットと、サンドイッチが詰まった紙袋。トーストの隣には小さなメモが貼られていた。
今日は早番だよ。お昼はこれ食べてね。がんばって。
淡いピンクの付箋に丸文字で書かれたメッセージ。
昔から変わらない、美咲の「やさしさのフォント」だ。
それが今は、妙に胸に刺さる。
返事もできずに受け取ってばかりだ――
そう思いながらも、何も行動に移せない自分がもどかしかった。
ソファに腰を下ろすと、スマホの通知が数件。
バンドのグループLINEがまた動いていた。
【拓真】:3週間後ってテンペストの対バンか
【水野】:出るの? あれ。俺、無理かも
【拓真】:状況次第で考えるけど…正直、悩んでる
未読のまま、俺はスマホを伏せた。
自分の歌を信じてほしい――そう願ってきたけれど、
その前に、自分自身が何を信じてるのかも分からなくなっていた。
夕方、ふと思い立って、美咲の働くアパレル店の前を通った。
ウィンドウ越しに、接客中の彼女の姿が見えた。
笑顔で話し、試着室に案内して、客の子どもにしゃがんで話しかけていた。
その光景は、あまりに自然で、あたたかくて、
“俺の知らない顔”に思えてしまった。
このところ、ずっと一緒にいたはずなのに――
彼女の隣にいる実感が、どんどん希薄になっていく。
帰り際、ふたりの男子大学生くらいの若い男が、
店内の彼女を見て「可愛いな」と小声で笑っていた。
なんでもない雑談のひとコマ。
でも、その一言が、やけに胸に残った。
“俺の知らない美咲”が、どんどん増えていく。
その夜、美咲は少し遅れて帰宅した。
「ただいま」と笑った声に、俺は「おかえり」と返した。
それだけで会話は終わった。
夕飯を一緒に食べることもなく、
俺はギターの弦を張り替え、美咲はスマホをいじっていた。
ただ同じ空間にいるだけ。
けれど、心の距離は、測れないほど遠くなっていた。
その週末、俺たちは久しぶりにふたりで外出した。
といっても、近くのショッピングモールをぶらつくだけの、なんてことない休日。
「ね、これ似合いそうじゃない?」
美咲が指差したのは、青みがかったシャツ。
「うん、いいんじゃない?」
そう答えたけど、視線はその服じゃなくて、美咲の表情に向いていた。
少し、笑顔が固い。
気のせいかもしれない。でも、何かが引っかかっていた。
「こっちのほうが、好き?」
「え?」
「このシャツ。こっちの方が、悠人っぽいかなって思ったんだけど……」
その一言に、俺はようやく気づく。
――今日の美咲の服、少し印象が違っていた。
カジュアルだったいつもの雰囲気から一転、落ち着いたシルエットと色合い。
髪型も軽く巻いてあって、アイメイクがいつもより丁寧だった。
「今日、なんか……雰囲気違うなって思って」
口にした瞬間、美咲は少しだけ頬を赤くした。
「そう? たまには気分変えたいなって」
「うん、すごく似合ってる」
言葉は嘘じゃなかった。でも、そこで話は終わった。
本当は聞きたかった――“誰かのため”じゃないかって。
でも、その問いを飲み込んだのは、俺の弱さだ。
食事のあと、帰り道の歩道で、風が強く吹いた。
美咲の髪がふわりと舞って、肩に戻る。
「寒い?」と聞くと、「ちょっとだけ」と微笑んだ。
彼女は俺の腕にそっと手を添えた。
だけど、その手の温度は――以前より少しだけ、遠かった。
その夜、部屋に戻ったあと、俺はずっとギターを弾いていた。
新しいメロディを探しているわけでも、曲を完成させたいわけでもなかった。
ただ、自分が“まだ音を鳴らせる”ことを、確かめたかった。
コードをひとつ鳴らすたびに、美咲の顔が浮かぶ。
以前、部屋で初めてこの音を聴いた彼女が、
「好き、このコード。沁みる」って言ってくれたことも。
今、あの言葉を思い出しても――何も沁みてこなかった。
日曜の昼下がり、美咲とカフェに向かう途中だった。
駅前の交差点、信号待ちで並んで立っていると、
向かい側から歩いてくる男が、ふいに美咲を見て立ち止まった。
「……あれ、美咲?」
背の高い、黒のコートを着た男。短く整えられた髪。
どこかで見たことがある気がしたけど、すぐには思い出せなかった。
「藤原くん? 久しぶり!」
美咲が明るく声を返す。
――その名前で、ようやく繋がった。
対バン相手、“テンペスト”のギター兼ボーカル。
次のライブの相手だ。
「まじか、偶然すぎる。下北住んでんの?」
「うん、今は彼と一緒に」
「へえ、……あ、どうも。藤原です」
軽く会釈してくる彼に、俺も一応頭を下げた。
「……相馬です。スプレッドブルーで、ボーカルやってます」
「え、うわ、マジか。ライブの予定あるよね? GATEで」
「まあ、はい」
「楽しみにしてますよ、先輩」
軽く言って、彼は笑った。
美咲もつられて笑っていたけど、俺は笑えなかった。
彼が去ったあと、信号が青に変わった。
歩き出しながら、美咲が「懐かしいな」とつぶやく。
「高校の頃、同じクラスだったんだよね。文化祭で軽音部で一緒にやってさ。懐かしいなー、あの頃」
「へぇ」
俺の返事は、それだけだった。
藤原――名前だけじゃなく、顔も、雰囲気も、音も知っている。
あの夜、GATEで見たライブ映像の中で、
堂々と観客を煽っていた彼は、今ここで美咲と笑っていた。
「……なんか変な空気になった?」
「別に」
「うそ、絶対ちょっと怒ってる顔してた」
「怒ってないよ」
「ほんとに?」
「……ああ」
でも本当は――わからなくなっていた。
何が正解かも、どう振る舞えばいいのかも。
ただ、ひとつだけはっきりしているのは、
“このままじゃ、きっと負ける”ということだけだった。
代わりにキッチンには、テーブルの上に並んだ朝食セットと、サンドイッチが詰まった紙袋。トーストの隣には小さなメモが貼られていた。
今日は早番だよ。お昼はこれ食べてね。がんばって。
淡いピンクの付箋に丸文字で書かれたメッセージ。
昔から変わらない、美咲の「やさしさのフォント」だ。
それが今は、妙に胸に刺さる。
返事もできずに受け取ってばかりだ――
そう思いながらも、何も行動に移せない自分がもどかしかった。
ソファに腰を下ろすと、スマホの通知が数件。
バンドのグループLINEがまた動いていた。
【拓真】:3週間後ってテンペストの対バンか
【水野】:出るの? あれ。俺、無理かも
【拓真】:状況次第で考えるけど…正直、悩んでる
未読のまま、俺はスマホを伏せた。
自分の歌を信じてほしい――そう願ってきたけれど、
その前に、自分自身が何を信じてるのかも分からなくなっていた。
夕方、ふと思い立って、美咲の働くアパレル店の前を通った。
ウィンドウ越しに、接客中の彼女の姿が見えた。
笑顔で話し、試着室に案内して、客の子どもにしゃがんで話しかけていた。
その光景は、あまりに自然で、あたたかくて、
“俺の知らない顔”に思えてしまった。
このところ、ずっと一緒にいたはずなのに――
彼女の隣にいる実感が、どんどん希薄になっていく。
帰り際、ふたりの男子大学生くらいの若い男が、
店内の彼女を見て「可愛いな」と小声で笑っていた。
なんでもない雑談のひとコマ。
でも、その一言が、やけに胸に残った。
“俺の知らない美咲”が、どんどん増えていく。
その夜、美咲は少し遅れて帰宅した。
「ただいま」と笑った声に、俺は「おかえり」と返した。
それだけで会話は終わった。
夕飯を一緒に食べることもなく、
俺はギターの弦を張り替え、美咲はスマホをいじっていた。
ただ同じ空間にいるだけ。
けれど、心の距離は、測れないほど遠くなっていた。
その週末、俺たちは久しぶりにふたりで外出した。
といっても、近くのショッピングモールをぶらつくだけの、なんてことない休日。
「ね、これ似合いそうじゃない?」
美咲が指差したのは、青みがかったシャツ。
「うん、いいんじゃない?」
そう答えたけど、視線はその服じゃなくて、美咲の表情に向いていた。
少し、笑顔が固い。
気のせいかもしれない。でも、何かが引っかかっていた。
「こっちのほうが、好き?」
「え?」
「このシャツ。こっちの方が、悠人っぽいかなって思ったんだけど……」
その一言に、俺はようやく気づく。
――今日の美咲の服、少し印象が違っていた。
カジュアルだったいつもの雰囲気から一転、落ち着いたシルエットと色合い。
髪型も軽く巻いてあって、アイメイクがいつもより丁寧だった。
「今日、なんか……雰囲気違うなって思って」
口にした瞬間、美咲は少しだけ頬を赤くした。
「そう? たまには気分変えたいなって」
「うん、すごく似合ってる」
言葉は嘘じゃなかった。でも、そこで話は終わった。
本当は聞きたかった――“誰かのため”じゃないかって。
でも、その問いを飲み込んだのは、俺の弱さだ。
食事のあと、帰り道の歩道で、風が強く吹いた。
美咲の髪がふわりと舞って、肩に戻る。
「寒い?」と聞くと、「ちょっとだけ」と微笑んだ。
彼女は俺の腕にそっと手を添えた。
だけど、その手の温度は――以前より少しだけ、遠かった。
その夜、部屋に戻ったあと、俺はずっとギターを弾いていた。
新しいメロディを探しているわけでも、曲を完成させたいわけでもなかった。
ただ、自分が“まだ音を鳴らせる”ことを、確かめたかった。
コードをひとつ鳴らすたびに、美咲の顔が浮かぶ。
以前、部屋で初めてこの音を聴いた彼女が、
「好き、このコード。沁みる」って言ってくれたことも。
今、あの言葉を思い出しても――何も沁みてこなかった。
日曜の昼下がり、美咲とカフェに向かう途中だった。
駅前の交差点、信号待ちで並んで立っていると、
向かい側から歩いてくる男が、ふいに美咲を見て立ち止まった。
「……あれ、美咲?」
背の高い、黒のコートを着た男。短く整えられた髪。
どこかで見たことがある気がしたけど、すぐには思い出せなかった。
「藤原くん? 久しぶり!」
美咲が明るく声を返す。
――その名前で、ようやく繋がった。
対バン相手、“テンペスト”のギター兼ボーカル。
次のライブの相手だ。
「まじか、偶然すぎる。下北住んでんの?」
「うん、今は彼と一緒に」
「へえ、……あ、どうも。藤原です」
軽く会釈してくる彼に、俺も一応頭を下げた。
「……相馬です。スプレッドブルーで、ボーカルやってます」
「え、うわ、マジか。ライブの予定あるよね? GATEで」
「まあ、はい」
「楽しみにしてますよ、先輩」
軽く言って、彼は笑った。
美咲もつられて笑っていたけど、俺は笑えなかった。
彼が去ったあと、信号が青に変わった。
歩き出しながら、美咲が「懐かしいな」とつぶやく。
「高校の頃、同じクラスだったんだよね。文化祭で軽音部で一緒にやってさ。懐かしいなー、あの頃」
「へぇ」
俺の返事は、それだけだった。
藤原――名前だけじゃなく、顔も、雰囲気も、音も知っている。
あの夜、GATEで見たライブ映像の中で、
堂々と観客を煽っていた彼は、今ここで美咲と笑っていた。
「……なんか変な空気になった?」
「別に」
「うそ、絶対ちょっと怒ってる顔してた」
「怒ってないよ」
「ほんとに?」
「……ああ」
でも本当は――わからなくなっていた。
何が正解かも、どう振る舞えばいいのかも。
ただ、ひとつだけはっきりしているのは、
“このままじゃ、きっと負ける”ということだけだった。
10
あなたにおすすめの小説
異世界の花嫁?お断りします。
momo6
恋愛
三十路を過ぎたOL 椿(つばき)は帰宅後、地震に見舞われる。気付いたら異世界にいた。
そこで出逢った王子に求婚を申し込まれましたけど、
知らない人と結婚なんてお断りです。
貞操の危機を感じ、逃げ出した先に居たのは妖精王ですって?
甘ったるい愛を囁いてもダメです。
異世界に来たなら、この世界を楽しむのが先です!!
恋愛よりも衣食住。これが大事です!
お金が無くては生活出来ません!働いて稼いで、美味しい物を食べるんです(๑>◡<๑)
・・・えっ?全部ある?
働かなくてもいい?
ーーー惑わされません!甘い誘惑には罠が付き物です!
*****
目に止めていただき、ありがとうございます(〃ω〃)
未熟な所もありますが 楽しんで頂けたから幸いです。
〜仕事も恋愛もハードモード!?〜 ON/OFF♡オフィスワーカー
i.q
恋愛
切り替えギャップ鬼上司に翻弄されちゃうオフィスラブ☆
最悪な失恋をした主人公とONとOFFの切り替えが激しい鬼上司のオフィスラブストーリー♡
バリバリのキャリアウーマン街道一直線の爽やか属性女子【川瀬 陸】。そんな陸は突然彼氏から呼び出される。出向いた先には……彼氏と見知らぬ女が!? 酷い失恋をした陸。しかし、同じ職場の鬼課長の【榊】は失恋なんてお構いなし。傷が乾かぬうちに仕事はスーパーハードモード。その上、この鬼課長は————。
数年前に執筆して他サイトに投稿してあったお話(別タイトル。本文軽い修正あり)
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
2月31日 ~少しずれている世界~
希花 紀歩
恋愛
プロポーズ予定日に彼氏と親友に裏切られた・・・はずだった
4年に一度やってくる2月29日の誕生日。
日付が変わる瞬間大好きな王子様系彼氏にプロポーズされるはずだった私。
でも彼に告げられたのは結婚の申し込みではなく、別れの言葉だった。
私の親友と結婚するという彼を泊まっていた高級ホテルに置いて自宅に帰り、お酒を浴びるように飲んだ最悪の誕生日。
翌朝。仕事に行こうと目を覚ました私の隣に寝ていたのは別れたはずの彼氏だった。
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
~春の国~片足の不自由な王妃様
クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。
春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。
街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。
それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。
しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。
花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??
【完結】指先が触れる距離
山田森湖
恋愛
オフィスの隣の席に座る彼女、田中美咲。
必要最低限の会話しか交わさない同僚――そのはずなのに、いつしか彼女の小さな仕草や変化に心を奪われていく。
「おはようございます」の一言、資料を受け渡すときの指先の触れ合い、ふと香るシャンプーの匂い……。
手を伸ばせば届く距離なのに、簡単には踏み込めない関係。
近いようで遠い「隣の席」から始まる、ささやかで切ないオフィスラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる