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この音で、答えを出す
となりにいるのは
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電子レンジの中で温めていたご飯がチンと鳴った。
「ごはんできたよー」
エプロン姿のあかねが、キッチンから声をかける。
悠人はリビングのローテーブルにノートとスマホを広げたまま、顔を上げた。
「悪い、ちょっと待って。フレーズのアイデアが降りてきてさ」
「……そっか」
あかねは声を抑えめに返して、炊きたてのご飯をテーブルに並べる。
テーブルの上には、オムレツ、サラダ、みそ汁。
ふたり暮らしが始まってから、初めての“ちゃんとした食卓”。
だけど、向かいにいるはずの悠人は、まだペンを止めない。
(べつに、怒ってるわけじゃないけど)
(……でも、ちょっとだけ寂しいな)
あかねは黙って箸を取り、ひと口ご飯を食べる。
美味しい。ちゃんと自分で作った味。
だけど、その向こうに座る人と“目が合わない”ことが、
この食卓を急に味気なくさせていた。
「悠人、冷めちゃうよ」
「……あ、ごめん。いま行く」
ようやくノートを閉じた悠人が、座る。
「うまそう。これ、あかねが作ったの?」
「うん、まあ。……初めてにしては、マシなはず」
「十分だよ」
悠人は笑って、箸を持った。
その笑顔はたしかに優しかった。
だけど、どこか“遠い”と感じてしまうのは、なぜなんだろう。
「ねぇ、悠人」
「ん?」
「最近……またちょっと遠くなってない?」
その問いに、悠人は少し驚いたように目を見開く。
「そんなつもりは……」
「わかってる。わかってるんだけど……」
あかねはゆっくりと口元を拭き、深呼吸するように言葉を続けた。
「私、となりにいても、“届いてない”って思うときあるんだ。
音楽のこと、バンドのこと、全部尊敬してるし応援してるけど、
たまに、私は“生活の背景”にしかなってないんじゃないかって……」
悠人は何も言えなかった。
箸を置き、ただ彼女の言葉を受け止めていた。
あかねの言葉が、部屋の空気を変えた。
悠人は視線をテーブルの上に落としたまま、しばらく黙っていた。
箸の先が味噌汁の碗に軽く触れた音だけが、小さく響く。
「……あかね」
ようやく、ゆっくりと口を開く。
「俺、たぶん……音楽が、怖いんだと思う」
あかねが顔を上げる。
「怖い?」
「昔はさ、ただ歌うだけでよかった。
誰も聴いてない路上でも、自己満でも、それで満たされてた」
「でも今は違う。誰かが聴いてくれて、期待してくれて、
その分、届かないと怖くなる。うまく鳴らせなかったらって、思う」
言葉を選びながら話す悠人の声は、
いつものライブやリハとはまったく違う響きをしていた。
「だから……あかねの前でだけは、弱くなってるのかもしれない」
あかねは、何も言わなかった。
ただ、その言葉をちゃんと受け止めていた。
「でも、それって甘えだよね。
そばにいるのに、ちゃんと見てなかった。
“安心できる場所”を自分だけの逃げ場にしてた」
悠人はまっすぐにあかねを見る。
「ごめん。俺、ちゃんと“隣にいる”ってこと、
ちゃんと大事にできてなかった」
あかねは、ふっと息を吐いた。
怒っていたわけじゃない。ただ、ちゃんと“言ってほしかった”だけ。
「……いいよ。話してくれて、ありがとう」
「……あかね」
「わたしも、どこかで“支える”って言いながら、
ただ隣にいることで安心したかったのかもしれない」
ふたりは、それ以上言葉を重ねなかった。
けれど、その沈黙はもう、すれ違いではなかった。
言葉よりも、まっすぐで温かいものが、そこにあった。
「じゃあ、冷める前に食べよっか」
「うん」
ふたりが箸を持った瞬間、テレビから流れた天気予報が、
“明日は晴れ”を告げていた。
Zepp Tokyoの搬入口前。
あかねは、両手で紙袋を抱えながら建物の横で立ち止まった。
飲み物とちょっとした栄養補給の差し入れ。直接渡せるかはわからないけど、それでも来たかった。
「……あれ、あかねさん?」
振り返ると、ギターケースを背負った結華が顔を出していた。
「結華さん……おつかれさま。今、出てきたとこ?」
「うん、ちょっと外の空気吸いに。
ってか、あかねさん来てたんだね。悠人くんに?」
「うん。今日、たぶん本人すごく集中してると思うから……渡せるかはわかんないけど」
「わかる。朝からピリピリしてたよ。
しゃべる言葉全部削ぎ落として“音で話します”って顔してた」
ふたりは笑って、近くのちょっとした階段に並んで腰掛けた。
「……なんかさ、今日ここに来るの、少し怖かったんだ」
「どうして?」
「わたし、バンドのことも音楽のこともよく知らないし。
だから“そばにいるだけ”って、逆に足引っ張るんじゃないかなって……」
「そばにいるって、すごいことだよ」
結華は少しだけ真剣な目であかねを見る。
「悠人くんって、ずっと独りで立ってきた人だからさ。
わたしたちメンバーだって最近ようやく“並んでる”って思えるくらいで……
あかねさんが隣にいるだけで、あの人、変わったもん」
「……そっか」
「今朝もね、スタジオでふと笑ってたの見たの。
今までの悠人くんなら、ああいう顔、本番前には絶対しなかった」
あかねは、そっと紙袋を膝の上で押さえた。
「でもね、まだちゃんと“付き合おう”とか言われたわけじゃないんだよ」
「え、マジ?」
「うん、なんか……一緒にいるのが自然すぎて、そういう話になってなくて」
「それ、悠人くん絶対“もう付き合ってる”と思ってるよ」
あかねが思わず笑う。
「だよね……。でも今日は、その全部込みで見届けたいの。
言葉じゃなくて、ステージで見せてくれる気がするから」
結華はゆっくりと立ち上がると、肩越しにあかねを見て言った。
「今日、悠人くんは絶対に“本気”で歌う。
だから、となりで見てあげて。……それだけでいいと思う」
「……うん。ありがとう、結華さん」
「どういたしまして、あかねさん」
ふたりは、静かに同じ方向を見つめていた。
これから始まる、本気の音を迎えるために。
「ごはんできたよー」
エプロン姿のあかねが、キッチンから声をかける。
悠人はリビングのローテーブルにノートとスマホを広げたまま、顔を上げた。
「悪い、ちょっと待って。フレーズのアイデアが降りてきてさ」
「……そっか」
あかねは声を抑えめに返して、炊きたてのご飯をテーブルに並べる。
テーブルの上には、オムレツ、サラダ、みそ汁。
ふたり暮らしが始まってから、初めての“ちゃんとした食卓”。
だけど、向かいにいるはずの悠人は、まだペンを止めない。
(べつに、怒ってるわけじゃないけど)
(……でも、ちょっとだけ寂しいな)
あかねは黙って箸を取り、ひと口ご飯を食べる。
美味しい。ちゃんと自分で作った味。
だけど、その向こうに座る人と“目が合わない”ことが、
この食卓を急に味気なくさせていた。
「悠人、冷めちゃうよ」
「……あ、ごめん。いま行く」
ようやくノートを閉じた悠人が、座る。
「うまそう。これ、あかねが作ったの?」
「うん、まあ。……初めてにしては、マシなはず」
「十分だよ」
悠人は笑って、箸を持った。
その笑顔はたしかに優しかった。
だけど、どこか“遠い”と感じてしまうのは、なぜなんだろう。
「ねぇ、悠人」
「ん?」
「最近……またちょっと遠くなってない?」
その問いに、悠人は少し驚いたように目を見開く。
「そんなつもりは……」
「わかってる。わかってるんだけど……」
あかねはゆっくりと口元を拭き、深呼吸するように言葉を続けた。
「私、となりにいても、“届いてない”って思うときあるんだ。
音楽のこと、バンドのこと、全部尊敬してるし応援してるけど、
たまに、私は“生活の背景”にしかなってないんじゃないかって……」
悠人は何も言えなかった。
箸を置き、ただ彼女の言葉を受け止めていた。
あかねの言葉が、部屋の空気を変えた。
悠人は視線をテーブルの上に落としたまま、しばらく黙っていた。
箸の先が味噌汁の碗に軽く触れた音だけが、小さく響く。
「……あかね」
ようやく、ゆっくりと口を開く。
「俺、たぶん……音楽が、怖いんだと思う」
あかねが顔を上げる。
「怖い?」
「昔はさ、ただ歌うだけでよかった。
誰も聴いてない路上でも、自己満でも、それで満たされてた」
「でも今は違う。誰かが聴いてくれて、期待してくれて、
その分、届かないと怖くなる。うまく鳴らせなかったらって、思う」
言葉を選びながら話す悠人の声は、
いつものライブやリハとはまったく違う響きをしていた。
「だから……あかねの前でだけは、弱くなってるのかもしれない」
あかねは、何も言わなかった。
ただ、その言葉をちゃんと受け止めていた。
「でも、それって甘えだよね。
そばにいるのに、ちゃんと見てなかった。
“安心できる場所”を自分だけの逃げ場にしてた」
悠人はまっすぐにあかねを見る。
「ごめん。俺、ちゃんと“隣にいる”ってこと、
ちゃんと大事にできてなかった」
あかねは、ふっと息を吐いた。
怒っていたわけじゃない。ただ、ちゃんと“言ってほしかった”だけ。
「……いいよ。話してくれて、ありがとう」
「……あかね」
「わたしも、どこかで“支える”って言いながら、
ただ隣にいることで安心したかったのかもしれない」
ふたりは、それ以上言葉を重ねなかった。
けれど、その沈黙はもう、すれ違いではなかった。
言葉よりも、まっすぐで温かいものが、そこにあった。
「じゃあ、冷める前に食べよっか」
「うん」
ふたりが箸を持った瞬間、テレビから流れた天気予報が、
“明日は晴れ”を告げていた。
Zepp Tokyoの搬入口前。
あかねは、両手で紙袋を抱えながら建物の横で立ち止まった。
飲み物とちょっとした栄養補給の差し入れ。直接渡せるかはわからないけど、それでも来たかった。
「……あれ、あかねさん?」
振り返ると、ギターケースを背負った結華が顔を出していた。
「結華さん……おつかれさま。今、出てきたとこ?」
「うん、ちょっと外の空気吸いに。
ってか、あかねさん来てたんだね。悠人くんに?」
「うん。今日、たぶん本人すごく集中してると思うから……渡せるかはわかんないけど」
「わかる。朝からピリピリしてたよ。
しゃべる言葉全部削ぎ落として“音で話します”って顔してた」
ふたりは笑って、近くのちょっとした階段に並んで腰掛けた。
「……なんかさ、今日ここに来るの、少し怖かったんだ」
「どうして?」
「わたし、バンドのことも音楽のこともよく知らないし。
だから“そばにいるだけ”って、逆に足引っ張るんじゃないかなって……」
「そばにいるって、すごいことだよ」
結華は少しだけ真剣な目であかねを見る。
「悠人くんって、ずっと独りで立ってきた人だからさ。
わたしたちメンバーだって最近ようやく“並んでる”って思えるくらいで……
あかねさんが隣にいるだけで、あの人、変わったもん」
「……そっか」
「今朝もね、スタジオでふと笑ってたの見たの。
今までの悠人くんなら、ああいう顔、本番前には絶対しなかった」
あかねは、そっと紙袋を膝の上で押さえた。
「でもね、まだちゃんと“付き合おう”とか言われたわけじゃないんだよ」
「え、マジ?」
「うん、なんか……一緒にいるのが自然すぎて、そういう話になってなくて」
「それ、悠人くん絶対“もう付き合ってる”と思ってるよ」
あかねが思わず笑う。
「だよね……。でも今日は、その全部込みで見届けたいの。
言葉じゃなくて、ステージで見せてくれる気がするから」
結華はゆっくりと立ち上がると、肩越しにあかねを見て言った。
「今日、悠人くんは絶対に“本気”で歌う。
だから、となりで見てあげて。……それだけでいいと思う」
「……うん。ありがとう、結華さん」
「どういたしまして、あかねさん」
ふたりは、静かに同じ方向を見つめていた。
これから始まる、本気の音を迎えるために。
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