叫べ、まだ終わりじゃない

おくなみ

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この音に、答えはまだない

君の隣で、揺れていた

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グラスに注がれた炭酸が、ぱちぱちと小さな音を立てていた。
 テレビの音は消してある。スマホも伏せたまま。夜の部屋には、時計の針の音とふたりの呼吸だけが流れていた。

 悠人のアパートのリビング。
 ソファに座ったあかねが、薄いスウェットに膝を抱えてこちらを見ている。

 「ほんとに、バズったんだね」
 「うん」
 「……おめでとう」
 「ありがとう」

 それだけの会話だった。でも、悠人はそれが妙に心地よかった。

 世の中はざわめいていた。
 再生数、フォロワー、メディアの問い合わせ。SNSの通知は一晩で何百件も増えて、止まる気配はなかった。

 でもこの部屋の中だけは、いつも通りの静けさだった。

 「ライブ、後ろのほうから見てた」
 ふと、あかねが言った。

 「照明でほとんど顔とか見えなかったけど……音はちゃんと届いてた」
 「そうか」
 「“あ、悠人だ”って思った。ちゃんと、帰ってきたなって」

 悠人はその言葉に、言葉を返せなかった。
 嬉しかった。でも、何かが喉につかえてうまく出てこない。

 それでも、あかねは追い打ちをかけたりしなかった。
 ただ缶を持ち上げ、ひとくち飲んで、何気ないように話を続けた。

 「これからフェスとか、大変になるね」
 「……まあ、な」
 「怖い?」
 「少し。期待が膨らむほど、“またあれをやらなきゃ”って思う」
 「ふうん……」
 「でも、やるよ。やりたいんだ、もう一回」
 「そっか」

 その言葉に、あかねは少しだけ笑った。
 小さくて、でも確かに安堵を含んだ微笑みだった。

 「ほんとはさ」
 と、あかねが視線を落としたまま言った。
 「“音楽のそばにいないほうがいいのかも”って、ちょっとだけ思った時期もあった」

 「……それって」
 「前に付き合ってた人がね、音楽やってて。すごく優しかったけど……音に飲まれていくのが怖かった」
 「……」
 「でも、悠人は違う。戻ってきたとき、あたし……ほんとに嬉しかったんだよ」

 それは“好き”とも、“支えたい”とも違う。
 もっと静かで、もっと深い、ひとつの信頼だった。

 悠人は、ただ黙って、彼女のその言葉を受け止めた。

ふたりで眺めるテレビの画面は、音を消していても賑やかだった。
 バラエティ番組のテロップが、派手に流れていく。けれど、あかねも悠人も、その内容をほとんど見ていなかった。

 「……蓮くん、最近ちょっとしゃべり方変わったよね」
 「緊張してるんだろ。口数でごまかしてんだよ、あいつなりに」
 「わかる。インスタのストーリーも“俺たちマジかも”とか言ってた」
 「……言いそう」
 「フフッ」

 ふたりで笑う。
 この数週間、いつもとはまるで違う日々だった。SNSでバズり、注目され、名前が拡散されていく。
 けれどこうして、いつも通りふたりで冗談を言い合っていると、それが夢の中のことのように思えてくる。

 「……ねえ、悠人」
 「ん?」
 「“もう一度やりたい”って言ってたじゃん」
 「うん」
 「その先には、何があるの?」

 悠人は少し黙って、それから答えた。

 「わかんない。でも……一度、音を失ったからさ。戻ってこれただけで、今は十分幸せだと思ってる」
 「……そう」
 「でも、そう思ってるうちは、たぶん先に進めないんだよな」

 静かな時間の中に、ほんの少しだけ熱が宿った。

 そのとき。
 ソファの脇に置いたスマホが、震えた。

 着信ではなく、メッセージ。
 画面に浮かんだ名前に、悠人の表情が一変する。

 《美咲》

 指先がかすかに震えながら、メッセージの本文を開く。

 《……助けて》

 短い。けれど、その一言で胸が締めつけられた。

 「どうしたの?」
 あかねの声に、悠人は黙ってスマホを見せる。

 メッセージを読み、あかねは少しの間、何も言わなかった。
 それから、ゆっくりとまぶたを伏せる。

 「行ってきなよ」

 その声は、静かだった。
 けれど、どこか遠くにあるようにも聞こえた。

玄関のドアを開けると、夜風がふっと頬を撫でた。
 薄手の上着を羽織りながら靴を履く悠人の背中に、あかねの視線が刺さる。

 「場所は……あのマンション?」
 「うん。たぶん、まだそこにいる」
 「藤原ってやつ、バンドやってるんでしょ?」
 「“テンペスト”のギター。今はまあ、そこそこ売れてる」

 その言葉に、あかねは少しだけ目を細めた。

 「……やっぱ最低だね、その人」

 悠人は何も返さなかった。
 あかねが怒っているわけじゃないのは、わかっていた。ただ、その口調には感情が少しだけ混ざっていた。

 「ありがと」
 「別に。あたしが行くわけじゃないし」
 「それでも」

 悠人が立ち上がり、手にしていたスマホと鍵をポケットに入れる。

 そのときだった。
 あかねが、ふと口を開いた。

 「ねえ、悠人」

 「ん?」

 「戻ってくるときは、……ちゃんと帰ってきてね」

 その言葉の意味を、悠人はすぐには理解できなかった。
 でも、振り返ったとき、あかねはもう視線を逸らしていた。

 その横顔はどこか静かで、寂しげで、でも……強くあろうとしているようにも見えた。

 「お前は、何も悪くないのにな」
 「……何、それ」

 「いや、なんか。そんな顔するなよって、思っただけ」
 「……バカ」

 あかねは、ぽつりと呟いた。

 ドアが開く。
 音もなく閉じられる直前、ほんの一瞬だけ、ふたりの目が重なった。

 あかねの瞳は、確かに曇っていた。
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