叫べ、まだ終わりじゃない

おくなみ

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この音に、答えはまだない

そこに、君はいなかった

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部屋の明かりはついていた。
 だけど、そこに“いつもの空気”はなかった。

 玄関の扉を開けてすぐ、悠人はそれに気づいた。
 靴がひとつ、なくなっている。棚の上に置いてあったあかねの鍵も、そこにはなかった。

 「……あかね?」

 呼んでも返事はない。
 キッチンも、リビングも、整然と片づいていて、かえってそれが不気味だった。

 日常をそのまま剥がし取ったみたいな、静けさ。

 テーブルの上に、一枚の紙が置かれていた。
 名前も、宛名も書かれていない。けれど、誰が残したものかはすぐにわかった。

 悠人はゆっくりと、その手紙を開く。

 《あなたは、何も悪くない。》

 その書き出しに、思わず息を呑んだ。

 《助けに行ったことも、
  あの人がどういう人かも、なんとなく感じてたし、
  悠人がその連絡を無視できる人じゃないってことも、最初からわかってた。》

 手書きの文字は丁寧で、けれどどこか泣きそうな線を描いていた。

 《だから、これはわたしの問題。
  勝手に不安になって、勝手に距離を置こうとしてるだけ。
  でも、少しだけ時間がほしいの。
  ちゃんと整理できたら、また会いに行くね。》

 《あなたが振り返ったとき、
  ちゃんと“隣にいてほしい”って思ってもらえるように。》

 悠人は、その場に立ち尽くしていた。

 手紙を読み終えたあとも、何度も何度も、目で追ってしまう。
 書かれているのは、ただの言葉なのに。
 そこに込められた気持ちの重さが、胸に刺さって抜けない。

 視線を上げる。
 カーテンの隙間から見える街の明かりが、やけに遠く感じた。

 たった今、誰かを守って帰ってきたはずなのに——
 その足元から、何かが崩れていく音がした。

 眠れない夜だった。
 ベッドに横たわっても、瞼を閉じても、脳だけがずっと騒がしく回り続けている。

 耳鳴りみたいに、あかねの声が頭に残っていた。
 《ちゃんと帰ってきてね》
 そう言ってくれた彼女の笑顔と、最後の曇った瞳が、何度も何度もフラッシュバックしてくる。

 手紙の文面は、丁寧だった。責めるような言葉も、怒りもなかった。
 でも、それが逆に胸を締めつける。

 どんな感情よりも、**「理解してくれていたのに、それでも距離を取られた」**という事実が重かった。

 朝になっても、あかねは戻ってこなかった。
 電話はつながらない。メッセージも既読にはならない。

 キッチンに置かれたカップも、風呂上がりに使っていたタオルも、そのまま。
 物はあるのに、彼女だけがいない。それがたまらなく虚しかった。

 ライブの準備は進んでいる。
 SNSではいまだに“次の伝説”が期待され、バンド名が飛び交っている。

 だけど、悠人の中で音が遠のいていた。

 昼すぎ、スタジオに顔を出した。

 「おー、来たな。大丈夫だった?」
 蓮が軽く手を上げて声をかける。

 「うん。……美咲は、ちゃんと出ていったよ」
 「そうか……よかった」
 「……で、あかねは?」
 「……いない」
 悠人がそう答えると、蓮の表情が少しだけ変わった。だが何も言わなかった。

 その日は、軽く音出しだけする予定だった。

 けれど、歌い出した瞬間——自分でも驚くくらい、声がうまく出なかった。

 メロディは覚えてる。歌詞も飛んでない。
 けれど、言葉がただの言葉にしかならない。

 「……すまん。ちょっと、声休める」
 そう言ってマイクを置いたとき、スタジオにいた全員が、何かを察していた。

 ——歌う理由が、どこかへ消えてしまった気がした。

ギターの音が、うまく噛み合わなかった。
 ベースの入りが、ほんのわずかに遅れる。ドラムのテンポも揺れていた。

 それでも、誰も文句を言わなかった。
 誰かのせいにしたくなかった。けれど、本当は皆、気づいていた。

 ——中心にいるはずのボーカルが、どこか遠くにいることに。

 「ごめん、もう一回……」
 そう言ってやり直しても、同じことの繰り返しだった。
 リズムは取れている。コードも合ってる。
 なのに、曲全体が“進まない”。

 重たい空気が、スタジオの中を覆っていた。

 「……今日、切り上げるか」

 そう言ったのは結華だった。
 ギターのチューニングを静かに緩めながら、誰にも責めるような目を向けず、ただ状況を受け止めていた。

 「悠人、今ちょっと“中身”が違う」

 その言葉に、悠人は顔を上げる。
 結華の言葉は鋭いけれど、優しさもあった。

 「前にもあった。昔のあんたが、こんな感じだったこと」
 「……」

 「声は出てる。でも、届いてこない。今の悠人からは、なんにも伝わってこないんだよ」

 言い返すことはできなかった。
 結華の目は正しかった。誰よりも、音を信じてきた人の目だった。

 悠人自身が、今いちばんそれを痛感していた。

 帰り際、蓮がぼそっと言った。

 「なあ、俺さ」
 「ん?」
 「今の悠人が、どこ見て歌ってるのか……正直、よくわかんねぇんだわ」

 その言葉は、突き刺すような痛みだった。
 でも、それは真実だった。

 スタジオを出たあと、悠人は音楽プレイヤーもイヤホンも取り出さなかった。
 道を歩いているときも、電車に揺られているときも、街の音がやけに遠く感じた。

 まるで、世界の音そのものから拒絶されているようだった。
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