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この音に、答えはまだない
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あかねがカップを傾けたタイミングで、結華は静かに声をかけた。
「ここにいた」
「……バレたか」
「ここのカフェ、あかねさん好きそうだもん。落ち着いてて」
午後の店内は静かだった。
平日の昼下がり、学生も会社員も少ないこの時間は、誰にも邪魔されない空気があった。
結華は、あかねの向かいに腰を下ろした。
「何か、飲む?」
「ううん、大丈夫。ここに来たの、話したくてだから」
あかねはうなずいて、スプーンでカップのふちを一度だけなぞった。
「悠人、どう?」
「……正直、ダメ。音は出てるし、声も出てる。でも、何も届いてこない」
「そっか」
「ステージのリハも進んでるけど、全員ちょっとずつ空回りしてる感じ」
あかねは何も言わずに、視線だけを下に落とした。
コーヒーの中に映る照明が、にじんで揺れていた。
「悠人、さ。あかねさんのこと、話さないんだよ」
「……うん」
「何もなかったみたいな顔して、普通にしてる。
でも、明らかにおかしい。あたしらから見たら、わかる」
あかねはスプーンをそっとテーブルに置いた。
指先がほんの少しだけ震えていた。
「なんかね、自分でもわかんなくなってたの」
「何が?」
「好きなのか、嫌いなのか。安心したいだけなのか、そばにいたいだけなのか……」
「全部じゃダメなの?」
その言葉に、あかねは目を見開いた。
結華の声は、静かだけど真剣だった。
「全部あっていいと思うよ。ごちゃごちゃでも、未完成でも、間違ってたとしても。
それでも、“今そばにいたい”って気持ちがあれば、それで十分じゃない?」
「でも……」
「悠人、今ほんとにしんどそう。目の奥から声が消えてるの。
あれ、あたし、昔も見たことある。あのときと同じ」
言葉を飲み込もうとしたあかねに、結華は一歩だけ前に出るように、こう続けた。
「行かないと、後悔すると思うよ」
「後悔、か……」
あかねは小さくつぶやいた。
その声はカップの中に沈み込むように、静かだった。
「悠人が音を失ってたとき、あたし何もできなかった。
近くにいたくせに、気づいてあげることもできなかったんだよ」
「でも、気づいたじゃん。だから“声かけた”んでしょ」
結華の声は優しかった。
あかねの心の奥に踏み込むのではなく、そっと隣に腰かけるような言い方だった。
「わかってたらよかったって、ずっと思ってた」
「うん」
「でも今回も、同じ。悠人が誰かを助けに行くの、止められなかったし、
止めようとも思えなかった。だから、自分が“いなくなる”って選んだ」
「それはさ、“傷つく前に自分から消えた”ってこと?」
あかねはぎゅっとカップを握った。
「……そうかも。あたし、自信なかったんだ。
彼が誰かを助けるとき、そばにいられる自分でいられるかどうか。
信じてもらえる自分かどうか」
結華はしばらく黙っていた。
言葉を探していたというより、その迷いを正面から受け止めようとしていた。
「じゃあさ」
「うん」
「信じてもらえるかどうかなんて、悠人が決めることでしょ」
「……」
「大事なのは、信じてほしいって“思える”かどうか。
“もう一回一緒に歩きたい”って、ちゃんと自分で決められるかどうか」
その言葉に、あかねの肩がわずかに震えた。
店内に流れていたBGMが、ふっと切り替わった。
穏やかなピアノの旋律が流れ出す。
それに背中を押されるように、あかねはそっと口を開いた。
「……怖いよ」
「うん。わかる」
「行ったところで、何も変わらないかもしれないし、
悠人の前で、なにかちゃんとしたこと言える自信もない」
「それでも」
結華が言った。
「それでも行かなきゃ、悠人はもう歌えないかもしれない。
あんたがいないと、たぶんあいつ、自分の“音”を失う」
あかねはカップを置き、しばらく俯いたまま動かなかった。
でもそのまま、小さく頷いた。
「……会いに行く」
「うん」
「もう一回、ちゃんと向き合う」
その声は、震えていた。けれど確かに、前を向いていた。
ホテルの部屋は静かだった。
小さなデスクと、白いベッドと、夜景の見える窓。
外は少し風が強いらしく、ガラス越しにごう、と音が鳴っていた。
あかねは、カーテンの端を指先でつまんだまま、じっと外を見ていた。
「……行く、って言ったけどさ」
ぽつりとこぼれた言葉に、誰も返事をする者はいなかった。
ホテルの壁は薄いけれど、今夜は隣の物音ひとつ聞こえない。
行くとは言った。結華の前では、うなずいた。
でも実際、何をどうすればいいのか、まだわからないままだった。
悠人に、何かを伝えたいのかどうか。
そもそも、会ってどうするつもりなのか。
あの手紙のあとで、どんな顔して立てばいいのか——全部、わからない。
カバンには、最低限の着替えとポーチ、そしてスマホだけ。
でもそのスマホは、ここ数日、一度も悠人の画面を開いていない。
《今から会える?》
《戻ってこいよ》
《どこにいるの?》
もしそんなメッセージが届いていたら、きっとわたしは、もっと早く崩れていた。
ベッドに腰を下ろして、背中を丸める。
照明は落とさず、そのまま毛布にくるまる。
「……やっぱり、わかんないな」
行くとは言った。でも、行ってどうするかは言ってない。
悠人に何か言える気がしない。言葉が浮かばない。
自分が何をしたいのか、何ができるのか、それすら曖昧なままだった。
でも、結華の言葉がずっと残っていた。
“行かないと、後悔すると思うよ”
そうかもしれない、とあかねは思っている。
だからこうしてホテルにいて、明日どう動こうか考えている。
考えてばかりで、答えは出ないけれど——それでも、動かなきゃと思っている自分がいる。
スマホを伏せて、あかねはそっと目を閉じた。
眠れるかどうかはわからない。
でも明日、もう一度だけ、自分の心と向き合おう。
何も決まっていなくても、何も言えなくても。
それでも、きっと。
「ここにいた」
「……バレたか」
「ここのカフェ、あかねさん好きそうだもん。落ち着いてて」
午後の店内は静かだった。
平日の昼下がり、学生も会社員も少ないこの時間は、誰にも邪魔されない空気があった。
結華は、あかねの向かいに腰を下ろした。
「何か、飲む?」
「ううん、大丈夫。ここに来たの、話したくてだから」
あかねはうなずいて、スプーンでカップのふちを一度だけなぞった。
「悠人、どう?」
「……正直、ダメ。音は出てるし、声も出てる。でも、何も届いてこない」
「そっか」
「ステージのリハも進んでるけど、全員ちょっとずつ空回りしてる感じ」
あかねは何も言わずに、視線だけを下に落とした。
コーヒーの中に映る照明が、にじんで揺れていた。
「悠人、さ。あかねさんのこと、話さないんだよ」
「……うん」
「何もなかったみたいな顔して、普通にしてる。
でも、明らかにおかしい。あたしらから見たら、わかる」
あかねはスプーンをそっとテーブルに置いた。
指先がほんの少しだけ震えていた。
「なんかね、自分でもわかんなくなってたの」
「何が?」
「好きなのか、嫌いなのか。安心したいだけなのか、そばにいたいだけなのか……」
「全部じゃダメなの?」
その言葉に、あかねは目を見開いた。
結華の声は、静かだけど真剣だった。
「全部あっていいと思うよ。ごちゃごちゃでも、未完成でも、間違ってたとしても。
それでも、“今そばにいたい”って気持ちがあれば、それで十分じゃない?」
「でも……」
「悠人、今ほんとにしんどそう。目の奥から声が消えてるの。
あれ、あたし、昔も見たことある。あのときと同じ」
言葉を飲み込もうとしたあかねに、結華は一歩だけ前に出るように、こう続けた。
「行かないと、後悔すると思うよ」
「後悔、か……」
あかねは小さくつぶやいた。
その声はカップの中に沈み込むように、静かだった。
「悠人が音を失ってたとき、あたし何もできなかった。
近くにいたくせに、気づいてあげることもできなかったんだよ」
「でも、気づいたじゃん。だから“声かけた”んでしょ」
結華の声は優しかった。
あかねの心の奥に踏み込むのではなく、そっと隣に腰かけるような言い方だった。
「わかってたらよかったって、ずっと思ってた」
「うん」
「でも今回も、同じ。悠人が誰かを助けに行くの、止められなかったし、
止めようとも思えなかった。だから、自分が“いなくなる”って選んだ」
「それはさ、“傷つく前に自分から消えた”ってこと?」
あかねはぎゅっとカップを握った。
「……そうかも。あたし、自信なかったんだ。
彼が誰かを助けるとき、そばにいられる自分でいられるかどうか。
信じてもらえる自分かどうか」
結華はしばらく黙っていた。
言葉を探していたというより、その迷いを正面から受け止めようとしていた。
「じゃあさ」
「うん」
「信じてもらえるかどうかなんて、悠人が決めることでしょ」
「……」
「大事なのは、信じてほしいって“思える”かどうか。
“もう一回一緒に歩きたい”って、ちゃんと自分で決められるかどうか」
その言葉に、あかねの肩がわずかに震えた。
店内に流れていたBGMが、ふっと切り替わった。
穏やかなピアノの旋律が流れ出す。
それに背中を押されるように、あかねはそっと口を開いた。
「……怖いよ」
「うん。わかる」
「行ったところで、何も変わらないかもしれないし、
悠人の前で、なにかちゃんとしたこと言える自信もない」
「それでも」
結華が言った。
「それでも行かなきゃ、悠人はもう歌えないかもしれない。
あんたがいないと、たぶんあいつ、自分の“音”を失う」
あかねはカップを置き、しばらく俯いたまま動かなかった。
でもそのまま、小さく頷いた。
「……会いに行く」
「うん」
「もう一回、ちゃんと向き合う」
その声は、震えていた。けれど確かに、前を向いていた。
ホテルの部屋は静かだった。
小さなデスクと、白いベッドと、夜景の見える窓。
外は少し風が強いらしく、ガラス越しにごう、と音が鳴っていた。
あかねは、カーテンの端を指先でつまんだまま、じっと外を見ていた。
「……行く、って言ったけどさ」
ぽつりとこぼれた言葉に、誰も返事をする者はいなかった。
ホテルの壁は薄いけれど、今夜は隣の物音ひとつ聞こえない。
行くとは言った。結華の前では、うなずいた。
でも実際、何をどうすればいいのか、まだわからないままだった。
悠人に、何かを伝えたいのかどうか。
そもそも、会ってどうするつもりなのか。
あの手紙のあとで、どんな顔して立てばいいのか——全部、わからない。
カバンには、最低限の着替えとポーチ、そしてスマホだけ。
でもそのスマホは、ここ数日、一度も悠人の画面を開いていない。
《今から会える?》
《戻ってこいよ》
《どこにいるの?》
もしそんなメッセージが届いていたら、きっとわたしは、もっと早く崩れていた。
ベッドに腰を下ろして、背中を丸める。
照明は落とさず、そのまま毛布にくるまる。
「……やっぱり、わかんないな」
行くとは言った。でも、行ってどうするかは言ってない。
悠人に何か言える気がしない。言葉が浮かばない。
自分が何をしたいのか、何ができるのか、それすら曖昧なままだった。
でも、結華の言葉がずっと残っていた。
“行かないと、後悔すると思うよ”
そうかもしれない、とあかねは思っている。
だからこうしてホテルにいて、明日どう動こうか考えている。
考えてばかりで、答えは出ないけれど——それでも、動かなきゃと思っている自分がいる。
スマホを伏せて、あかねはそっと目を閉じた。
眠れるかどうかはわからない。
でも明日、もう一度だけ、自分の心と向き合おう。
何も決まっていなくても、何も言えなくても。
それでも、きっと。
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