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遠ざかる指先
いつも通りの朝
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小さなフライパンにじゅっと油をひいて、卵を二つ落とす。
白身が少しずつ固まっていく音が、静かなキッチンの中で唯一の動きだった。
「みさき、目玉焼き、半熟でよかったっけ?」
リビングから返事はない。
テレビの音も、物音もなかった。
「……起きてないか」
火を止めて皿に盛り、いつものようにテーブルに並べる。
卵の焼き加減は、自分のは少し硬め。美咲の分は黄身がとろっと崩れるくらいにしてある。
それはもう、習慣だった。
小さなトースターが「チン」と鳴って、パンが焼けた。
バターを塗って、コーヒーを淹れて、それでもまだ彼女は出てこない。
──今日で何度目だろう。
こうして、先に朝を迎えるのは。
けれど、それでもつい、「今日は何か違うかもしれない」って思ってしまう自分がいる。
おかしいな。
この“いつも通り”の朝が、もうずいぶん前から“違う”って、気づいてるくせに。
「……おはよ」
寝室から出てきた美咲は、グレーのスウェットに髪を無造作にまとめた姿だった。
目元にはまだ眠気が滲んでいて、けれどそれ以上に、どこか遠い人のように見えた。
「目玉焼き、半熟で焼いといたよ。パンも焼けてる」
俺がそう言うと、美咲は「うん、ありがと」とだけ返して、
テーブルに置かれたスマホを手に取った。
画面に指を滑らせながら、流れるようにカウンターへ腰かける。
目は、合わなかった。
「今日は何時に出る?」
「うーん……ちょっと早め。朝イチでプロジェクトの打ち合わせあるから」
「そうか」
それだけの会話。
会話、というより、ただの情報交換。
以前は、もっと言葉があった。
「今日のネイル、可愛いね」とか、
「昨日の夢がさ、めっちゃ変でさ」とか、
他愛ないやりとりが、テーブルの上を飛び交っていた。
今はそれが、どこにもない。
俺はコーヒーを一口飲み、美咲はスマホの画面を見つめたままパンに手を伸ばす。
その仕草が、誰かとLINEでもしているように見えて、
胸の奥に、名前のないざらつきが広がった。
「最近、帰り遅いよな」
そう言いかけて、飲み込んだ。
口にしたところで、彼女の表情が曇るのが目に浮かんだから。
問い詰めたいわけじゃない。
ただ、何を話せばいいのかが、もうわからなかった。
ふと、美咲の指が止まる。
一瞬だけこちらを見た――が、すぐに目をそらした。
「……あ、そろそろ準備しなきゃ。ありがとね、朝ごはん」
立ち上がる背中を、俺はただ見送る。
あの“ありがと”の言葉に、体温がこもっていないことを、
気づかないふりをするのにも、少し疲れてきていた。
洗面台の鏡に、二人分の歯ブラシが映る。
俺のは白、美咲のは薄いピンク。
いつから並んでいるのかも、もう覚えていない。
でも、この並びが変わることなんて、考えたこともなかった。
鏡の中の自分と、視線が合う。
なんとなく――疲れてる顔だな、と思った。
「……あのさ」
ふいに背後から、美咲の声。
振り返ると、彼女が少しだけ鏡越しに目を合わせた。
「今週末、ちょっと予定入っちゃったから、例の映画、延期でもいい?」
「ああ、うん。大丈夫」
すぐに返したけど、その“例の映画”は、
先週、美咲のほうから「絶対観に行こうね」って言ってたやつだった。
ほんの数秒の沈黙。
それから、美咲は髪をかき上げながら言った。
「最近バタバタでさ、ほんと余裕なくてごめんね」
「……ううん。無理しないで」
そう言いながら、俺はまた鏡に目を戻す。
そこには、目をそらしたまま歯を磨く彼女と、
何も言えないまま微笑んでいる俺が映っていた。
ほんの少し前まで、こんなやり取りでも笑えていたのに。
どうしてだろう。
今は、会話のたびに、心のどこかが冷えていく。
けれど、“それでも変わらない関係”でいたくて、
見なかったふりをする日々を、今日も続けていた。
白身が少しずつ固まっていく音が、静かなキッチンの中で唯一の動きだった。
「みさき、目玉焼き、半熟でよかったっけ?」
リビングから返事はない。
テレビの音も、物音もなかった。
「……起きてないか」
火を止めて皿に盛り、いつものようにテーブルに並べる。
卵の焼き加減は、自分のは少し硬め。美咲の分は黄身がとろっと崩れるくらいにしてある。
それはもう、習慣だった。
小さなトースターが「チン」と鳴って、パンが焼けた。
バターを塗って、コーヒーを淹れて、それでもまだ彼女は出てこない。
──今日で何度目だろう。
こうして、先に朝を迎えるのは。
けれど、それでもつい、「今日は何か違うかもしれない」って思ってしまう自分がいる。
おかしいな。
この“いつも通り”の朝が、もうずいぶん前から“違う”って、気づいてるくせに。
「……おはよ」
寝室から出てきた美咲は、グレーのスウェットに髪を無造作にまとめた姿だった。
目元にはまだ眠気が滲んでいて、けれどそれ以上に、どこか遠い人のように見えた。
「目玉焼き、半熟で焼いといたよ。パンも焼けてる」
俺がそう言うと、美咲は「うん、ありがと」とだけ返して、
テーブルに置かれたスマホを手に取った。
画面に指を滑らせながら、流れるようにカウンターへ腰かける。
目は、合わなかった。
「今日は何時に出る?」
「うーん……ちょっと早め。朝イチでプロジェクトの打ち合わせあるから」
「そうか」
それだけの会話。
会話、というより、ただの情報交換。
以前は、もっと言葉があった。
「今日のネイル、可愛いね」とか、
「昨日の夢がさ、めっちゃ変でさ」とか、
他愛ないやりとりが、テーブルの上を飛び交っていた。
今はそれが、どこにもない。
俺はコーヒーを一口飲み、美咲はスマホの画面を見つめたままパンに手を伸ばす。
その仕草が、誰かとLINEでもしているように見えて、
胸の奥に、名前のないざらつきが広がった。
「最近、帰り遅いよな」
そう言いかけて、飲み込んだ。
口にしたところで、彼女の表情が曇るのが目に浮かんだから。
問い詰めたいわけじゃない。
ただ、何を話せばいいのかが、もうわからなかった。
ふと、美咲の指が止まる。
一瞬だけこちらを見た――が、すぐに目をそらした。
「……あ、そろそろ準備しなきゃ。ありがとね、朝ごはん」
立ち上がる背中を、俺はただ見送る。
あの“ありがと”の言葉に、体温がこもっていないことを、
気づかないふりをするのにも、少し疲れてきていた。
洗面台の鏡に、二人分の歯ブラシが映る。
俺のは白、美咲のは薄いピンク。
いつから並んでいるのかも、もう覚えていない。
でも、この並びが変わることなんて、考えたこともなかった。
鏡の中の自分と、視線が合う。
なんとなく――疲れてる顔だな、と思った。
「……あのさ」
ふいに背後から、美咲の声。
振り返ると、彼女が少しだけ鏡越しに目を合わせた。
「今週末、ちょっと予定入っちゃったから、例の映画、延期でもいい?」
「ああ、うん。大丈夫」
すぐに返したけど、その“例の映画”は、
先週、美咲のほうから「絶対観に行こうね」って言ってたやつだった。
ほんの数秒の沈黙。
それから、美咲は髪をかき上げながら言った。
「最近バタバタでさ、ほんと余裕なくてごめんね」
「……ううん。無理しないで」
そう言いながら、俺はまた鏡に目を戻す。
そこには、目をそらしたまま歯を磨く彼女と、
何も言えないまま微笑んでいる俺が映っていた。
ほんの少し前まで、こんなやり取りでも笑えていたのに。
どうしてだろう。
今は、会話のたびに、心のどこかが冷えていく。
けれど、“それでも変わらない関係”でいたくて、
見なかったふりをする日々を、今日も続けていた。
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