お転婆姫と、騎士だった僕

おくなみ

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4章 後輩と僕

衝突

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時刻は午後6時58分。
社内にはすでに退勤ムードが漂い、あちこちから「お先に失礼します」の声が聞こえる。

でも──はやとはまだ、自席にいた。

目の前のモニターには、Excelで組まれた引き継ぎ用の進捗表。
そのすぐ隣には、疲れた顔で目を落とす後輩──みくの姿。

「……すみません、何度も確認してもらって。もう少しでまとめ終わりますので……」

「ううん、大丈夫。焦らなくていいよ」

自然と出たその言葉は、どこか空元気に近かった。

(……今日、めいと約束してたわけじゃないけど……できれば、少しでも会いたかったな)

そう思いながら、スマホに目を落とす。
LINEのトーク画面には、昨日の短いやり取りが表示されたままだ。

はやと「明日、時間ある?」
めい「ごめん、ちょっと疲れてて」

それ以上の会話はなかった。
たったそれだけなのに、妙に重たく感じたまま一日を過ごしていた。

はやとは、スマホを持ち直して──静かに指を動かす。

「ごめん、今日ちょっと遅くなりそう。」

一度送ろうとして、やめた。

一言だけだと、なんだか他人行儀な気がした。
どうしてこんなに慎重になってるんだろう。そう思いつつ、続きを打つ。

「みくちゃんが明日から出張で、その引き継ぎを手伝ってる。
もう少しで終わると思うけど、終電近くなるかもしれない。
今日、あまり連絡できないかも。」

──送信。

ほんの一瞬、躊躇はあった。
“みく”という名前を出すかどうか、迷った。でも、嘘はつきたくなかった。

(ちゃんと話せたし、もう大丈夫なはず……)

そんな期待にすがるような気持ちで、スマホを伏せた。

数分後──バイブが震える。

めいからだった。

たった一行。

「みくちゃんと仲良く朝まで楽しんで。」

瞬間、はやとの背筋に冷たいものが走った。

──これが冗談でないことくらい、すぐにわかった。

画面を見つめたまま、思考が止まる。

(……怒ってたんだ。まだ……ちゃんと、怒ってたんだ)

ようやく理解した。
これまでの、曖昧な態度。短い返信。会っても目を逸らされたこと。
全部──本当に、ちゃんと怒っていたということを。

今さらながら、胸の奥が強く痛んだ。

静まり返ったオフィスに、キーボードを叩く音だけが響いていた。

時計の針は、もうすぐ22時を指す。

はやとは目の前のファイルを一通り確認し終え、そっと溜息を吐いた。

「……一応、ここまでで大丈夫そうだよ。あとは明日の朝、まとめて見直せば」

「……ありがとうございます。助かりました」

みくが顔を上げた。
目の下にはうっすらと疲労の影。けれどその表情は、どこか申し訳なさそうだった。

「……ごめんなさい、私のせいで……予定、狂わせちゃいましたよね」

「……いや、そんなのはいいんだ。ただ……」

はやとは、みくの視線を正面から受け止める。
その一瞬だけ、静かな空気が流れた。

「みくちゃん、俺には、大切な人がいる。……たぶん、簡単にはわかり合えない人だけど、それでも……彼女と向き合いたい。ずっと」

その言葉に、みくはしばらく黙っていた。
そして、ほんの少し微笑んだ。

「……ですよね。うすうす、わかってました。
でも、ちゃんと聞けて、良かったです。……ありがとうございます」

「こっちこそ。ありがとう」

立ち上がったはやとは、鞄を肩にかけた。

「ごめん、俺……今から行かなきゃいけないとこがある」

「はい。……行ってください。ちゃんと、伝えてくださいね」

その背中を、みくは静かに見送った。

エレベーターに飛び乗る直前、はやとはスマホを確認した。
新着通知はなかった。でも──構わなかった。

(もう、誤魔化すのはやめる。ちゃんと伝えに行く)

そう心に決めて、ビルを飛び出した。

──その夜、都会のビルの谷間を、ひとりの男が駆けていた。

吐く息が白くなりはじめる夜道を、はやとは足早に歩いていた。

スマホの画面には、めいの名前。
何度も、LINEのトーク画面を開いては閉じ、メッセージを書いては消していた。

(こんなとき、どう言えばいいんだろう)

ただ謝るだけじゃだめだ。
でも、正直な気持ちを伝えることが、今は何よりも怖かった。

やがて、小さなマンションの前に立ち止まる。
オートロックのインターホンに指をかけるその手が、ほんの少し震えていた。

(怒ってるかもしれない。もう会いたくないって言われるかもしれない)

それでも、帰るわけにはいかなかった。

意を決してボタンを押す。

……ブーッという呼び出し音が鳴り、しばらくしてインターホン越しに、めいの声が聞こえた。

「……何?」

眠たげな、でもどこか張り詰めた声。

「……話したい。ちゃんと。……ダメかな」

少しの沈黙のあと、ブザーのロック解除音が鳴った。

ドアが開く。
めいは部屋着のまま、髪をゆるく結んで立っていた。

その表情は、無表情に近かった。
怒っているようでも、泣きそうなようでもない。ただ、何かを手放した人の顔。

(……あ、やばい)

はやとは、その表情を見た瞬間、直感で悟った。

彼女は「もう、なにも期待してない」そんな顔をしていた。

部屋に入ると、暖房のやわらかな空気と、ほんのりした紅茶の香りが出迎えた。
でも、それだけだった。
そこに「安心」はなかった。

めいはキッチンカウンターの前に立ったまま、はやとを見ようとしない。

「……で、なにを話すの?」

その声は、静かだった。でも確実に、冷えていた。

はやとは一歩だけ、彼女に近づいた。

「ちゃんと話したくて来た。……このまま、すれ違ったままでいたくなかった」

「……すれ違ってたの?」

めいはゆっくりと振り返る。
その目は、真っ直ぐにはやとを見ていた。
でも、どこか遠くを見ているようでもあった。

「私はね。……はやとがあの時、“もう大丈夫”って言った瞬間から、ずっと苦しかった」

「……ごめん。ほんとに……そう思い込んでた。勝手に」

「ううん、責めたいわけじゃない。……はやとが優しいのも、嘘つかないのもわかってる。でもね──」

「“みくちゃんと仲良く朝まで楽しんで”って言ったとき、なんで怒ってるのか、本気で分からなかったでしょ?」

はやとは言葉に詰まった。

(……ほんとに、わかってなかった)

「私ね、もう無理だなって思ってたの。ちゃんと怒ってるってわかってもらえないなら、たぶん……ずっと分かり合えないんだろうなって」

めいの声が震える。

「不安になって、傷ついて、でも我慢して……それでもはやとが好きで。でも、私は──」

「……何度も、自分の価値を測り直してた。
あの子より可愛くないかもしれないとか、社会人として劣ってるとか……全部比べて。勝手に劣等感に負けて……苦しかった」

はやとは、めいのそばに歩み寄った。
でも、彼女はその場から一歩も動かない。

「……でも、それでも俺が好きなのは、めいだよ。誰かと笑ってるだけで不安にさせてたなら、本当にごめん。でも、他の誰でもない、めいがいい」

「……それ、今ここで言ってどうするの?」

めいは静かに言った。

「私の中の何かは、もう壊れかけてるよ」

その声は、涙を流しているわけでも、怒鳴っているわけでもなかった。
ただ、心のどこかで、何かが音を立てて崩れていくのを、彼女自身が感じている──そんな声だった。

「……それ、今ここで言ってどうするの?」

めいの声は、張りつめていた。
今にも涙がこぼれそうなのに、必死にそれを押し殺している。

「わたしが、どんな思いであの動画を見たと思ってるの?
隣に知らない女の子が座ってて、笑ってて──
しかもそれが、たまたま私の知ってる先輩のストーリーに映ってて……!」

声が震えた。息が詰まって、言葉が切れそうになるのを、歯を食いしばって抑えていた。

「一言でも、あの子の名前を出された瞬間、頭の中ぐちゃぐちゃになって。
私のほうが彼女面してるみたいで、みっともなくて、惨めで……!」

はやとは、何も言えなかった。

めいは、涙で滲んだ目で睨みつけた。

「ずっと我慢してた。
“そんなの気にしすぎ”って自分に言い聞かせて、
“信じてるから大丈夫”って何度も思おうとしたよ!」

「でも……でも、無理だった……!」

叫びにも似た声だった。

「……だって、わたし……はやとのことが、好きだから……
誰かと笑い合ってるだけで、もう、胸がぐちゃぐちゃになるくらいには、好きだから……!」

その瞬間、はやとは胸の奥を殴られたような気がした。

(……こんなに、想われてたんだ)

めいは目をそらして、ぽつりとこぼした。

「好きだから、苦しいんだよ……」

泣きながらも、好きと言ってくれた。
怒りと哀しみと、愛しさと、全部混ざった声で。

だからこそ、はやとは彼女のそばに歩み寄った。

「……ごめん。俺、ほんとに最低だと思う。でも、ひとつだけ言わせて」

「──俺も、めいが好きだ。誰より、何より、ずっと」

「だから、離れたくない。どれだけ怒ってても、泣いてても、嫌いになっても……
俺のこと、もう見たくないって言っても、俺はここにいる」

「めいが好きだから、絶対に離れない」

めいは泣きながら、肩を震わせたまま、はやとの胸に倒れ込んだ。

「……ほんとに、バカ」

そう言って、はやとのシャツをぐしゃっと握った。

「……でも、バカなはやとが、いちばん好き」

ふたりは、泣きながら、壊れかけた心を抱きしめ合った。
簡単には戻らない。けれど、壊れないと信じた夜だった。




カーテンの隙間から、やわらかな朝日が差し込んでいた。

めいの部屋。
くしゃくしゃの布団の中で、ぐるぐる巻きになっているのは、めいのほうだった。

「……うぅ……」

寝言みたいな声とともに、布団の山がもぞもぞと動く。

はやとは、少し離れた場所で横になりながらそれを見ていた。

(……あれだけ泣いたのに、なんだこの寝相……)

そう思いつつ、どこか安心している自分がいた。

「……ん~……さむい……」

布団から顔だけを出しためいが、くしゃくしゃの髪のまま、目をぱちくりさせる。

「……おはよ、めい」

「……ん~……おはよう……。……って、はやと、まだいたの?」

「……まだいたって。おれ、出てけって言われてないし」

「ふーん……。ま、いいけど」

ぶすっとした表情で、めいは仰向けになって足をばたばたと動かす。

「……なんかムカつくんだよな~……なんか……昨日のこととか思い出してたら……もーっ!」

ばしん、と自分の枕を叩いたあと、勢いよくはやとの顔を見た。

「ねぇ、ほんとに離れないって決めたんだよね?」

「もちろん。何回でも言うけど、ぜったい離れないよ」

「ふーん……じゃあ、あたしがいきなり“●●くんと朝まで飲んできた~!”って言っても平気?」

「内心は地獄だけど、たぶん笑う努力はする」

「わっはは、だよね~! はやとの顔すーっごい歪みそう! ぷっ……あははっ!」

めいは、布団を抱えてそのまま大笑いし始めた。

笑いながら涙がにじんだのは──たぶん、まだちょっとだけ悔しかったから。

でも、笑えてる。
それが、めいにとっての“仲直り”だった。

「じゃあ……お腹すいた。なんか作って」

「え、朝から元気すぎじゃない?」

「うるさい。お姫様はお腹がすいたの!」

腕を広げて「さぁ、運べ」とばかりに仁王立ちする姿に、
はやとは思わず笑ってしまった。

──いつもの、めいだ。

これからも、何度でもこうして笑わせたいと思った。
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