健多くん

ソラ

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番外編

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狭山透。サヤマトオル。さやま、とおる。

何度その名前を確かめても、それは間違いなく彼の名前だった。

あの、非常勤講師だった彼の名前。

大学3年目の春に渡されたゼミの振り分け表を見て、俺は愕然とした。

学籍番号A6647松森幸多、狭山透ゼミ。
ゼミの振り分け表が配られ、周囲の生徒からも喜びや落胆の声が聞こえる。

信じられない。

俺は違う先生のゼミを希望していた。
それこそ狭山先生のゼミなんて、第五希望まである用紙のマスを埋めるための一番最後、第五希望の欄に書いてみただけだ。

なのに、それまでの第四希望すべてに落ちて、俺は狭山ゼミに登録されてしまった。
いくら卒業論文のテーマでゼミが振り分けられるからといって、これはあんまりだ。

「うえー・・・どうしよー」

ガックリと肩を落とした俺の横で、第一希望のゼミにちゃっかり入った鳴人が言う。

「付き合ってみれば案外いい先生かもしれないだろ」

「だとしても!なんで今年から常勤になるんだよー」

学科を受け持っている先生ならそれなりに面識もあるし、俺は自分でもそこそこ目立っていた自覚もあるので、ゼミに入ってもうまくなっていけただろう。

でも狭山先生は違う。
ただでさえ話したこともないし、それに近づきがたい。

彼が常勤になり、ゼミを受け持つようになった年に俺がゼミに入るなんて、運が悪いとしか言いようがなかった。

しかしそんなことを言っていたってゼミの初日はやってくる。

途中の廊下で鳴人と別れて、俺は同じゼミになった友人たちと一緒に狭山先生の研究室へ向かった。

「あれ?いないのかなぁ」

彼が非常勤のときから自分は狭山ファンだと言い続けている女の子の一人が、研究室の入口のプレートを見て呟く。

たしかにそのプレートは『外出中』にかけかえられていた。

「まだあと5分あるもんね。ここで待ってよっか」

その言葉にそれぞれ頷き、とりとめのない会話を交わしながら俺たちは先生が帰ってくるのを待つ。

しかし授業が始まっても彼の姿は見えず、それからさらに10分が経過しようとしていた。

「来ないね。誰か連絡受けてる?」

ゼミの登録時に俺たちは自分のケータイのアドレスを先生に渡している。
もしゼミ以外の時間に何か連絡事項があれば、そのアドレスに用件が一斉送信される手筈になっていた。
みんなそれぞれのケータイを見て、やっぱりメールが届いていないことを確認する。

「忘れてたりして」

誰かがボソッと囁き、俺たちは笑った。
先生が忘れていて授業がないのは構わないけど、このまま30分以上待たされるのは勘弁してほしい。俺たちの学校では30分以上講師が教室に現れないとき、生徒は帰ってもいいことになっている。

「ノックしてみたら案外中にいるかもよ?」
「そうだね」

俺の言葉に頷いた女の子が、控えめに扉をノックする。

「せんせー。狭山せんせー?」

静かな廊下にしばらく呼びかける声が続いて、やっぱり中にはいないかとみんなが諦めたその時。
ガチャ。

「「「あ」」」

ドアノブがゆっくりと回り、研究室から狭山先生が顔を出した。
しかも、どう見ても寝起きの顔で。

「・・・悪い。寝てた」

「・・・・・ぶッ!」

そのあまりに間抜けさに、耐えきれなくなた俺はついに噴き出した。それに続いてみんなが爆笑する。
ひーひーと腹を抱えて笑いまくる俺たちに気まずそうな顔を見せながら、先生は研究室の扉を大きく開く。
そして手で扉を抑え、すっと招き入れる仕草をした。

「お待たせしました。ようこそ狭山ゼミへ」

それが彼の精一杯のユーモアだと気づいたのは、俺たちがたっぷり5分間は笑い転げた後だった。

どうやら先生は、前の時間に講義が入っておらず、思わず寝入ってしまったらしい。

いま自分がやっている研究が大詰めを迎え、連日徹夜続きだったからしょうがなかったと説明していた。

「だからって仕事中に寝ないでください」

俺がそう言うと、彼は苦笑しながらまた謝った。
それから俺たちはどのゼミよりも講師と仲良く、協力しあってやっていったと思う。

週に一度のゼミでみんなと授業をするのは楽しかったし、なによりあの無口で無表情な先生のいろんな面を知っていくのは楽しかった。

他のゼミ生は相変わらず狭山先生を謎の人物だと思っているらしく、先生が俺の冗談で笑うような人だと教えてあげてもにわかには信じがたいようだった。

それでも俺はよかった。

先生の本当の顔は、俺たち彼のゼミ生だけのものだという気持ちもあった。

狭山先生の考え方は面白かった。

どんなことに対しても、他の人が注目するようなところを彼は見ていない。

万人に喜ばれるような陽気さを彼は持っているわけではなかったけど、独特なユニークさは、単調とも感じていた日常の中で俺の胸にするりと入り込んできた。

彼の見ている場所を、俺も見てみたい。

いつしかそんな欲求が、俺の胸の底でかすかに湧き始めていた。

その頃から俺は、講義の入っていない空き時間をたまに先生の研究室で過ごした。

最初は決めたばかりの卒論のテーマを相談しに行っただけだけど、遊びに来るだけでもいいと言われてからはしょっちゅう。

鳴人と一緒に受ける講義は少なかったし、ヒマ潰しには最適だった。

自分の研究が一段落ついてからの先生は時間的にも余裕があって、俺の話をよく聞いてくれる。

いつの間にか研究室には俺専用のマグカップが置いてあって、レポートを書くにも図書館よりずっと書きやすかった。

親しくなってくると、話は自然とプライベートなものになっていく。

高校の話、中学の話、そして父さんや家族の話も。
その時もう俺は父さんの話を笑ってできるくらいになっていた。

悲しみが薄れたわけじゃないけど、楽しかった思い出もたくさんあるし、それに母さんも健多もいるし。

狭山先生は俺の話を、あるときは笑いながら、またあるときは真剣に聞いてくれた。

いつの間にか一番の友人である鳴人より、俺は狭山先生との時間を心待ちにするようになっていた。

彼は今まで誰にも頼ることができなかった俺にとって兄のように感じられたし、大人の男の雰囲気にどこか父さんの面影を探していたからかもしれない。

とにかく心地よくて。

でも、自分の口からあんな言葉が飛び出すなんて、思ってもみなかった。
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