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第一次世界大戦と日本

5話 大正デモクラシーと政党内閣の成立

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日露戦争前後の政治は、藩閥、官僚勢力と、立憲政友会とが交互に政権を担当した。
しかし1912年、立憲政友会の内閣がたおされ、藩閥の桂太郎が首相になると、新聞や知識人は、藩閥をたおし、憲法に基づく政治を守ることをスローガンとする運動を起こした。(第一次護憲運動)。
民衆もこれを支持して運動が盛り上がったため、桂内閣は退陣した。
第一次世界大戦によって、日本経済は好況になった。(大戦景気)。
連合国やその植民地、アメリカへの工業製品の輸出が大幅に増える一方、大戦で欧米からの輸入が止まったことから、重化学工業を中心に新たな産業がおこり、工業国としての基礎が築かれた。
しかし、好況で物価が上がったために、民衆の生活は苦しくなり、さらに1918年、シベリア出兵を見こした米の買いしめから、米の値段が大幅に上がると、米の安売りを求める騒動(米騒動)が全国に広がった。
政府は軍隊を出動させて鎮圧した。
藩閥の寺内正毅内閣が米騒動によって退陣すると、原敬が内閣を組織した。
これは、陸軍、海軍、外務の3大臣以外は全て、衆議院第一党(最も議員数の数が多い政党)野立憲政友会の党員で組織する、本格的な政党内閣だった。
原は「平民宰相」と呼ばれ、選挙法を改正して選挙権を持つのに必要な納税額を引き下げたが、普通選挙に対しては時期的に早いとして消極的だった。
政党政治が発展した大正時代、特に第一次世界大戦後は、民主主義(デモクラシー)が強く唱えられた時期だった(大正デモクラシー)。
政治学者の吉野作造は、政治の目的を一般民衆の幸福や利益に置き、一般民衆の意向に沿って政策を決定することを主張し、普通選挙や政党が内閣を組織する政党内閣制の実現を説いた。
また、憲法学者の美濃部達吉は、主権は国家にあり、天皇は国家の最高機関として憲法に従って統治するという憲法学説(天皇機関説)を主張して、政党内閣制に理論的な根拠をあたえた。
二人の主張は、デモクラシーの思想を広めるうえで大きな役割を果たした。

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今回は、ありがとうございました。
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