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第六章 夢覺ませ

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 オウルーク・イクゥス‐ブレードはマルゴット・シュトローフェルドの青白くかすかに光る指を見ていた。大きな口が震えている。独り言のようにつぶやいた。
「では、ここも時間の問題だな。奴らとて馬鹿ではないし、あいつには薬品の書き付けを持たせてある。呪術文様を探そうとするだろう。探すものが分かっていれば早いはずだ」
 青い目をなかば閉じ、マルゴットは帰ってきた氷の霊光を吸収して光を失っていく指を愛おしむように握った。イクゥス‐ブレード様の言う通りだった。あの人は失敗したのだ。三度。そしてこの失敗は決定的な敗北だ。悲しい現実だった。また目を開く。
「どうなさいますか。トリーンを差し出して慈悲を乞いますか。まだ傷つけてもいませんし」
 麻痺したまま横たわる少女を見た。すやすやと機嫌よく眠っているようだった。
 トリーンを見下ろすオウルークのしわだらけの顔は色を失っていたが、肉襞の奥の目は、マルゴットの指の光が消えたというのに、まだ光を帯びていた。
「いや、むしろ計画を進める。いまトリーンを返したところでもはや我らの罪は消えぬ。わしはイクゥスとは言えブレードだ。家名を持つ貴族だった男だ。それが岩の牢になぞ閉じ込められてたまるものかよ」
「いまさら計画になんの意味があるのですか。呪術文様や黒麦を完成させたところで取り上げられるだけでしょう? この状況で実行したところでどんな利があると言うのですか」
 薄い口を震わせ、激しい口調だった。止めなければ。この老人は正気か、とすら思っていた。
「その目はわしの正気をお疑いですかな? ならばお答えしましょう。このイクゥス‐ブレード、すでに正気など捨てております。そもそも少女の魂を抜くという計画ですぞ。それにあなたもケラトゥスも乗ったのです。お分かりか? 皆それぞれの欲に正直に突き進んだまでです」
 両手で少女を抱き上げた。まるで物を持ち上げるようだった。止めなければ、と思ったし、わたしにはそうできるだけの力がある、と指を見たが、できなかった。そのかすかな視線さえ老人は見抜いた。
「撃ちますか。それも解決策ですな。わしは抵抗もできずに凍り付き、そして正常な毎日が戻ってくる。意味のない日々が……」
 もう聞いてはいられず、口をはさむ。
「黙れ! いや……失礼しました。しかし、中止すべきです。負けるにしても負け方があります。きれいに敗北すべきです。この子は無事なまま返しましょう。だいたい呪術文様があの有様では成功などおぼつかない。そうでしょう?」
 老人はマルゴットの言葉など聞いてもいないかのように生活区画を出た。後を追う。
「これは賭けだ。あのような状態の呪術文様が正常に動作し、黒麦の安価量産に成功する。その結果を知ったローテンブレード家は得られる利益を勘案し、われらを許し、相応の地位をもって報いる。この筋書き、乗りますか。マルゴットさん」
 歩きながら非現実的な、自分に都合のいいだけの夢物語を早口で話す。だが止められない。洞窟の壁は手をつくとじっとりと冷たかった。名前も分からない虫が這って逃げていく。狭い隠し通路を抜け、とぎれとぎれに光る線の呪術文様が一面を覆う部屋に入った。オウルークは文様の中央の円に麻痺したトリーンを降ろした。やはり荷物のようだった。
 そこではじめて振り向いた。松明の揺れる火で照らされ、目のある位置が陰になったせいでそこはただの黒い穴だった。
「返事は? 止めるならいまですよ。沈黙は同意です」
 老人の手が思ったより器用に線をつないでいく。そのたびごとに呪術文様は光を増していった。しかし薬品がぎりぎりであり、線そのものの損傷もあって光はまたたいていた。魔法使いとして見るならば良い兆候ではない。しかし、この程度であれば失敗するとも言えなかった。
 オウルーク・イクゥス‐ブレードは最後の線をつないだ。マルゴット・シュトローフェルドはなにも言わず、手も出さなかった。

 線の光がトリーンを包んだ。
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