思い出は小糠雨と共に

宮里澄玲

文字の大きさ
上 下
8 / 8

しおりを挟む
 
 出版社の担当編集者と打ち合わせが終わったのは夕方過ぎだった。
 実は、前に私が持ち込んだスウェーデンで人気のヤングアダルト小説のレジュメを読んだ編集者が、これは日本でも売れるかもしれない、と言ってくれ、すぐに版権を取り、私の翻訳で出版が決まったのだった。作品の分量などから判断して2ヶ月ほどで翻訳を仕上げなければならなかった。その後校正などの色々な段階を経て、9月頃に書店に並ぶ予定だ。正直タイトなスケジュールではあるが、滅多にないスウェーデン作品の翻訳とあって私はやる気に満ちていた。
 倉光堂という大きな老舗の文房具店で買い物をした後、私はふと、そういえば夜にあの店に行ったことなかったな、と思い、時間を確認してから店に向かった。
 
 いらっしゃいませ、と柔らかい声と笑顔で出迎えてくれたのは、以前一度だけ昼間にいた若い女性だった。
 まだ5時過ぎだったため、他にお客はいなかった。あなたは来ないだろうと思い、私はカウンター席に座った。
 女性が水のはいったグラスを置くと、マスターが出てきて、いらっしゃいませ、と挨拶した後、夜の営業時間に来ていただくのは初めてですね、と言った。私は、仕事の帰りなんです、と答えた。
 ――そうですか。繭子、こちらのお客様はいつもよく土曜日のランチタイムに来てくれるんだよ。
 ――ですよね! 前に私が昼間入った時いらっしゃいました。いつもありがとうございます!
 私は驚いた。この女性がいる時に来たのは一度だけなのに私のことを覚えていてくれたなんて…。
 ――紹介します、妻の繭子です。彼女は夜の方を担当しています。
 ――繭子と申します。よろしくお願いいたします。
 繭子と名乗った女性が丁寧に頭を下げた。
 思った通りやはり彼女はマスターの奥様だった。2人は結婚してまだ半年ほどだという。新婚ホヤホヤだ。いつもは夜のみ店を手伝っているとのことだが、以前私が土曜日の昼間に行った時に店にいたのはたまたま昼のパートさんが急病で休んだからだそうだ。確かに、昼はいつもマスターと60代くらいの上品な雰囲気の女性だった。だが、夜に店に出るのはこの週末までになるという。理由を聞くと子供ができたからだと教えてくれた。私が、それはおめでとうございます、お体に気をつけてお過ごしくださいね、と言うと、繭子さんが、ありがとうございます、と少しはにかんだ。そして、マスターが調理場の方に姿を消すと小声でこそっと言った。
 ――本当はできるかぎり店を手伝いたかったんですが、妊娠が分かった途端、一平さんがもうこれからは店に出るな、とにかく安静にしてろって、うるさくてうるさくて。それで、来週から新しいアルバイトの男の子が来てくれることになったので仕方なく私は引っ込むことになりました。 
 ちなみに一平さんというのはマスターのことだ。 
 ――そうですか。マスターはそれだけ心配なんですよ。お優しい、素敵な旦那様ですね。
 ――私はこうやって仕事をしている方が楽なんですけどね。
 そんな風に言いながらも彼女は夫の優しさや思いやりを本当はとても嬉しく思っているのがこちらに伝わってきた。 

 その後、常連客らしい男性や女性の一人客がそれそれ入ってきて、繭子さんは楽しそうに彼らとおしゃべりをしていた。
 それからは客足は途絶えた。調理場の方から手の空いたマスターが熱いコーヒーが入ったマグカップを手にカウンターに出てくると、繭子さんに、気分悪くないか、辛かったら座ってろ、とか声を掛けた。彼女は笑いながら、大丈夫だから! もう~心配性なんだから、と彼の腕を軽く叩いた。とても微笑ましい光景だった。おそらくマスターの方がかなり年上で、しかも初めての子供ということで、年下の可愛いらしい妊娠した奥さんのことが心配でたまらないといった様子がよく見て取れた。

 今夜来てよかった。あなたがいなくて残念だったが、マスターと繭子さんと楽しくおしゃべりできた。繭子さんが店に出なくなるのは寂しくなるが、この店が大好きなので子供が生まれたら絶対にまた復帰しますから!と元気いっぱいに言っていたので私もまた会えるのを楽しみにしながらこれからも店に通い続けよう。 

しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...