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グンナイベイビー7
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「是非是非、サービスしますよ。ネタは自信があります」
「そうあの店なら繁盛しそうですね。どうです担保にしたら、残り百万ですから無理せず月々二万、五年で返済出来る」
即契約となった。
「入居は何時ですか?」
「はいもう明日からでもと考えています」
善三と茉奈は見つめ合った。
「熱い熱い」
夫人が笑いながら言った。
「それで茉奈、良太が本当にそんなこと言ったのか?」
「そうなのよ、あたしもおかしいと思ったけど良太が頭下げてお願いするのよ」
二入は序に観音参りをしようと階段を上りながら話していた。
「よし、明日俺からもう一度良太に確認してみよう」
二人は観音様に参詣した。
「この幸せがずっと続きますように」
茉奈は善三の手を握った。
「恥ずかしいよ茉奈」
「いいの」
握った手を大きく振って階段を下りた。
「俺、板前になろうかな」
チンピラグループの中野が突然言い出した。
「どうしたんだ中野、お前やくざ目指してんじゃねえのか?」
西尾が驚いた。
「俺さ、やくざやってく自信ないんだ」
「どっちかったらやくざより板前の方が修業がつらいんじゃねえの」
畑崎が言うと今井も同調した。
「そうだよお前、やくざはこのままでなれるんだよ、板前は何年も修行しねえとなれないよ。同じ刃物でも使い方違うしよ」
西尾が買ったばかりのジャックナイフを見せびらかした。
「俺さ、今夜また行くよ一心に。大将にお願いして一から板前修業する」
「お前、中村さんに言わねえとまずいだろ。中村さんお前のこと買ってるし」
中野グループは大園興行の中村の下についている。現役の暴走族で大園興行に籍を置いている。中村は暴走族グループ『阿修羅』のリーダーで中野が副をを務めている。中野の車はセリカLB、しゃこたんでオーバーフェンダー、スリックタイヤ、通称『ガマガエル』の異名を取っている。
「中野それじゃ阿修羅も辞めんのか?」
「ああ、辞める。お前等の誰かに副を譲る」
「中村さん認めてくれるかな。絞められそうだな」
「土下座してでも認めてもらう。殴られても蹴られても、切り傷や腫れならいつかは治るから」
「よし、お前がそこまで言うなら俺も協力する」
大親友の畑崎が中野の肩を叩いた。
「お前等はどう?」
「俺は中野に悪いけど阿修羅に残る」
「俺もそうする」
今井と西尾が一線を画した。
「俺は中村さんに仲介して貰って大園興行に入る」
今井がやくざ路線を鮮明にした。
「今井、俺は止めた方がいいと思う、大園に入れば糞みそ虐められるぞ」
畑崎が止めた。
「俺はお前等とは違うよ。いっぱしになるよ。分家してシャブで稼ぐよ。お前等もそん時は仲間に入れてやるよ」
今井が笑った。
「俺等ぼちぼち行くぞ、エリーゼでタイムカード押さねえと中村さんにどやされる」
今井と西尾は純喫茶エリーゼに向かった。エリーゼはやくざの下っ端がチンピラや不良グループとの接触場所である。情報共有することで恐喝のチャンスを探る場である。午前十時に必ず顔見せする。それをタイムカードと呼ぶ彼等の符丁である。
「畑崎、お前も行けよ、俺といるとお前までとばっちり喰うぞ」
「実は俺もよ、不良辞めて親父の商売継ごうと考えてんだ。俺もやくざになる技量ねえし、パー券も売れねえしよ」
畑崎は中村から回されるパー券を捌き切れないでいた。高校生に金があるわけない、地元の粋がった職工や職人も安い賃金で働いていて一枚千円のパー券を買う余裕などない。売れ残りは身銭を切っていた。
「おふくろ可哀そうだしよ、親父と一緒に店先で畳針刺してりゃ喜んでくれる」
「俺と一緒に中村さんに挨拶に行こうぜ」
二人は今夜一心で待ち合わせをした。
リンカーンコンチネンタルは内堀通りを走っていた。そして近代美術館の駐車場に入れた。
「愛子様、ちょっと失礼します」
佐田は車から降りた。代官町通りまで出た。皇居に向かって深く頭を下げた。一分以上そのままの姿勢でいる。
「佐田さんも苦労なされたからね」
染が静かに言った。良太にはよく理解出来なかった。恐らく戦争に絡むなにかを皇居に向けて発信しているぐらいに感じていた。
「お待たせしました」
佐田が戻ってきてハンカチで目頭を拭いた。
「染さんは宜しいのかな?」
「ええ、私は少々恨みがございましてね。でも『東京だよおっかさん』が好きでずっと皇居に来たかった。こうして久しぶりに見るとあの方のご苦労も分かるような気がします」
佐田は頷いて微笑んだ。
「どうです愛子様、銀座でお食事でも」
「賛成です。ステーキ食いたい」
「まあはしたない、そんな言葉お使いになってはいけませんよ愛子様」
愛子と呼び捨てにされることは一度もなかった。良太にすれば残念であるがこの二人の立場からすれば仕方ないと諦めた。日本橋の駐車場に入れた。
「鰻はどうでございますか愛子様」
佐田は鰻が食いたいと懇願している。良太は分厚いステーキを思い浮かべていたが佐田の表情を見て諦めた。
「染さんはどうですか?」
「ええ、愛子お嬢様がご希望なら鰻でかまいません」
染も鰻が食いたかった。高島屋から路地に入ると老舗がある。既に並んでいる。数量限定のうな重を平らげた。
「はあっ幸せ」
染が愛子に礼を言う。
「お嬢さん、湘南でも飛ばしてから帰宅しますか」
若宮王路から海岸線を左折した。四月の空は霞んでいる。水平線まで見通せない。
「お嬢様、稲村ケ崎の別荘にお寄りいたしますか?」
佐田が良太に尋ねる。別荘があることなど愛子から知らされていない。
「はい、お願いします」
別荘なんて天国の話かと思っていた。良太は興味が湧いて行ってみたくなった。クリークを超えて右折し、稲村ヶ崎駅の踏切を過ぎてクランクした細い上り坂を行く。リンカーンコンチネンタルではギリギリである。そして一番の高台に停めた。佐田が鉄扉の錠を外して広大な敷地の中に車を入れた。重厚な
木製ドアを開けると少し黴臭かった。染が先に上がり窓と言う窓全てを開け放った。
「半年前に奥様と来ました。それ切りですからね」
染が良太に言った。良太は二階に上がった。ベランダに出ると相模湾が拡がっていた。江の島が見えた。江の島の奥に富士山が霞んでいた。庭には小さいがプールがある。水は濁っている。鳥が水浴びしている。城のように立派な自宅の他に、誰も入って来ない高台に同じように立派な別荘がある。良太は身体を汚して中古3Kマンションを購入しようとしている姉を思い浮かべた。不公平な感じがした。この世に生まれて来るときにスタートラインは同じなのだろうか。明らかに差がついている。それは運命なのだろうか。お金持ちに生まれればお金が入る仕組み。逆に貧乏な家庭に生まれれば金を失っていく仕組み。子に選択肢はない。引かれたスタートラインから始まるしかない。ただ良太と愛子ではその線の位置が見えないほど遠い。そして追い付くことは出来ない。いくら頑張っても先が見えてる自分がここにいた。
佐田はじっと後ろから愛子を見つめていた。いつもの愛子らしくない。
「愛子お嬢様どうなされました?」
佐田が声を掛けた。良太は笑って首を振った。
「そろそろ戻りましょうか。染さんがとっておきのローストビーフを作ってくれるそうですよ」
染が戸締りをした。
「佐田さん、うちには幾つ別荘があるんですか?」
「お忘れですかお嬢様、戸隠にログハウス、湯河原、立山と千葉の館山、そしてお嬢様が大好きな湯沢です。函館は老人ホームに改築いたしました」
良太は驚いて声にならない。佐田と染は見合って愛子の異常を感じていた。毎年季節ごとに家族で出掛けている別荘地、忘れるわけがない。そして自宅に戻る。シャワーを浴びダイニングルームに向かう。染の料理が並んでいる。
「愛子お嬢様と列席させていただきます。特別な日をありがとうございます」
佐田が愛子の椅子を引いた。愛子は右側から椅子に入った。おかしい、こんなマナー違反をすれば叱られる。物心ついたときから涵養された教育は絶対に間違えるはずがない。佐田はますます愛子を怪しく感じた。傘寿に近い佐田には若い頃には感じる事の出来なかった触れたり感じたりすることが出来るようになっている。それは仏となり神となる日が近くなるに伴い自然と授かる力である。『しょうがねえなあ』と若い者を諦めさせる力の延長である。染がローストビーフを運ぶ。
「愛子様お願いします」
ローストビーフは愛子がナイフを入れる担当である。良太は洋食のマナーなど知る由もない。幸子が作るカレーかチャーハンに定番の福神漬けを乗せて食べるぐらいである。良太は真ん中にナイフを差し込んだ。
「あなたは誰だ?」
佐田が良太を睨んだ。
「あ、愛子です」
「愛子お嬢様はそのようなマナー違反はしない。あたしはお嬢様が生まれるずっと前からこのお屋敷に勤めています。お嬢様の臍の右にあるハート形の黒子も撫ぜたことがある。あなたはお嬢様ではない。憑りついた狐か狸か」
佐田が厳しい表情をして言った。
「私もそう思います。愛子お嬢様が毎年楽しみにしている別荘休暇を忘れるわけないし、色々と言動もおかしい、はしたない。あなたはどなたですか?」
染も信用していない。
「言っても信用してくれるかな?」
良太は嘘吐きは嫌だった。それにこの二人を騙し続ける自信がない。普通の男子ではない、女には全く興味が湧かない、男のそれもマッチョをが大好きで興奮する。愛子は全くの逆パターン、お互いが同性を愛するマイノリティ、身体が入れ替わればその思いが遂げる、そう信じて抱き合った。それは神のお許しか悪戯か分からないがその願いが叶った。しかし現実はそう甘くない。
「言ってみなさい。身体は愛子お嬢様、心だけが迷われている何かに憑りつかれているのかもしれません。正直にお話しください」
染が良太の髪にやさしく触れた。
「私達は悲惨な戦争を体験しています。染さんは銃後で空襲を受けています。家族も家屋も失った。私は南方で飢餓を体験しました。地獄です、あの地獄絵と何も変わらない風景が毎日続く。その中で亡霊も悪魔も見ました。大概のことでは驚きません。さあ、話してください。本当のお嬢様は何処におられるのか」
佐田は信用してくれるかもしれない。だが愛子になんと説明したらいいのだろうか迷った。それでもこの二人は許してくれないだろう。
「僕の名前は丸山良太と言います」
二人が仰け反った。佐田がナイフを手にした。
「丸山良太様と言うと空手道場の幼馴染でございますね、お嬢様から伺っております」
染も佐田も良太の名だけは聞いて知っていた。
「僕は男性が好きなんです。女性に興味が無いんです。逆に愛子は男性に興味がない、ある女性に好意を抱いています。これは事実です。信じていただくより説明がつきません」
良太ははっきりと明かして少し気持ちがすっきりした。
「それで愛子お嬢様はどちらに?」
「僕と入れ替わり僕んちで生活しています」
佐田と染は見合わせた。普通なら信用されない話だが二人はそれなりに理解していた。
「愛子様は幼い頃より茶目っ気がありました。もしかしたらそのようなお気持ちの持ち主かとご推察しておりました。それでも年頃になれば気が変わるのではないかと奥様にもご主人様にもお話しておりません。私の責任です」
染は反省した。
「それで丸山様、元に戻す術がお有りですか?お互いのためにも戻ることをお薦めします」
佐田がお願いした。
「明日愛子と相談します。それまで待ってくれませんか」
良太は二人に一礼した。染さんがローストビーフを切り出した。
「丸山様、愛子様がご無事で安心しました。もしあなた様に喰われてしまったならこのナイフで刺し殺すつもりでいました。失礼しました。丸山様と愛子お嬢様の事承知しました。あなたにはひとつ借りが出来ました。一日を有意義に過ごさせていただきました」
「佐田さん、染さん、嘘を吐いてごめんなさい。白状してすっきりしました。お二人が信用してくれなければ逃げ出そうと考えていました。その前に佐田さんに殺されていたかもしれませんけど」
愛子が無事と聞いて二人は一先ず安心した。
「そうあの店なら繁盛しそうですね。どうです担保にしたら、残り百万ですから無理せず月々二万、五年で返済出来る」
即契約となった。
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「それで茉奈、良太が本当にそんなこと言ったのか?」
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二入は序に観音参りをしようと階段を上りながら話していた。
「よし、明日俺からもう一度良太に確認してみよう」
二人は観音様に参詣した。
「この幸せがずっと続きますように」
茉奈は善三の手を握った。
「恥ずかしいよ茉奈」
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握った手を大きく振って階段を下りた。
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チンピラグループの中野が突然言い出した。
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西尾が驚いた。
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「どっちかったらやくざより板前の方が修業がつらいんじゃねえの」
畑崎が言うと今井も同調した。
「そうだよお前、やくざはこのままでなれるんだよ、板前は何年も修行しねえとなれないよ。同じ刃物でも使い方違うしよ」
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「俺さ、今夜また行くよ一心に。大将にお願いして一から板前修業する」
「お前、中村さんに言わねえとまずいだろ。中村さんお前のこと買ってるし」
中野グループは大園興行の中村の下についている。現役の暴走族で大園興行に籍を置いている。中村は暴走族グループ『阿修羅』のリーダーで中野が副をを務めている。中野の車はセリカLB、しゃこたんでオーバーフェンダー、スリックタイヤ、通称『ガマガエル』の異名を取っている。
「中野それじゃ阿修羅も辞めんのか?」
「ああ、辞める。お前等の誰かに副を譲る」
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大親友の畑崎が中野の肩を叩いた。
「お前等はどう?」
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「俺もそうする」
今井と西尾が一線を画した。
「俺は中村さんに仲介して貰って大園興行に入る」
今井がやくざ路線を鮮明にした。
「今井、俺は止めた方がいいと思う、大園に入れば糞みそ虐められるぞ」
畑崎が止めた。
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今井が笑った。
「俺等ぼちぼち行くぞ、エリーゼでタイムカード押さねえと中村さんにどやされる」
今井と西尾は純喫茶エリーゼに向かった。エリーゼはやくざの下っ端がチンピラや不良グループとの接触場所である。情報共有することで恐喝のチャンスを探る場である。午前十時に必ず顔見せする。それをタイムカードと呼ぶ彼等の符丁である。
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畑崎は中村から回されるパー券を捌き切れないでいた。高校生に金があるわけない、地元の粋がった職工や職人も安い賃金で働いていて一枚千円のパー券を買う余裕などない。売れ残りは身銭を切っていた。
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佐田が戻ってきてハンカチで目頭を拭いた。
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「賛成です。ステーキ食いたい」
「まあはしたない、そんな言葉お使いになってはいけませんよ愛子様」
愛子と呼び捨てにされることは一度もなかった。良太にすれば残念であるがこの二人の立場からすれば仕方ないと諦めた。日本橋の駐車場に入れた。
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佐田は鰻が食いたいと懇願している。良太は分厚いステーキを思い浮かべていたが佐田の表情を見て諦めた。
「染さんはどうですか?」
「ええ、愛子お嬢様がご希望なら鰻でかまいません」
染も鰻が食いたかった。高島屋から路地に入ると老舗がある。既に並んでいる。数量限定のうな重を平らげた。
「はあっ幸せ」
染が愛子に礼を言う。
「お嬢さん、湘南でも飛ばしてから帰宅しますか」
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「お嬢様、稲村ケ崎の別荘にお寄りいたしますか?」
佐田が良太に尋ねる。別荘があることなど愛子から知らされていない。
「はい、お願いします」
別荘なんて天国の話かと思っていた。良太は興味が湧いて行ってみたくなった。クリークを超えて右折し、稲村ヶ崎駅の踏切を過ぎてクランクした細い上り坂を行く。リンカーンコンチネンタルではギリギリである。そして一番の高台に停めた。佐田が鉄扉の錠を外して広大な敷地の中に車を入れた。重厚な
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佐田はじっと後ろから愛子を見つめていた。いつもの愛子らしくない。
「愛子お嬢様どうなされました?」
佐田が声を掛けた。良太は笑って首を振った。
「そろそろ戻りましょうか。染さんがとっておきのローストビーフを作ってくれるそうですよ」
染が戸締りをした。
「佐田さん、うちには幾つ別荘があるんですか?」
「お忘れですかお嬢様、戸隠にログハウス、湯河原、立山と千葉の館山、そしてお嬢様が大好きな湯沢です。函館は老人ホームに改築いたしました」
良太は驚いて声にならない。佐田と染は見合って愛子の異常を感じていた。毎年季節ごとに家族で出掛けている別荘地、忘れるわけがない。そして自宅に戻る。シャワーを浴びダイニングルームに向かう。染の料理が並んでいる。
「愛子お嬢様と列席させていただきます。特別な日をありがとうございます」
佐田が愛子の椅子を引いた。愛子は右側から椅子に入った。おかしい、こんなマナー違反をすれば叱られる。物心ついたときから涵養された教育は絶対に間違えるはずがない。佐田はますます愛子を怪しく感じた。傘寿に近い佐田には若い頃には感じる事の出来なかった触れたり感じたりすることが出来るようになっている。それは仏となり神となる日が近くなるに伴い自然と授かる力である。『しょうがねえなあ』と若い者を諦めさせる力の延長である。染がローストビーフを運ぶ。
「愛子様お願いします」
ローストビーフは愛子がナイフを入れる担当である。良太は洋食のマナーなど知る由もない。幸子が作るカレーかチャーハンに定番の福神漬けを乗せて食べるぐらいである。良太は真ん中にナイフを差し込んだ。
「あなたは誰だ?」
佐田が良太を睨んだ。
「あ、愛子です」
「愛子お嬢様はそのようなマナー違反はしない。あたしはお嬢様が生まれるずっと前からこのお屋敷に勤めています。お嬢様の臍の右にあるハート形の黒子も撫ぜたことがある。あなたはお嬢様ではない。憑りついた狐か狸か」
佐田が厳しい表情をして言った。
「私もそう思います。愛子お嬢様が毎年楽しみにしている別荘休暇を忘れるわけないし、色々と言動もおかしい、はしたない。あなたはどなたですか?」
染も信用していない。
「言っても信用してくれるかな?」
良太は嘘吐きは嫌だった。それにこの二人を騙し続ける自信がない。普通の男子ではない、女には全く興味が湧かない、男のそれもマッチョをが大好きで興奮する。愛子は全くの逆パターン、お互いが同性を愛するマイノリティ、身体が入れ替わればその思いが遂げる、そう信じて抱き合った。それは神のお許しか悪戯か分からないがその願いが叶った。しかし現実はそう甘くない。
「言ってみなさい。身体は愛子お嬢様、心だけが迷われている何かに憑りつかれているのかもしれません。正直にお話しください」
染が良太の髪にやさしく触れた。
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佐田は信用してくれるかもしれない。だが愛子になんと説明したらいいのだろうか迷った。それでもこの二人は許してくれないだろう。
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二人が仰け反った。佐田がナイフを手にした。
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染も佐田も良太の名だけは聞いて知っていた。
「僕は男性が好きなんです。女性に興味が無いんです。逆に愛子は男性に興味がない、ある女性に好意を抱いています。これは事実です。信じていただくより説明がつきません」
良太ははっきりと明かして少し気持ちがすっきりした。
「それで愛子お嬢様はどちらに?」
「僕と入れ替わり僕んちで生活しています」
佐田と染は見合わせた。普通なら信用されない話だが二人はそれなりに理解していた。
「愛子様は幼い頃より茶目っ気がありました。もしかしたらそのようなお気持ちの持ち主かとご推察しておりました。それでも年頃になれば気が変わるのではないかと奥様にもご主人様にもお話しておりません。私の責任です」
染は反省した。
「それで丸山様、元に戻す術がお有りですか?お互いのためにも戻ることをお薦めします」
佐田がお願いした。
「明日愛子と相談します。それまで待ってくれませんか」
良太は二人に一礼した。染さんがローストビーフを切り出した。
「丸山様、愛子様がご無事で安心しました。もしあなた様に喰われてしまったならこのナイフで刺し殺すつもりでいました。失礼しました。丸山様と愛子お嬢様の事承知しました。あなたにはひとつ借りが出来ました。一日を有意義に過ごさせていただきました」
「佐田さん、染さん、嘘を吐いてごめんなさい。白状してすっきりしました。お二人が信用してくれなければ逃げ出そうと考えていました。その前に佐田さんに殺されていたかもしれませんけど」
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✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
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