洪鐘祭でキス

壺の蓋政五郎

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洪鐘祭でキス 2

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「皇帝萬歳、重臣千秋、風調雨順、国泰民安」
 相馬が謳うように読み上げた。
「先生意味は?」
「皇帝萬歳のこの皇帝とは天皇を指す。天皇の世がいつまでも栄えることを祈っている。重臣とは国を司る人達で当時彼等の時代が長く反映すること願っている。雨風が穏やかで災害がないよう、そして国も民百姓の安全を祈願しているんだよ。中国から来たお坊さんだから天皇と彫らずに皇帝としたんだろうなあ。この辺が面白い」
 頭を捻る雅恵を尻目に相馬はニヤニヤしている。
「ふ~ん。先生あのぼつぼつは何?」
「あれは乳とかいてチと言う」
 雅恵より洪鐘に興味を持つ相馬が腹立たしかった。
「鐘の音を聴いてみたいな」
 相馬が独り言のように溢した時だった。
「あっ」
 雅恵が鐘に近寄る男に気が付いた。
「先生、もしかして」
 その男は浴衣を端折り、鉢巻きをしている。足元は丘足袋を履いている。帯を襷に掛けて袂を絞った。
「鐘を突くんだよ多分」
 相馬が興奮している。男は橦木を揺らした。二度引いて三度目を大きく引いた。そして打ち鳴らした。700年の時を超えた鐘の音が空気を震わす。次元 の境が交じり合う。混じり合う場所は危険である。もとに戻るときに異次元に引き摺り込まれてしまうことがある。男は一回だけ突いて弁天堂の中に消えた。雅恵と相馬は知らぬうちに抱擁し唇を重ねていた。鐘の音が静まると次元の境が元に戻った。二人は慌てて身体を離した。
「すまん、一瞬鐘の音と共に意識を失い雅恵を抱いていた。許してくれ、嘘じゃない」
 相馬が慌てている。
「先生も?あたしもそう、鐘の音で空気が揺れたの。そしたら先生と抱き合っていた」
 二人共嘘を吐いていない。雅恵は相馬が嘘を吐いていてもよかった。むしろその方が嬉しかった。

 雅恵が前屈みの姿勢で階段を上り切った。息を切らし最上段に腰を下ろした。昭和40年、相馬が腰を下ろした場所と同じである。
「おばあちゃん、コーヒーでいいの?」
「ああ、冷たい奴にしておくれ」
 愛は汁粉とぜんざいとどっちにするか迷っていた。
「ぜんざいください」
「いい景色だねえ」
「元カレと来たときもここでコーヒー飲んだの?」
「当時はこのお茶屋さんはまだなかった。でも景色は変わらない」
 雅恵ははるか下の山ノ内を眺めていた。愛が注文したぜんざいが来た。
「これ愛、先に弁天様に手を合わせなきゃ罰が当たるよ」
 雅恵が立ち上がると愛も仕方なく手にしたぜんざいをテーブルに戻した。雅恵は相馬と並んで手を合わせたことを想い出していた。祈りは三つで最後のひとつは教えてくれなかった。
「この弁天様は江の島の弁天様と深い関りがあるんだよ」
 雅恵は60年前に祈った。『相馬先生と結婚出来ますように』を『相馬先生と今度の洪鐘祭で再会出来ますように』とかえて手を合わせた。
「おばあちゃん、何てお祈りしたの?」
「人の祈りを聞くもんじゃないよ」
「先生と会えますようにでしょ?」
 愛に見破られて雅恵は驚いた。
「どうして分かったんだい?おばあちゃんが声を出したのか?」
 そこまでぼけているつもりはないが、心の中で祈ったことが声に出ていても不思議はない。最近独り言が多く、家族から『呼んだ?』とよく勘違いされていた。
「引っ掛かったおばあちゃん」
 愛がカマを掛けたのである。
「この子は悪い子だよ」
 口とは裏腹に雅恵は嬉しかった。当時の雅恵と同学年の愛が慕ってくれている。愛が誰に似たかと言うと誰もが雅恵だと言う。
「おばあちゃん、ぜんざい醒めちゃう」
「はいはい、いただきましょう」
 二人は茶屋のテーブルに着いた。対面の山には遅咲きの山桜が見頃を迎えている。
「おばあちゃん、元カレの名前を教えて?」
「相馬哲也、哲学の哲にナリだよ。そんなこと訊いてどうするの?」
「取り敢えずストレートにSNSに上げてみる」
 雅恵が愛のスマホを覗き込んだ。
「ほら、もうツイートがあるよ」
 みるみるうちに各地の相馬哲也が名乗りを上げた。しかしそのほとんどが顔を隠した嘘吐きである。
「信用してもいいのかい?」
「うんう、この中からこれだと思うのだけをピックアップするの。よしこれでいいと」
「凄いね、あたし等がお前の時分にはこんな世の中になるなんて考えらえなかったよ」
 雅恵が茶代を支払った。そして洪鐘の前に立つ。南風が北風に変わった。晴れ間が消えて黒雲が円覚寺を包んだ。
「おばあちゃん、雨が降るんじゃない」
 その時弁天堂から男が出て来た。浴衣を端折り、鉢巻きを巻いている。足元は丘足袋を履いている。持っていた紐を襷に掛けた。
「あの人?」
 雅恵は60年前の男にそっくりだと思った。男は橦木を二度引く。三度目は大きく引いて鐘を突いた。辺りの空気が揺れた。次元の境目が曖昧になる。男が弁天堂に消えた。キーンと言う鐘の音の残りが耳鳴りのようになる。空気の揺れが止まり次元の境が元に戻った。気が付くと雅恵が愛の腕をしっかり握っていた。
「おばあちゃん痛い」
 二人は正常な次元の中にいた。
「ごめんよ、お前が消えそうだったんだ。愛の肩から上がもやもやとしていたから思わず腕を握った。足が浮き上がっていたような気がしたよ」
「ほら、跡が付いた」
 雅恵は力の限り愛の腕を握り締めていた。雅恵は跡が付いた愛の二の腕にハーと息を吹いてチチンプイプイとまじないを言った。愛が笑った。雅恵も笑った。
「さっきの人弁天堂から出て来て弁天堂に消えたよ。ここに住んでいるのかしら」
「お茶屋の人に訊いてみよう」
 二人は茶屋の女将を呼んだ。
「つかぬことを窺いますがさっき洪鐘を突いた方はどちらに?」
「鐘ですか?いつですか?」
「まだ3分と経っていませんが」
「この鐘は国宝でして、許可なしでは突くことは出来ません」
「それじゃさっきの鐘の音は聴いていないんですか?男の人が弁天堂から出て来て鐘を突いてまた弁天堂に入って行きましたが」
「何かの見間違えじゃありませんか?」
「そんなことありません、あたしも見ました。浴衣に襷掛けをしたおじいさんです」
 愛が雅恵の前に出て言った。
「もしかしてこの写真のひとですか?」
 女将は一枚の写真を見せた。それは本来開催される予定の洪鐘祭は3年前だった。パンデミックで中止になったがその時制作された宣伝のちらしである。
「あっ、どこかで見た人だと思っていたけど、そうだこのチラシの人だ。この人が鐘を突いて弁天堂に入って行ったんです」
 愛の話に女将は笑った。
「この写真の人は明治時代に亡くなっていると聞いています。もしかしたら弁天様にからかわれたのかもしれないわよ」
 女将は最後にジョークで締めた。これ以上話を続けても埒が明かない、時間の無駄だと考えた。二人は礼を言って階段を下り始めた。
「おばあちゃんの元カレって足が悪い?」
 愛の言葉にドキッとした。もしかしたら得意のカマ掛けかもしれない。
「どうしてそう思うの?」
「さっき鐘が鳴っている時ぼーっとして夢心地になったの。足の悪い人がこの階段を上るのを見たんだ。あたしが前で手を引ているの」
 雅恵自身が忘れていたことを愛に話すことはない。
「その足の悪い人ってどんな人だったの?」
 愛は立ち止まり目を瞑りじっと考えた。
「顔はよく想い出せない、でも細くて白い手だった。それに冷たかった」
 相馬先生だ。雅恵は直感した。60年前にこの階段を上る時に握った手の感触が蘇る。

 高宮旅館は久々の賑わいを見せていた。明日に控えた洪鐘祭を一目見ようと歴史好きや檀家の家族が予約していた。
「毎日お祭りなら繁盛しますね女将さん」
 下働きの沢木五郎が女将の礼子を冷かした。
「生意気いうんじゃないよ五郎」
 礼子は笑いながら叱った。15歳の時に預かり今年18になる五郎は脳に異常がある。日常生活は問題ないがもの覚えが悪い。今年で旅館を閉めるが礼子は五郎のことが心配だった。
「女将さん、店を閉めるって本当か?」
「誰からそんなことを聞いたんだい?」
「材木屋の若旦那からだよ。お前はどこに行くんだ、お前みたいな奴は使ってくれる物好きはいないぞって笑われた」
「材木屋の話なんて聞くんじゃないよ、あいつは大噓つきなんだから。人んちの山から材木かっぱらって法外な値段で大工に売るんだよ。悪い奴だよ」
 礼子は五郎に入れ知恵する材木屋が腹に立って仕方がない。
「分かったよ女将さん、材木屋若旦那の話は聞かないよ」
 五郎はしょんぼりして庭の掃除を始めた。
「雅恵はどこ行きやがった」
 主の高宮清吾は人手が足りずに忙しなく動き回っていた。
「あの子をあてにしないで、あの子にはあの子の人生を楽しませましょうよあなた」
 礼子は頬を張ったことを清吾に黙っていた。
「女将さん、二階の露の間のお客さんがテレビのある部屋と変えてくれって騒いでいますがどうしましょう?」
 仲居の下田岩が面倒臭そうに言った。昨年、東京で五輪が開催された。それに合わせるようにテレビが普及してきた。各家庭に一台が夢でなくなって来た。
「私が行く」
 清吾が二階に上がる。
「申し訳ありませんがテレビのある部屋はございません。食堂にございますのでそれをご覧ください」
「何だよ、テレビぐらい置いとけよ、潰れちゃうよそんなこっちゃ、まったく」
「申し訳ありません」
 清吾は畳に額を付けて謝った。そしてこんな商売を娘に継がせたくない。早くアパートにして娘に譲りたいと気が逸る。
「ただいま」
 勝手口から声がした。五郎が出た。
「あっ、お嬢さんだ、旦那さんが怒っていますよ」
「すまないねえ、洪鐘祭の予行演習に付き合ってもらっていたんだ」
 相馬が謝罪した。
「女将さん呼んで来ます」
 五郎は雅恵が好きだった。雅恵が男連れで帰宅したので驚くと同時に寂しさを感じた。礼子は相馬を見て一礼した。
「お母さん、こちら担任で歴史の相馬先生」
「相馬と申します。明日の予行演習でお嬢さんに付き合っていただきました。お忙しいのにすいませんでした」
 相馬は深く一礼した。
「そうですか、先生気になさらないでください。どうぞお上がりになってください」
 礼子は直感で娘婿にしたいと閃いた。相馬は入室を辞退したが雅恵が背中を押したので勝手口から上がり込んだ。
「あなた、雅恵の先生です」
 清吾は軽く会釈した。
「女将さんには話しましたが、明日の洪鐘祭で面掛祭に参加することになっています。彼女に弁天堂と洪鐘を案内していただきました。お店がごった返している時に申し訳ありません」
「そうですか、参加されるんですか。ご協力ありがとうございます。下町は参加者が足りないので心配しておりましがありがとうございます」
 相馬の誠実な人柄が顔を突き合わせているだけで通じる。高宮夫妻の考えることはひとつ、雅恵の婿である。
「おい、岩さん、雅恵の先生にお茶を出して差し上げなさい」
 清吾は相馬の情報を仕入れようと企んだ。
「先生はもちろん独身ですよね?」
 礼子が訊いた。
「はい、なかなかチャンスがなくて」
 相馬は早く帰りたい。この手の話は苦手である。
「先生、お国はどちらです?」
「長崎の平戸と言う島国です」
「そうですか?そりゃ凄い」
 礼子は平戸を知らない。知らないと白状するより凄いと言う表現で誤魔化した。
「それじゃご両親はご健在ですよね?」
「父は5年前に他界しました。母がおります」
「お母さんお一人で大変でしょう、いずれは先生がご面倒を看るのですか?」
「まあ、いずれはそうなると思いますが便りではまだまだ元気です。逆に私に帰らなくていいと引導を渡されました」
 高宮夫妻は見合わせた。こんないい男でこんないい条件はない。
「先生、今お住まいは?」
「駅前の交番から入った路地の先に下宿をしています」
「関谷さんちだよ。おいら先生見たよ」
 五郎が口を挟んだ。
「そうか見られたか、しくじったな」
 相馬が五郎に冗談を言った。五郎が照れて庭掃除を再開した。
「先生、良かったらどうですかね、ここの旅館の一間をお使いになったら。学校からも近くなるし、下宿料金なんて要りませんから。今年いっぱいで宿を潰してアパートにするんですけどね、そのままお使いになられて結構ですよ」
 清吾が執拗に進める。
「ありがとうございます。考えさせてください。実は関谷さんの下宿は少し狭くて本を溜めることが出来ないんですよ。それでどこかに移ろうと考えています」
「それじゃ決まりだ先生、関谷の三代目は学園の後輩でして、私に義理があるんですよ。今夜にでもまとめて来ますから。大船に乗った気でいてください」
 相馬を押し切ってしまった。
「そうと決まれば弥生の間がいいわねえ、今日のお客さんは一泊だから明日からは入れますよ先生。それ忙しい」
 礼子は立ち上がり段取りに入った。相馬に付け入る隙はない。お茶を三杯飲む間にとんとん拍子で話しが進んだ。
「先生んちまで送って来る」
「雅恵いいよ、おうちを手伝いなさい」
 相馬が雅恵を止めた。
「先生送らせてあげてくださいな。うちは充分人出は間に合っています。雅恵を宜しくお願いします」
 礼子が念を押した。相馬は照れ笑いを浮かべて高宮旅館を後にした。
「雅恵ちゃん、ありゃ先生、デートですか?」
 中華大幸の主人が換気扇代わりに開けている街道沿いの窓から冷かした。冷やかし声と一緒に湯気と肉野菜炒めの匂いが鎌倉街道を上った。
「誤解しないでください、洪鐘を拝んで来た帰りです。大将、明日は宜しくお願いします」
「先生は面掛だよね」
「はい福禄寿を仰せつかりました」
 相馬が顎を伸ばす仕草に雅恵が笑った。
「そうだ雅恵ちゃん、囃子の方はいいから阿亀をやりな」
「えっほんと、大幸のおじさんお願いします」
「よっしゃ、これで面掛の面子が揃った」
 雅恵は大はしゃぎである。相馬と一緒にいられるだけで嬉しかった。駅前交番の前で高橋巡査がにっこり笑う。そして相馬に敬礼した。
「お疲れ様です」
 相馬が高橋巡査を労う。
「先生、雅恵ちゃん、これどういう組み合わせ?」
 高橋巡査は冷かし半分、仕事半分の質問をした。教師と生徒の二人連れは気になる時代である。相馬にも雅恵にも、高橋巡査の仕事半分の意を窺えた。
「誤解しないで下さいよ高橋さん。明日の洪鐘祭で私達は面掛祭に参加することが決まりました。それで打ち合わせをしていました」
 相馬は取り繕ったが洪鐘の前でキスをした記憶が強く残っていて、弁解のように聞こえやしないか不安だった。
「高橋さん、変な疑いは止めてください」
 逆に雅恵は口を尖らせた。
「違う違う。僕は疑ってなんかいませんよ。相馬先生も雅恵ちゃんも頑張ってくださいね。明日は宜しくお願いします」
 高橋巡査は足を揃えて敬礼した。交番の裏を抜けると関谷邸の前に出た。
「ありがとう雅恵」
 雅恵は頷いただけだった。このまま離れたくなかった。
「雅恵、ごめんね。今日のことは二人の秘密だよ。私はいいが君に迷惑を掛けたくない。狡いかもしれないが分かって欲しい」
「先生がいいならあたしもいい」
 雅恵は相馬を見つめていた。相馬は下を向いた。雅恵はもちろん初めてのキスだった。そして相馬にしても初めての体験である。両親が教師で聖職者の間に生まれた相馬である。結婚を前提としない恋愛は生まれてからこれまで想定したことがない。
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