洪鐘祭でキス

壺の蓋政五郎

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洪鐘祭でキス 12

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 晩酌が終わり俊司と栄子の二人になった。
「栄子、お前最近若くなったけど何かやってる?」
 俊司が本題に入る前にまくらを考えていた。
「何で?」
「いや、こないだからそんな感じがするから、心配でさ、聞いてみただけ」
「気持ち悪い」
 冗談と分かっていても若いと褒められれば嬉しい。
「実はヨガを始めたの」
 公会堂でヨガレッスンをしている。恥ずかしくて家族には話していない。
「それでか、何かくびれる所はしっかりとくびれているし効果あるね」
 今回二回目である。くびれが目に見える訳がない。
「よく言うわよ」
「栄子、俺達も結婚して20年になるな。お祝いに旅行しないか?温泉でのんびりしよう。お前のために計画してたんだ」
「えっほんと?」
「ああ、驚かそうと直前まで明かさなかった。栄子ありがとう、そして愛しているよ」
 言ってる本人の歯が浮いて来た。
「いつから?」
「明日からさ、うちの車じゃ小さいからレンタカー借りてある。夜明けと同時に出発だ」
「えっ、支度しなくちゃ。もうおばあちゃんは寝てしまったでしょ。どうしよう?」
 甘えるように身体を震わせた。
「どうしました?」
 雅恵は聞き耳を立てていた。部屋から出て来た雅恵に留守をお願いをした。
「それでいつ帰って来るんだい?」
「4泊5日だから17日の夜になるわ。おばあちゃんごめんお願い」
 栄子は手を合わせた。
「仕方ないね、もう20周年かい、ゆっくりと行っといで」
「はいお願いします。私支度がありますので、愛にはおばあちゃんから伝えてください」
 栄子が支度にかかる。
「お義母さん17日の夕方5時には戻って下さいよ」
 俊司が笑って念を押した。俊司は栄子の支度中、書斎に閉じ籠りインターネットであちこちの空き情報を調べている。しかしお盆に空いている宿はほとんどない。パンデミックから解放され外国人観光客も激増した。北鎌倉の裏の道も外国人だらけである。先ずはレンタカーと清吾は徹夜でパソコンと向き合った。

 式は鶴岡八幡宮に決定した。雅恵も横田も身内だけの簡単な式でいいと懇願したが清吾の強い希望で決めた。
「こんなめでたいことはない。雅恵をお願いします。そしてこの家をお願いします」
 清吾は横田に頭を下げた。礼子も一歩下がった位置で一礼した。
「幸せにします」
 結婚式の前日に雅恵は横田を円覚寺に誘った。弁天堂に行き、二人並んで手を合わせた。それぞれに祈りを捧げた。しかし相馬の時のように鐘突き男は出てこなかった。
「昭文さん、あたし、思った人がいました。その人はまだ頭の中に居て、消えてくれません。あなたに黙っているのが悪くて悩んでいました」
 雅恵は婚前に何もかも打ち明けてしまおうと決めて横田を連れて来た。
「雅恵、私は気にしない。それにその話は聞いている。高校の担任で歴史の教師との事は地元では話題になったからね。彼の失踪で破綻した。私はそれも含めて君のことが好きだ」
 横田らしい包容力のある表現だった。
「もし、その人が、あたしの中で一生消えなくてもいいの?」
「ああ、私がいつか忘れさせるさ」
 横田が笑って頷いた。そして抱き締めた。洪鐘の前である。60年前に相馬とキスをした場所である。横田が唇を求めた。雅恵は笑って首を振った。
「あたし出来たみたい」
 雅恵が横田に打ち明けたのは結婚4年後だった。仲のいい二人、すぐにでもお目出ただろうと周りの期待と裏腹に4年が過ぎていた。
「もしかして横田さんは種無しか」
 清吾は床で礼子に言った。
「それは困るわ」
「雅恵に原因があるのかな?」
「一回医者に行かせましょう二人共」
「もし出来なければどうする?婿探しどころか養子探しが忙しくなるな」
 婿を取れば次は跡取りである。
「お前、病院に行って来なさい」
 礼子が雅恵に言った。雅恵は驚いた、昨夜横田に打ち明けた話を盗み聞きされたのかと思った。
「お父さんにはまだ内緒よ。はっきりした訳じゃないんだから」
 雅恵の言葉に礼子が驚いた。
「内緒ってどこか悪いのかい?」
「とぼけないでよお母さん、聞いていたんでしょ。本当だったらちゃんと報告しますから。それまで絶対お父さんには内緒よ」
 話が噛み合わない。でも雅恵の満面の笑みは悪い病ではない。礼子は懐妊の可能性を想像した。
「お前」
「あたし病院に行くからここで。今晩のおかずはあたしが買って帰るから」
 手を振る雅恵の後を見つからない様に追い掛けた。産婦人科の前で深呼吸している。礼子は思わず手を叩いた。『やった』と声を上げた。煙草屋の赤電話で受話器を握った。
「あなた、雅恵に出来たわ、今病院に入った」
「何?出来た?おできか、悪性か?」
「何をおかしなことを言ってるの。出来たと言えば赤ちゃんでしょ」
「本当か、男か?」
「そんなことまだ分かりませんよ。あたしこのまま探りますから」
「分かった。病院を出る時の表情を見逃すなよ?」
「はい」
 礼子は電柱の陰でじっと待った。自分でも経験がある。いくら抑えようとしても崩れてしまう表情。2時間が経過した。雅恵が産婦人科から出て来た。腹を擦って笑った。礼子は電柱の陰でしゃがんでしまった。自分のことより嬉しかった。
「雅恵」
 思わず飛び出した。
「お母さん」
 嬉し涙は懐妊と母の思いによって溢れ出る。止めることが出来ない。親子で泣きながら大船仲通り商店街を歩く。
「どう見ても嬉し涙だね、お祝に刺身はどうだい」 
 魚屋が二人を囃す。
「今晩はすき焼きにします」
「そうかい、それじゃしょうがねえや、すき焼きには敵わない」
 魚屋が諦めた。自宅に戻ると清吾と横田が鎌倉街道に出て今か今かと待っている。神奈中バスが止まった。二人が駆け寄る。
「電話一本すりゃあいいじゃねえか、迎えに言ったのに」
 清吾が心配した。
「どうだった?」
 雅恵が頭の上で大きな輪を描いた。
「そうか、良かった、本当に良かった」
 横田より清吾がはしゃぐ。材木屋に仕入れに来ている大工の棟梁が四人の喜びようを見ている。すぐに材木屋の店内から職人達が飛び出して来た。
「雅恵ちゃん、これか?」
 材木屋が手で腹を膨らませた。雅恵が頷いた。
「おおい、高宮に跡取りが出来たぞー」
 その声は鎌倉街道上下に轟いた。街道沿いの店主が顔を出す。
「散々待たせやがって、この野郎」
 酒屋が横田を小突いた。高宮家の前に黒山の人だかりが出来た。片側車線を人が占領した。バスが停車して渋滞が起きた。それに気付いた交番の高橋巡査が飛び出して来た。
「何だ、何だ。どうしました?」
「巡査、これ、雅恵にこれ」
「これって、これ?」
 高橋巡査が腹を手で膨らませた。
「そりゃすげえ。そりゃすげえな雅恵ちゃん」
 高橋は相馬が失踪した日に雅恵が追い掛けるのを見ている。悲しみに暮れる雅恵に幸せになって欲しかった。乗用車がクラクションを鳴らした。
「うるさい、山ノ内のお祭りです。我慢してください」
 片側車線の交通整理を始めた。

 最近人気の軽自動車に栄子は不満だった。
「レンタカー借りるって言うからもっと大きい車かと思った。これじゃうちの車でも良かったんじゃない」
 東の空が薄赤くなり始めたばかりだった。
「それがさ、いいのがなくて、予算もあるし」
 雅恵の頼みを自分達の旅行で叶えた。
「ゆっくりね」
 雅恵が二人を見送る。二人が出発するのを見届けて亨のワンボックスカーが入って来た。
「おはよう」
 里美が飛び降りて雅恵に挨拶した。
「おはようございます。おばあちゃんは真ん中の席に座って。疲れたら横になってください」
 誠二が降りて後部ドアをスライドした。
「ありがとう、お二人共お付き合いさせてごめんなさいね」
「そんなことありません、俺等も長崎に行きたかったんです。なあ誠二」
 誠二が頷いた。雅恵は二人共やさしい子だと改めて感じ取った。愛と里美がやられちゃうんじゃないかと一瞬でも思ったことを恥じた。この子等なら逆にお付き合いをお願いしたい。きっと幸せにしてくれる。誠二が愛の卒業まで待つと誓っているがこのまま付き合いを始めてもいいと思った。愛が大きなキャリーバッグを転がして来た。誠二が愛に代わってトランクに収納した。
「愛、そんなに何も持って来たんだい。里美もおばあちゃんも手提げバックひとつだよ。替えの下着と洗面用具」
「あたし寒がりだから」
 相馬のいる異次元は寒かった。もし行くことになれば厚着をして行く。相馬が来ていたベージュのコートに合わせて焦げ茶のコートを持参した。
「それじゃ出発します」
 亨が号令を掛けた。
「亨、これかけて」
 里美がCDを差し出した。ハングル語のヒップホップが大音声で流れた。雅恵はうるさいと思いながらも楽しそうな若者に免じて我慢することにした。
「お父さん、ホテル取れたのかな?」
 愛が心配した。
「二日目と四日目は取れたらしいよ」
 雅恵は俊司に訊いていた。
「今日と三日目はどうするのかしら?」
「電話をしてキャンセル待ちを探すって言ってたよ」
「あればいいけどね、無ければ最悪、お母さん大騒ぎするよ」
「目に見えるようだねえ」
 雅恵と愛は他人事のように微笑んだ。亨は大型トラックの運転手を経験しているだけあって長時間の運転も難なくこなした。
「変わろうか?」
 誠二の気遣いにも大丈夫と笑った。
「広島で休もうか」
 亨の呼び掛けに誠二が頷いた。お盆の帰省渋滞もあり既に23時を回っていた。雅恵は鼾を掻いていた。愛と里美は道中ずっと騒いでいたせいか二人共眠っている。
「一眠りしたら」
 誠二が誘った。
「三人共トイレ大丈夫かな」
 亨が三人の寝息を訊きながら心配した。
「そん時はそん時だね」
「小一時間走れば次のサービスエリアまで着くから。よし行こうか」
 亨が運転席に着いた。
「いいの?」
「全然大丈夫、三日間寝ないで運転したことあるし。長崎まで走っちゃおう」
 実は誠二、大きなワンボックスカーを運転したことがない。親のセダンをたまに借りるだけである。亨はそれも考慮している。誠二が気付いたのは霧笛の音だった。目を開けるとフェリー乗り場である。運転席に亨はいない。後ろを見ると三人の女性陣は爆睡している。声を掛けようかと思ったが寝起きの対応が面倒臭いとそのままにした。
「ごめん、寝ちゃった」
 亨が平戸口フェリー乗り場でチケットを購入していた。
「ああ起きた、平戸大橋の方が早いけど、折角だからフェリーで渡ろうって勝手に決めちゃた」
「いいさ、進路は君の独断場だ。長崎に来たことあるの?」
「佐世保の工場にニ三度ね。平戸は初めてなんだ。前からこのフェリーに乗りたかった」
 車に戻ると三人が写真を撮っていた。
「ねえ、一緒に撮ろう」
 里美が誘う。
「じゃああたしが撮ってあげるよ」
 雅恵が里美のスマホを受け取った。
「おばあちゃんあれが平戸島だよ。平戸の漁師にラインするね」
 旅行気分の盛り上がりと違う胸のときめきが生じた。相馬の故郷である。雅恵も愛も平戸島を見つめた。
「さあ、乗り込むよ」
 亨が号令を掛けた。
「早いわね」
 船中で気を落ち着かせようと考えていたが15分もせずに平戸に着いた。
「おばあちゃん、返信があった」
「なんだって?」
「〈お昼まだでしょ、うちで食べませんか〉って」
〈はい、いただきます。どこですか?〉
〈薄香漁港。着いたらラインして。車は何?〉
〈黒のワンボックスカー〉
〈待ってるわ〉
「お昼をご馳走してくれるって」
「お前、ちゃんと人数も言ったのかい?迷惑だよ」
 雅恵が心配した。
「おばあちゃん、言って見てからでいいでしょ」
 里美が笑った。最初からそう考えられるのが羨ましい。気兼ねや遠慮から入る雅恵の世代にとっては考えられない。亨はカーナビをセットした。
「18分で到着します」
「便利だねえ、東京なら分かるけどこんな地方の細い路まで案内してくれるんだねえ」
 雅恵は画像と音声で案内するナビに釘付けになっている。郵便局の前を通過する。
「あっ、あれっ、手を振ってますよ」 
 誠二が公民館の前で手を振る三人を指差した。三人の前に横付けした。誠二が降りて後部ドアをスライドした。雅恵は三人の真ん中に立つ夫人と目があった。何故かしら涙が溢れてきた。婦人も涙ぐんでいる。初対面だが懐かしい。
「ようこそ平戸まで」
「お世話を掛けました。ありがとうございます」
 雅恵が下車すると手を取り合った。
「あたしがライン名、北鎌愛です」
「あなたがそうですか、俺が平戸の漁師です」
 夫人の脇に立っている日に焼けた若い男が答えた。
「話しはゆっくりと、先ずはうちに入ってくれん」
 夫人が誘った。四人は夫人の後に続く。亨は日焼けした黒い男の案内で駐車場まで行った。
「鎌倉から平戸まで車で大変だっだやろ?」
 日焼けした若い男が労った。
「ありがとう、俺ずっと長距離乗ってたから。長崎までは何回か来ていたけど初めて平戸に渡った。感動してる。矢島亨、亨でいいよ」
「そうなんや、まあゆっくりしていきんしゃい。おいは山口聖。せいって呼ばれとー」
 二人は握手した。同年代で打ち解けるのも早い。聖は平戸から出たことがない。中学を出て家業の漁師を継いだ。平戸以外の地との繋がりはインターネットだけである。山口家では雅恵達のために豪勢な昼食を用意していた。
「さあどうぞ、暑いでしょ平戸も」
 嫁の悦子がもてなした。山口家は聡子を筆頭に嫁の悦子、双子の聖と悟の四人家族である。
「こんなにしていただいて、申し訳ありません」
「遠慮せんでようけ食べてくれん。魚ばっかりばいけどこん漁港で今朝上がった新鮮だけは天下一品」
 聡子が魚を自慢した。
「おばあちゃん、みなさんに自己紹介してもらいましょう」
「そうやったわねえ、あたしは聡子、嫁ん悦子、孫ん聖と悟。以上が我が家ん顔ぶればい。宜しゅうお願いします」
 聖と悟は胡坐から正座に座り直して頭を下げた。
「ほらお前達もちゃんと座りなさい」
 雅恵がたしなめた。
「この度はこちらの都合でご迷惑をお掛けしまして申し訳ありません。私は高宮雅恵、これがうちの孫で愛、高校3年生、愛の親友で里美、こちらが長谷川君。そして矢島君です。お世話になります」
 一同がお辞儀をした。
「さあ、おばあちゃん、みんな腹減らしとーばい。後は食べてからにしよう」
 聖が食事を誘う。
「そうやなあ、腹が減っては戦が出来ん。時間もたっぷりあるし、食べてからゆっくりと聞かせていただこう。さあどうぞ」
 聡子の号令で一斉に『いただきます』の合唱となった。魚の鮮度の違いは見た目で分かる。スーパーのパック詰めの刺身とは違う。生きた身と死んだ身の違いである。黙々とテーブルの料理を平らげた。特に誠二と亨は食欲旺盛、刺身をおかずに飯のお替りを繰り返した。逆に聖と悟は毎日食べ飽きているメニューである。贅沢な悩みだが新鮮な魚以外に口にするものは少ない。
「浜に案内しよう」
 悟が皆を誘った。雅恵だけが残った。
「ごちそうになりました。こんな美味しいお昼なんて初めて。ありがとうございます」
 雅恵が改めて礼を言う。
「とんでんなか、あん子等が今朝上げた物ばっかりばい。うちは一銭も払うとらん」
 聡子が笑った。雅恵も笑い返した。
「お義母さん、あたし買い物行って来ます。雅恵さん宿は?」
「まだ決まっていません。あの子たちはキャンプするらしいですが」
「それならうちに泊まってください。全員のお布団はありませんが若いもんは雑魚寝でもいいでしょう、ねえお義母さん」
 悦子が宿泊を勧めた。
「とんでもございません、これ以上のご迷惑をお掛けすることは出来ません。どうぞお構いなくお願いします」
 雅恵が丁重に辞退した。
「泊ってくれん雅恵さん。それが嬉しかと。田舎ん人はね、旅ん人ばもてなして上げたかと」
 聡子が雅恵を見つめて言った。そして雅恵が頷いた。
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