やっちん先生

壺の蓋政五郎

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やっちん先生 13

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「彼女にエバを襲った事実だけをあなたから聞いた通り報告しました。これから私達の考えを話しますが、やっちん先生は昨夜の考えに変わりはありませんね?」
 強い口調で俺に問いただしたので俺は大きく首を縦に下ろした。ここで曖昧な態度をみせると無責任のレッテルが貼られる、酒の力を借りて表現に行き過ぎはあったが、俺の信念を伝えたのに嘘はない。今度は初めからタガログ語でサラさんに話し始めた。彼女が俺に視線を向けたので俺も見つめ返した。俺が耐えられずに目を逸らせば全てが崩れてしまうだろう。この事件をいち早く、世間に知れずに闇に葬ろうと、自分の立場だけを守るためだけに動いているようにとられてしまうだろう。彼女は視線を俺からジョセフ神父へと移した。彼は彼女の視線に負けぬようにまばたきさえも我慢して静かに語りかけている。昨夜俺に問い掛けた二通りの意見を説明しているのだろう。どっちにしても決定権は母親にある。コーヒーが三つ運ばれてそれぞれの前に置かれた。ウエイトレスが去るのを待って再び神父の語らいが始った。静かに、やさしく、滑るような話術に、意味のさっぱりわからない俺も包み込まれてしまう。サラマリアさんが大きく頷いた。タガログ語で神父に答えてから日本語で「フタリニオネガイシマス」。俺の肩にどしりと圧し掛かる重い言葉だ、神父も職業柄平静を装っているが内心の動揺は俺とさほど変わらないだろう。
「そういうことです。責任を持って対応しましょう。ただ彼女からエバの心中を聞き、エバ自身の思いをそれとなく聞いてみるので、四、五日待って欲しいと言ってます。どうでしょうかやっちん先生、これからでっかい男がふたりで押しかけてエバの前に立ちはだかるよりも、サラマリアさんに、母親に、それとなく私達の考えも伝えてもらった方がいいのではないでしょうか?」
「わかりました。俺もそれが一番いいと思います。ただジョセフ神父、四、五日って長いですよ、ものすごく。なんか俺自身が挫けてしまいそうで、迷いがでなきゃいいと思うんですけど」
「私も、サラマリアさんも先生と同じですよ、でもそれも試練と受け止めていきましょう」
「試練ねえ、いいことなんかあんのかな」
 五日後の再会を約束して取り合えず母親の報告待ちとなって散会した。先延ばしと言った方が正解かもしれない。俺も神父も母親すらも嫌なことは後回しにしようと、タイムリミットまで忘れてしまおうとしているのではないだろうか。約束した期日がきても、今とそれほど進展していなくて、エバだけが苦しみ、そしてなにもかもが手遅れになるような気がしてならない。ジョセフ神父はサラマリアさんが崩れ落ちないようにしっかりと肩を抱き、射ぬかれてしまうぐらい厳しい陽射しの中に消えた。いつまでも見送ってやりたいが目の玉が焼けそうで諦めた。うちに帰って一眠りしようと自転車に跨ると、ジーパン屋のかま店が俺を見つけて手を振っている。俺がとぼけているのを、気付かないでいると勘違いして「イエーイ」と声まであげて手を振っている、それも両手で。通りすがる学生や買い物の主婦らが俺とかま店をにやにやしながら交互に見比べている。
「なんだよ、恥ずかしいなあ、両手で手を振る奴があるかよ」
「あら、ご挨拶ねえ、ポケットつきで襟のしっかりしたTシャツを入荷したから知らせようと一生懸命合図したのに知らん顔して、ひどい」
「わかったよ、ありがとうよ、大きな声出すなってみんな見てんじゃねえか、今度よるからとっといて五枚ばかし、じゃあね」
「わかったわー、バイビー」
 怖いもの見たさに振り返るとかま店はまだ手を振っている。両手を胸の前でバイバイしている。知り合いに見られていなきゃいいが。徹平を見舞いに行こうかと一瞬迷ったがその気になれないし、徹平に黙ってエバのことをサラマリアさんと会って相談したと言いづらい。
 俺は雄二が帰ってくるのを玄関で張っていた。外だと裏山に潜んでいる薮蚊が汗の臭いを嗅ぎ付けて襲い掛かってくるから、玄関で詰め将棋をしながら待った。おやじが不思議そうな顔して俺の横を通ったが何も言わずに食堂へ入っていった。生姜焼きのいい臭いが俺を誘惑するが今日のことを雄二に報告しなければいけない。胸がはちきれるのを我慢して学校に行き、くだらない授業を受け、放課後には練習で汗を流している。一度帰宅してからすぐにエバのとこに出かけるかもしれない、だからここで張っていて帰り際を捕まえようと考えたのだ。彼女に会いに行くのは構わないが、少しでも話が進展したのを一刻も早く伝えて気持ちを楽にさせてやりたかった。それにばあちゃんも心配している、年齢を重ねてもやはり女で、雄二に纏わる女の影をしっかりと感ずいているようだった。白い長身が横切った。
「雄二」
 俺は突っ掛けで飛び出し腕を掴んだ。
「ちょっと話ししよう、ばあちゃん心配するといけないから十分ぐらい、今日話し合ったことをおまえに教える」
「バッグだけ置いてきます」
「いやいいよ、俺んちの玄関にぶん投げとけ。直ぐ出かけるとばあちゃん心配するから、それにすぐ終わる」
 俺達は裏の大興寺の駐車場の車止めに腰をおろした。
「俺は昨夜、ジョセフ神父の宿泊先でお前から相談受けたことをそのまま伝えた。そして話し合い、二人の意見をまとめた。それを今日の昼にエバのお母さんに報告してきた。まあ俺はいただけでほとんどジョセフ神父が段取りをつけてくれたんだけどな。ちっきしょう蚊がいるなあここ。それで俺達がまとめた意見は、エバに子供を堕ろしてもらう、それも大至急、可哀想だけど事故と考えてもらって忘れて欲しい。まあ神父なら巧みな言葉を使って内容を説明してくれるだろうけどな、まっ、大体そういうことだ。母親はエバの様子を探るから、四、五日間の猶予を与えてくれないかと言ったが、基本的には俺達の案に賛成のようだ。すべて神父に任せるとも言った。エバの妊娠を知ってるのは本人を含めた五人だけだ、なあ雄二、医者も俺と神父でなんとかするし、このまま事実を隠してしまおうじゃねえか、まだ人間の形になってねえうちにきれいな身体にもどって、普通の女の子になってもらおう。だからお前もエバに相談されたらそう説得してくれないか、今のお前を彼女は頼りにしている、もしかしたら、神父以上に、母親以上かもしれない、お前の一言が彼女を動かすと思うんだ」
「やっちん先生、俺はどうしたらいいんです。エバが好きでした、でも妊娠を告白されてから微妙に気持ちが変化したんです。もしチャンスがあれば抱いていたかもしれない、ただエバの身体が目的で付き合い始めたのかもしれない」「いいからお前はそんなこと考えるな、いいか余計な心配するな、今は野球だけを、進学だけを考えていればいい」
 雄二のエバに対する心境の変化に焦った俺は、曖昧な助言になってしまい苛立たしさを感じた。『彼女に何があろうと僕の気持ちに変わりはありません』と言ってくれればどれだけ力になれただろうか、図体は俺と遜色なくてもまだ高校生の雄二にそんな気の利いたセリフを期待したのが間違いだ。18歳のむんむんと発せられる爆発寸前の性欲は、可能性がわずかでもあればそのはけ口を見逃すわけがない。俺達がそうだったじゃないか、愛だ恋だと言っても抱く事、やる事、が最優先だった。雄二もそうに決まってるんだ、しかし運悪くというか、その対象に問題があった場合は子供の脳みそじゃ解決できずに逃げ出す。雄二が悩んでいるのもそんなとこだろう。それにもし当事者が雄二でなく他の生徒だったらここまで介入しただろうか、うちの借家で生まれて、それから18年間、俺の齢の離れた弟のように接してきたからここまでしているのかもしれない、雄二がプロの選手になったら、あいつは俺の弟分だと自慢したいからこれほどまでにやっているのかもしれない。冷静になってこの問題を思い返してみると、昨夜神父に強い口調で堕胎を進言した自分に鳥肌が立ってきた。ジョセフ神父が昼間喫茶店で俺に確認したのもそうだろう。読みの深さを自慢したつもりだが、実はあさはかさを粉々に砕かれたのだ。
「雄二、帰ろう、ばあちゃん心配して学校に電話するといけないし、俺も腹が減ってきたから。行くのか?」
 雄二は大きく頷いた。安堵した自分が情けない。

 食堂に行くと俺のしょうが焼きに蝿避けの網が被せてあった。台所にはクーラーが設備されていないので窓はすべて開け放たれていて、近所の畑かドブで湧いた蝿が単独で飛び込んでくる。身体に不釣合いなでっかい目で俺のしょうが焼きを網のてっぺんから狙っている。
「ほれ、出てけっ」
 おふくろが新聞紙を丸めて侵入者を追い払った。
「どっから入ってくるのかしら、網戸に隙間でもあるのかもね、休みの日に見てくれない安男?温めようか?」
「いいよいいよそのままで」
 電子レンジにかけられると付け合せのキャベツの千切りまで熱くなってしまって気持ちが悪い。
「それお父さんのよ」
「いいじゃねえか一杯だけだよ、おふくろが言わなければ気がつかねえよおやじ」
 何本か並んでいるスコッチウイスキーの一番高そうなやつをグラスになみなみと注いだ。
「一番いいやつ、それが一杯?まったく、お母さんにも少し注いで、黙っててあげるから」
「飲むのかよ?味わかんのかよ?」
 おふくろのグラスに三分の一ほど注ぎ、テーブルに置いた。
「なあおふくろ、俺を身篭ったときどうだった?」
「なに言い出すかと思ったら、どうだったってどういう意味?」
「例えば嬉しくて涙がこぼれたとか、その逆でこんな子は要らないのにとか、あるだろう色々」
「こんな子は要らないと考えるようになったのはおまえが大きくなってからよ」
「ふざけやがって」
「お母さんにもう少し注いでちょうだい」
「バレるぞおやじに、俺のせいにすんなよな」
 おふくろのグラスと自分のグラスにさっきと同量を注いだ。
「自分ばっかりそんなに入れて」
 顔を見合わせて笑ってしまった。こうやっておふくろと向かい合ったのは暫くぶりで、もしかしたら学生時代まで遡るかもしれない。
「お父さんとはお見合い結婚でしょ、好きも嫌いもなかったのよ、一緒になってからお互いが好きになる努力をしたの。その結果がおまえであり、義正なの」
「気持ち悪りいなあ、ああ気持ち悪りい、だめだもう一杯飲まなきゃ聞けない」
 おふくろもグラスを差し出した。二人のグラスに注ぐと、残りはビン底を隠す程度になってしまった。
「こりゃあバレるな、明日買っとけよ、あとで俺が金払うから、とりあえず、おふくろ立て替えておいてくれ。忘れんなよ」
「絶対に忘れません」と言ってメモ用紙に『やすお、ボトル一本』と書いて冷蔵庫の側面に磁石で貼り付けた。
「なんだそれ」
「身篭った女は急に強くなるのよ。絶対に守らなければいけないって」
「それが誰の子であってもそう思うかなあ」
「安男おまえまさか」
「違うよ、勘違いすんな」
「お母さんはそう思うわ、父親が誰であろうと。少なくても処分しようなんて考えないでしょうねえ、自分の体内に宿し、同じ血を巡らせて生きて行く人間の子を殺せないでしょう。どんなにその父親が弱くて醜い性格であっても、その子の将来は育て方が大きく作用すると思うわ」
 おふくろはいつの間にか俺の前で女になっていた。寝室におやじと旅行した若いときの写真が、白い写真立てに飾られているがその中へタイムスリップしたようだ。
「おやじと旅行に行ってこいよたまには」
「なかなか休み取れないでしょ、今は我慢してあと三年で退職だからそうしたら世界一周でも連れて行ってもらうわ」
 洋上でおやじと腕を組んでいるロマンチックを想像しているのか頬杖をついてニヤニヤしている。俺はグラスの残りを一気に煽った。いつもなら『めし』とおふくろに催促するのだが、空想の世界をぶち壊すのが悪くて自分でどんぶりにめしを盛った。めしの上にぶたのしょうが焼きとキャベツの千切りを適当に乗っけ盛りにして、皿に溜まったにんにくのたっぷり効いたたれをぶっかけて喰らいついた。肉、キャベツ、めし、キャベツ、肉、めし、肉肉めしめし、あっという間に平らげた。空想の風船が目の前でバチンと音をたてて割れたのか、おふくろは俺のことを生ごみを見る目付きで一瞥してトイレに発った。おふくろが廊下を踏み締めるメシッという撓り音が七歩目まで聞こえた。

 
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