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やっちん先生 26
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「そこで停めてください」
現在はほとんど使われていない引込み線の先でジョセフ神父が言った。車から頭を屈めて降りた神父は荷台に放り投げたバッグを両手に提げ、笑顔だけを俺に投げかけ、別れのセリフなしで、雑草が伸び放題の線路の枕木を歩いて行った。暫く神父の後姿を追っていると、脇から湧いてでた五人の影に彼は囲まれてコンテナのジャングルに飲み込まれて消えた。ほんの一瞬の付き合いであったが大事な友を失ったように寂しく感じた。大型船の霧笛と潮の香りが軽トラックの小さな窓から入り、狭い車内に充満した。俺は線路の上でUターンして関内駅前から鎌倉街道に戻った。
「もしもし徳田ですけど、申し訳ありませんが今日休ませてもらいます。ええ、すいません。いえ急用が出来てしまって。明日は必ず出ますので、吉川さん明日休んでください。そうですか、はいすいません」
はっきりいって夏休みに俺の仕事はそれほどない。外仕事を一日や二日空けたところで三日目に気合を入れてかかればすぐに追いつく。受付や校内の仕事は吉川さんの独断場で、俺などいない方がやり易い。
「おまえさん怪我してるの、Tシャツ真っ赤じゃないの、これ血でしょ?気持ち悪い」
「ああ、落ちなきゃ捨ててもいいよ、それからおふくろ、怪我のことおやじには内緒にしておいてくれよ。かすり傷で心配かけたくないんだ」
「かすり傷なんかで心配なんかしませんよお父さんは」
「ああ、ならいい、じゃあ行ってくるよどうせ消毒だけだろうけど」
「見せてごらんなさい、傷口」
「おふくろは医者か?見たってがっかりするだけだよ」
俺は医者嫌いで、滅多なことでは医者などに行かなかったが、自分から医者に行くと言った俺を不振に思って、傷に巻いたタオルを透視するようにじっと見つめている。
「じゃ行ってくる」
おふくろの透視を振り切るように玄関を飛び出した。自転車に乗りハンドルを握ると傷口が開き血が染み出てくるのがわかる。
「どうしたのこれ?」
知り合いの医者に行くと面倒なので最近出来たばかりの、あまり評判のよくない小さな医院に行った。若い医者が出てきた。
「草刈が商売なんですけど鎌で欅に絡みついた弦を切っていたら手元を誤ってしまって」
「それでは労災ですね」
「いや仕事中じゃなくて近所に頼まれてやっていたんです」
「健康保険証も預かっていないようですが」
「保険証はあるけど使わない。あっても使う使わないは俺の自由でしょ」
「いつやったのこれ?鎌で切ったにしては深い傷だねえ、どうしてすぐに来なかったの」
だから医者は嫌いなんだ。俺より若いくせにその立場から患者を見下す口調。
「若先生、傷の原因なんて関係ないでしょ、まず治療してくれませんか」
医者は俺の傍らに立っていた看護婦を顎であしらった。
「あと一ミリ深かったら筋肉まで裂けていたよ、そうしたら君にそんな口は叩けない、惜しかったね。染みるよ」
さぶろーに切りつけられたときの数倍の痛みが脳天に突き上がった。俺は我慢して平静を装ったが顔が猿のケツみたいに真っ赤になっているのがわかる。看護婦が顔を背けて笑っているのが窺える。俺の家族親戚は当然のこと、友人同僚他、一度でも顔を合わせたり口を利いたことのある全員にこの医者には行かないように働きかけてやる。二十二針を縫い、包帯でぐるぐる巻きにして、その上三角巾で腕を吊るした。
「ごくろうさまでしたお大事に」
俺は立ち上がり、三角巾を、さっきせせら笑った看護婦に放り投げ会計にまわった。
「おあいそ」
ピンクの看護服を着た受付の太った女が返事もせずにレジを叩いた。俺がカウンターに手をついて待っているとさっきの看護婦が出てきて薬の説明を始めた。
「痛み止めと化膿止めのお薬を一週間分出しておきます。どちらも食後に、日に三度服用してください」
「痛み止めはいらない、化膿止めも三日分でいい、それでおあいそして。明細も記入してくれる」
たった三十分程度で三万円ちかく取られた。保健のありがたみがよくわかる。俺はやぶ医者を出ると徹平の携帯に電話した。
「なんだ、今仕事中だ、おめえに一杯付き合う暇はねえぞ」
「いやそうじゃないんだ、サラさんは?」
「ホテルを六時に出てタクシーで送った。ところでガソリンからっけつじゃねえか、どこほっつき回っていたんだ?」
「いいかよく聞け、サラさんが帰る」
「だから今言ったじゃねえか、六時にホテルを出てサラをタクシーで送ったの、俺が」
「違う、彼女がフィリピンに帰るんだよ、サラマリアさんがフィリピンに帰るんだって、それも今日の午後だ。これは昨夜神父から打ち明けられた」
「おまえどこにいるんだ、ん、すぐ行く待ってろ」
言ってよかったのだろうか、本当はしらばっくれていて、消えたサラマリアさんに落ち込む徹平に、嘘の同情をしていた方がよかったのかもしれない。
コンクリートのこびり付いた茶色のTシャツに作業用の半纏を纏い徹平は中から助手席のドアーを開けた。俺は自転車を電柱に寄りかけ車に乗った。
「さっき言ったのは本当だな」
「ああ、今日の四時四十分のフィリピン航空らしい」
「あいつが俺に打ち明けなかったのは痛いほどわかる、責めたりはしない。やっちんよく教えてくれた。まだ充分間に合うな、運転代わってくれねえか、はしゃぎ過ぎて事故でも起こしたら笑いもんにされるからな」
俺が助手席から降りると徹平はケツを滑らせて移動した。俺がハンドルを握ると「まず事務所に行ってくれ」と言い、手拭いで汗を拭った。
「かまわねえから横付けにしてくれ」
言われたとおりに提灯のぶる下がった玄関にぴったりとつけた。
「おふくろ金出してくれ」
「金っておまえ、何に使うの?」
「なんでもいいじゃねえか、金庫の金ありったけ全部出してくれ、こんな不幸はこれっきりだ、何も聞かずに出してくれねえか」
「だめよ、これは来週の支払いに使うものだよ」
「いくらあるんだ?」
「二百七十万くらいよ、まさかこれ全部じゃないでしょうねえ、そんなことしたら支払いどうするの?」
「俺の定期でもなんでも解約すりゃあそれくらいは充分あるだろう、今必要なんだ、わかってくれ」
「何に使うのか説明してくれなきゃ出せませんよ。これはあなたのものじゃないのよ、鳶佐藤組のものでしょ、ねえお父さんなんとか言ってやってくださいよ」
「出してやれ、全部出してやれ」
「えっ、お、お父さん」
「うるせい全部出してやりゃあいいじゃねえか、頭が金が必要だって言ってるんだ。男には使い道の明かされねえ金がいるときが生きてるうちには一度や二度はあるもんだ。おめえもこんな稼業の嫁にきた女じゃねえか、それくらいわかんだろう」
徹平のおふくろさんは会長にどやされて金庫を開けて有り金を封筒に詰め込んで徹平に差し出した。
「徹平、お願いだから悪いことに使わないでね」
佐藤組の頭と会計は息子と母親に戻っていた。
「ああ心配すんなって」
車に乗り込んだ徹平は成田と一言言った。それから首都高速の平和島インターを過ぎるまで口を開かなかった。
「どうすんだ、その金?」
「決まってんじゃねえかサラにそっくり渡す。慰謝料みていなもんだ、俺みたいなやくざに関わったな」
「ひとつ聞かせてくれ、おまえサラマリアさんに事前に告白されたらフィリピンに行ったか?」
「それが心配で黙っていたんだろうあいつ、でもほんと言うとわからねえなあ、情ねえ男だ俺も」
それから成田の標示があるまで沈黙が続いた。
「ところでその大袈裟な包帯はどうしたんだ?まさか裏の仕事をしくじったんじゃねえだろうなあ」
「まあそんなところだ、ひと一人殺っちまった」
「あの事件以来おめえからそういうことを聞くと冗談と思えなくなってきたよ、鎖鎌の大将によう」
想い出して背筋に寒気が走った。さぶろーの死体はどうなっているのか。近所の年寄りが散歩の途中で発見して今頃は警察が集まって捜査が始っているかもしれない。きっと俺にも厳しい取り調べが待ってるだろう。それともあんな鎌倉山の行き止まりに用のある奴なんていなくて、昨夜の状態のままになっているかもしれない。
「左だぞ」
脳の中いっぱいにさぶろーが横たわっていて徹平の声に反応できなかった。「おい、左だ左、成田は、ああっ」
俺は徹平の叫びに我に帰り、後続車に注意もせず側道に急停車した。
「わりいわりい、バックする」
「何を考えてんだおめえは、いくらブルーな気分でもおめえと心中したかねえよ」
「ほんとわりいわりい、気にすんな」
「気にするよばかやろう。さっさとバックしろ」
徹平は後ろに回り後続車に合図しながらバックオーライと声を上げている。そして後ろを見ると徹平がいない。俺は車から降りて後ろに回った。前を見ると徹平が立ち上がった。
「お前いつの間に前に回ったんだ?」
「お前よう、どこ見てバックしてんだ。俺を追い越す奴があるか。俺が咄嗟に寝そべったから何でもなかったけど、運動神経の鈍いお前なら轢かれちゃうよ」
「わりい」
徹平は軽がバックして行き過ぎるまで道路に這い蹲ってやり過ごしていた。料金を支払い暫く行くと警察の検問に止められた。
「どうもごくろうさんです。本日はお仕事かなんかで?」
徹平の半纏に気付いた警官が俺に尋ねた。
「いや、見送りです。フィリピン航空16時45分」
「そうですか、どうもご協力ありがとうございます」
パーキングには入れずに警備員の前に車を止めた。
「すぐ戻りますから」
警備員に注意される前に飛び出した。案内所でフィリピン航空を聞いた徹平が指を指して「あっちだ」とひと目も気にせず走り出した。俺も徹平の後を追いかけた。
「サラーっ、サラーっ、サラーっ、サラーっ、サラーっ、」
半纏を纏い、地下足袋姿で叫び進む徹平は周囲の視線を独り占めにした。
「サラーっ、サラーっ、サラーっ、サラーっ、サラーっ」
徹平の進行方向は地割れのように人垣が左右に広がった。誰もいなくなった俺達の視線の一番先に、肩を震わせ今にも崩れ落ちそうなサラマリアさんが立っていた。
「サラーっ、サラーっ、サラっ?サラー、サラー、サラーって間に合ってよかった」
彼女は徹平の首にぶる下がり声を出して喜びに咽た。出発までの暇を持て余した観光客がやじ馬となって二人の周りに群がったので、俺は徹平の肩を叩き、表に出るように促した。
「サラ、ごめんな、おめえがそんなに苦しんでいるとも知らずにひとりではしゃいでいた俺を許してくれ。おめえの辛い気持ちなんて微塵も考えずに、てめえの将来設計を勝手に想像していた俺を許してくれ」
徹平はサラマリアさんの両手をしっかろと包み、自分の思いと反省を彼女に長々と語りかけている。たぶん徹平の発する言葉の半分以上は彼女の日本語の語学力では理解出来ないだろう。しかし握りしめられた両手から、砂にしみこむ水の如く確実に彼女の身体に浸透している。泣きながら頷きと首振りを繰り返す彼女は、日本に来て始めて接したやさしい男を感じ取っているのかもしれない。
「いいかいサラ、これはな、俺がおめえに調子のいいことぬかして近づいた罰なんだ。サラが当然貰うべき金なんだ。こんなもんじゃ取り返しがつかねえだろうけど、これが俺に今出来る限界なんだ。本当はおめえが帰るって言えば着いていくのが男じゃねえか、それをこんなはした金でごまかそうってんだ、情けねえじゃねえか。サラも男運が悪いなあ可哀想に」
「アリガトオ、ワタシウレシイ、テッペイイイヒト、ワタシアイシテル。デモオカアサンオトオサンタイヘン、ワタシイナイコマル。テッペイニホンイル、イツカアエルダイジョブ。アリガト、コレオカネ、コドモガッコウツカウ、アリガトオ」
「そうか、おめえはやさしいこだなあ、いいんだよ、その金で親子で美味いもん食っちまって、俺の名詞持っているだろう、子供で金がいるようならいつでも電話しな」
「アリガト、アリガト、モウジカン、イク。サヨナラ、アイシテル、サヨナラ」
俺は見ていられずひとりで車に戻った。待っていましたと言わんばかりに警備員がやってきた。
「用が済んだら移動してください、出迎えの荷物の積み下ろしは迅速に願います。長引くようなら駐車場に入れてください」
「警備員さんは結婚してる?子供いるのかい?今そこで愛し合った二人が永久の別れを惜しんでいる最中だ。あんたも仕事だろうけど、もう少しの間待ってくんねえかな」
警備員がやってられないという表情で引き上げると同時に徹平が戻ってきた。鋭気を削ぎ落とされたただのちっちゃな肉の塊がふらふらと歩いてくる。薄汚れた半纏の襟元に染め抜いた頭がなんだか冴えなく見えた。
「終わった、帰るべえ」
帰る道中に徹平は一言も喋らなかった。平和島で買ったコーラの栓を抜いて手渡したが口も付けずに足元に落とした。
「ああっ、零れてんじゃねえか」
俺の声にも無反応で徹平の足元は泡だらけの水溜りになった。車がカーブでハンドルを切る度に水溜りは徹平の地下足袋に吸い上げられて、鎌倉に着いたときにはゴムマットの目に薄っすらと残るのみとなっていた。
「ちょっと付き合ってくれ」と徹平にことわったときには既に鎌倉山の行き止まりに向けて走らせていた。行き止まりの駐車場にはさぶろーの死体もベンツも跡形もなく消えていた。自転車が一台横倒しに停めてあり、その持ち主らしき学生がトランペットの練習をしていた。とんだ侵入者が来て、迷惑しているのか、それとも恥ずかしいのか一時は吹くのを躊躇していたが、俺が昨夜の痕跡を捜し始めると再び吹き始めた。この学生が手にしているのは間違いなくトランペットだが、発せられる音はこの世のものとは思えないほど衝撃的だった。
現在はほとんど使われていない引込み線の先でジョセフ神父が言った。車から頭を屈めて降りた神父は荷台に放り投げたバッグを両手に提げ、笑顔だけを俺に投げかけ、別れのセリフなしで、雑草が伸び放題の線路の枕木を歩いて行った。暫く神父の後姿を追っていると、脇から湧いてでた五人の影に彼は囲まれてコンテナのジャングルに飲み込まれて消えた。ほんの一瞬の付き合いであったが大事な友を失ったように寂しく感じた。大型船の霧笛と潮の香りが軽トラックの小さな窓から入り、狭い車内に充満した。俺は線路の上でUターンして関内駅前から鎌倉街道に戻った。
「もしもし徳田ですけど、申し訳ありませんが今日休ませてもらいます。ええ、すいません。いえ急用が出来てしまって。明日は必ず出ますので、吉川さん明日休んでください。そうですか、はいすいません」
はっきりいって夏休みに俺の仕事はそれほどない。外仕事を一日や二日空けたところで三日目に気合を入れてかかればすぐに追いつく。受付や校内の仕事は吉川さんの独断場で、俺などいない方がやり易い。
「おまえさん怪我してるの、Tシャツ真っ赤じゃないの、これ血でしょ?気持ち悪い」
「ああ、落ちなきゃ捨ててもいいよ、それからおふくろ、怪我のことおやじには内緒にしておいてくれよ。かすり傷で心配かけたくないんだ」
「かすり傷なんかで心配なんかしませんよお父さんは」
「ああ、ならいい、じゃあ行ってくるよどうせ消毒だけだろうけど」
「見せてごらんなさい、傷口」
「おふくろは医者か?見たってがっかりするだけだよ」
俺は医者嫌いで、滅多なことでは医者などに行かなかったが、自分から医者に行くと言った俺を不振に思って、傷に巻いたタオルを透視するようにじっと見つめている。
「じゃ行ってくる」
おふくろの透視を振り切るように玄関を飛び出した。自転車に乗りハンドルを握ると傷口が開き血が染み出てくるのがわかる。
「どうしたのこれ?」
知り合いの医者に行くと面倒なので最近出来たばかりの、あまり評判のよくない小さな医院に行った。若い医者が出てきた。
「草刈が商売なんですけど鎌で欅に絡みついた弦を切っていたら手元を誤ってしまって」
「それでは労災ですね」
「いや仕事中じゃなくて近所に頼まれてやっていたんです」
「健康保険証も預かっていないようですが」
「保険証はあるけど使わない。あっても使う使わないは俺の自由でしょ」
「いつやったのこれ?鎌で切ったにしては深い傷だねえ、どうしてすぐに来なかったの」
だから医者は嫌いなんだ。俺より若いくせにその立場から患者を見下す口調。
「若先生、傷の原因なんて関係ないでしょ、まず治療してくれませんか」
医者は俺の傍らに立っていた看護婦を顎であしらった。
「あと一ミリ深かったら筋肉まで裂けていたよ、そうしたら君にそんな口は叩けない、惜しかったね。染みるよ」
さぶろーに切りつけられたときの数倍の痛みが脳天に突き上がった。俺は我慢して平静を装ったが顔が猿のケツみたいに真っ赤になっているのがわかる。看護婦が顔を背けて笑っているのが窺える。俺の家族親戚は当然のこと、友人同僚他、一度でも顔を合わせたり口を利いたことのある全員にこの医者には行かないように働きかけてやる。二十二針を縫い、包帯でぐるぐる巻きにして、その上三角巾で腕を吊るした。
「ごくろうさまでしたお大事に」
俺は立ち上がり、三角巾を、さっきせせら笑った看護婦に放り投げ会計にまわった。
「おあいそ」
ピンクの看護服を着た受付の太った女が返事もせずにレジを叩いた。俺がカウンターに手をついて待っているとさっきの看護婦が出てきて薬の説明を始めた。
「痛み止めと化膿止めのお薬を一週間分出しておきます。どちらも食後に、日に三度服用してください」
「痛み止めはいらない、化膿止めも三日分でいい、それでおあいそして。明細も記入してくれる」
たった三十分程度で三万円ちかく取られた。保健のありがたみがよくわかる。俺はやぶ医者を出ると徹平の携帯に電話した。
「なんだ、今仕事中だ、おめえに一杯付き合う暇はねえぞ」
「いやそうじゃないんだ、サラさんは?」
「ホテルを六時に出てタクシーで送った。ところでガソリンからっけつじゃねえか、どこほっつき回っていたんだ?」
「いいかよく聞け、サラさんが帰る」
「だから今言ったじゃねえか、六時にホテルを出てサラをタクシーで送ったの、俺が」
「違う、彼女がフィリピンに帰るんだよ、サラマリアさんがフィリピンに帰るんだって、それも今日の午後だ。これは昨夜神父から打ち明けられた」
「おまえどこにいるんだ、ん、すぐ行く待ってろ」
言ってよかったのだろうか、本当はしらばっくれていて、消えたサラマリアさんに落ち込む徹平に、嘘の同情をしていた方がよかったのかもしれない。
コンクリートのこびり付いた茶色のTシャツに作業用の半纏を纏い徹平は中から助手席のドアーを開けた。俺は自転車を電柱に寄りかけ車に乗った。
「さっき言ったのは本当だな」
「ああ、今日の四時四十分のフィリピン航空らしい」
「あいつが俺に打ち明けなかったのは痛いほどわかる、責めたりはしない。やっちんよく教えてくれた。まだ充分間に合うな、運転代わってくれねえか、はしゃぎ過ぎて事故でも起こしたら笑いもんにされるからな」
俺が助手席から降りると徹平はケツを滑らせて移動した。俺がハンドルを握ると「まず事務所に行ってくれ」と言い、手拭いで汗を拭った。
「かまわねえから横付けにしてくれ」
言われたとおりに提灯のぶる下がった玄関にぴったりとつけた。
「おふくろ金出してくれ」
「金っておまえ、何に使うの?」
「なんでもいいじゃねえか、金庫の金ありったけ全部出してくれ、こんな不幸はこれっきりだ、何も聞かずに出してくれねえか」
「だめよ、これは来週の支払いに使うものだよ」
「いくらあるんだ?」
「二百七十万くらいよ、まさかこれ全部じゃないでしょうねえ、そんなことしたら支払いどうするの?」
「俺の定期でもなんでも解約すりゃあそれくらいは充分あるだろう、今必要なんだ、わかってくれ」
「何に使うのか説明してくれなきゃ出せませんよ。これはあなたのものじゃないのよ、鳶佐藤組のものでしょ、ねえお父さんなんとか言ってやってくださいよ」
「出してやれ、全部出してやれ」
「えっ、お、お父さん」
「うるせい全部出してやりゃあいいじゃねえか、頭が金が必要だって言ってるんだ。男には使い道の明かされねえ金がいるときが生きてるうちには一度や二度はあるもんだ。おめえもこんな稼業の嫁にきた女じゃねえか、それくらいわかんだろう」
徹平のおふくろさんは会長にどやされて金庫を開けて有り金を封筒に詰め込んで徹平に差し出した。
「徹平、お願いだから悪いことに使わないでね」
佐藤組の頭と会計は息子と母親に戻っていた。
「ああ心配すんなって」
車に乗り込んだ徹平は成田と一言言った。それから首都高速の平和島インターを過ぎるまで口を開かなかった。
「どうすんだ、その金?」
「決まってんじゃねえかサラにそっくり渡す。慰謝料みていなもんだ、俺みたいなやくざに関わったな」
「ひとつ聞かせてくれ、おまえサラマリアさんに事前に告白されたらフィリピンに行ったか?」
「それが心配で黙っていたんだろうあいつ、でもほんと言うとわからねえなあ、情ねえ男だ俺も」
それから成田の標示があるまで沈黙が続いた。
「ところでその大袈裟な包帯はどうしたんだ?まさか裏の仕事をしくじったんじゃねえだろうなあ」
「まあそんなところだ、ひと一人殺っちまった」
「あの事件以来おめえからそういうことを聞くと冗談と思えなくなってきたよ、鎖鎌の大将によう」
想い出して背筋に寒気が走った。さぶろーの死体はどうなっているのか。近所の年寄りが散歩の途中で発見して今頃は警察が集まって捜査が始っているかもしれない。きっと俺にも厳しい取り調べが待ってるだろう。それともあんな鎌倉山の行き止まりに用のある奴なんていなくて、昨夜の状態のままになっているかもしれない。
「左だぞ」
脳の中いっぱいにさぶろーが横たわっていて徹平の声に反応できなかった。「おい、左だ左、成田は、ああっ」
俺は徹平の叫びに我に帰り、後続車に注意もせず側道に急停車した。
「わりいわりい、バックする」
「何を考えてんだおめえは、いくらブルーな気分でもおめえと心中したかねえよ」
「ほんとわりいわりい、気にすんな」
「気にするよばかやろう。さっさとバックしろ」
徹平は後ろに回り後続車に合図しながらバックオーライと声を上げている。そして後ろを見ると徹平がいない。俺は車から降りて後ろに回った。前を見ると徹平が立ち上がった。
「お前いつの間に前に回ったんだ?」
「お前よう、どこ見てバックしてんだ。俺を追い越す奴があるか。俺が咄嗟に寝そべったから何でもなかったけど、運動神経の鈍いお前なら轢かれちゃうよ」
「わりい」
徹平は軽がバックして行き過ぎるまで道路に這い蹲ってやり過ごしていた。料金を支払い暫く行くと警察の検問に止められた。
「どうもごくろうさんです。本日はお仕事かなんかで?」
徹平の半纏に気付いた警官が俺に尋ねた。
「いや、見送りです。フィリピン航空16時45分」
「そうですか、どうもご協力ありがとうございます」
パーキングには入れずに警備員の前に車を止めた。
「すぐ戻りますから」
警備員に注意される前に飛び出した。案内所でフィリピン航空を聞いた徹平が指を指して「あっちだ」とひと目も気にせず走り出した。俺も徹平の後を追いかけた。
「サラーっ、サラーっ、サラーっ、サラーっ、サラーっ、」
半纏を纏い、地下足袋姿で叫び進む徹平は周囲の視線を独り占めにした。
「サラーっ、サラーっ、サラーっ、サラーっ、サラーっ」
徹平の進行方向は地割れのように人垣が左右に広がった。誰もいなくなった俺達の視線の一番先に、肩を震わせ今にも崩れ落ちそうなサラマリアさんが立っていた。
「サラーっ、サラーっ、サラっ?サラー、サラー、サラーって間に合ってよかった」
彼女は徹平の首にぶる下がり声を出して喜びに咽た。出発までの暇を持て余した観光客がやじ馬となって二人の周りに群がったので、俺は徹平の肩を叩き、表に出るように促した。
「サラ、ごめんな、おめえがそんなに苦しんでいるとも知らずにひとりではしゃいでいた俺を許してくれ。おめえの辛い気持ちなんて微塵も考えずに、てめえの将来設計を勝手に想像していた俺を許してくれ」
徹平はサラマリアさんの両手をしっかろと包み、自分の思いと反省を彼女に長々と語りかけている。たぶん徹平の発する言葉の半分以上は彼女の日本語の語学力では理解出来ないだろう。しかし握りしめられた両手から、砂にしみこむ水の如く確実に彼女の身体に浸透している。泣きながら頷きと首振りを繰り返す彼女は、日本に来て始めて接したやさしい男を感じ取っているのかもしれない。
「いいかいサラ、これはな、俺がおめえに調子のいいことぬかして近づいた罰なんだ。サラが当然貰うべき金なんだ。こんなもんじゃ取り返しがつかねえだろうけど、これが俺に今出来る限界なんだ。本当はおめえが帰るって言えば着いていくのが男じゃねえか、それをこんなはした金でごまかそうってんだ、情けねえじゃねえか。サラも男運が悪いなあ可哀想に」
「アリガトオ、ワタシウレシイ、テッペイイイヒト、ワタシアイシテル。デモオカアサンオトオサンタイヘン、ワタシイナイコマル。テッペイニホンイル、イツカアエルダイジョブ。アリガト、コレオカネ、コドモガッコウツカウ、アリガトオ」
「そうか、おめえはやさしいこだなあ、いいんだよ、その金で親子で美味いもん食っちまって、俺の名詞持っているだろう、子供で金がいるようならいつでも電話しな」
「アリガト、アリガト、モウジカン、イク。サヨナラ、アイシテル、サヨナラ」
俺は見ていられずひとりで車に戻った。待っていましたと言わんばかりに警備員がやってきた。
「用が済んだら移動してください、出迎えの荷物の積み下ろしは迅速に願います。長引くようなら駐車場に入れてください」
「警備員さんは結婚してる?子供いるのかい?今そこで愛し合った二人が永久の別れを惜しんでいる最中だ。あんたも仕事だろうけど、もう少しの間待ってくんねえかな」
警備員がやってられないという表情で引き上げると同時に徹平が戻ってきた。鋭気を削ぎ落とされたただのちっちゃな肉の塊がふらふらと歩いてくる。薄汚れた半纏の襟元に染め抜いた頭がなんだか冴えなく見えた。
「終わった、帰るべえ」
帰る道中に徹平は一言も喋らなかった。平和島で買ったコーラの栓を抜いて手渡したが口も付けずに足元に落とした。
「ああっ、零れてんじゃねえか」
俺の声にも無反応で徹平の足元は泡だらけの水溜りになった。車がカーブでハンドルを切る度に水溜りは徹平の地下足袋に吸い上げられて、鎌倉に着いたときにはゴムマットの目に薄っすらと残るのみとなっていた。
「ちょっと付き合ってくれ」と徹平にことわったときには既に鎌倉山の行き止まりに向けて走らせていた。行き止まりの駐車場にはさぶろーの死体もベンツも跡形もなく消えていた。自転車が一台横倒しに停めてあり、その持ち主らしき学生がトランペットの練習をしていた。とんだ侵入者が来て、迷惑しているのか、それとも恥ずかしいのか一時は吹くのを躊躇していたが、俺が昨夜の痕跡を捜し始めると再び吹き始めた。この学生が手にしているのは間違いなくトランペットだが、発せられる音はこの世のものとは思えないほど衝撃的だった。
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真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
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