暁が燃えるとき

宇土為名

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 前触れのない目覚めだった。夢の続きのようにどこにも境目がない。
 僕は青白い天井を見上げていた。
 どくどくと心臓が痙攣したように震えている。
 何か嫌な夢を見ていた。そう、それは嫌な──ひどくどろりとした、粘つくような──闇だ。
 ソファの上でゆっくりと体を起こした。体中がこわばっていた。電話を待ちながら眠ってしまったようだ。
 部屋の中は自分の手が見えるほどに闇が薄まっている。
 今何時だろう?
 僕は両手で顔を擦り意識をはっきりさせようとした。手のひらの濡れた感触に、自分がびっしょりと汗をかいていると気づいた。
 鼓動がおさまらない。
 一体何を僕は見ていたのか。
 夜明けはもう近い。
 夢はすでに、思い出せないほど遠ざかっていた。
 

 常盤からの着信はないまま日は過ぎていった。あれからもう3日だ。僕は何度か常盤に連絡を試みたが、携帯にはもちろん、店の方に掛けても反応は返って来なかった。
 僕も段々と、あの日に見た光景が自分の勘違いであったような気さえしてきていた。あれほど鮮烈だった記憶はとうにぼやけていて、あれは僕の見間違いか、よく似た誰かだったのかもしれないと思うようになっていた。そして僕は、常盤から連絡が来ないことに落胆しながらもどこかでほっとしていた──矛盾していると自分でも思うけれど、それが正直なところだった。
「よし──」
 出来上がった計算書をまとめ上げてようやく肩の力が抜けた。これで今週も残業せずに帰れそうだ。まあ残業したくとも、最近はそうさせてもらえないことの方が多いが、早く帰れるのは何にせよ大歓迎だ。今日は行きたいところもあったし、そうした楽しみがあるのは良い事だと思えた。
 予定通り定時に仕事を終えパソコンの電源を落とす。さて帰ろうと立ち上がったとき、上司が戻ってきた。
「おう、お疲れさん」
「お疲れさまです」
 お先に、と言おうとして、上司の顔が冴えないことに気づいた。抱えていた書類をデスクに投げ出して、部屋中に聞こえそうなほど大きくため息をつく。これは、あれか。聞いて欲しいのか、愚痴を。
 部屋には僕の他に同僚の女性社員がひとりいたが、彼女はデスクから積み上がった書類越しに顔の上半分だけを出して、僕に目で訴えていた。おまえが行け、と。
 はいはい。彼女にそっと目配せする。
 この代償は大きいぞ。
 手を合わせる彼女に僕はため息をそっとついて、上司のデスクに近づいた。
「…室長、どうかしましたか?」
 うちの会社では課長とは呼ばずに室長と呼ぶ決まりだった。ここは総務なので、彼は総務室長だった。
 室長の前原が椅子に座ったまま胡乱な目で僕を見上げた。
「どうもこうも──久我」
「はい」
「飲むしかないって」
 今日は帰りに映画を見に行こうと思っていた。が、予定は変更するしかなさそうだった。


 つまるところ要するに、営業に来たクレームを総務が処理したところ、この対応の仕方に営業の方から苦言を呈された、という事のようだ。総務にいればクレーム対応は当たり前だが、それを身内から悪く言われるのは我慢ならないと前原は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「それはまた…」
 聞いていた僕も営業のそれには怒りを覚えた。随分な言いようだ。結局は便利屋がしゃしゃり出てくるなということか。
 それを言ったのが営業室長と役員だと言うからなおさら悪い。
「時々転職したくなるんだけどさ、家の事考えるとそうもいかないしな」
 前原は40代後半、中学生になったばかりの娘がいた。
「確かに…でも前原さんなら出来そうかな」
 賑やかな居酒屋のテーブルで、僕と前原は向かい合ってビールを飲んでいた。
 前原のグラスを持つ手が口元で止まる。
「そういやおまえは転職して来たんだっけ」
 僕は苦笑した。
「そうです」
「大変だっただろ?」
 このご時世、転職目的とはいえいったん手にした職を失うほど怖いものはない。僕は本当に運が良かったのだ。たまたま、中途採用に空きの出た今の会社に滑り込むことが出来たのだから。
 あのときはもう何もかもが疲弊しきっていて、まともに物事を考えられていたのかどうかさえ今となっては怪しいものだ。怪しげな宗教や得体の知れない壺を買っていなかっただけ、まだまともだったのだろう。だが記憶はあやふやだった。
 義父と母が相次いで病に倒れ、慣れない看病を手探りで──文字通り見えない霧の中で──もがきながら出口を探していた。仕事もままならなくなり、結局は辞めたのだ。あんなにも苦しんだのに、終わりは驚くほどあっけなくやって来て、放り出された僕は途方に暮れていた。
 さっと、目の前を、あのときの思いが過った。
「大変でしたよー。もう無理かも」
 僕は茶化して言った。
 はは、と前原は笑った。
 僕もつられて笑うと、だよなあ、と前原は豪快にビールを飲み干した。


 路線の違う前原と改札で別れ、僕は自宅方面の電車に乗った。まだそう遅くない時間帯、電車の中にはそれなりの人が乗っている。
 席は空いていたが、僕は扉の前に立った。どうせ3駅だ。
 窓の向こうを街の明かりが流れていく。
 コートのポケットから携帯を取り出し、表示を確認する。習慣化しつつある行動。いくつかの通知、いくつかのメール、いくつかの…けれど着信はない。
 ため息を落としそうになり、あわててそれを飲み込んだ。


 電車を降り最寄駅からまっすぐに続く夜道を歩く。途中一度曲がり、住宅街の方に行くと僕の住むマンションはあった。会社からは少し遠いが、間取りと日当たりの良さが気に入っていた。家賃は今の給料でどうにでもなるくらい。そんなに欲しいもなく、日々の暮らしに困らなければ僕は満足だった。貯金をしておかなければならないような将来の予定があるわけでもない──例えば、家族が増えるとか、そういった──ことが。
 両親が死んでそのことについて何ひとつ誤魔化さずにすむのが、不謹慎だけれども僕にとって何よりも有り難かった。
 後ろめたさとともに捨てた罪悪感。
 こんなことは誰にも言えないけれど。
 なだらかな坂の上にあるマンションを目指して、僕はゆっくりと歩いた。冷たい風が心地よい。酒を飲んだせいで、少しぼんやりとしている自覚はあった。思い出しかけた記憶を再び押し込めようと、ピッチを上げたのもよくなかったようだ。
 あともう少しで着くというときに、ポケットの中で鳴っている携帯にようやく気がついた。
 取り出した携帯はすでに切れていた。いつから鳴っていたのか──一体誰だ?──表示を見てぎくりとした。
 常盤だ。
 あわてて掛け直す。
 立ち止まり、呼び出し音を聞く僕のそばを、後ろから来た車が勢いよく追い越して行く。
 目が、赤いテールランプを無意識に追いかける。車はあっという間に坂を上りきり、見えなくなった。
 繋がらない。
 今日もまた留守電に変わるのだろうか。
 ようやく話が出来ると──
 そのとき、突然ぶつっと音が途切れた。
 しんとした沈黙が聞こえる。
 ふたつの空間は繋がっていた。
 どうしてか、その向こうも闇の中のような気がした。常盤もまた暗がりの中にいる。
 かすかな息遣いがした。
 僕の──いや、──常盤の?
「もしもし」
 堪えきれず僕は話しかけていた。
 また沈黙。
 切られる、と思った瞬間。
『……直さん』
 常盤が僕の名を呼んだ。
「常盤くん?」
 とたんに僕は何を言っていいのか分からなくなった。
 心臓が、どく、どく、と鳴る。
『電話ありがとう』
「いや…」
『出られなくて悪かったよ』
 常盤の声は予想していたものと違っていた。
 その声の硬さに段々と落ち着かなくなっていく。
 こくりと僕の喉が鳴った。
 常盤にも聞こえたかもしれない。僕は言った。
「きみ、今、どこにいるんだ?」
『どこって?』
 息遣いが変わった気がした。
 強張った常盤の声の中にわずかに混じる苛立を感じて、僕は彼の触れて欲しくない部分に手を突っ込んだのだと思った。
『家だよ』
 そう答える常盤の背後に外の気配を聞いた。
 そうか、と僕は言った。
 紛れもない嘘だと分かっていたが、あえて聞き返しはしなかった。
『何か用があったんじゃないの?』
 あんなに何度も掛けた電話の理由を、嘘をつかれた今、言えるわけがなかった。
 僕は間違えたのだ。最初から…間違えていた。
 どこにいるかなど聞くべきではなかった。
「いや、もういいんだ」
『そう?』白けたように常盤は言った。
「常盤くん──」
 足下がぐらつきそうになり、僕は堪えた。
『言いたいことはそれだけ?』
 僕が次の言葉を探し出す前に彼は続けた。
『じゃあ俺も仕事があるから、もうそんなに電話してこないで。いいね?』
 言葉を返せない僕の耳元で、とっくに切れた通話音が鳴っていた。
 無言になった携帯を見下ろしていた僕は、何を思ったのか、電話を掛けた。家にいる、と言った常盤の言葉を信じて、信じたくて、彼の写真館に。
 どうしてそんなことをしたのだろう?
 何をそんなに信じていたいのか自分でも分からない。ただ、彼がここにいないと確信しておきたかった。なぜ?
 なぜだ?
 数秒後、今までとは打って変わって、あっけないほどにそれは繋がった。
 電話に出たのは女だった。
『はーい、ときわ写真館ですけどお?』
 女だ。
 指先に握りしめた携帯から、気怠げに応える女の声が、もしもし、もしもし、と何度も繰り返しているのが聞こえていた。
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