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エピローグ
しおりを挟むいつかと同じ景色、窓の外はいつのまにか予報よりも早く雪が降り始めていた。
ガラスを切りつけるように雪は走る電車の窓にぶつかって、鋭く横切っていく。遠くまで続く白い景色、灰色の雲が切れ目なく空を覆っている。
本を読む手を休めて、僕はじっと外を見つめた。
ガラスに映る僕に透けて見える、白く塗り替えられていく世界。
何年ぶりかに見る雪景色は、幻想的で、息を呑むほどに美しかった。
明日で今年も終わる。
僕は今、常盤の待つM市へと向かっていた。
「直さん」
辿り着いたM市の駅の改札口で常盤は待っていた。
前回来たときよりも構内は帰省する人で混雑していたけれど、背の高い彼は否が応でも目立っていた。彼の周りを避けるように制服姿の高校生たちが走り抜けていく。
僕はまっすぐに彼に歩み寄った。
「お疲れ。雪、大丈夫だったみたいだな」
「うん。途中凄かったけどね。何とか着いてよかったよ」
吹雪いているところもあったが目的地に近づくにつれ雪は止んでいった。どうにか遅れずに着けたことにほっとしていると、常盤がスーツケースを僕の手から取った。
「行こうか」
「うん」
僕は先を行く彼の後を追いかけた。
常盤のアパートに行く前に、彼の実家に立ち寄った。
ときわ写真館の前には既に再開発地の看板が立てられ、腰の高さほどのロープが敷地を囲っていた。
常盤が鍵を開け、僕を中に入れる。
初めて足を踏み入れたときわ写真館は、スタジオ部分はそのままに、中の荷物は全て運び出されてしまっていた。
高い屋根の下を交差する梁。元々は古い日本家屋を改造したのだという。奥の狭い通路の先には摺りガラスの扉があり、その向こうが住居部分だったようだ。
入り口の受付横にある飴色を通り越して黒光りする太い柱には、無遠慮にべたべたと何かを貼られた跡がたくさん残っていた。何度も貼って剥がした跡が黒ずみ、柱の表面が剥がれていた。指先でそれをなぞっていると、奥でコーヒーを淹れていた常盤がかすかな笑い声をこぼした。
「それ、親父が注文のメモを貼りまくってた跡だよ」
戸口から顔を出してこちらを見ている。
「ああ…それで」
「大黒柱なのに罰が当たるだろって近所の年寄りたちから怒られてたけどな」
「はは」
その光景を想像して笑うと、常盤が目を細めてコーヒーを持ってきた。受付の上にカップを置く。
「ありがとう」
寒く、薄暗く、しんとした空気の中に白い湯気が立ち上る。
ふたりともコートもマフラーも外さずにそれを飲んだ。
「取り壊しは、来月?」
うん、と常盤が頷いた。
「来月の終わり」
「そう」
「もうすぐだよ」
スタジオの中をぐるりと常盤は見回した。
誰もいない伽藍洞《がらんどう》の景色、いくつものパネルが無造作に壁際に寄せられている。天井からはコードのようなものが何本も垂れ下がっていた。僕にはその名称さえ思いつかないが、壁に背を預け、見上げている常盤には分かるだろう。当然だ。ここで生まれ、生活をし、父親の仕事を見て、同じ道に進んだのだから。
常盤の母親は高校生の頃に家を出て行ったのだと聞かされていた。どこかで生きているはずだと常盤は言った。会いたくないのかと聞いた僕に、ただ笑って首を振っていた常盤の仕草が、多くを語っているようで胸に痛かった。
お互い家族の縁は薄い。それでも常盤にはまだ帰る場所があるのに。
それを失くしていく。
僕に帰る場所はない。4人で暮らした家は借家で、義父と母が死んだ後に返していた。今は知らない誰かが暮らしている。
誰にでもきっと必要なものだ。
この場所を、常盤はどれだけの時間をかけて忘れていくのだろう。過ごした日々のすべてを覚えていられるだろうか。一生、この先ももう戻れないことを。一度手放してしまったら二度と同じものはないのだと、どれだけの時間の後で後悔することになるのだろう。
今はよくても──
その日が来ないとどうして言える?
「…何考えてる?」
耳を軽く摘まれて、僕の肩が跳ねた。
顔を上げる。息がかかるほどの近さで、常盤が僕を見下ろしていた。黙っているとじっと黒い瞳で見つめ返される。視線で促され、僕は小さく息を吐いた。
「…後悔しないかと思って」
常盤が微笑んだ。
「しないよ」
言い聞かせるように囁く。
「覚えてればそれで充分だし、俺の大事なものはもう他にあるよ」
写真館を出てアパートに向かった。車で10分程離れたところにある小さなアパートだった。
常盤は僕の所に来るまで今はここで寝起きしている。用意してくれた役所の職員は来月いっぱいまで居てもいいと言ったらしい。
「上がって」
アパートの中は素っ気ないほどにがらんとしていた。
実家と店の家財道具はすべて処分するか人に譲り渡してしまったようで、畳んだ布団と身の回りのものだけを詰め込んだ段ボール箱がひとつ置かれているだけだった。
その段ボールもそのうち僕のマンションに送られてくるはずだ。
あまりの何もなさにぼんやり見回していると、擦り寄るように常盤が後ろから僕を抱き締めてきた。
「…何?どうしたんだ」
甘えてくるような仕草に笑うと、何でもない、と僕の首筋に顔を埋めながら常盤が呟いた。
そして僕たちは空白を埋めるように抱き合った。
お互いの存在を確かめ合う行為。
何も食べずに──
「ん…っ」
アパートの薄い壁を気にして声を噛み殺していると、常盤は意地悪く僕を求めた。気持ちのいいところを執拗に弄び、我慢できずに僕が声を上げるまで翻弄した。声を出さなければ常盤の指が強く僕を握りこんだ。いけずに泣きじゃくり、声を上げると堰き止めていた指は緩んでいく。肩に担ぎ上げられた足が揺れている。揺さぶられて何度もいかされる。やがて繋げた体がわずかに離れただけで訳もなく悲しくなった。
どこか遠くで、一緒にいて、と僕に似た声が懇願するのを聞いた。
行かないで、置いていかないで、と。
拙い声、幼い声が必死で求めている。
寂しさが溢れ出す。
朦朧としたまま手を伸ばすと、大きな手が僕の手を掴み指を絡めてくる。それを握りしめ頬に引き寄せると、ぽたりと僕の顔に雫が落ちてきた。
「直、直…」
常盤の声は震えていた。まるで泣いているようだ。
やっと、と呟いた。
「やっと…言ったな」
「え…」
瞼が重い。無理やりに薄く開いた視界の中で、常盤が滲むように微笑んでいた。
額が汗で濡れている。
汗が目尻を伝って僕の上に落ちてくる。
「ここにいる…ここにいるから、ちゃんと言って」
「…やああ、あっ、あっ、あーっ」
「言って直…俺が欲しいって、もっと」
もっと言って。
飛びそうな意識の中で僕はもがいた。上がらない腕で常盤の肩に縋りつく。もどかしさに爪を立て皮膚を引っ掻いた。
どろどろに溶けた理性が揺さぶられるたびに剥がれ落ちていく。
「ん、あ、っやだ、あ、ときわく、っ」
「直、言って…!」
「っあ、あ、あ、っいあ、も、ほし…っ欲しい…!」
「くそ…」
好きだ、と常盤が呟いた。
突き込まれて仰け反った。
体の奥深くで何度も何度も彼を受け止めた。
翌日の大晦日、僕と常盤はU市に移動した。
M市からは電車で行った。帰りはそのまま2人で新幹線に乗り、僕のマンションに行くことになっていたからだ。
構内を抜けるとき、窓口の横に「落とし物・忘れ物」と手書きで書かれた菓子箱が置かれているのに目が止まった。
僕はその中にハンカチで包んだものをそっと置いた。
「何?」
不思議そうな顔で常盤は僕を見つめた。
「ちょっとね」
思えばそれは僕にとっての標《しるし》のようなものだった。窓口にいた駅員が何か言いたそうに僕を見ていた。
小さなホテルに宿を取っていた。
往《ゆ》く年を送り、新しい年を迎える瞬間に誰かと一緒にいるのは一体いつ振りのことだろう。
穏やかな幸せが胸の中に満ちる。
部屋から遠くのほうで上がる花火を見た。どこかの遊園地のカウントダウンのイベントらしかった。
闇の中に光の花が咲く。
舞い上がる火の粒が夜空を飛び回っている。
誰もが新しい年を祝っている。
僕もそうだ。僕の隣で眠る人の幸せを願う。
額に口づけると、その口元が笑った。引き寄せられ、眠りに落ちる。
明け方──僕はそっとベッドを抜け出して、部屋を出た。
***
あの日。
何か出来ることはと言った常盤に、僕はここに来たいと行った。
連れて行ってくれと。
でも結局はひとりで来てしまった。どうしてもなぜかそうしなければと思ったからだった。
夜が明ける前の青白く、薄い闇が辺りを覆い尽くしている。
世界は青く、ここには僕しかいない。
水音が静かに響く。
思い描いていたよりもずっと、そこは寂しい場所だった。
押し寄せる波が大きな岩の向こうから聞こえてくる。
「馬鹿だな…」
こんな場所で、こんな──
石に穿たれた穴の向こうには何もない。
ただ小さく波を寄せる海があるだけだ。
愛の姿なんてない。
僕はずっと妹に言いたかった。
胸の奥深くにしまい込んだまま、ずっと。罪悪感で重く蓋をして、言ってしまったことの後悔も、後ろめたさも、何もかもをなかったことにした。
僕はもっと妹に寄り添うべきだった。もっと傍にいて、家族だと思いたくないとあいつが言ったとしても、それでも、一緒にいてやるべきだった。
もう来るなと、言ったりしなければ──
「もう25になるんだろ?」
長く遠く迷子のようになってしまった愛のことを思う。
ずっと、僕が言わなければならなかった。
愛に。
「いい加減帰っておいで、僕のところに。──愛」
帰っておいで。
どこにいても。
帰っておいで、僕の元に。
「ずっと待ってるから」
夜が明けていく。
空の端から、暁が燃えていく。
闇を押しのけて朝を目覚めさせていく。
目も眩むような光がすべてを照らし焼き尽くしていく。
死んでいった者、去っていった人、二度と会えない人たち、今日生まれる命も、何もかもを飲み込んで新しい日々が始まっていく。
「直…っ!」
振り向くと、木立の中に常盤が立っていた。
起き抜けにコートを羽織っただけの恰好だった。髪は乱れ、呼吸に合わせて肩が大きく上下に揺れている。
僕は目を瞠った。
「常盤く…」
「──この馬鹿ッ!」
僕の声を遮って常盤は怒鳴った。険しく吊り上がった目で僕を見据え、大股で近づいてくる。大きな手が肩を痛いほどの力で掴み、僕は体ごと常盤の正面に向けられた。
「あんた、なんでそうなんだよ⁉︎勝手にいなくなって…どれだけ心配したと思ってるんだ!」
揺さぶられて僕は声を失った。常盤は泣きそうな顔で、瞳が揺れている。ひどく混乱して怒っていた。僕は謝った。
「ごめ、…ごめん」
見上げると常盤の顔がくしゃりと歪んだ。そのままきつく抱き締められる。
走ってきたのだろう。彼の体は熱く、汗ばんでいた。
「頼むから…もうこんなふうにひとりでいなくなるな」
「…うん」
常盤の背に腕を回し、僕は彼を抱き締めた。
「…もうしないから」
一瞬常盤が息を詰め、それから深く、深く息を吐き出した。
ゆっくりと体を離す。
「帰ろう」
と僕は言った。
常盤が僕の手を引き、歩き出した。
朝陽に海が光っている。
振り返った波の間に、ふと、愛の笑った顔が見えた気がした。
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