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しおりを挟む甘く口の中が香っていた。
無意識に噛み締めているこの甘く香る何かを、南人は知っている。でも、それがここにあるわけはなかった。
なぜだろう。
衿久の声がする。そんなはずはない。今日は来るなと言っておいたのだ。こんな姿を見せたくなくて──こうなると分かっていたから──見られるわけにはいかなかったのに。
倒れる直前の記憶はいつも曖昧だ。今回も同じ。けれど患者の顔も思い出せないほどの意識の混濁は、久しぶりのことだった。今日の患者の傷は前日に電話で聞いていたよりも重く、深く、闇のようで──南人はひと目見て、自身に後で襲い来る混沌を予測することができた。
この人の痛みを失くすことがどんな意味を持つか──
間違いなく、これがそのまま自分に返ってくるのだ。
彼らは時間よりも少し早めに訪れた。
戸口に立つ彼らを見た瞬間、体が震えた。
どうぞ、と招き入れたときには恐怖していた。その恐れを悟られないように、出来る限り微笑んでみせた。
後に引くわけにはいかないのだ。痛みこそが自分がここにいることの糧であり、生きていく証だ。
あと一度の、この人生を生き続けることの意味だ。
でも、と南人は思う。
底知れぬ欲求が、満たされぬ飢えが、自分を食らい尽くしていく。誘惑に負けそうになる心が悲鳴を上げている。
今度こそ──
今度こそ、もう戻れないかも知れない。
手の中にあるものを手放さなければ。
これを食べてはいけないと、朦朧とする意識の中で、南人は何度も何度も自分に言い聞かせた。
***
「…っ」
引き抜いた指には血が滲んでいた。よほど強く噛みつかれていたのか、指先が痛みに痺れていた。だが構う余裕はなかった。
南人をソファに寝かせた後、衿久はリビングのありったけの照明を灯した。それでもまだ部屋は夕暮れのように暗く、部屋の四隅や古めかしい家具の隙間を濃い影が埋めていた。
買ってきたものをローテーブルの上にぶちまける。途中のコンビニであるだけ買い込んできたのだ。
よく見れば南人の好きなものばかりだ。何も考えずに目に付いたものを適当にかごに放り込んでいったのに、おかしなものだった。
「……、…ず」
小さな声がして衿久は振り返った。
目を閉じたままの南人が、乾いた唇をしきりに舐めていた。
「……」
耳を寄せると、みず、と聞こえた。
「水? 欲しいのか?」
頷く代わりに南人はまた唇を舐めた。
「ちょっと待ってろ」
いつも自分用にと冷蔵庫には水のペットボトルを入れてある。それを取りに、衿久は立ち上がった。
喉が渇いていた。
焼けつくような渇きにもがくと、声がした。
体を起こされているのが分かった。力の入らない体を抱き締められ、顎をとられ上を向かされる。
柔らかなものが口を覆った。冷たく甘い水が流れ込んでくる。それを夢中で飲んだ。
何度も何度も水は降ってきた。
柔らかいものは温かくなめらかで、気持ちがいい。触れていたくて、離れていくのを追いかけるように与えられる水を求めた。
喉の渇きが癒えた。
「…と、みなと」
誰かが名前を呼んでいた。
「南人、口開けろ」
ぼんやりと目を開けると、揺れる膜の向こうに誰かがいた。水の底から見上げるように輪郭はおぼろで頼りない。
ほのかな明かりを背に、こちらを見下ろしている。
「南人…ほら、これ好きだろ?」
衿久の声だ。
どうしてこの声が聞こえてくるのだろう。
全身が重く泥の中に沈んでいるようだ。瞼を開けていることもできなくなり、南人はまた目を閉じた。
口の中にそっと何かが押し込まれた。
舌先に好きな味が広がった。これは前に衿久が買ってきてくれたものだ。
「飲み込んで」
唇で食むと、そう囁かれた。言われた通りこくんと飲み込むと、衿久の声が嬉しそうに言った。
「よかった」
口元にまた小さくちぎったパンが差し出される。言われなくとも、今度は自分から口を開けた。
それを何度も繰り返した。
南人が飲み込むのを待って、次の食べ物の欠片が口に入れられる。ゆっくりと、ゆっくりと、根気強く続けられる行為に、南人は胸の奥が暖まってくるのを感じた。自分の内側を流れる血が、人の温かさを取り戻していく。
たくさんの食べ物、たくさんの味を感じた。そのすべてが南人の好みのものだった。
やがて甘い欠片を唇に乗せられた。舌の上で、それは雪のようにすぐに溶けてなくなった。
「…あまい」
甘くて甘くて、けれど、最初に口の中で甘く香ったものとは違っていた。
そう、あれがここにあるはずはないのだ。
きっとあれは夢だ…
「まだ食べるか?」
食べたい。もっと欲しくて頷いた。
衿久の声が笑っていた。その声を聞いて、ふっと体が軽くなった気がした。自分を縛り付けていたものがほどけていく。
南人はゆっくりと瞼を持ち上げた。
まだ水の中にいるように世界は揺らめいていた。
瞬くと目尻から涙がこぼれて落ちた。揺れる視界は涙のせいだったのだと南人は思った。
覗き込んでいる衿久の顔が、ようやくはっきりと見えた。
***
あまい、と呟いた南人に衿久は言った。
「…まだ食べるか?」
南人は頷いた。まるで子供のような仕草に衿久は思わず笑った。
いつか青衣が熱を出して寝込んだときのことを、衿久は思い出した。
あれはまだ祖母が倒れたばかりの頃だ。家の中が小さな棘を撒いたようにささくれ立ち、落ち着かなかった。かき乱された日常の変化を幼い妹は受け入れられずに風邪をこじらせていた。
両親は祖母の病院の付き添いと仕事で家におらず、たまたま試験休みだった衿久が、熱で起きられなくなった妹の面倒を見ていた。
家には青衣とふたりきりだった。
あのときもこうして同じように、青衣の好きなものを買ってきて、小さくしては食べさせていた。
青衣はしきりに祖母のことを聞いた。いつかえってくるの?いつよくなるの?いつ青衣とあそんでくれるの?
『すぐよくなるよ』
熱に潤んだ目で縋るように見上げてくる目に笑いかけた。
『だから青衣も早く風邪治して、おばあちゃんに会いに行こう?』
そう言うと青衣は、うん、と頷いていた。
あのときはまだ、祖母は病室で青衣が行くのを楽しみにしてくれていた…
南人の姿に青衣が重なり、衿久はそっとその髪を撫でた。
ふっと南人が目を開けた。涙の膜が張った瞳が瞬いて、涙がこぼれて落ちた。
「……衿久」
自分を見上げてくる南人を衿久は覗き込んだ。目尻を伝う涙を手のひらで拭いてやる。
「…大丈夫か?」
じっと衿久を見てから、南人は頷いた。
その口に衿久はチョコレートを持っていった。
「開けて?」
素直に開けた唇の隙間から甘い欠片を入れた。指についていた溶けたチョコレートが唇の端についてしまい、衿久は咄嗟に指で拭っていた。その指が南人の舌を掠めた。
慌てて指先を引いた。
南人が衿久を見た。目が合うと、南人はほんの少し微笑んだ。
「……あまい、おまえのゆび」
「え?」
衿久は目を丸くした。南人が笑うのを見たのは、これが初めてだった。
「すごくあまい…」
指には南人の噛んだ跡があった。薄く乾いた血が滲み、溶けたチョコレートがついていた。
きっとこれが甘かったのだろう。
衿久はぺろりと指を舐めた。
「チョコレートだよ」
ほんの少しの血と、甘い味が口に広がる。
南人が不思議そうに言った。
「…どうして来たんだ?来るなって言っただろ…」
衿久は肩を竦めてみせた。
「あんた、いっつもぶっ倒れてるからさ」
その通りだったな、と衿久は続けた。
南人が笑った。
「…犬みたいだ、おまえ」
そう言って、まだ少し涙の残る目で衿久を見上げていた。
***
「……」
明け方、南人が目が覚めると、衿久は南人の傍でソファに伏せて眠っていた。南人の腹の上に、投げ出した左腕が乗っている。もう片方の腕に伏せた顔は南人のほうに向けられていた。
柔らかな毛が足先にくすぐったく触れている。見れば、丸くなったえくぼが南人の足下にうずくまっていた。
部屋は暖かかった。
首だけを動かして見回すと、暖炉には火が灯されていて、まだ燻る小さな火が灰の中で赤く光っている。床やローテーブルの上に散らばった、たくさんのパッケージの残骸が昨夜の出来事を物語っていた。
南人の横で、衿久の肩が規則正しい呼吸に合わせて上下に動いている。閉じられた瞼、ぐっすりと眠る顔はまだほんの少しの幼さがあった。
衿久は家に帰らなかったのか。
南人にはとぎれとぎれの記憶しかない。衿久が家に連絡をしているのをどこか遠くで聞いた気はした。
腕を持ち上げてみると、驚くほどすんなりと動いた。昨夜の粘りつくような重さはすでに消え、いつもの自分を取り戻していた。
どうやら留《とど》まれたのだ──それは、衿久のおかげだった。
深く南人は息を吐いた。
口の中に甘く残る香り。
溶けたチョコレートの甘さの中に混じる、別の甘露が夢のように消えていく。南人は眠る衿久の髪を撫でた。
「ほんと、犬みたいだな…」
呟いた声は誰にも聞こえずに薄闇の中に溶けた。
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