魔術師の子供たち

宇土為名

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 窓から見える月は今日も満月だった。
 家に戻った南人は、ソファに深く背を預け、向かいの窓を見上げる。
 あれは橘花が南人に見せた記憶だったんだろうか。固く閉ざし、二度と開けないと心に決めて──本当に失くしていた思い出。長く生きていくうちに、いつのまにか南人は、自分自身の記憶を捨てることが出来るようになってしまった。
 目を閉じた。
 手のひらにまだ、橘花きっかの温もりを覚えている。
 目を開けた。
 同じような満月だった。
 そう、あの夜、橘花は南人の前に現れたのだ。
 なんの前触れもなく。

 
 佐原は実に多くのものを南人に残して逝ったが、とてもすべてを使い切れはしなかった。
 ここもそうだ。
 その夜南人は離れにいた。
 もう誰も使わないこの離れは明日解体される。その前によく見ておこうと思った。
 障子の向こうが薄明るい。月が出ていた。
 誘われるように障子を開けると、青白い庭を囲む生垣に、小さな体が埋もれていた。
 隠れているつもりなのだろうが、つつじの葉は飛び出した背中を隠しきるには小さすぎて、南人からは丸見えだった。
 子供か。
 裸足のまま庭に下りて、そっと近づいた。
『そこで何してる?』
『っわあ!』
 真上から覗きこんで声を掛けると、面白いほどその子供は飛び上がり、生垣の向こうへ転がり出た。
『こんな夜更けに子供が何の用だ?』
 生垣を挟んで、南人は子供を見下ろした。
 つと、南人は気づいた。
 …女の子?
 薄青い月明かり下、呆けたように南人を見上げる大きな目。白い木綿の浴衣に藍色の百合。闇の中でも分かる、肩までの切り揃えた黒い髪。
 女の子だ。歳は、とおほどか。
『…あの、…』
 思ったよりもしっかりした声で、その子は言った。
『あなたが、わたしのおじいさまですか?』
『──』
 一瞬息を呑んだ南人に、女の子は身を乗り出した。
『おじいさまでしょう?』
 南人は女の子をじっと見つめた。
 幼いその顔には、どこか知った面影がある。
 蓉の、幼いときによく似ていた。
『母親の名前は…、蓉か?』
『はいっ、そうです、村井蓉です』
 ぱっと花が開くように嬉しそうに笑う。
 確か──蓉の夫は村井とかいう軍人だった…
『わたし、…えっと、はじめてお会いします、おじいさまの孫の橘花です』
『…きっか?』
『はい』
 変わった名前だ──愛称だろうか。
 だがその名前は彼女によく合っていた。
 そういえば蓉の子供の名前を知らないのだ。
 聞けば情が移ると、三津にも佐原にも言うなと念を押していたのだ。
 蓉には──蓉は自分を疎んでいたから、自分からは言わないだろうと分かっていた。
 ふいに久しぶりに蓉の顔がよぎった。日置によく似た目元、その目でいつも、胡乱なもののように南人を見つめてくる。
『……』
 あれから何年が過ぎたのだろう。
 佐原と三津が相次いで亡くなってから、南人は必要なときを除いて、誰とも会わなかった。もちろん蓉とも──日置の娘とは、三津が死んだ時点で縁が切れたと思っている。
 彼女にとってもきっとそのほうがいいのだ。
 名ばかりの義父などもう必要ない。
『…それで、何の用だ?』
 感情を込めずに南人は言った。
 橘花は立ち上がり、裾を直すと、たもとの中から小さな包みをを取り出した。生垣越しに南人の手を取り、上向けると、その包みを手のひらに乗せた。よく見ればそれは千代紙で、織り込まれた細かな銀糸が、月光にきらきらと光っていた。
 小さな手の小さな指が、包みを開いていく。
 その中から、橘花は何かをつまんで取り出した。
 南人の顔の高さ手を伸ばしてに掲げ、橘花が見せたそれは、羽を持つ種子、翼果よくかだった。
『…もみじの種?』
『はい』
 空いた手で南人はそれを受け取った。彼女は綻ぶように微笑んだ。
『死んだおばあさまと約束したんです。おじいさまにきっと届けるって』
『え?』
『わたしがいつか種子たねを撒いて、おじいさまにお届けするって』
 種子を撒く?
 三津との約束──何のことだ?
 橘花の言葉は謎かけのように、大事なものが抜け落ちていた。
『これを…?』
 橘花はその問いには答えず、ただ微笑んでいた。
 その蓉とよく似た面立ちに心が波打つ。
 一度も抱いたことのない温もり。
 笑いかけたことさえなかった…
『おまえは…、俺が怖くないのか?』
 南人は言った。こんな姿を見てもおじいさまと自分を呼ぶ橘花を不思議に思った。
 橘花は首を振った。
『だって、おじいさまは魔術師だから』
『──』
 橘花はまっすぐな目で南人を見つめた。
『魔法を使う人は皆歳を取らないでいるんだって、神様に選ばれた人だからって、おばあさまが教えてくれたの』
 三津が──
『……そうか』
 手を伸ばして、柔らかな髪を撫でた。
 驚いて目を見開いた橘花を愛らしいと思った。
『…もうここには来るな。おまえの母親はおまえが俺のところに来たと知ったら、いい顔をしない』
『でも…』
『蓉には言わずに来たんだろう?』
 少し寂し気に、橘花は眉を下げた。
 蓉の住む家は子供の足で小一時間ほどの所だ。
 寝静まったころ、こっそりと抜け出して来たはずだ。
 千代紙に包れた椛の種子をたもとに仕舞い、南人は橘花の頬を指先で撫でた。
 温かく柔らかい、子供の肌。
『もうお帰り』
 送っていくから、と南人は言った。
 見上げてくる目は黒く、空の星を映していた。
 そう、そして…

 
 閉じた瞼からひと筋、涙が伝った。
 南人はそのまま眠ってしまった。
 暗がりの中、小さな足音を立ててやって来ると、えくぼは南人の膝に飛び乗った。首を伸ばし、涙の跡に鼻先を押し付ける。くるりとひと回りして丸くなると、その体温に寄り添うように目を閉じた。

***

 長く突き出た煙突が、高い空に向かって伸びている。
 冬晴れの空にコンクリートのくすんだ灰色を見上げていると、母親が衿久の横に立った。
「今は煙なんて出ないんですって」
 ふうん、と衿久は相槌を打った。
 しばらくふたりでそのまま空を眺めた。
 綺麗に手入れをされた中庭は椛の葉が赤く色づいている。その奥には金色の銀杏の木立、今年の冬は暖冬で、紅葉は例年よりも遅かった。
 衿久たちの前にある美しい台形をしたコンクリートの建物は、最近出来たばかりの火葬場だった。前衛的で美しいガラス張りのそれは、言われなければそうだとは誰も気づかない。空に向かった煙突も、死を送る場所の象徴という役目で、実際に機能はないのだそうだ。
 今は死ぬことも美しく隠されている。
「なんだか信じられないわねー、おばあちゃんがもういないなんて」
「そうだよな…父さんは?」
「泣きっぱなし」
「はは」
「だめよねえ、ひとりっ子は。ふふ、今青衣に慰められてるよ」
「しょうがねえな」
「ほんと、しょうがない」
 夕暮れの中で息を引き取った祖母に、泣き崩れていた父親。祖母の夫、つまり衿久の祖父は父がまだ小学生の頃に亡くなっている。それから祖母とふたり、衿久の母に出会って結婚して、子供が出来て家族が増えたけれど、その寂しさはきっと計り知れないのだろうな、と衿久は思った。
 俺は──
「衿久」
 自分こそ目を赤くした母親に、衿久は視線を向けた。父親のことは言えない。母と祖母はとても、とても仲が良かったのだ。実の親子のように。
「あんたさあ、また習字始めたら?」
「…なに急に」
「おばあちゃんの道具、もったいないじゃない?」
 祖母の部屋の半分ほどを占める、習字教室の道具。捨てられるわけもなく、今やそれを使いこなせるのは、衿久だけだ。
「衿久」
 なんだよ、と空を仰いだまま衿久は返事をした。
「あんたさあ、長生きしなさいよ」
「え?」
「あんたが好きな人のためにも」
「なんだよそれ」
 少しだけ可笑しい。
 でも、そうだ。
「ね?」
 笑うと、母親も泣きながら笑っていた。


 葬儀が終わったその夜、衿久は自転車で南人の家に向かった。
 南人と会うのは3日ぶりだ。
 祖母の病室で別れてから、会っていない。
 あの日、南人は祖母が逝くまで、結局病院にいたのだ。
 どうしてるだろう。
 少し様子もおかしかった。祖母に会わせたときから南人の心はどこか別のところにある気がした。
 心配で別れ際に後で行くからと言ったら、そんな場合じゃないだろうと叱られた。
『俺は、大丈夫だから』
 家族の傍にいろときつく言われた。
「ああ、いらっしゃーい」
 ALTOのガラスの扉を開けると、いつものようにレジカウンターの向こうから北浦が顔を覗かせた。時刻は20時半過ぎ、そろそろ閉店ということなのだろうが、相変わらず人のいない店だ。クリスマスの飾りつけの名残りが、そこかしこに残っている。
 そういえばクリスマスだった。それどころではなかった町田家は、青衣のために大晦日にクリスマスをやるかと言うことになっている。思い出して、衿久は苦笑した。
「お疲れさん。無事終わった?」
「まあなんとか。親父が泣きっぱなしで、俺が挨拶する羽目になったけど」
「はは、それは大変だったね。──あ、はいこれ、請求書」
「ども」
 衿久は北浦が差し出した請求書を受け取り、確認するとコートのポケットから財布を取り出した。
「町田くんが払うの?」
「いや、まとめて預かってるから」
「へーそうなんだ、なんか家政婦さんみたいだね。はい、確かに。領収書書くね」
 おつりのないように出した代金を受け取ってレジに突っ込むと、北浦は後ろのアンティークの棚の引き出しを開けて、領収書を取り出した。棚は木製で、小さな正方形の引き出しがいくつもついている。引き出す持ち手は鉄で、昔使われていた薬草棚と呼ばれるものらしい。
「南人、ちゃんと出てきた?」
「うん、2回ね。水曜日と木曜日。今日は、声掛けたけど出てこなかったから、取っ手に引っ掛けて帰ったけど」
「そっか…」
 差し出された領収書をポケットに入れる。
 最初の日は衿久が連絡をしていたからで、その次もちゃんと北浦から受け取ったことに、衿久はほっとした。今日は眠っていたのかもしれない。
 南人のところに行けなかった3日間、衿久は日に一度、北浦に食事の配達をお願いしていたのだった。一度南人に遭遇していた北浦は、急な頼みを何も言わずに引き受けてくれた。
 自分でもどうかと思うほど、衿久は南人をひとりにしたくなかった。
 なにか──すり抜けていく気がする。
「北浦さんいてくれて助かった。あいつあんなだから、放っとくと全然、食わねえし」
 衿久に背を向けて棚に領収書を仕舞っていた北浦が、振り向いて、少し困ったような笑顔を向けた。
「そう言ってもらえると嬉しいけど、配達はもう出来ないかな」
「あ、いやもう俺が行くから、今回だけ」
 やはり店があるのに迷惑だったか、と衿久が謝ると、北浦は慌てて違うと手を振った。
「ごめんっ、そうじゃなくて!言い方悪かったね、ごめんね、僕いつも言い方下手なんだよね」
 誤魔化すように、はは、と北浦は笑った。
「そうじゃなくてさ…、あの、ここ、今年いっぱいで閉店することになったから」
「…え?」
 急な話に衿久は驚いた。
 今年いっぱい?
 今日は12月27日…確か表の張り紙には仕事納めは29日とあった。
 じゃあ、あと2日?
「なんで──急に」
 そんなこと一言も言ってなかったではないか。
「ああ、うん」
 へらっ、と北浦は笑った。
「相方がさ…あ、パン作ってたやつなんだけど、一昨日売上全部持って逃げちゃって。あはは…」
 だからお終いなんだと、北浦は言った。


「南人?」
 勝手口から入り、衿久は南人の名前を呼んだ。
 また明かりが点いていない。
 暗がりの中で靴を脱ぎ、奥に進んだ。
 キッチンのシンクの横には、3日前の朝に衿久が淹れた紅茶の缶がそのままに置いてある。
 何もない食卓。
 リビングに向かった。
 定位置のソファの上は空っぽだ。
 寒い。
「南人」
 出る時に連絡は入れておいた。
 毎日一度は電話を鳴らした。
 来ることは知っているはずだ。
「南人っ」
 だからどこにも──
「みな──」
 とん、と背中に何かが当たった。
 コートの背をうしろから抱き締められる。
 衿久、と背中に呟く声。
 細い腕が胸に回される。
「──」
 縋りつくように指が服を掴んだ。
 会いたかった、と南人が言った。
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