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エピローグ
しおりを挟む明るい日差しが降り注いでいた。
衿久の家の庭を眺めていると、後ろから呼ぶ声に、南人は振り向いた。
「衿久、蝶が飛んでる」
「え?」
庭木の間をひらひらと薄紫色の蝶が飛んでいた。
春になったばかりの暖かな風が、木の葉を揺らしている。
「ほんとだ」
ことん、と音がしていい匂いがした。ソファの前の小さなテーブルの上、青衣が散らかした本の隙間に衿久が紅茶の入ったカップを置いていた。
「あいつ片付けなかったな」
どけようとする衿久の手を南人は止めた。
「いいよ。帰って来たら同じだろ」
どうせまた散らかるのだから、と南人が笑うと、衿久も笑った。
「まあそうだな」
南人の横に座る。
足下の陽だまりの中に眠っているえくぼの頭を南人はそっと撫でた。
青衣は今、母親と一緒に近所に買い物に出ているのだ。
今日は日曜日。
退院してから二週間ほどが過ぎていた。
左腕のギプスもようやく外れた。
嘘のように痛みはどこにもない。解放された左手を、南人は開いたり閉じたりしてみる。
「だいじょぶそう?」
ああ、と南人は衿久に笑いかけた。
「もうなんともないよ」
「そっか」
「衿久は、準備、出来てるのか?」
「大丈夫」
衿久は秋から専門学校に通うことが決まっている。それは奥村の跡をいずれ引き継いでいくために必要なことだった。大学に通うよりも多く資格を取ることが出来るらしかった。
そして来月には、衿久は南人の家に引っ越してくる。南人は今日衿久の家族に招かれて、朝からここで過ごしている。夕方には父親も仕事から帰ってくるようだ。
カップを持ち上げ、紅茶を飲む。衿久の手が髪を撫でる。くすぐったくて肩を竦めると、衿久が指に髪を絡めて遊びだした。
「…衿久」
「なに?」
「…飲みにくいから」
ふうん、と離れた指にほっとすると、するっと手の中のカップを取り上げられた。
「え?」
唇に触れる気配に、ぺろりと紅茶の雫を舐め取られる。
「ば…っ、んっ」
肩を引き寄せられて深く口づけられる。口蓋を熱い舌が舐め上げ、背筋が震えた。
「──」
玄関が開く音に、びくっと体が震えると、すぐにそれは離れていった。
「残念」
「……っ」
この馬鹿。
衿久が意地悪く笑った。
ただいまーと青衣が駆けこんできた。
「あっ、ちょうちょ!」
庭を見て青衣が声を上げる。言うが早いか庭に駆け下りていった。
「ただいまーサンドイッチ買って来たよ、食べようよ」
と母親がぱんぱんに膨らんだ袋を掲げてみせた。
「おかえり、サンドイッチ?」
「うん、新しく出来てたとこ」
衿久が立ち上がり、袋を受け取る。
「あっ、青衣裸足じゃないっ」
庭で走り回る青衣を見て母親が声を上げた。
「みーくん叱ってよ、甘やかしちゃ駄目よ」
「はい」
言われて南人は苦笑し、青衣を呼びに立った。庭に下りる。
「青衣」
広めの庭のあちこちに植えられた木々の間を蝶を追って青衣は走り回っていた。裸足の足の裏は乾いた土で真っ黒になっている。
「みーくん、みてみて、ちょうちょ」
「うん」
「なんてちょう?」
「何だろうな」
青衣の追撃を躱し、庭の隅にある低木に蝶は止まった。小さな白い花が葉の影にひとつ咲いている。青々とした葉が綺麗だった。
ふと、その葉をどこかで見たことがある気がした。
「あっ」
どこだっただろう?
「あー…」
蝶を逃がした青衣が空を見上げている。蝶は風に乗ってどこかに行ってしまった。
「おいで」
南人が呼ぶと、青衣は振り返って笑った。その低木の枝を手折って、たたっと駆けてくる。
「みーくん、はいどうぞ」
葉のついた枝を差し出され、南人は受け取った。
「これね、いいにおいするの」
葉をひとつ枝から取り、青衣はその葉をふたつに千切った。
「──」
清冽な香りが立ち上る。
同じようなことを夢で見た。
生と死の境目で。
女の子が差し出した枝を取って──
「おばあちゃんのおくすりなの」
「…え?」
にっこりと青衣は笑った。
「このにおい、おまじないなんだよ」
おまじない。
『おまじない』
「やだ青衣、また取っちゃったの?」
南人の後ろから衿久の母親が言った。
「あんまり取ったら葉っぱがなくなるよ」
「いーのー、青衣これすきだもん」
もー、と言う母親に、南人は言った。
「万理さん、これ…」
万理は衿久の母親の名前だった。もう家族なんだから名前で呼んで!と、芦屋と同じことを衿久の家族は南人に要求したのだった。
ちなみに父親は隆文だった。
「これ? 橘だけど」
「──橘?」
ざわっと南人の胸がざわめいだ。
「うん蜜柑みたいな実がなるの。うちのおばあちゃんがね、衿久を妊娠したときにどこからか持って来たのよ。このへんじゃ根付かないらしくって、今まで一度も実なんかつけたことないんだけどね」
「…この、匂い」
衿久が覗きこむように母親の後ろに立っていた。
青衣が持っている葉から漂う香りに、目を丸くしている。
衿久もこの香りを知っているのだろうか。
「こうやって葉っぱを千切るとね、いい匂いがするの。おばあちゃんがしょっちゅう青衣にやらせてたから、癖になっちゃったね」
「青衣すき、これすきっ」
「衿久もやってたわよ、昔」
「俺?」
「覚えてない? ほら、あの森に遊びに行ったりしてたとき…」
青衣に差し出された葉を南人は受け取った。手のひらに乗せて嗅ぐと、胸の奥を透くような香りが体中に満ちていく。
「そういえば、これ衿久の名前の由来よ」
ふふ、とおかしそうに万理は笑った。
「由来って?」
「あー、なんかねえ、橘の実って不老不死の薬って大昔は言われていたらしいのよ。神話もあってね」
とくん、と南人の胸が鳴った。
同じことを、日置が言っていた。
「それでおばあちゃんが、自分の名前にもなってるし、衿久にもこういう名前にしようって思ってたらしいんだけど、難しくってさ」
思い出したように万理はそこで笑い出した。
「なんだよ、早く言えよ」
「いやだって、タチバナってそのままつけるって言うから、それは駄目って言ったら、ほら、変だし! そしたら同じ不老不死の薬で、エリクサーっていうのがあるって調べてきて」
「…それで?」
「それで、そのままエリクサって漢字当てようとしてたから、いや、クサはまずいんじゃないのって言ったのよねえ、さすがに! クサだし! そしたら、じゃあ一文字変えてエリヒサだって」
「はあ⁉」
「わはははは」
なんだよそれ、と衿久が頭を掻きむしる。
「なんで不老不死にこだわんだよっ、わけ分かんねえ!」
万理は笑いながら、衿久に言った。
「なんか、死んでも死なない子にしたかったんだって」
衿久の手が止まった。
「…え?」
南人の胸の中で、とくとく、と心臓が音を立てる。
「好きな人が出来ても、絶対先に死んじゃったりしないような、そんな子にしたかったんだって。あんたが生まれてくる前から、ずっとそう言ってたよ」
橘花。
ああ、と息を吐いた。
南人の目から涙がひとつ零れ落ちた。
「みーくん?」
約束をした。
いつか必ず届けるとそう言っていた。
『おじいさまに、いつか必ず…』
約束を。
「南人?」
こぼれた涙が葉の上に落ちた。
『いつもあなたと共に、あなたといてくれる人がありますように』
届けてくれた。
ちゃんと届いていた。
たくさんのものを。
溢れるほどの果実を南人は受け取っていた。
もうこの手の中にある。
この手の中に。
「みーくんいたいの?」
見上げて心配そうに言う青衣に、南人は首を振った。
「さあ、ご飯にしよっか。ね、みーくん」
万理が南人の涙を拭って言った。
「ごはんー!」
「青衣の好きな卵サンドあるよ」
先に家に入ったふたりの後を目で追っていると、衿久が南人の手を取って繋ぎ、強く握りしめた。
顔を上げると衿久と目が合った。
衿久は柔らかく微笑んでいた。
「行こう」
そう、いつか──
いつか力が戻ってきたとしても、もう迷うことはない。
もうどこにも行かなくていい。夜に、月明かりを頼って歩いて行かなくてもいい。
逃げずに向かっていける。
まっすぐに見つめてくるその目が南人を導いていく。
「衿久、ありがとう。俺を呼んでくれて」
衿久に応えるように、鮮やかな陽の光の中で、花が咲くように南人は笑った。
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