あした魔法が解けたなら

宇土為名

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『どうしていつもそうなの?』
『…なにが?』
『そうやって自分を差し出すやつ』
 千鶴は目を丸くした。まさかそんなふうに言われるとは思ってもみなかった。
『あのさあ、きみ…』
 誰かのひと言が胸に突き刺さる。
 気付かれたくなかったのに。
 勝手に気付いたのはそっちなのに。
『……そうなんでしょ?』
『──』
 息が詰まって声が出ない。沈黙は肯定と同じだ。黙っていては駄目、否定しなければ駄目だと思うのに体は固まって動けない。
『見てればわかるよ』
 そう言って笑う彼が恐ろしかった。
 だから逃げ出した。
 上手く隠しているはずだった。でもばれた。誤魔化し方を知らなかった千鶴は、そうする以外に方法はなかった。

 ***

 カードキーをかざすと小さな音が鳴った。開いた隙間に足先を差し込んで、そこから腕に抱えた体ごと時枝は中に入った。
 背後でゆっくりとドアが閉まる。ホテルのカーペット敷きの暗い廊下に、奥の大きな窓から落ちた外の明かりが斜めに線を引いている。
 もう夜中だ。
 出来るだけ音を立てないように進んだ。
 朝起き出したままのベッドの上に時枝は腕の中の体をそっと下ろした。
「……」
 それを時枝はじっと見下ろした。
 暗い部屋、柔らかな布団の上で固く目を閉じているのは千鶴だった。
 紅潮した頬、起きる気配は微塵もない。
「ったく、…どんだけ飲まされたんだよ…」
 はあ、と深く息を吐きながら時枝はネクタイを緩めた。そのまま抜き取り、近くのソファの上に放り投げる。
 そんなに酒に強いわけでもないくせに一体何をしているんだ。
 スマホを取り出し、通話を掛けた。
「ああ、今着きました。…いえ、とんでもない」
 すぐに出た相手は時枝に礼を言った。さっきバーにいるときに掛けてきた、総務課の中井戸という女性だ。
「知らせてくれて助かりました。はい、それでは」
 お疲れ様、という中井戸に同じ言葉を返して通話を切る。切れたスマホを眺めながら時枝は髪を掻き上げた。
『時枝君、悪いけど三苫君を迎えに来てくれない?』
 二次会で川野に絡まれて千鶴が酒を飲み過ぎたと連絡が入ったのは一時間半も前のことだ。駆け付けた店で目にしたのは、ソファの上で丸くなって眠っている千鶴と、元同僚の沢村だけだった。沢村とは大阪に行くまで同じ部署で働いていた。
『悪い、川野さんがさ無理やり…、おれも中井戸さんも三苫さんの事あんまり知らないし』
『ああ…』
『一番仲いいのはって、思い出したのがおまえだったから』
 まだ近くにいてくれてよかったと、困ったような顔で沢村は笑った。
『中井戸さんは?』
 辺りを見回すが姿が見えない。本社勤務のとき親しくしていた彼女を時枝は店の中に探した。
『終電あるから帰らせた。旦那から連絡来てたしな。おれはこれから彼女んち行く』
『…他の連中は?』
 沢村は肩を竦めた。
『川野さんが暴れ出したから店から連れ出して、あとは知らない』
 そのまま解散したんだろ、と言う沢村に時枝はため息をついた。
『ああそう…』
『ほんっといい迷惑だわ』
 川野の酒癖の悪さは部署内では有名だ。二次会に連れ出った連中は川野のことを知らなかったに違いない。普段関わりのない部署同士の集まりだからそれも仕方がないが、さぞかし皆嫌な思いをしたことだろう。
『…先輩、先輩?』
 時枝は千鶴の体を揺すったが、起きる気配はなかった。
 寝息は一定で、ただ眠っているだけなのにほっとため息が漏れる。これで様子がおかしかったら川野を引きずり回している。
『三苫さんが全部引き受けてたからな』
『え?』
『川野さんが新人に絡んでてさ、それを三苫さんが助けてたらしい。おれちょっと遅れて来て気づかなくてさ』
『ああ…』
 それでこうなったのか。沢村が気づいていれば川野をどうにか出来ただろう。千鶴が酔いつぶれることもなかったはずだ。
 時枝が黙り込むと、じゃあ、と沢村はスマホを取り出し立ち上がった。
『おれタクシー呼んでもらうわ、あとこれ』
 煙草を出して一振りした沢村に時枝は頷いた。沢村はヘビースモーカーだ。時枝が到着するまで、ずっと我慢していたのだろう。
『ああ、頼むよ』
 カウンターの中にいた黒服の男性と話したあと、沢村は外に出て行った。ホールを回っていた従業員の女性が散らかったテーブルに氷の入ったグラスを置いた。
『よかったらどうぞ』
『いえ──』
『水ですから』
 くすりと笑われ口を付けてみれば、確かに水だった。一気に半分ほど飲んでしまい、その時になって自分が水を欲していたことにようやく時枝は気がついた。先程のバーからここまで走ってきたのだから、それも当然かもしれなかった。
 タクシーを捕まえるよりも早い。
 テーブルを片付け始めた彼女に時枝は頭を下げた。
『すみません、お騒がせを』
『いいえ。よくあることですし』
 気にしないで、と女性は手を振った。
『タクシーそろそろ来るぞ?』
 煙草の匂いを纏い沢村が戻ってきた。時枝は立ち上がると意識のない千鶴の体を抱え起こした。
『ところでおまえ三苫さんち分かるんだろ?』
『──ああ』
 少しの間を置いて時枝は答えた。
 知りすぎるほど知っている。
 タクシーに乗り込み、沢村とはそこで別れた。

 ***

 白いシーツに埋もれる千鶴を時枝は見下ろした。
「千鶴?」
 運ぶ間も全然起きなかった。
 固く閉じた瞼。
 横を向く、さらされた細い首筋。
 くしゃくしゃに乱れた髪。
 体の横に腕をつき、ゆっくりとベッドに乗り上げる。
 時枝の重みでマットレスが沈み込んだ。
「脱がすよ」
 スーツの上着を着たままだった。寝かせる前に脱がすべきだったが、忘れていた。首の後ろを支え、肩を抜く。相変わらず細い骨格、細い首筋にきゅ、と胸の奥が軋んだ。
「んー…」
「すぐ済むから」
 結局、時枝は千鶴のマンションではなく、自分の滞在しているホテルに連れてきた。二年前は毎日のように入り浸っていたあの部屋に、今は行っては行けないような気がしたからだ。
 ん、と千鶴が身を捩り、時枝は手を止めた。
「千鶴?」
 会社や人の前では呼ばない名前。ふたりきりのときだけの呼び方は久しぶりだ。
 彼とは一年ほど付き合っていた。
 ふたつ年上の千鶴は時枝の教育係だった。打ち解けて、仲良くなった。互いの家を行き来するようになったころ千鶴がゲイだということに時枝は気づいた。そしてある夜、彼の自宅で酒を飲み、酔った彼に告白した。
『俺、先輩の事好きです』
 青褪めて声も出なくなるほど驚く千鶴に、時枝は自分が男女とも愛せる人間だと告げた。千鶴は戸惑っていたが、時枝は半ば強引に彼を愛した。
 付き合いは順調だった。だがある日突然千鶴が別れたいと言い出した。理由を聞いても何も言わず、喧嘩をして──二年が過ぎた。運の悪いことに転勤と重なり、別れ話の途中で離れてしまった。電話をしても当然のように千鶴は電話に出ず、メッセージにも応答がなかった。そのうち時枝も転勤先での業務内容の多さに忙殺され、千鶴と連絡を取る暇もなくなってしまった。
 何度かタイミングはあったのに、時枝は大丈夫だと高を括っていた。
 時間が経てばまた話せると思った。
 ちょっとしたすれ違いだったのだ。状況が落ち着けば──また。
 元のようになれると。
 今回、研修のリストの中に千鶴の名前を見つけたときはチャンスだと思った。これ以上の機会はない。千鶴に会える喜びで時枝は舞い上がっていた。
 だが。
『何?』
 千鶴はそう簡単ではなかった。
 最初のひと言を間違えたと気づいたときにはもう遅かった。
 あんな言い方をするべきではなかったのだ。
 時枝は千鶴の額に掛かる髪を指先でどけた。綺麗な形の額にかすかに残る傷跡をそっと撫でる。
 ずいぶん昔に出来たと聞いた傷跡。
「甘かったな」
 もっと、簡単に行くと思っていた。
 何事もなかったかのようにこの手に取り戻せると思い込んでいた自分に、時枝は苦く顔を顰めた。
 子供のように体を小さく丸めた千鶴に時枝は手を伸ばした。このまま寝かせるつもりでベルトを外し、前を緩める。首に食い込んだシャツの襟元が気になって、ネクタイのノットに指をかけて解いた。シャツの一番上のボタンを外し、二番目も外す。
 けほ、と千鶴が咳き込んだ。
 薄目が開き、ぼんやりとした目が部屋を彷徨う。時枝はその目を覗き込んだ。
「起きた?」
「…」
「千鶴?」
「…ん」
「水は?」
 開いた瞼はまたすぐに閉じた。こくりと頷いたのにほっとして、時枝はベッドを下りた。
 水なら備え付けの冷蔵庫にある。他のものは何もないが。コップに入れサイドテーブルに置いた。
「起こすよ?」
 時枝は千鶴の体を起こした。自分の体に寄りかからせる。
 俯く顔を上向かせ、頬を軽く叩くと千鶴が目を開けた。
 あれ、と小さく呟くのに時枝は苦笑する。
「…え…?」
「水だよ」
 半開きの口元にコップを当て、ゆっくりと傾けた。透明なそれが千鶴の唇を濡らし、ひと口、千鶴の喉が上下して、またひと口。
 千鶴の指が時枝の持つコップに触れた。無意識な指先が時枝の指の股を撫で上げた。
「……、っ」
 びくりと震えた手からコップが落ちた。まだ半分ほど残っていた水は千鶴のシャツを濡らし、シーツの上を転がって下に落ちた。
「ごめん」
 ぼんやりと時枝を見上げる千鶴は、何が起きたのか認識していないのか、緩慢な動作で緩く首を振った。
「拭くもの持ってくる」
 千鶴を寝かせ時枝は洗面所にタオルを取りに行った。急いで戻れば、千鶴はまた目を閉じていた。
「……千鶴?」
 呼びかけても目を開けない。
 緩やかな寝息。
 濡れたシャツから肌が透けている。スラックスの腰回りも色が変わっていた。時枝はスラックスを脱がせると、千鶴のシャツに手をかけ残りのボタンも外していく。
「んー…ぅ、」
 むずかるように千鶴が身を捩った。やめて欲しいのか、時枝の手をどけようとする。大して力の入っていないそれに構わず、時枝は手を動かした。
「着替えよう、ね?」
「…」
「千鶴はなんにもしなくていいから」
「ん…」
「俺がしてあげる」
 ね、と耳元に口を寄せ低く囁いた。千鶴はすう、と息を吸い込み深く吐き出した。ゆるく掴んでいた時枝の手首から、ぱたりと指が離れてシーツに落ちた。
 再び眠ったのか。
 時枝は息を吐き、脱衣を再開した。
 肩を抜き貼り付いたシャツを下ろす。
「……」
 白い肌。
 相変わらず細いなと思う。
 肉のない平らな腹は零した水で濡れていた。間接照明の柔らかな光にそれはなまめかしく映る。
 ぞく、と腰から下が重くなった。体の奥から湧き上がってくる熱が出口を求め腹深くに籠る。ゆっくりと吸い寄せられるように顔を寄せ、時枝は濡れた肌を舐めた。意識のない体はされるがまま横たわっている。
 規則正しい呼吸。
 心音に耳を澄ませながら、時枝は千鶴の下半身を抱いた。
 どんな女よりも細い腰。
 何度も、何度も開かせた脚。
 ひそやかな奥の温かさを知っている。
 千鶴の声の、その甘さも。
「──」
 時枝は目を閉じた。
 肌に緩く歯を立てる。そのまま己が満足するまで舐めしゃぶり噛みつきたい衝動を堪え、ゆっくりと体を離した。
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