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しおりを挟むまだ五月にもなっていないというのに外は異様なほど暑かった。ここ連日の晴天の影響からか気温は上がる一方で、もう夏の顔を覗かせている。
「…暑い」
出来るだけ日陰を歩きながら千鶴は呟いた。涼しい場所を選んではいるが、それでも強い日差しが堪える。上着を脱ぎたい気分だがそうもいかないのはこの業種の辛いところだ。
「もうすぐですよ」
少し前を歩く時枝が肩越しに振り返った。ちらりと目線をやって千鶴は頷く。妙に足取りが重いのは、なにもこの気温のせいだけではないかもしれない。
「しっかりして?」
「分かってる」
うるさいな、と口に出さずに毒づく。
分かっていることを、分かっているのかといちいち問われたくない。しかも時枝に。大体、どうして、なんで──
(俺とこいつが組まされてんだよ…!)
誰の仕業だと千鶴は声を張り上げたいのを我慢した。
プロジェクトチームに参加した初日、蓋を開けてみれば新規開拓として二人一組の営業チームが組まされていたのだが、それがよりにもよって時枝とだった。
八人もいる営業職の組み合わせなんて二十八通りもある。
その二十八分の一を見事に引き当てた。
「ついてない…」
半数は知った顔だ。時枝以外なら他の誰でもよかった。
「着きましたよ」
「ああ」
入り組んだビルの並びのその裏にある営業先は、一見どう見てもテナントが入っているふうには見えなかった。だが確実にここなのだ。
時計を見れば約束の時間八分前だった。最寄り駅から歩いて十分ほど、事前に調べておいて正解だった。
「行くぞ」
エレベーターのないビルだ。正面入り口から扉を開けて中に入ると左手に階段がある。千鶴は時枝の先を歩き、階段を昇った。
アポイントを取った時点から薄々気づいてはいたことだが、実際会った今日の相手はなかなかの癖者だった。失礼します、とドアを閉める瞬間まで気が抜けない。一見にこやかに見送ってくれてはいるが、腹の中では何を考えているか分かったものではないからだ。
千鶴は大袈裟過ぎない笑みを顔に貼り付けたまま、頭を下げドアを閉めた。そして五秒数えてから顔を上げ、後ろに立つ時枝を促して階段を下りた。
ビルの外に出て数歩歩き千鶴は足を止めた。出てきたばかりの建物を見上げると、窓の傍に人影があった。
千鶴はそれにも笑顔を作って頭を下げた。
光の反射と角度で表情までは見えない。
でも、見えないからといって疎かには出来ない。
「行くぞ」
自分の後ろで同じように頭を下げた時枝に言うと、来た道を辿りその場を後にした。
「嫌な感じでしたね」
「…言うなよ」
本当の事だが口に出して言ってはいけない。ここは外で、誰が聞いているか分からない。それこそまだ相手の敷地内みたいなものだ。
「疲れたな」
どっと体が重く感じた。少し前を歩いていた時枝が近くの店を指差した。
「少し寄って行きません?」
「え?」
驚いて千鶴は店と時枝を交互に見た。
「昼もまだだし」
「あ」
言われて千鶴は気がついた。そういえば昼を食べていなかった。約束の時間は十一時で、今はもう十四時を回っている。
どうりで腹が減るわけだ。
「忘れてた」
「だと思った」
揶揄うように言われ、千鶴がむっとした顔をすると時枝は何も言わずに店に向かいだした。人の意見は無視かよ、と悪態を吐きながら千鶴はその背中を追いかける。まだ良いとも悪いとも言っていない。大体何の店なのか。
やたらでかい背中で何も見えない。
「おい…っ」
店の扉が開き、続けて入った千鶴にいらっしゃいませ、と声がかかった。
「まだいいですか?」
入り口で立ち止まった時枝の背中に鼻先からぶつかった。
はい、と時枝の向こうからにこやかな声が聞こえた。
「大丈夫ですよ、お席ご案内しますね」
「どうも」
時枝が歩き出す。店員について行く彼の後を渋々千鶴は追った。店内を漂ういい匂いにぐっと空腹を感じる。それまで全然そんな気配もなかったのに、人は不思議なものだ。
「どうぞこちらに、二名様ですね」
「はい。…先輩?」
そこでようやく時枝は後ろの千鶴を振り向いた。
「どうぞ」
「……」
4人掛けのテーブルの奥を示される。ごく当たり前のようなその仕草に千鶴は押し黙って座った。
「ランチ、まだ少し残ってますから、よかったら」
「ああ、ありがとうございます」
にこやかに時枝は店員からメニューを受け取り、テーブルに広げた。
「どれにしますか?」
言いながら千鶴に向けてくるりとそれを回した。今時珍しく手書きのメニューはやたらと年季が入っていて、料理名だけで食欲をそそられる。今の時間は2種類のランチを出しているようで、店員はその内容を簡単に説明してくれた。
「うわどうしよう」
どちらも甲乙つけがたい。足して二で割ったらちょうど好みのメニューなのにと、千鶴は悩んだ。
「じゃあひとつずつ下さい」
「え」
「かしこまりましたー。食後のドリンクはいかがしますか?」
「コーヒーと、カフェオレでも?」
「はい、50円プラスですが」
「じゃあそれで」
「かしこまりました」
「え、ちょ…」
目の前で勝手に話が進んでいく。茫然とした千鶴の前から店員はメニューを取り上げて、さっさと行ってしまった。
「なんで勝手に頼むんだよ!」
「先輩決められないでしょ」
「き…っ」
「こういうの苦手なくせに」
ぐ、と千鶴は言葉に詰まった。確かに千鶴はこういうのが苦手だ。メニューを決められない優柔不断さ。いつも最後の二つで迷うのだ。
「シェアすればいいでしょ」
「シェアって…」
「文句言うなら食わないでくださいよ」
「は?!食うし!」
ムッとして千鶴がテーブルに乗り出すと、ふっと時枝は笑った。
「じゃあいいじゃないですか」
くく、と喉の奥で笑う独特な笑い方、グラスを持ち上げて千鶴を見ながらわざとらしく水を飲む。
こいつ…
(面白がって…!)
敬語にさえ腹が立つ。今は仕事中でそれが当たり前なのだが、時枝の言葉には含みしか感じられなかった。
先日の失態がちらちらと頭を過る。
あれからもう一週間が経つ。時間が経つのは早いものだ。向かい合って座る気まずさにも少しずつ慣れつつある。
良いのか悪いのか…
時枝の表情は相変わらず考えが読めない。
「お待たせしましたー!」
頬杖をついたところに店員がやってきた。先程とは違う男の店員で、やたらとガタイが良い。
「アジフライ定食、どこ置きましょうか」
腕すごいな。
「先輩」
俺の二倍はある…
「先輩」
「え、あ」
思わず見惚れていると、時枝に声を掛けられた。我に返れば宙に浮いた皿が目の前にある。
「あ、っすみません…!」
テーブルに乗り出した体が邪魔で置けないのだと慌てて千鶴は身を引いた。いいえ、とマスクをした目元が微笑み、千鶴は気恥ずかしくなった。
「アジフライと、唐揚げ盛り定食ですねー、取り皿もどうぞ。ごゆっくり」
そう言って男性店員は厨房のほうに消えて行った。
「うわ美味そう」
いい匂いに刺激されたのか大きな音で腹が鳴った。赤面しつつ二つの皿を見比べる。色よく揚がった大きなアジフライとひと口では食べきれない大きさの唐揚げ。どれからいこうと迷っていると、いきなりアジフライが消えた。
「あっ」
箸で掴んだ時枝が大口を開けて齧り付く。皿に戻されたアジフライは半分以上も欠けてしまっていた。
「なっ…、シェアは?!」
「残りどうぞ」
「はア?!」
言い出したのはおまえなのに?!
「それ俺の好物!」
「唐揚げがありますよ」
「そうだけど…っ」
肉もいいが魚のほうが好きなことを、時枝はよく知っているはずだ。忘れたのならともかく──
「…、っ」
言い返したい言葉をぐっと飲み込んで、千鶴は唐揚げを皿に取った。形よく盛られたほかほかの白飯と一緒に頬張る。その美味しさに、今感じた苛立ちも吹き飛んでしまった。
「うまっ」
「そうですね」
感動して顔を上げると、時枝も皿に取って食べていた。相変わらず澄ました顔で綺麗に食べる。
「俺3つ食べていい?」
「どうぞ」
「フライはやるよ」
三分の一残ったアジフライの皿を時枝のほうに少し押しやった。時枝はちらりとそれに目をやると、千鶴を見た。
「いらない?」
「唐揚げの気分になったから、いいよ」
唐揚げは大きめで3つも食べれば腹いっぱいになりそうだった。それにご飯とみそ汁も付いている。食べ過ぎれば眠くなって仕方がないし、ちょうどよかった。
一瞬、時枝の視線を頬に強く感じた。
「じゃあ遠慮なく」
中央の皿からフライを箸で取り、時枝は自分の皿に移した。それを視界の端で感じ取りながら千鶴は食事を続けた。
お互いに黙って食べ続ける。
店内の騒がしさ。
落ちた沈黙に、ふと居心地の悪さを感じた。
「……」
え、何?
何だこの空気。
(…え?)
自分の発言を思い返してみる。特に何か含んで言ったわけではないが、少し嫌味っぽかったかもしれない。
え、と箸が止まった。
それで?
ちらりと目を上げると、時枝は黙々と食事をしていた。普段よく喋る分、黙られると妙な気分になるのは前と同じだった。
「ここ当たりだったな」
「ですね」
当たり障りなく振った会話はすぐに途切れ、テーブルの上で消えた。千鶴は何かを言いかけてやめ、また食事に戻った。窓の外を見る。行き過ぎる人たち。ガラスに映る時枝の表情には見覚えがあった。
怒っているのか。
これは多分そうなのだ。
静かに、何も言わずに怒っている。
だが何か怒るようなことがあっただろうか。
(なにもしてないよな)
いや、はじめに仕掛けてきたのは時枝のほうだ。
俺が悪いんじゃない。
なんで俺が気を遣わなきゃいけない?
怒りたいのは俺のほうかもしれないのに?
おまえだって──
忘れたのか、なんて口が裂けても言えない。
もやもやした気持ちを抱えたまま食べ続ける。
「よかったら、そろそろ飲み物お持ちしましょうか」
食べ終えるころ、最初に案内してくれた店員が声を掛けてきた。そろそろランチ時間も終わりなのだろう。はい、と千鶴は頷いた。終わった皿を小気味よい音を立てながら下げていく。手際がいいな、と店員を改めて見れば、彼女は随分と若かった。
「大学生?」
「え?」
しまった、と我に返ったがもう遅い。考えるよりも先に声に出していた自分が恥ずかしい。これではまるでナンパみたいだ。
慌てる千鶴にあはは、と彼女は笑った。
「わかりますー?私ここの娘で、今日は大学サボってバイト中です」
「そ、そうなんだ」
「うちの父親偏屈だからバイトすぐ辞めるんですよね~」
明るく大きな声で笑うと、店の奥を指差した。おそらく調理をしているのが父親なのだろう。
厨房の入り口に立っていた男性店員がこちらを見て困ったように笑っていた。先程食事を運んできてくれた彼だ。
「じゃあ彼もご家族?」
「あ、あれは私の彼氏です、無理やり手伝わせてます」
あはは、と笑うと彼女は汚れた食器をお盆に載せてそちらに歩いて行った。彼氏と言われた彼は彼女のお盆を受け取るとふたりで仲良く厨房に入って行く。じゃれ合う姿に思わず見入ってしまう。微笑ましい光景だ。
自分には中々来ない世界。
あんなふうには出来ない。
「残念でしたね」
不意に言われて千鶴は目を向けた。
残念?
何が?
「?何のこと?」
「……」
時枝はじっと千鶴を見ている。
「何でもないです」
そうか、と言いかけた千鶴のスマホがテーブルの上で震えた。社用のスマホなので業務関連のメールだった。
「お待たせしました、コーヒーと、こちらカフェオレになります」
「ありがとう」
「あの、入り口閉めちゃいますけど、全然構わないんで。ごゆっくりどうぞ」
彼女はそう言って立ち去ると、他のテーブルの客と話し出した。見れば入り口にはいつの間にかクローズの貼り紙が貼られている。その店内にはまだ何組か客がいて、皆ゆっくりと食事をしたり飲み物を飲んでいる。
「いいとこだな。次もここにしようか」
今日行った会社にはまた行かねばならない。どうせ次もまた疲労困憊するやり取りが待っているのだ。帰りに美味いものを食べるのくらい楽しみがあってもいい。
カフェオレに砂糖を入れようと手を伸ばした。だが一瞬早く千鶴よりも先に、時枝がソーサーに付いていたシュガーパックを開けていた。あ、という間もなく、カフェオレにそれを入れた。
くるくるとスプーンで掻き回し、千鶴のまえに押しやった。
「どうぞ」
複雑な気持ちでカップを手に取った。カフェオレの表面がゆらゆらと揺れている。
「…あのさあ」
「誰も見てません」
「そういう問題じゃなくて…」
もう別れた相手にすることじゃない。本来この状況もあり得ないことだ。
「おれとおまえは──」
ふっと外に目を向けた時枝の視線を追って、千鶴も窓のほうを見た。流れる人の波に、ぎくりと体が固まる。
(え)
今──
今。
「先輩?」
窓の外を見たまま動かなくなった千鶴に時枝は眉を顰めた。
「どうしたんですか?」
「え、…いや」
気のせいか?
いや、気のせいだ。
このまえ久しぶりに夢を見たからだ。
多分そう。
「これ飲んだら戻ろう」
窓の外を見るのをやめ、カフェオレを飲んだ。
好きな甘さ。
好きな飲み物。
何も言わなくても用意されている。
「なあ、時枝」
「はい?」
「俺とおまえはもう仕事上の繋がりしかないんだよ」
ただの同僚。
ただの先輩と後輩。
「それ以上でもそれ以下でもないから」
向き合って話をする。まっすぐに前を見て。
その視線の先に時枝がいても、焦がれるような感情を含むことはない。あの頃のような胸が締め付けられるような愛情は、全部封じ込めてしまった。
「理由を俺はまだ聞いてないよ?」
しばらく黙っていた時枝が、こつ、とテーブルを人差し指で小さく叩いた。斜めに差し込む午後の日差しがその爪に白く反射している。
千鶴のスマホがまた震えた。
今度は着信だ。いい加減社に戻る時間だった。
「はい、三苫です」
掛けてきたのは総務の知り合いだった。提出した書類に何か不備でもあったのかと通話を繋げた千鶴に、相手は思いもかけないことを告げた。
「…え?」
『お客様がお見えです』
お客?
『あと三十分ほどなら待つと言われていますが、どうします?』
「名前は…」
わざわざ職場を訪ねてくるような知り合いはいない。
家族とももうずっと疎遠だ。
一体誰だと、胸の中がざわりとした。
さっき一瞬見たような気がした人影に、鼓動が早くなる。
ああ、と相手は謝った。
『ユラ様です』
ユラアヤト様、と平坦な口調でゆっくりと繰り返した。
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