あした魔法が解けたなら

宇土為名

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 その新人はどこか達観したような顔をして、周りの空気に溶け込んでいた。
『じゃ、よろしく頼むな』
『あ…はい』
 上司はそう言うと強い力で千鶴の肩を叩き、さっさと自分のデスクに戻って行った。たった今挨拶を交わしたばかりだと言うのに、もうこちらの事にはまるで興味がなさそうだった。
 実際そうかもしれなかった。
 その当時の上司はあまりやる気のない人で、その後一年も経たずに他の支社へと移動となった。その移動は本人の希望であったらしく、本社の忙しなさから解放されたいというのがその理由らしい。そんなことで勤務先の移動など本来出来るはずもないのだが、彼が創業者の血縁であったことから、その噂は本当かのように社内に広まり知らない者はいなかった。
 スマホを弄り出した上司にため息を落として、千鶴は目の前の新人を見上げた。
 177の自分よりもわずかに高い。
 渡された資料の名前を見て少しだけ緊張する。
 同じ名前。
『ええと、…時枝、綾人くん?』
『はい』
『きみの教育係の三笘です。よろしくお願いします』
 得意の営業スマイルで頭を下げると、時枝からは一瞬遅れて同じように返された。
『…よろしくお願いします』
『……? なに?』
 じっと見下ろしてくる目に思わず戸惑う。
 まっすぐに見つめ返されて息が詰まった。
『…なんでもないです』
 と時枝は言った。

 ***


 いつ眠ってしまったのだろう。
「……」
 目が覚めると千鶴はひとりだった。
 帰ってしまったのか、時枝は隣にいない。ぼんやりした頭で千鶴はため息を吐いた。
 人を散々抱き潰しておいて…自分はさっさと帰るなんて。
「…最低だな」
 声は枯れ切っていた。
 久しぶりの行為に体はまだ動かない。
 起きているはずなのに意識はまだ微睡みの中だった。
 体が全部溶けてしまったようにベッドの中に沈んでいる。
 指一本動かせない。
「…ん、…」
 家のどこかで音がしている。
 いつもの聴き慣れた音だ。
 多分、スマホの目覚ましを掛けたままだったのだろう。
「……んん」
 癖でシーツの上に手のひらをあちこち滑らせるが、やはりスマホは見当たらない。
 どこに置いてきたっけ…
 そのうちに音はぱたりと止んだ。家中がしんと静まり返る。今何時なのか確認したいが探すのもひどく億劫で、もう一度眠りたいと千鶴は瞼を閉じた。
 だが、今度は別の音が鳴り響き出した。
 電話…?
 放っておこうかと思ったが、昨日も途切れ途切れの意識の中で電話が鳴っていたことを思い出した。
 プライベートと仕事は着信音を分けていて、今鳴っているのはプライベートのほうだった。
 普段電話なんて滅多に掛かって来ない。
 昨日から、同じ人なんだろうか?
 いい加減出ておいた方がいいかもしれない。
 ゆっくりと千鶴は怠い体を起こした。ベッドから降りようと脚を伸ばして、ぎょっと体が固まる。
「…っ」
 ついこの間もこれに似た状況だった。
 だが今日はもっと酷い。
 むき出しの肌に散らばる痕。
 赤い鬱血が太腿の内側にびっしりと付いている。
「──」
 ぼんやりしていた頭が一気に覚醒した。
 カッ、と全身が熱くなった。
 こんな、まるで、所有するみたいな──
「…くそ、もう、なに考えて…っ」
 ごし、と握った拳で痕を擦った。消えるわけなんてないのに馬鹿だ。こんな痕を残すくらいなら。
 なんで。
 鳴り続ける着信音に千鶴は寝室を出た。マンションは1LDK、ドアを開ければ短い廊下があり、すぐにリビングだった。
 リビングに入ると、ソファの上に千鶴の荷物は置かれていた。嫌味なほどきちんと整えられている。音は鞄の中からだった。目尻を拭って鞄を開けると、スマホはそこにあった。
「──は、…」
 出た途端ぷつりと切れた。
 一瞬遅かったか、とスマホを耳から離す。昨日から何だろうと履歴を見て、千鶴は目を丸くした。
 礼人だ。
 昨日からずっと掛けてきたのは礼人だった。
 何の用だろう。
 先日の別れ際、また連絡すると言っていたが…
 しばらくないものだと思っていた。
 ずきりと胸の奥が軋む。
「……」
 ソファに腰を下ろし、千鶴は礼人に折り返した。もうこちらにはいないはず──すぐに戻ると言っていた。
『千鶴?』
「あ、うん」
 すぐに出た礼人に知らず千鶴の声が上ずった。
 気づかれないように深呼吸する。
「ごめん、出れなくて」
『いいよ。こっちこそ何度も悪いな。仕事中だった?』
「ん…」
 そう、と頷いた。昨日のことを思い出してカッと体が熱くなる。時枝に車の中でされた色んな事が蘇ってきて、千鶴は背中を震わせた。
『そっか、ごめん。教師とかやってると世間とちょっとずれちゃうね』
「いや、たまたまだし…それでどうかした?」
 赤い痕が散らばる自分の脚が目に入り、慌てて履くものを探した。だがそれらしいものなどこの部屋にはなく、千鶴は仕方なしにソファの端にあったジャケットを引き寄せて脚を包んだ。
『ああ、また今月そっちに行くから会えるかなって。それと』
 一瞬礼人の声が遠ざかった。すぐに気配は戻ってきて、何かを開く音がした。
『同窓会があるの知ってた?』
「え…」
 同窓会、と口の中で呟く。
『おばさんから招待状預かってたんだ。家のほうに届いたからって。この間渡しそびれてて』
 どうする? と問われる。
『次会うまで待ってたら出欠間に合わないかもと思って。そっちに送ろうか』
 だが千鶴の答えは決まっていた。
「いやいいよ。礼くんそれ開けて、欠席で出しといてもらえる?」
『行かないのか?』
「今忙しくて」
 心配そうな声に努めて明るく言うと、わかった、と礼人は言った。
『じゃあ開けて、写真送るよ』
「いらないよ」
 千鶴は苦笑した。
『そうか? 中見なくていいの?』
「いいよ。どうせ日付と会場だけだよ」
『ああ…ほんとだ。わかった』
 かさかさと髪を開く音がして礼人は笑った。千鶴の言った通りだったのだろう。
『じゃあ欠席で出しておく』
「うん」
 それじゃ、と言った礼人に千鶴は頷いた。
「またこっち来る日決まったら連絡してよ」
『うん。大体は決まってるけど』
「いつ?」
『ええと、…』
 ちょっと待って、と礼人が言った。遠くから誰かの声がする。今日は土曜日、もしかしたら誰かが家にいるのかもしれない。
 足に掛けていたジャケットがずるりと床に落ちた。慌てて千鶴は拾い上げて手が止まった。
 これ、俺のじゃない?
 では誰の──
 かたん、と小さく響いた音に千鶴は振り向いた。
『来週の金曜から──』
 伸びてきた腕に、あ、と声を上げる間もなく千鶴は後ろから抱き締められた。強く引き寄せられスマホを取り落としそうになる。
「ちょ…っ」
 なんでいるんだ?
『ちづ?』
 いきなり現れた時枝に思わず声を上げると、礼人がどうかしたか、と言った。
「な、んでもない…っ、ごめん礼くんまた掛けるから…!」
 礼人の返事も聞かず、ぶつりと千鶴は通話を切った。そして息苦しいほど抱き締めてくる時枝を振り向き睨みつける。
「おまえ、なんでいるんだよ…っ帰ったんじゃ──」
 睨みつける千鶴をじっと見返した時枝は、千鶴が握りしめているジャケットに目を向けた。
「それ俺のだけど」
「だから…っ、そうだけど!…、ぁ…っ」
 首筋を唇が滑る。びくりと肩を揺らすと、下から上がって来た唇に耳朶を食まれた。
「ん…!」
「俺の服持って、…寂しかったの?」
「ばっ、何言って…っ、あ」
 息を吹きかけられればひとたまりもない。昨夜散々弄ばれた身体はあっけなく火がついて溶けだしていく。
「飯買いに行ってただけ。帰るわけないよ」
 こんな千鶴をひとりにするなんてないだろ。
 抱き込まれたままソファの上で時枝の膝に上がる。背中を向けた体勢だ。びくびくと跳ねるむき出しの脚を、ざらりとした時枝の手のひらが撫でていく。
「あ…っ」
「俺のこと信じてくれた?」
 宥めるように体をまさぐられ、千鶴は首を振った。
「やだ、っ、俺は…!、おまえのこと、なんか…っ」
 嫌いだ。
 きらい。
 話を聞かないところも強引なところも、全部。
 全部。
「俺は千鶴が好きだよ」
「……っ」
「大好き。他の誰も要らないくらいに」
「……、…ぁ、ア…!」
「千鶴」
 内腿を撫でていた時枝の手が千鶴のペニスに触れた。軽く触れられただけでそれはもう固く張り詰めてしまって、どうしようもない。痙攣する下腹を反対の手のひらで撫でられると千鶴の息は上がっていくばかりだった。
「あ、…も、や…ぁあ!」
「千鶴…また俺と付き合って」
「や、や…だ」
 それだけは嫌だ。
 激しく首を振ると、ペニスの先端をかりかりと引っ掛かれた。身体から堕として言わせる気なのは見え見えだった。
「どうして?」
「んんン…!んあ、ああああっ」
「なんで駄目なの?」
 なぜ?
 背を仰け反り千鶴ははくはくと息をした。
 誤解だったとして──あれが本当だったとして、でももう同じ思いは二度としたくない。
 あんな苦しいのはもう嫌だ。
 三度目があったらもう耐えられる気がしない。
「千鶴?」
 返事を促すように時枝が名前を呼んだ。
 ゆっくりと、千鶴は時枝を振り返った。
「無理…っ」
「え?」
「も…っ、次あんなことあったら、おれ…っ」
「──」
「怖くてやだよ…!」
 自分がどうなるか分からない。
 こんなんじゃなかったのに。
 こんなふうに求めてしまうのは誰のせいだ。
「ごめん、ごめんね」
「全部おまえのせい…っ」
「うん」
「おまえが…!」
「分かってる」
 うずいてうずいて仕方がない。
 欲しい。
 欲しい。
 奥まで──
「全部…責任取るから」
 喘ぎながら嫌いだと繰り返す千鶴の唇を時枝は塞いだ。


 ***


「?」
 急に切れてしまった通話に由良礼人は首を傾げた。幼馴染の千鶴の声の向こうに誰かがいる気配がしたが、自宅ではなかったのだろうか?
 まあいいか。
 手の中にある封筒をテーブルの上に置き、中に入っていた返信用のはがきをその横に並べた。千鶴は要らないと言ったが、せっかく来た招待状だ。送っておいても別に構わないだろうとスマホで写真を撮る。メッセージアプリを開くと、そのまま千鶴に送信した。はがきの返信期限は消印を入れた月曜までとあった。やはり電話をして正解だったのだ。
 欠席にチェックを入れ、忘れないようにと自分の書類の上に重ねた。後でこれも出しに行くから、そのときに一緒に持って行こう。
「…ん?」
 封筒を片付けようとして、ふと、礼人は中にまだ紙が入っていることに気づいた。
 何だろう?
 取り出してみると幹事からのメッセージだった。これも写真を撮って送ろうとスマホを構えたとき、家に来ている友人に呼ばれた。引っ越しに際して、要らないものを引き取ってくれると朝から下見に来ているのだ。
「礼人、これなんだけどさー」
「ん? ちょっと待って」
 写真を撮ったスマホを閉じ、礼人は隣室の友人のところに行った。
 千鶴に送ろうとしたそれは忙しさに忘れられ、千鶴に届くことはなかった。



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