あした魔法が解けたなら

宇土為名

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『えー、嘘! 久しぶり』
『…え?』
 外に出ようとエレベーターでエントランスに降りたところだった。こちらに向かってくる人が弾けるような笑顔で手を振っていた。
『元気だった?』
 親し気な笑顔には見覚えがあった。
 誰だ?
『時枝くん再就職ここにしたんだ、知らなかった』
 実のところ時枝は中途採用枠だ。大学を出て初めて就職した会社を一年足らずで辞めたことを知っている人間はそう多くない。若かっただけに、周りは新規採用だと思っているのだ。
 ああ、とようやく時枝は思い出した。
 女は前の会社の取引先の人間だった。
『ああ…、久しぶり』
 ほんの一瞬関係があった人だ。
 全く忘れていた。今の今まで思い出しもしなかった。
 困惑しながらも頷くと彼女は満足そうに笑った。見慣れた日常の風景に昔の知り合いがいる違和感はかなり大きい。
 なぜここに?
 その疑問が顔に出ていたのだろう、彼女は自分から話し出した。
『私、あれから昇進して、今は営業部のチーフになったの。今日は仕事で来たんだけど』
 まさかこんなところで再会するなんて、と続けた。
 そういえば技術課の同僚が新しい素材の開拓を二課に頼んでいると聞いた。彼女の会社はそういった加工素材を手広く扱う会社だった。おそらくそうだろうと時枝はエレベーターを示した。
『二課なら、五階です』
 打ち合わせで来たのなら早く行くべきだ。時枝はあえて敬語を使いにっこりと笑った。
『ええ、聞いてる。ありがとう』
 彼女はそう言って時枝の横を通り過ぎた。一、二歩歩きぴたりと立ち止まった。
『今日の打ち合わせ長引きそうなの。よかったら食事でもしない?』
 後ろにくっついていた彼女の部下がぎょっとした顔をした。
『すみません、これから出るのでまたの機会に』
 そんな誘いに乗るわけがない。
 彼女は鼻白んだ表情で時枝を見ると、無言で踵を返した。カ、カ、と忙しないハイヒールの音がエントランスに響き渡る。部下は時枝に慌てて頭を下げると、彼女を追いかけて行った。
 やれやれ…
 こんな会社の玄関先でどういうつもりなのか。人目につくにもほどがあるだろう。さっきから興味津々でこちらをちらちらと見ている受付嬢に時枝はにこりと笑いかけ、大股で過ぎると自動ドアを通った。
 千鶴の耳にでも入ったら嫌すぎる。
『時枝』
 外に出た途端名前を呼ばれた。見れば一課の課長がこちらに歩いて来ていた。手には小さなレジ袋がある。休憩にでも出ていたのだろう。
『ちょうどよかった話が──ああ、出るところなのか』
『はい。でも』
 少しなら、と時枝は時計を見た。相手との約束にはまだ三十分ほど余裕があった。
『そうか。じゃあ、歩きながら話そう』
 社用車が停めてある駐車場に並んで歩き出す。
 それで、と課長は切り出した。
『きみ、大阪は好きか?』
『は?』
 何のことかと目を丸くした時枝に、転勤だよ、と課長は言った。
 転勤?
 俺が?
 営業先に向かいながら時枝は課長の話を頭の中で繰り返した。
 転勤…
 千鶴の顔が過った。内示はほぼ確定だ。家庭があるならならまだしも独身の自分が辞退することはかなり難しい。
 相談したい。
 離れるのは嫌だ。やっと手に入れたのに。
 でも、と冷静になる。
 千鶴なら…、行けと言いそうだ。
 ──よかったな、行けば?
 そんなふうに軽く笑って──
 きっと引き止められはしない。
『……』
 どこか上の空で仕事をこなし、訪問先を後にした。車に乗り込んで、スマホをじっと眺めながら思案する。外はもう暗く、定時を過ぎていた。
 どう話せばいいのか。
 ぐるぐると頭の中を色んな言葉が巡っては消える。メッセージアプリを開いたまま、暗くなる画面を何度もタップして画面を明るくする。
 千鶴はまだ仕事中だろう。今日は隣県の会社への視察に同行すると言っていた。
 多分まだ、上司達といるはずだ。
 どうしよう。
 エンジンをかけられないまま動けずにいる時枝の手の中で、スマホの画面が明るくなった。
 千鶴からだった。
『やっと終わった。一度帰社するから帰るの遅くなりそう。夕飯は無理っぽい』
 時間が合えば夕飯をどちらかの家で食べるのは、この頃習慣のようなものだった。互いの家は近くはなく、微妙な距離にあった。結局いつも千鶴のマンションで時間を過ごすことが多かった。
 今日はそれぞれの家で、と暗に千鶴は言っているのだ。
 おつかれ、と時枝は返した。
 俺は今…
『俺も残業してるから、社にいるよ』
 エンジンをかけた。
『え、そうなんだ』
 返って来た言葉で千鶴の驚いた顔が浮かぶ。
『じゃあまたあとで』
 あとで。
 車を出しながら了解のスタンプを送る。ここから社までは二十分もかからない。気持ちを落ち着かせて千鶴を待つには充分時間があった。今日の報告と明日の準備もしてしまおう。
 予想時間よりも早く会社に着いた時枝は自分のフロアに足早に向かった。
 まだ残っていた同僚もやがて皆帰って行く。時枝は集中して作業に没頭し、千鶴を待った。
 だから、後ろから近付いてきた気配に気づかなかったのは仕方がないことだ。
 肩を撫でられて初めて、時枝は顔を上げた。
『残業? 大変ねー』
『……』
 ああ、忘れていた。
 女のことなどすっかり頭の中から消えてしまっていた。
 まだいたのか。
『ね、こんな偶然すごいことじゃない?』
 壁の時計をちらりと見ればあと一時間ほどで千鶴が戻ってくる頃合いだった。
 早く消えろ。
『…そうかな』
『たまたま来たところで会えたのは運命でしょ?』
 運命?
 女の言い草に時枝は笑った。
 確かにそういったものはある。時枝もそうだった。だがこれは違う。
『一緒に来ていた人は?』
『さっき帰したわよ。残業に厳しいからねー最近は』
『こんな時間まで?』
『ふふ』
 意味ありげに女は笑った。
『今日は最終的な打ち合わせだったのよ。結果は成功だし、お互いにいい取引になりそうよ』
 フロアの奥に人の気配を感じた。わずかに開いたドアから、足音がする。
『それで部外者がこんなところにいれば、その取引は消えるかもな』
『大丈夫』
 女の指がするりと時枝の顔を撫でた。
『昔の知り合いがいるからって許可もらったから』
 避けるように立ち上がると、女は体を摺り寄せた。
 柔らかな胸のふくらみをゆっくりと押し付けてくる。
『ほんと、かっこいいの変わらないよね』
 フロアの外を誰かの足音が行き過ぎる。
 二課の人間が帰っているのだろうと時枝は思った。
 頼むから早く消えてくれ。
 誰にも聞かれたくない。
 あのドアを閉めたい、だがそれはもっと悪い結果を生むような気がした。
 我慢して時枝は女との会話を続ける。
 当たり障りなく彼女に期待を持たせ一気に期待を打ち砕くつもりだった。
 まさかそのとき千鶴がそこにいたなんて夢にも思わなかったのだ。


 そんな、長い話を千鶴にどう説明すればいいのか、時枝は途方に暮れた。
 話は聞いて欲しい。
 誤解だ。
 でも口だけなら何とでも言える。
 二年も経った今、どんな言い訳も今更だった。
『嫌な男になったわよね』
『俺は元からこうだよ』
『…っ』
 女を追い返したあと社に戻れなくなったと千鶴から連絡があったとき、強引にでも家に行くべきだった。
 千鶴から別れたいと言われたのはその三日後だったのだ。
「あの人と寝てたのは本当だよ」
 関係はあった。
「……」
「でもそれは千鶴と知り合うよりもずっと前の話で、千鶴を知ってからは本当に…」
「それを信じろって言うのかよ」
 自分の体の下から逃げようとする体を、時枝は背中から抱き締めた。強くすれば壊れそうな体だ。
 その背に顔を埋めた。
「…信じてくれないの」
「それは…おまえが…っ」
「なんでって詰ってくれればよかったんだ」
 そうすればこんなことにはならなかった。
「そんな、の──」
 時枝の腕から逃れようと千鶴が身を捩る。逃がすまいと腹の前で交差した腕に力を入れ、ぐっと自分に引き寄せた。
「ひとりで勝手に決めつけて」
「…ぁ、だってあんなの、誰が聞いたって…っや」
 股の間に挟み込んだ千鶴の太腿に、時枝は自分の中心を押し付けた。そこはもうずっと固く、上を向いたままだ。
「やめろ、バカっ! やだ、…!」
 ぐりっ、と押しつけた千鶴の体が上に逃れるように跳ねた。
「俺には千鶴がいるって言った」
「ん、ん、っ」
「最後まで聞かなかったんだろ?」
「あ…、だって」
 聞けるわけない、と切れ切れに言う千鶴の喉を、愛おし気に時枝が撫でた。拘束していた腕をずらし、千鶴のペニスに触れる。いかされることなく放置されていた肉径は、張り詰めたままびしょびしょに濡れそぼっていた。
「はっ、はぁあぁぁあ…っ」
「なんで信じてくれなかったんだよ」
「んうぅーーー!…ッ」
 ぎゅっと手の中に握り込むと、電流に打たれたかのように細い体が仰け反る。ピンと張り詰めた千鶴の肩に時枝は歯を立てた。
「やあ…ぁ…っはなし、ぁ、あ…」
「あんたがいるのに、あんな女が目に入るわけねえだろ…!」
「イ──」
 うつ伏せに組み伏せた体の尻を割り開き、時枝はペニスを突き立てた。散々解したそこは柔らかく先端を飲み込んで、愛撫するように吸い付いてくる。
「やだ、や、っあやと、あやっ、や」
「…ヤダじゃないでしょ」
 一気に貫きたい。
 串刺しにして分からせたい。
 誰が、誰が──
「愛してるって俺言ったよね? ねえ」
「いれ、入れな…っいれ、あ…、んんぅうう…ッ」
 何度も何度も言ったのに。
「あんたが好きだって──」
 掴んだ細い腰を引き寄せる。狭い肉洞がみちみちと拓いていく。時枝の形に柔らかかった千鶴の中は随分と狭くきつくなっていた。
 その感覚に時枝の口の端が上がる。
 誰も知らない体。
 俺が抱いていたあと、この体は誰かを受け入れた形跡がない。
 息が上がる。その事実に脳が沸騰しそうだ。
 ゆるゆると進んでいた時枝は、動きを止めた。
「あ…、っ…?」
 シーツに顔を埋めていた千鶴が肩越しに振り返る。
 時枝は一気にその腰を引き寄せ、千鶴の中を穿った。
「ひ、ぃ──、い、あああああぁぁあ…!」
「千鶴っ、ちい、ちい…っ」
「いやああ、やだ、あんっ! ふ、あ、っあぁあ」
「好きだ、すきだ、…すき」
 ごつごつと深い場所を抉る。千鶴が感じすぎて辛いと吐露していた場所だ。あのころは大事にしたくて、嫌われたくなくて、出来るだけ避けていた。千鶴がぐずぐずに蕩けて意識を飛ばしてからでないと触れないようにしていた。だが今日は…
「あ、あ、っそこやだあああぁっ、やめて、あやあああっやめて…!」
「駄目」
 くず折れた体の腰だけを高く上げた格好で時枝は腰を打ちつける。
「今日はこれでいくんだよ」
「はっ、はっ…」
 涙に濡れた千鶴の目が時枝を見た。
「き、らいっ、おまえなんか、きらい、だいきら、だ…っ、ああああぁっ…」
 汗で貼り付く髪を掻き上げ、時枝は千鶴の頬に口づけた。密着した背中に汗がぬめる。入っていた角度が変わり前立腺がさらに押し潰されたのか、千鶴の中がきつく締まった。
「…嘘だよそんなの」
「うそじゃ、な…っ」
「嫌いなら、そんな顔しないよ」
「……っ、は、ぁ…」
 悔しそうに歪んだ千鶴の目から涙が溢れだした。零れて流れ落ちるそれを時枝は余すことなく吸い取った。
 甘い。
 甘くて甘くて…
「ちい」
「あ、あ、あ、あっ! ア──」
「…すき、っ好きだ」
 細い体を掻き抱いた。ありえないほど深く千鶴の中に突き入れる。狭くきつい行き止まりに時枝は亀頭をゆっくりと押し付け、そして貫いた。
「──」
 声にならない悲鳴を上げた千鶴の唇を塞ぐ。
 まるで食っているかのようだ。
 腕の中に閉じ込めたまま、時枝はその温かな体内に思いきり射精した。

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