吠える犬は噛み付かない

宇土為名

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 ふと目を向けてしまってから、やめておけばよかったと思った。
 あの女だ。
 いつも店に来ては俺の気を引こうとする女。興味なんか欠片もないと足蹴にするのに、凝りもせずに何度もやって来る。
 先週だったかいつだったかも、常連で友人の男に声を掛け、そいつの家にまで上がり込み、あまつさえ夜を明かしたらしい。聞いたときは笑った。電話の向こうで心底げんなりした声を聞き、恨み言を長々と聞かされては、さすがに悪かったと謝るしかない。
 けしかけたのは俺だ。いい加減鬱陶しかったし、その日は何より早く帰りたかった。外で出待ちされてはそうもいかない。
 その夜、女は店に現れなかった。
 その翌日も、次の日も。一日が二日になり三日になり、六日が経って、ようやくあの女も諦めたのだと思った。それはそうだろう、俺に誘えと言われた男が同性しか愛せず、俺と同じように自分を見もしなかったのだから──それは心が折れる。俺なら、しばらく立ち直れない。
 その女が、今目の前にいた。少し先の店の前。夕暮れ時の薄闇の中、ガードレールの傍に蹲っている。
 具合でも悪いのか。
 このまま進めば嫌でも横を通る。面倒だと思った。
他の道を行くか。
「大丈夫ですか」
 踵を返した背中に、そんな声が聞こえた。
 思わず振り返ると、帰宅する人の流れから外れた人影が、女の傍に立っていた。
 男だ。
 俺と同じくらいか、少し上に見える。男は少し屈み込み、女の顔を覗き込んでいた。
「具合悪い? 誰か呼びますか?」
 それとも救急車かな。
 距離があるのによく通る声だった。通り過ぎる人たちが、皆ちらちらと彼を振り返っている。
 下を向いているせいで髪が目元を隠していて、顔が見えない。
 女が何かを呟いたのか、男は女の顔に耳を近づける。車が横を走り抜け、男の髪が風で煽られた。
 伏し目になった横顔が露わになる。
「……」
 それに目が離せなくなった。
 なぜかは分からない。
 女は立ち上がると、男を置いて歩いて行った。男はそれを見送る。たった、それだけの出来事だ。
 そのまま雑踏へと歩き出した男は、やがて視界から見えなくなった。

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