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しおりを挟む鞄から取り出したスマホには、十数件もの着信履歴が残っていた。そのどれもが怜からで、約五分置きにかかってきていた。
「ごめん、全然…気がつかなかった」
本当に持っている意味があるのかと自分でも思うほど、逸巳はスマホを見ない。しょっちゅうどこかに置き忘れてよく探す羽目になる。それこそついこの間も寺山の部屋に忘れて来たばかりだった。
『おまえまたやってたぞ』
『え、嘘』
しかも当の本人が失くしたことや忘れたことに全く気づいていないから、余計たちが悪い。
『嘘なわけないだろう、ほら』
『ごめん』
寺山に呆れられたのは両手で足りないくらいある。
逸巳の前に置かれたグラスの中で、カランと氷が音を立てた。
「鞄に入れたままだった」
カウンターの向こうで怜が振り向いた。
「そうだと思った」
「ほんとにごめん」
もう一度謝ると、怜は何も言わずに背を向けて作業に戻った。制服のシャツが彼の動きに合わせて皺を作る。無駄のないしなやかな動作。すらりとした背中に思わず見惚れてしまう。
クー・シーの店の中。
怜に連れて来られたときは暑かった店内も、空調が効いて随分涼しくなってきた。
いつもとは違ってとても静かだ。なんのBGMもない店の中に、怜の作業する音だけが響いている。
ここからは見えないけれど、何をしてるんだろう。
いい匂いがする。
「先輩ってさ…、スマホ弄んない人?」
背中を向けたまま問われて、逸巳は頷いた。
「うん、あんまり」
「なんで?」
「え?」
くるりと怜が振り返った。
「なんで手に持っとかねえの?」
「…え」
「持っとけば気づくだろ」
「そ…」
それは、そうだけど。
返答に困っていると、怜は再び逸巳に背を向けた。
膝の上で手を握りしめる。
「……」
怒ってるんだろうか。
話があると言われてマリオンから──男の前から引きずられるようにしてここまで来たが、怜は一向に話そうとしなかった。
『なんで…』
『いいから。行くよ』
『おいちょっと待て…!』
我に返った男が立ち上がり迫ってきた。
『その子はおれと──』
『あ?』
だが怜はそれを一瞥で黙らせた。
『うるせえんだよ、オッサン』
『オ──』
『気持ち悪りぃの自分で気づけよ、終わってんだよあんた』
蔑むように笑うと、逸巳の腕を掴み早足で歩き出した。
『後藤くん、あの、っ』
『話あるから、来て』
いいから、と強く腕を引かれた。
なのに。
視線が合わない。
それどころかさっきからまともに会話が続かない。逸巳を探していたようだがその理由も言わないし、なぜあそこに来たのかも分からない。連れて来られる間はずっと無言で、逸巳は怜の背中ばかり見ていた。
どうしようか。
そろそろ出た方がいいかもしれない。話なら明日でも…、学校で会えるのだし。
逸巳は鞄に手を伸ばした。
「何してんの」
帰ろうと立ち上がりかけると、察したように怜が振り返った。軽く息を落とし、そのままカウンターを出てこちらに向かってくる。
「えと、あの」
「まだ話ししてねえから」
座って、と目線で促され、逸巳は再び椅子に腰を下ろした。
どうしようと思っていると、目の前に皿が置かれた。
「──」
いい香りに覗き込んだ逸巳は目を丸くした。
椅子を引き、怜が逸巳の前にどさりと座る。
逸巳はゆっくりと顔を上げ怜を見つめた。
「これ、どうしたの…?」
「俺が作った」
「え?」
「…俺が作ったの」
テーブルに置かれた大きな白い皿の上には、綺麗な焼き色の付いたパンケーキが二枚乗っていた。フォークが二本、バターとシロップが入った小さな陶器も、パンケーキの横に添えられている。
「後藤くんが?」
確かにここに着いてから奥のキッチンとカウンターを行ったり来たりしていた。
まさかパンケーキを焼いていたなんて。
「そうだよ」
怜はフォークを取り、バターをパンケーキに乗せた。焼きたてのパンケーキの上で、バターが溶けていく。
美味しそうだ。
「シロップかけるけど」
上目に問われて、え、と逸巳は見返した。
「う、うん?…」
怜はシロップの入った水差型の陶器を取り、ゆっくりと傾けた。とろりとした黄金色の蜜が溶けたバターの上に落ち、パンケーキを覆っていく。
甘い匂い。
すごく──すごく美味しそうだ。
カフェで出されるものと違わないように見える。
怜が立ち上がった。カウンターに向かい、カウンターテーブルから中に手を伸ばして何かを取って戻って来た。
ナイフだ。パンケーキ用なのか小ぶりの銀色のナイフ、怜は立ったまま、逸巳の横でパンケーキにナイフを入れた。
「俺さ、こういうのを作る仕事がしたいんだよ」
「…え?」
「食ってみて」
切り分けたパンケーキを逸巳の側に寄せると、フォークを差し出した。逸巳は怜を見上げながらそれを受け取り握りしめた。
見下ろす怜の目と視線が合う。
「…いただきます」
切り分けられたパンケーキにフォークを刺した。ふわりとした触感が口に入れる前に、もう指先から伝わってくる。
シロップが唇を濡らす。
甘い。
逸巳は目を丸くした。
「美味しい」
椅子に座り直した怜がちらりと逸巳を見てフォークを口に運んだ。少し乱暴に、パンケーキを頬張る。
「すごいな、本当に美味しい」
「……そ?」
「うん、すごい」
ほかにもっと褒め称える言葉があるはずなのにひとつも頭に思い浮かばなかった。すごい、美味しい、を何度も繰り返しながらパンケーキを食べた。
普段ほとんど甘いものを口にしない逸巳だったが、これはいくらでも食べられる気がした。
美味しい。
「先輩」
「ん?」
「先月あの男に絡まれた女って、俺の知り合いなんだよ」
「──」
「柚木ってやつで、先輩に助けてもらったって言ってた」
グラスを取り、怜は水を一口飲んだ。グラスの周りにびっしりとついた水滴が、ぽたぽたとテーブルに落ちる。
グラスをテーブルに戻して、怜は驚いている逸巳をまっすぐに見返した。
「あの男と何の約束したの?」
「…そ、」
「柚木を助ける代わりに、あいつに何て言ったの」
「…」
「約束って?」
怜が身を乗り出した。身体を支える腕の下で、ぎしりとテーブルが軋んだ。
甘さの残る口の中が氷を飲んだように冷たくなる。
ゆっくりと、逸巳は息を飲み込んだ。
「あの子の代わりを、僕がするって」
「…は?」
怜が眉間に皺を寄せた。
「なあ…、それどういう意味か分かってんの?」
「それは──」
「…っ、自分が! どういうこと言ったか分かってんの!?」
怜が立ち上がった拍子に椅子が後ろに倒れた。視線を捉えられて離せない。見上げた怜の目は歪んでいて赤かった。
逸巳は頷いた。
「分かってる、……今は」
今は分かっている。
ちゃんと分かっている。
でもあのときは、正直何も分かっていなかったのだ。
そういうことだったなんて。
『あーあ、今の女の子にゲームの攻略聞こうと思ったのに、きみが大声出すから逃げちゃったよ』
『そ…、でも、嫌がってましたよね、こんな時間に女の子に声を掛けるほうが非常識では──』
『そんなの分かってるよ』
悪かったよ、と肩を竦めた男は、一見常識のある大人に見えたのだ。どこにでもいるサラリーマン、少し顔がよく、人好きのする笑顔だった。
残念がる男に逸巳はふと聞いてしまったのだ。ほんの好奇心だった。
『なんてゲームですか?』
男がこちらを見て微笑んだ意味は、後になって散々思い知った。
まさか自分が、そんな目で見られるなんて。
肩を抱いてきた男の手が背中をまさぐっていた。それがゆっくりと腰まで降り、脚に触れた瞬間、逸巳は帰ると席を立った。
『どうしたの』
『す、みません…っ、また今度にしてください』
『今度? いつ?』
適当な日にちを言うと、男はいいよとあっさり引き下がった。そして笑って約束だよ、と言った。
『ああ、ちょっと待ってて』
男のスマホが鳴った。表示を見て男は逸巳をもう一度座らせると、個室を出て行った。店の奥へと足音が向かう。確か奥には喫煙スペースがあった。きっとそこに行くのだろう。
十秒数えてから、逸巳は個室を飛び出した。入り口ですれ違った店員が何か言ったが、逸巳は足を止めなかった。
あのとき、席を立たなかったら。
今どうなっていたんだろう。
「先輩?」
かちゃん、とフォークが落ちた。パンケーキの皿の上に。
「…ごめん」
逸巳はそれを取ろうとしたがなかなか取れなかった。シロップに浸ったフォークの柄が、滑って取りずらい。
「あれ、ごめん…、…あれ」
気づけば指先が震えていた。
ぶるぶると、上手く動かない。
取れない。
どうしよう。
どうしよう。
パンケーキが潰れてしまう。
怜が見てるのに。
「ごとうく…、っ」
震える手を、怜が掴み、ぎゅっと握った。シロップまみれの逸巳の指先を怜は自分の口元に持って行くと、舌先で滴るシロップを舐め取った。その感触に逸巳の手が跳ねる。
あ、と驚いて動けなくなった逸巳の手を、怜の手のひらが包み込んだ。
「…っ」
強く腕を引かれ怜の胸に抱き込まれる。そのままきつく抱き締められた。
背中を怜の手に撫でられ、逸巳の肩がびくりと震えた。
大丈夫、と耳元に声が落ちてくる。
「大丈夫」
「……」
「…思い出させてごめん」
低く響くその声に、じわりと視界が滲んだ。
この記憶を、逸巳は今まで誰にも言わなかった。
誰にも。
寺山にも。
あんなにいつも一緒にいるのに、どうしてか言えなかった。
怜のシャツの背を震える手で握りしめた。
「…何されたの」
「なにも、…」
「嘘だろ」
その声には抗えない。震える呼吸で深く息を吸い込み吐き出すと、背中、と逸巳は言った。
「…せ、なか、さわられ、て…」
小さく舌打ちが聞こえた気がした。
「ここ?」
そう言うと、怜の大きな手がゆっくりと逸巳の背中を動いた。両方の手のひらが、確かめるようにそっと、撫でるというよりも、それは優しくさするように。
「…うん」
上から下に、そしてまた下から上に繰り返していく。温もりが伝わって、強張っていた身体がゆっくりとほどけていく。
「他は?」
「……い」
ない、と逸巳は首を振った。
本当はもっといろんなところを触られた。あと少しで際どい箇所に触れられそうだった。でも、そこまでは言えない。
怜に触ってもらえたらあの手の感触が消えると思ったが、怜にそこまでさせられない。
忘れればいいだけなのだ。
「ほんとに?」
「うん」
頷くと、怜が深く息を吐いた。
「もうあそこに行かないで」
「…ん」
「絶対…、俺と約束して」
怜の髪に顔を埋め、もう一度逸巳は頷いた。
ごめん、と呟くと、合わさった怜の胸が震えた。
「…頼むから」
その瞬間、どんなに怜が自分を心配していたかを逸巳は知った。きっとあの女の子──柚木に聞いてすぐ、自分を探していたのだろう。店が休みだったからふらふらとまたどこかに行くかもと──もしかしたら、マリオンに行く可能性を考えて。
いるかもわからないのに。
すれ違って会えなかったかもしれないのに。
『あちこちふらふらするなら俺も付き合うから』
背中から怜の右手がゆっくりと上がり、逸巳の髪を撫でた。
誰かに髪に触れられるのは、いつぶりだろう。
もうずっと昔、まだ家族が上手く機能していた、あの頃。
遠い記憶だ。
怜の手つきはどこか不器用だった。
ぎこちなくて、優しい。
あんなにモテて経験も多いだろうに、まるで初めて他人と触れ合うような感じだ。
でも、気持ちがいい。
気持ちいい。
逸巳は目を閉じた。いつの間にか瞳に溜まっていた涙が目尻を伝い、怜のシャツや髪を濡らした。
ごめん、ごめんね。
あとでたくさん謝らないと。
「先輩…」
髪を撫でていた怜の手が頬を包み、目尻を拭った。離れた身体が寂しいと逸巳は思った。
もっと、もっと、こうしていたい。
流れた涙の跡を柔らかなものが辿っていく。慰めるようにそっと、それは微かに震えていた。
甘い匂いに微睡みそうになる。
怜の体からは彼の作ったパンケーキの香りがした。
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