19 / 33
18
しおりを挟む濃い影が地面の上に落ちていて、あちらとこちらを分けていた。
誰かにずっと見られている気がして何度も振り返る。
照りつける日差し。
暑くてどうしようもない。
日陰を探して泳ぐように歩く。何かから逃げなければいけないという焦りが次第に込み上がってきて、息が苦しくなる。
母親に傍にいて欲しいと思ったが、もとよりそんな人ではなかったと思い直した。子供よりも自分中心に生きている人だ。怜はそのアクセサリーに過ぎない。
ああ、もうだめだ。
足元がおぼつかなくなってその場にしゃがみこんだ。乾いた土の匂い、うるさい蝉の声、こめかみから流れ落ちた汗が足元の地面に黒い染みを作る。
気持ち悪い。
気持ち悪い…
近づいてくる人の気配に怜は両手で口元を押さえ、じっと息を殺した。
***
「あれ、おはよー三沢」
誰もいないと思っていた教室の中にはもうクラスメイトが来ていた。
「え、おはよう…」
「早くね?」
「そっちこそ」
まだ七時半だ。
逸巳もこの時間に来るのは久々だったが、大抵誰もいなかった。
いや、とクラスメイトは手に持っていたペットボトルを煽った。半分ほど入っていた水が朝の光にゆらゆらと揺れる。
「朝でももう暑いからさあ、早めに家出ただけ」
「ああ、そっか」
たしかに、この時間だというのに外はもう汗ばむほどの暑さだった。今日も日中はかなり気温が上がるという。
「まじできっつい。電車も混むしさあ、早い方が都合いいんだよな。三沢は? いつももうちょい遅くない? どしたん?」
一瞬ためらってから逸巳は笑った。
「うん、まあ、…なんか早く目が覚めたから」
あー、とクラスメイトは顔を顰めて見せた。
「昨日蒸し暑かったもんな」
「うん」
頷いて自分の席に鞄を置く。本当はそれが理由ではないのだが、クラスメイトに言えることではなかった。
思い出してじわりと顔が赤くなりそうになり、慌てて頭の中から打ち消していく。朝っぱらから何を考えているのだろう。
(本当に──)
困る。
怜ではなく、自分に。
本気で自分が困っていないことが──問題のような気がする。
昨日帰りの駅で奥まったトイレに連れ込まれ、抱き込まれてキスをした。怜はいつも何かに切羽詰まったように逸巳を求めてくる。
誰がいつ来るかもわからない場所で。
『逸巳、…先輩、…先輩、好き』
『っ、も、だめ、こら、電車…!』
『大丈夫。…まだ、まだいて』
行かないで、と耳元で囁かれると体中が熱くなり、どうしてか切なくなった。
怜の強引さに驚きながらも少しも嫌じゃない。
むしろ──
放して欲しいと身を捩るのを宥めるように戻されて、嬉しいとどこかで思っているのだ。
「おー、おまえも早いじゃん? おはよ」
クラスメイトの声にはっとして逸巳は顔を上げた。その瞬間、教室に入ってきた寺山と正面から視線がぶつかり、ぎくりと言葉に詰まった。
「お…、はよう」
「…ああ」
寺山はすっと目を逸らし、クラスメイトに言った。
そして逸巳に視線を戻す。
「おはよう」
色のない声でそう言うと席に着いて背中を向けた。
「うーわ機嫌わるー、朝弱えのかなあいつ」
「……」
いつにも増して愛想のない寺山を揶揄うようにクラスメイトは笑ったが、逸巳は少しも笑えなかった。
『好きなんだ』
ほとんど勢いに任せて口から出た言葉。
あんなふうに言うべきではなかったのかもしれない。
でも。
三時限目が終わった休み時間、ざわめく教室を出て行こうとした寺山に逸巳は声を掛けた。
「寺山」
一歩廊下に出たところで寺山が足を止めた。
ゆっくりと振り返ったその視線は、微妙に逸巳からずれていた。
「あの…」
「何?」
「帰り、話したいんだけど」
「…話?」
「うん」
寺山は一瞬黙り込み、それから小さく頷いた。
「…分かった」
そのまま廊下を行く背中を逸巳は見送った。
あれからずっと寺山とはぎこちない。視線も上手く合わなくて、まともに寺山は逸巳を見なかった。
避けられてはいないようだが…、どうしたらいいのか寺山もわからないのだろう。
それはそうだ。いきなり言われて戸惑うのは当たり前だった。逆の立場だったら、きっと逸巳も困惑する。
それでも約束を取り付けられたことに逸巳はほっとした。今日は塾もない日だし、時間はたくさんある。学校の中で話せなくても、外でなら、もっとちゃんと話せるような気がした。あのときは売り言葉に買い言葉みたいで、お互い冷静ではなかったから。
「そうだよな…」
寺山には分かって欲しかった。
自分が怜を好きなことを。
怜が、彼が言うような人ではないことを。
きっとどこかで大きな誤解があって、それが噂になって尾ひれが付き、流れているだけなのだ。
決して広くも多くもない逸巳の交友関係の中で、おそらく一番仲が良く、一番長く付き合いがあるのが寺山だった。知り合ってからずっと、気がつけば傍にいてくれる友人だ。
逸巳が家に帰れない理由を最初に話せたのも彼だった。
『ならウチに好きなだけいればいいだろ』
なんの躊躇もなしに、そう言ってくれた。
「どしたの三沢くん?」
「え?」
腕をつつかれ逸巳は我に返った。傍らにはクラスメイトの女子がいて、ぼんやりと立つ逸巳を不思議そうに見上げている。
「あ、──いや、何でも」
「ずっと立ってるからさ…」
ねえ、と彼女は眉を下げた。
「寺山くんと喧嘩した?」
「え、…なんで?」
「だってなんかそんなふうに見えたんだもん」
「そう?」
「そうだよなんか、変だよ」
「全然大丈夫だよ」
大丈夫、きっと。
心配そうに見上げる彼女に逸巳は苦笑した。
***
おい、と言われて怜は振り返った。
「呼ばれてるぞ、3番」
「え」
「えじゃねえって」
店長は怜の顔をじっと見て、顔を顰めた。
「おまえ、どうした?」
「いえ、なんでもないっす」
「…そうか? なんか」
「すみませーん、オーダーお願いしまーす」
店長の言葉を遮るようにテーブル席から声がかかった。はい、と怜は返事をする。
「今伺います」
オーダー票を手にカウンターを出る。どこかぼんやりとした頭を軽く振ってそれを消した。今はバイト中だ。しっかりしなければ。
「お待たせしました」
呼ばれたテーブルには二十代半ばに見える女性がふたり座っていて、近づいてくる怜をじっと見ていた。
怜を呼んだ女性がメニュー表を指差した。
「えっと、私はこのモンブランパフェ、それとこっちはケーキセットで、ケーキは、…」
「チーズケーキとオレンジティーで」
「かしこまりました」
もう一人の女性が友人の言葉を引き取って注文した。じっと見てくる視線を躱したい気持ちをおくびにも出さず、怜は笑顔で注文を復唱した。
「失礼します」
メニューを取り、テーブルを離れる。カウンターに近づいた怜の耳にふたりの話し声が追いかけてきた。
「やっぱりかっこよくなったね…」
「ね、あれほんとだった」
「あーなんでやめちゃったんだろう、もったいなくない? あんなに…」
ピクリと反応する耳に怜は自分で蓋をした。
聞いてはいけない。
聞くな。
「店長、オーダー」
何事もなかったように振る舞い、待っていた店長に注文票を渡した。
「おう」
オーダーに目を通しながら店長は怜に背を向けた。
その背中に怜はぼそりと呟いた。
「あのさ店長」
「ん?」
「俺、髪、下ろしたら駄目すか」
「…あ?」
振り返った店長にしまったと思ったがもう遅い。
だが店長は怜をちらりと見ただけですぐに作業に戻った。棚の上のグラスに手を伸ばす。
「いいからやれ、そっち」
「…はい」
何も言われなかったことに安堵しつつ、怜はドリンクの準備を始めた。
余計なことを考えてはだめだ。
手を動かしていれば忘れていく。
「後藤、3番」
「はい」
出来上がったパフェを店長がトレイに置いた。オーダー票にチェックを入れようした怜の手から、するりと店長はそれを抜き取った。
「え?」
「いい、俺がやる」
え、と怜は目を丸くした。
「ちょっと休憩してこい」
パフェの横にケーキとドリンクを載せ、慣れた手つきでトレイを持ち上げた。
「十分だけだぞ」
ちょうど客も少ない。
そう付け加えると店長はさっさと行けとばかりに怜に手を振り、客席に出て行った。
***
このバイトを始めるにあたり、店長の足立が条件を付けてきたのはただひとつ、怜に前髪を上げさせることだった。
『客商売でまずそれはないだろ、仮にもここは飲食店だしな』
中学の頃から伸ばしていた前髪を指差され、怜は押し黙った。
それはそうだ。
分かっている、ちゃんと。でも。
自分のことを世界から隠しておきたいという気持ちに変わりはない。いつまで経っても慣れない人の視線。
でも自分で決めたことだ。きっかけは店長に声を掛けてもらったことだったが、決断したのは怜自身だ。
『分かりました。明日切ってきます』
椅子から立ち上がった怜を見上げ、店長は「あ?」と首を傾げた。
『誰が切れって言った?』
今度は「は?」と怜が止まる。
『いや、今』
『ピンかなんかで留めときゃいいだろうが。せっかく伸ばしてんのにもったいねえことするなよ』
『…』
はあ、と怜は呟いた。
『そうしときゃ嫌になったらまたすぐ隠せるだろうが』
スタッフルームに入り、怜は髪を留めていたピンを無造作に引き抜いた。目元に落ちてきた前髪をぐしゃりと掻き上げる。
いつか慣れる。
いつか何も気にしないようになる。
店長の言葉を信じ、自分でもそうでありたいと思っている。今も、これが一番手っ取り早いやり方だと。
でも…
「…くそっ…」
ロッカーを手のひらで打ち付けると、思いのほか大きな音がした。しんとした小さな部屋の中にそれは響き、反響し、怜の耳を突き刺す。蓋をしていたはずなのに、弾き飛ばした声は耳元で囁いている。
『やっぱりかっこよくなったね…』
雑踏の中にいても自分に向けられる声はよく聞こえる。大勢の混じり合った話し声の中から拾い上げるのだ。自惚れでもなんでもなく、それは怜の経験から身についたものだ。
3番の客はどこかで怜の話を聞き店に来たのだろう。
──ね、あれほんとだった。
そのひと言が証拠だ。
こんなことは初めてではないし、これまでにもあったことだ。
「あれ」が何のことかは知らない。知りたいとも思わない。怜の知らないどこかで誰かが情報を出している。
ほんの一時のことを今でもずっと追い続けられている。
だが彼女たちは何も怜に要求しなかった。こちらに直接言って来ないだけましなほうなのだ。中には態度に出さず近づいてきて、親しくなろうとする人間もいる。もしもうっかり心を許してしまったら、何もかもを持って行かれてしまう。
苦い記憶が胸を抉り、怜は深く息を吐いた。
理由は簡単で、昨夜あんなものを見たからだ。
イニシャル入りの封筒。
そして、今朝見た嫌な記憶の夢。
「……」
あんなもの、なんでもない。
なんでもない。
「なんでもねえだろ…」
ぐしゃぐしゃと髪を掻き上げ怜はロッカーを開けた。鞄の上に置いていたスマホを取り出す。そろそろ逸巳が来るころだ。今日は塾がない。用事がひとつ終わったら店に来ると学校で会ったときに言っていた。
来たら、また逸巳に自分の作ったものを食べさせたい。
美味しいと言ってもらいたい。
それだけで全部、なかったことに出来る気がする。
画面を開くと、メッセージの通知が来ていた。逸巳からだ。
もう着くのだろうかとタップして確認する。
それなら戻って早く用意しないと…
「──…」
メッセージを読む怜の目がつと細くなった。
なんで、と小さく声が漏れた。
逸巳から来たメッセージには、今日は行けなくなった、とあった。
『ごめん、ちょっと長引きそうだから』
「……」
一体何の用なのだろう?
『すぐ終わるだろうし。終わったら店に行くよ』
昼休みにはそう言っていたのに。
何か──あったんだろうか。
胸の奥がざわりとする。
杞憂だとは分かっている。でも自分の不安定な気持ちと混じり合い、それは嫌な予感になった。
「…先輩」
怜は素早くメッセージを打った。
どこにいる?
何してる?
ちゃんと聞いておけばよかった。
後藤、とドアの向こうから店長の声が聞こえた。
「悪い、客来だした!」
「はい──」
送信を押してロッカーにスマホを戻した。逸巳からの返事を確認したかったが仕方がない。
「行きます」
後ろ髪を引かれる思いで怜は部屋を出て店に戻った。
***
足元に置いていたスマホの画面が明るくなり、逸巳は目をやった。画面には怜の名前。きっと送ったメッセージに怜が返してきたのだろう。
今日店に行く約束をしていたのに行けなかったことを、怜はどう思っただろうか。
(怒ったかな)
昼休みに会ったとき、少し顔色が悪かった。
暑さのせいだと言っていたけれど。
『今日また俺作るから、食べてくれる?』
『いいよ』
甘いものは苦手だが、このあいだ怜の作ってくれたパンケーキはとても美味しかった。
頷くと、嬉しそうに笑っていた怜を思い出して少し寂しくなった。
やっぱり…
手を伸ばしかけたとき、部屋のドアが開いた。
漂ってきた甘い香りに逸巳は顔を綻ばせた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
8
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる