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しおりを挟む教員室に江島はいなかった。
「あれ?」
その場にいた他の教師に尋ねると、つい今しがた出て行ったという。どうやら何か別の用をしているらしかった。
「もう来るんじゃないかな。そこで待ってれば?」
「はい」
頷いて江島の机の横に逸巳は立った。帰りの時間が遅くなるのは構わないが、待てたとしてもせいぜい五分程度だろう。教師ばかりの部屋の中にそう長居はしたくない。座るわけにもいかず、逸巳は江島の机に寄りかかると、見るともなしに教員室を眺めた。
他もそうなのだろうが、教師は皆忙しそうにしている。かと思えば何をしているか分からない教師もいて不思議なものだ。学年ごとに分かれた机の配置、それぞれが島のように固まっていて効率がよさそうだ。クラスを受け持つ担任同士の連携や共有もきっとこんな環境で生まれるのだろう。
「おお、三沢」
「先生」
知った顔に逸巳は挨拶を返した。去年担任だった佐竹だ。
「何してるんだ?」
「江島先生に呼ばれて」
その江島がどこかへ行き、戻るのを待っていると説明すると、佐竹は事情が呑み込めたように頷いた。
「江島君そういうところあるからな」
佐竹はそう言って江島の後ろの席に座った、そういえば佐竹は今は担任するクラスを持たず、二年生の数学を担当していた。ということは佐竹の座る島が二年の担任の集まりのようだ。担当は違うが江島とは背中合わせだから、仲も良いのかもしれない。
「ところでおまえ、あの後藤と親しいんだって?」
「え?」
「後藤だよ。二年の」
まさか怜の名前が出るとは思わなかった。逸巳は驚いて佐竹を見た。佐竹は持っていた書類の束の角を揃え、数を数えている。
「受験もあるっていうのにあんなのとつるんでると碌なことがないぞ、付き合う相手はよく考えろよ」
「そんなことは…」
「頭だけ優秀でも中身がクズだと話にもならんよ」
「──ちょっとそれは」
あまりな言い様だ。思わず逸巳は声を大きくした。佐竹が驚いたように振り返ったのにはっとして言葉を飲み込む。
「なんだ? 酷いとでも言いたいのか? おまえお人好しだからな、よく知らないんだろあいつのこと」
どうせ面白半分にいいように後藤に遊ばれてるんだろう?
佐竹は苦笑すると椅子の背に体を預けた。大きな体に椅子がぎしりと悲鳴を上げる。
そうだ、佐竹はこういう人間だった。
自分の気に食わない生徒をあからさまに馬鹿にし、平気で貶めるようなことを言う…
「入学してすぐ問題を起こして…そりゃもう大変だったんだぞ? 神田先生は辞めなきゃいけなくなるわ後始末にえらい労力だったしな」
神田。
また神田だ。
「まああれはあの人のほうが悪いがな。江島君もかわいそうに──」
「…え?」
江島?
なぜここで江島の名が…
「おう三沢」
声に振り向くと、江島がこちらに向かって来ていた。今話に出ていたばかりの江島が現れて、逸巳は思わず戸惑ってしまった。
「? なんだ?」
「いえ、何でも…」
慌てて取り繕う。江島は顔を一瞬顰めたが、さして気にもしていないようだった。ちらりと見た佐竹は素知らぬ顔で江島と軽口を躱し始めた。
「三沢があの後藤と仲が良いって言うんで、諫めてたんですよ」
「なるほど」
笑顔で返しながら江島が逸巳を横目で見る。
「そうらしいなおまえ。やめとけよ人生棒に振るぞ」
「ははは」
佐竹が笑う。
逸巳は奥歯を噛みしめた。嫌な感じだ。
「先生、用ってなんですか?」
「ああ、そうそう」
まるで忘れていたとでも言いたげな口ぶりだった。
「ほらこれ、頼むぞ」
そう言うと、遅れてきたことにひと言の謝りもなく、ポケットから当然のようにメモ書きを差し出した。
怜にまつわる噂のすべては、一年程前の神田という女性教師とのことが発端にある。
誰も彼もがそのことを口にする。ひそやかに、まるで見て来たかのように。だがその大半はそうだったらしいという憶測に終始していて、本当のところは何も分からない。真実は怜と神田しか知りえないし、それもまた視点がふたつある。客観的なことは誰も、結局何も知らないのが唯一の真実だった。
怜が神田を襲い、そのことを言いふらした。
だがそんなことをして怜に一体何のメリットがある?
「……──」
逸巳は腑に落ちなかった。怜はそんなことはしていないと言う。では何があったのかと、その肝心な部分はまだ訊けていないのだ。
なんとなく訊けずにいた。
今度こそ怜に訊かなければ。
ちゃんと知っておきたい。
怜のことを知らなければ、なにひとつ言い返せないのだ。
あんなふうに──言われるのは悲しい。逸巳は悔しかった。そうではないといくら言ったところで何の説得力も持たないのだ。
寺山も、だから。
(あ)
廊下の奥に寺山の後ろ姿を見つけ、逸巳は立ち止まった。他のクラスメイトと一緒に帰って行く。後ろは振り返らない。
「……」
寺山の家で眠ってしまったあの日から、寺山とは話をしなくなった。あの日は金曜日で、土日に何度連絡を入れても返信はなく、週が明けた月曜日に教室でひと言言葉を交わしたきり、今日に至っている。何度話そうとしても、逸巳は寺山から完全に無視をされていた。
後ろ姿が廊下の角を曲がり、見えなくなる。逸巳はため息を吐いて、目の前の階段を上がった。
自分は一体、何をしてしまったのか。
考えても出ない答えはもうどうしようもない。きっと覚えていないあの夜に、寺山の気に障ることを自分は言ったのだ。
怜のことを話していた、それだけは思い出せるけれど。
「どうしようもないな…」
いつかまた寺山と話せるときが来るだろうか。
何度目かのため息を吐き、二階へと続く踊り場を曲がる。
あ、と上のほうからした声に逸巳は顔を上げた。
「あ…、あのっ」
女子生徒が驚いた顔で逸巳を見下ろしていた。誰だろう? 校章の色で二年生だと分かる。
「あの、三沢先輩、っ」
「え…、と」
見覚えがある。
もしかして、と逸巳は思い当たる名前を口にした。
「…柚木さん?」
「そうっ、そうです!」
思いきり頷いた彼女はだだっと階段を下りてきて、逸巳に抱きつきそうな勢いで迫ってきた。
「先輩! あの、あのっ、あのときは本当にごめんなさい!」
「あ…、ああ、うん」
「ごめんなさい私っ」
壁に追い詰められた逸巳は大丈夫、と両手を上げて柚木を制した。
「大丈夫だよ。ほんとに、柚木さんを逃がせてよかったし」
「あいつに何にもされませんでしたっ? 殴られたりとか!」
「大丈夫」
「ほんとにっ!?」
あの男からされたことを柚木には絶対に言わないでくれと逸巳は怜に頼んでいた。その約束を怜は果たしたようだ。
大丈夫、とゆっくりと逸巳は繰り返した。
「ほんとに。何にもなかったよ。後藤くんから聞いたんじゃないの?」
「そ──そうですけどぉ」
「信じてくれないの?」
「しっ、信じますけど! 先輩がそう言うなら…」
今までの強気を引っ込めると、柚木は肩を落とした。
「逃げたのずっと後悔してて、私、お礼も言えなくって」
「いいよ、そんなの」
「先輩に、やっぱり直接お礼言いたいって後藤に言ったら、おまえ絶対顔見せるなって言われて…、それ、なんでだろうって考えちゃって」
「後藤くんが?」
驚いた逸巳に柚木はこくんと頷いた。
「やなことあって、思い出すのかなって、先輩、めっちゃ怒ってんのかなあって…」
「え? …え?」
「だからぁ私ぃ…っ」
綺麗なメイクを施した顔がくしゃっとなって歪んだ。真っ赤になり、ぐずっと鼻を啜る柚木の目には涙が滲んでいる。
「いまっ、まさかあ、先輩と会うなんて、おもっ、思わなかっ…からあっ」
そこまで言ってぎゅっと唇を引き結ぶ。唇を噛みしめ、泣くまいと必死で堪えていた。
ひくっと上がる細い肩に、ああ、と逸巳は思った。
「ごめんね。びっくりしたんだ? ごめんね?」
「う、うううぅ…っ」
「ごめんね? 泣かないで…大丈夫だよ」
そっと囁き、顔を覗き込むと、強張っていた顔がふにゃっと崩れ決壊した。大粒の涙が溢れ、ぽろぽろと頬の上を落ちていく。強気で勝気そうに見えた柚木の泣き顔は小さな子供のようだ。大人びたメイクが剥がれ落ち、年相応の少女の顔になる。
そういえば怜も、こんな顔で泣いていた。
「ね?」
「うえ、っえぇぇ…っ」
誰もいない階段に柚木の泣き声が響く。誰もいない時間でよかったと、そっと柚木と体を入れ替えるようにしながら逸巳は思った。
泣き顔を見られるのは、きっと嫌だろう。
「後藤くんはそんなつもりで言ったんじゃないよ、きっと」
どんなふうに柚木に言ったのか想像でしかないが、おそらく怜の真意は逸巳が困るからやめておけというようなことだったのではないだろうか。柚木に本当のことを言うなと逸巳が言ったから、直接会いに行けば困るに違いないと、多分──そう。
「僕がもういいって言ったから、それで」
「…ん、うん」
「後藤くんも、柚木さんに気を遣うなって意味で言ったんだと思う」
「……」
思い当たる節でもあるのか、柚木は思いきり顔を顰めると、ぐずっ、と鼻を鳴らした。
「…あいつ、言い方最っ悪…」
柚木の呟きに逸巳は苦笑した。
「そうかも」
怜の言葉はいつも端的だ。
口数も少ないから、より一層伝わりづらい。友人である柚木にもそうなら、他の者にはもっと理解しづらいだろう。怜自身にもまた伝えようとする意志がなければ誤解ばかりを生んでしまいそうだ。
「あんなんだからいつまでも言われんのよ…馬鹿なんだから」
「え?」
柚木の呟きに逸巳は思わず訊き返した。
「先輩だって知ってるでしょ、あいつの噂」
頬の涙を指で拭いながら、柚木は言った。
「ほんと馬鹿馬鹿しい! あいつがあんな感じだからずっと──悪いのはあの女なのに、なんで、ほんと──」
「待って」
気持ちが昂っているのか、喋り出そうとした柚木を逸巳は止めた。
「柚木さん、その後藤くんのこと、ちゃんと知ってるの?」
「え?」
「全部、知ってる?」
「知ってます私…っ」
「それ、教えてくれないか?」
え、と柚木が目を見開いた。
こんなことは違う。
本当は怜から直接訊くべきだと分かっている。でも、逸巳は逸る心を抑えきれず思わず言ってしまっていた。
知りたい。
怜に何があったのか。
階段の下、廊下の端でたたずむ影がゆらりと揺れる。
ふたりの話し声に聴き耳を立てるように、そっと息をする。やがて、ひとり分の足音が下りてきた。
身を隠してそれをやり過ごす。影はゆっくりとその場を離れ、姿を消した。
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