明けの星の境界線

宇土為名

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エピローグ

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 眠ってしまった怜を逸巳は抱き締めた。
 行かないで、としきりに不安がる怜はまるで小さな子供のようだ。
 話したいことがあるのに。
 最近はいつもこうなってしまう。

 ***

 塾を変えたのは、進学先を変更したからだった。
 夏休みの終わりに、逸巳は志賀にそのことを話した。
「え、うそ」
 驚く志賀に逸巳は頷いた。
「うん、この夏期講習終わったら」
「えっ…なんで」
 信じられない面持ちで志賀は逸巳を見た。それもそうだろうな、と逸巳は思う。受験が控えるこの時期に、こんなことを言い出すのはどうかしている。
「進学先変えたんだ」
「──そ」
 それは、と言いかけた志賀に逸巳は苦笑した。
「馬鹿だろ?」
「馬鹿っていうか──いや、なんか…」
 そんなこと出来るんだねえ。
 呆れとも関心ともつかない声音で志賀が言う。出来るよ、と逸巳は返した。
「もっと早くに言えばよかったんだけどね」
 ずっと思っていたことだった。今の志望校は、逸巳の希望ではなく、父親の希望するところだ。
 本当はちゃんとやりたいことがある。将来叶えたいのは親から押し付けられたものではなく、自分の夢だ。
『本当は違うんでしょう?』
 位知花には見抜かれていた。お互いまだ距離はあるが、ようやく向き合って話せるようになっていた。
 やりたいことは別にあるんでしょう? と言われ何も言い返せなかった。
『ちゃんと言わないと、分からないわよ? あの人鈍感だし、仕事以外のこと見えてないから』
 おそらくそうなのだろう。父親は昔から他人に関心がなく、仕事しか愛せない人だ。逸巳の母親がそれに我慢できなくなって家を出て行ったときも、特に何の感情も見せなかった。
『言えばいいのよ』
 そして逸巳はここ何年も話していなかった父親に電話をした。もう何年もまともに会話をした記憶がない。
 話が終わると、父親は好きにしろと言っただけだった。特にそれ以上の関心は逸巳にはないようだった。
 位知花の言う通り、仕事だからと早々に電話を切られた。
『おかあさんの言う通りでした』
 そう言うと、ね、と位知花は笑った。
『簡単でしょ』
 

 そして夏休みが終わり、新学期が始まると、位知花は家を出て行った。
 単身で暮らしている父親のところに行くのだ。本当は逸巳が卒業する来年の春の予定だったのだがそれが早まった。
 繰り上がった要因は、位知花の経営していた店の引継ぎが案外早く済んだことと、後継者の出来がよかったことのようだ。
 荷物は既に父の元に殆ど送られていて、その日は小さなバッグひとつだけだった。
 朝、登校する逸巳と一緒に家を出た。そして駅で別れた。
 いってらっしゃいといってきますをお互いに言い合い、その背中を見送った。
 その夜、逸巳はクー・シーに向かった。
「お、いらっしゃい逸巳くん」
「こんばんは」
「久しぶりだなあ」
 カウンターで接客をしていた店長の足立が、にこりと笑った。相変わらず強面だが、笑うと人好きのする顔になる。
「逸巳…?」
 バタバタと足音がして、奥から驚いた顔で怜が出て来た。
「どうしたんだよ」
「まだ間に合うかと思って」
 二十時半を過ぎていた。
 先月からクー・シーの営業時間は一時間多くなっていた。客の増加に伴いそうせざるを得なくなったのだそうだ。だが時期を重ねるようにして逸巳は塾を変えてしまったため、なかなか来ることが出来ずにいた。
「間に合ったけど…」
 どこか困惑している怜に逸巳は首を傾げた。
 何か都合が悪かっただろうか。
「ごめん、連絡──」
「違うそうじゃねえけど…」
 歯切れの悪い怜に、にやにやと店長は笑っている。まだ奥に残っていた三人連れの女性客が席を立った。
 逸巳はカウンターから離れ、いつもの席に座った。会計をする賑やかな声が店の中に響き渡る。怜も話しかけられていた。言葉少なに返す怜の声には、以前のようなとげとげしさがない。
 和やかな時間。
「ありがとうございました」
 彼女たちが出て行くと、途端にしんとした静寂が訪れた。騒々しさに聞こえなかったピアノ曲が、かすかな音で流れている。
 何度も聞いた曲だ。
「逸巳──」
 音もなくテーブルの上に皿が置かれた。見上げれば、いつの間にか怜がそこに立っていた。
「…え?」
 白い皿の上にはパンケーキが載っていた。
 綺麗に盛り付けられ、ほかほかと湯気を上げている。出来立てだ。まだ注文もしていないのに。
「バイト上がったら持って行こうと思ってた」
「え…」
「最近あんまり会えなかったから」
 見交わした視線に胸が詰まる。同じ学校にいるはずなのに、会えないことはよくあった。時間を合せられるのはせいぜい昼休みで、帰りもお互い時間に追われている。週末も忙しい自分たちが三日に一度の頻度で夜会えるのは、いつも怜が時間を作って来てくれるからだ。
 そして今日は、その日ではない。
 ああ、と逸巳は思った。
 今日なぜここに来たのか。
「これ、食べていい?」
「え…、ああもちろん──」
 いただきます、と言って逸巳はナイフをパンケーキに入れた。ふわりとした感触が指先に伝わる。切り取ったそれを口に入れると、優しい甘さが口に広がった。
 これは怜が作ったものだ。
 怜の味、怜の──
「…逸巳?」
 いつの間にか片頬の上を涙が濡らしていた。フォークを持つ手の甲で拭うよりも早く、怜の指がそれを掬った。
「どうした?」
「……」
「逸巳」
「……い」
「え?」
「…さ…」
 寂しい──寂しくて。
 今朝見送った位知花の背中を思い出す。出て行った実の母親も、振り返らずに逸巳を置いてドアを閉めた。
 ずっとそんなこと忘れていたのに。
 忘れたと思っていたのに。
 どうしようもない寂寞が胸の奥から溢れてくる。誰もいないあの広い家にひとりで帰る気にはなれなかった。どうしても今日は、怜に会いたかった。
 連絡を入れる前に足が向いていたのだ。
「ごめん──これ、食べたら帰る」
 言葉を飲み込んでそう言うと、怜はさっとテーブルから皿を取り上げた。逸巳は驚いて怜を見上げた。
「え…」
「そこにいて」
 そのまま奥に行き、店長と話す声が聞こえると、またすぐに戻って来た。
「行こう」
 怜はエプロンを外し制服姿になっていた。鞄を肩に掛け、手に紙袋を持っている。
「え、待っ…」
 腕を取られ椅子から立ち上がらされると、そのまま逸巳を抱えるようにして怜は入り口に向かった。カウンターで店長が手を振っている。それを横目に店の外に出た。
「怜──」
 逸巳の手を握ったまま、怜は何も言わずどんどんと進んでいった。まだバイト中だったのに。
 なにか、怒らせたんだろうか? 
「怜、ごめん──」
「何がだよ」
 ぴたりと足を止め、怜が振り向いた。
「今日だろ、あの人出て行ったの」
「そ…」
「寂しいって、なんで言わねえんだよ」
 逸巳の手を取って怜は再び歩き出した。
 いつから、いつから見抜かれていたのだろう。
 位知花が家に来て、あるきっかけから帰れなくなってからも、逸巳はひとりになるのが怖かった。誰か大勢の人がいる場所に身を置きたくて、そんな所ばかり選んで時間を潰した。
 ひとりになるのが苦手だと、自分で自覚したことはない。
 ひとりではいられる、でも落ち着かなくて仕方がないのだ。
 寂しさに押し潰されそうになる。
 一年半ほど前、偶然通りかかったクー・シーの窓からは、いつも大勢の人が笑い合っているのが見えた。
 ここならきっと紛らわせる。
 ここなら。
 そして怜に遭った。
「……」
 手から伝わる温もりが胸を焦がす。その気配にさえ泣きそうになる。
 好きで仕方がない。
 離れたくなんかない。
 一年も──
 誰もいない家に帰り着いた。玄関を入った瞬間、逸巳は後ろから怜に抱きついた。
「…好きだ」
 そう言って怜の唇を塞いだ。
 その夜初めて、怜を受け入れた。
 夏が終わり、短い秋が過ぎ、冬になった。
 あれからもう二ヶ月が過ぎた。

 
「…、あっ、あ…ぁ」
 溶ける。
 自分の上げた声に頭の中がどろどろと溶けていく。
 しがみつくように全身で求めてくる怜に逸巳は両腕でしがみついた。身体の奥深くで沸騰する熱が、出口を探して全身を熱くする。耳朶を噛み、耳を啜り、項を舐められる。竦めた肩を宥め、熱く濡れた舌が首筋を辿り胸に降りてくる。
「だ、…め、怜…っ、そ、れや…」
 吸い付いた右の乳首を歯で挟み、怜はきつく扱いた。たまらない愉悦が腰からせり上がってきて、やめて欲しいと逸巳は怜の髪を引っ張る。これ以上されたらどうにかなりそうだ。柔らかな髪を指先に絡め、だめ、と首を振った。吐き出した吐息を閉じ込めるように伸びあがってきた怜の唇に塞がれる。
「ん…! ん、っ…ぅん…っ」
 のしかかる体重に背中がベッドに沈んだ。細く見える怜だが生身の体は驚くほど筋肉が張っていてずしりと重い。身体を覆われてしまえば逃げることが出来なかった。重なった肌が熱い。
「あ、っぁあ…っ、あ、ア…」
 体の中をゆっくりと出入りする。奥深くまで入り込み、そして抜けてしまうぎりぎりまで腰を引く。
「や…」
「…ん?」
 ゆらゆらと揺れる視界、霞かかった薄闇の中で怜と目が合った。たったそれだけの事なのに、ぎゅう、と心臓が痛む。
「…っ」
「どうしたの?」
「あ…」
 分かっているくせに。
 わざと焦らしている。上気した怜の頬に逸巳は指を這わせた。
「ぬか、な…」
 満たされていた内側がぽっかりと空いている。入り口の浅い部分で引っかかるそれを、もっと、深くまで──
「ほしぃ、れ…っ、い、あ…も、も、ぅ」
 挿入れて、と逸巳は足の間にある腰に自分の脚を擦り付けた。
 好きだ。
 欲しい。もっと、もっと──
 怜が思うよりもずっと、怜が好きだ。
「あっ…! や、あぁー…ッ!」
 ぐっ、と喉を鳴らした怜が、一気に逸巳の中に突き入れた。衝撃で大きく仰け反った逸巳の腰を強く掴んで引き戻すと、激しい抽挿が始まった。
「あ、は、…っあ、ぁあ、ああっ、あ、ひ、っいぃ」
「…っ、逸巳」
 切羽詰まった声に、逸巳は怜の肩に爪を立てた。
「れ、い、っ…、もお、も、…っ」
 いかせて欲しい。
 いきたくてどうにかなる。自ら腰を揺らして愉悦を貪ろうとした逸巳の耳元で、だめ、と怜が囁いた。
「悪いことしないで」
「あ、あ、やあ…!」
 両腕を取られ、シーツに押し付けられた。藻掻いてもその力は強くびくともしない。そのままごりごりと奥を抉られ、涙が溢れた。
「っあ、はっ、はあ、ア、…! なん、で、ぇっ…も、やあっ…」
「いきたいの?」
「ぅ、い、いぃきたいぃ…っ、いかせ、っ、…ぇえ」
 深すぎる抽挿にもうおかしくなりそうだ。逸巳は必死に頷いた。
「……」
 ふっと怜の顔が近づいてくる。
「じゃあ、…」
 噛んで。
 印をつけて。
「……っ」
「お願い…」
「っ、……」
 解放された腕を持ち上げ怜の首に回した。震える指で引き寄せた滑らかな肌に、逸巳は小さく歯を立てる。
「…、っ、逸巳…」
「──ひ、ぁ、ッ──」
「好き──」
 好きだ、と泣きそうな声で怜が繰り返す。好きだ。僕だって、僕だってそうだ。
 怜が──怜のことが──
「──」
 ひと際奥を突かれ、逸巳の体が弓なりに反った。声にならない声が高く上がる。膨れ上がった愉悦が一気に弾け、逸巳の中にぶちまけられた。抜かれないままゆるゆると腰を揺らされ、目の前が真っ白になった。
「あ! ぁ…、ぁ…っ、あぁ」
 ぷしゃ、と聴き慣れない水音が部屋の中に響いた。びくびくと魚のように痙攣する自分の体が噴き上げた生温かなそれに濡れていく。
「逸巳…」
 ぐったりと弛緩した体は指一本さえも動かせない。
 痙攣する逸巳の髪を撫で、肌を辿る。早鐘を打っていた心臓が怜の手に呼応するように段々と静まっていく。
 好きだ、好きだ。
「僕も…」
 好きだ。
 だからこそ一緒にいたい。
「いかないで」
 行かない。どこにも。
「…大丈夫だよ」
 そんなこと出来るわけがない。

 ***

 目が覚めると、まだ真夜中だった。傍らで眠る怜を起こさぬよう、逸巳はゆっくりと体を起こした。額に掛かる髪をそっと指先で避ける。前よりもずっと短くなったそれは、彼にとてもよく似合っていた。
「…怜」
 美しい彼は、まるで子供のようだ。
 行かないでと何度も繰り返す。
 離れられないのは自分だけだと思っている。置いて行かれると。
「馬鹿だなあ…」
 離れられないのは、逸巳も同じだ。
 期待させたくなくて逸巳は黙っていたが、今日、変更した進学先への推薦が決まった。
 大学ではなく専門学校で、ここからそう離れていないところだ。どちらにしろこの家は出て行かなければならないが、新しく部屋を借りても十分電車で通える。
 そのことを話したいのに、切り出そうとするたびこうなってしまう。
 早く怜の喜ぶ顔が見たい。
 起きたら話そう。
 もう行かないでと泣かなくてもいいのだ。
 窓から差し込む月明かりがベッドの上に線を引いている。くっきりとした光の陰影に、ふと、逸巳は昔のことを思い出した。
『こっちにおいで』
 それはどこかの路地裏で蹲っていた子供だった。
 自分とそう歳の変わらない、誰か。
 震える手を取ろうと、暗いそこに手を差し伸べた記憶。
 結局、あの子はどこかに逃げてしまった。母親を呼びに行き、戻ってきたときにはもうそこにいなかったのだ。
 あの子はどうしただろう。
 どこかでちゃんと笑ってるだろうか。
 誰かの手を取っただろうか。
 怜の体を月明かりの中に引き寄せ抱き締めた。
 窓から見上げた空には、明星がひとつ、ぽつんと浮かんでいる。
 まるで置いて行かれたかのようだ。
 怜を胸に抱いたまま、逸巳は目を閉じた。
 どうか、この先もこの手を握っていられますように。
 春になっても、その先も、ずっと。
 この温もりに胸を焦がしていたい。

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