あなたのことが好きなのに

宇土為名

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 駅前の繁華街、派手な電飾が目に痛い。目を顰めて携帯を見ると画面には思うよりも遅い時刻が表示されていた。
 吐き出したため息が夜の闇に溶ける。
 雑多な店が詰め込まれた通りの中程にあるゲームセンターの前で足を止める。
 自動ドアをくぐり、店外まで聞こえてくる激しい音の洪水の中に姫野は入って行った。薄暗い店の中は迷路のように入り組んでいて、所狭しと様々な機械が並ぶ。くねる狭い通路を迷いなく進み、真ん中に青く光るパネルが嵌め込まれたゲーム機が向かい合わせに並ぶ一角に姫野は向かった。今日も人はそこだけ掃いたように少ない。それぞれ5台ある内のひとつに腰を下ろし、コインを入れる。
 しばらくゲームをしていると向かいの台に人が来る気配がした。ふたり。耳を澄ます。ぼそぼそとふたりはゲームをしながら話し始めた。
 やがて姫野の座る列にも若いサラリーマン風の男が座った。携帯を耳に当てたまま時々頷き、手慣れた仕草でコインを入れていく。
 姫野はそっと目を伏せて、ゲームに集中するふりをした。

  ***

 うん、と匡孝は頷いた。
「だから、26日が休みになったからそれでいい?…ん、分かってるって。大丈夫だよ。いや、それはないから…うん。うん、じゃあそれで。祖母ちゃんと拓巳に言っといて」
 佐凪の弾んだ声が電話の向こうから聞こえてくる。
 思わず緩みっぱなしになる頬に視線が痛い。
「ん、じゃあまたな」
 そう言って切ると、じとっと見てくる隣を匡孝は見た。
「なに?」
「デレデレじゃん」
「いもーとだよ」
「おまえ電話してる時の自分の顔見たことある?」
「うるさい」
 ニヤニヤ笑う吉井の脇腹を小突いて匡孝は携帯をポケットにしまった。
「あークリスマスかあ」ん、と伸びをした吉井の横顔を見上げる。「オレは何もない…」
「俺だってバイトだよ」と匡孝は笑った。
 放課後の補習が終った後、珍しく校門のところで部活を早めに切り上げた吉井と一緒になり、用事があると言う吉井と駅前まで歩き出したところに佐凪から電話が入り、吉井にからかわれたのだった。
 匡孝はこの一週間、バイト帰りは自転車を使うことにしていた。ただし学校へは自転車は乗り入れられないので、朝中間地点である駅に置いて放課後取りに行くといった具合だ。少し手間だし不便なんだか便利なんだか分からないが、まあそれで安心するのなら──市倉が──それでもいいかと、続けていた。それも今日までの事だ。今日は金曜日。あれから何事もなく3日が過ぎていた。
「明日も練習試合でさ…オレは心折れそうだわ」
 はっしーはまだ腰痛で休みなのに、と続けた。はっしーとはバスケ部顧問の橋爪の事だ。深津と同様50代のベテランだが腰痛持ちでおそらくは運動系の部活には向いていないと思われる。コーチではないので関係はあまりなさそうだけど、と匡孝は思った。
「それで明日もいっちゃんが、…て、知ってたか?」
「あー、うん…」
 その話は補習の時に聞いていた。
『明日は休日出勤だ…また借り出された』
 まあ昼すぎには解放されるか、と市倉は言っていた。
 頷くと、吉井が意味ありげな目でじっと匡孝を見下ろした。
「……何だよ」
 なぜか目を逸らして匡孝は言った。
「何でも」うっすらと赤い匡孝の頬を見て、吉井はにやつきそうになるのを噛み殺した。
「うそつけ」
「思っただけ」
「何を」
 こいつ分かってないな。
「言わない」
「はあ⁉」
 いや分かんないほうが幸せかも、と、なんだそれ⁉と声を上げる匡孝を笑って躱しながら吉井は思った。

 じゃあまたな、と言った吉井と駅前で別れて匡孝は薄闇の中をコンタットへと向かって自転車を走らせた。
 やがて見えてきた灰色の壁、前庭に漏れる店の明かりに息をつく。裏口に回って壁に沿うように自転車を置いて匡孝は扉を開けた。
「こんにちは」
 ちょうど小部屋から出てきた大沢に声を掛けた。こんにちは、と大沢は小さく呟くように返す。
「今日もよろしく頼むね」
「はい」
 着替えながら匡孝が言うと、大沢は口元を柔らかく笑んだ顔を向けてくる。わずかに頷いてからまた小部屋へと引っ込んでいった。
 大沢はここのところ表情を和らげることが多くなった。ふとしたときに困ったように匡孝に微笑んでくれて、それがひどく匡孝は嬉しかった。思えばそれは、クリスマスに市倉を連れておいで、と大沢が言った時からだったように感じる。人と接することが苦手な大沢がそんなことを言ってくれるとは思わなくて、とても嬉しかった。
 その日がとても待ち遠しい。
 いい日になればいいと匡孝は思った。
 誰にとっても。
 なんといってもクリスマスだ。
 鞄を入れてロッカーを閉める。
「こんにちはー」
 厨房に入ると、おう、と浜村が手を上げて今日もよろしくと笑った。

  ***

 やけに重いガラスドアだった。押し開けると、甘い匂いに混じって焼きたてのパンの匂いが鼻をくすぐった。
 約束の時間は17時だったが、随分過ぎていた。しかしはじめから時間通りに行くつもりは更々なく、匡孝と校門で出くわさなければ、あと1時間は遅れて来ようと思っていた。実際、匡孝と駅前で別れた後駅ビルの書店で大いに時間を潰していたのだ。
 眉を顰めながら足を踏み入れた吉井は、こんなところにメール一本で自分を呼び出した相手に苛立っていた。
 そもそもこんなところに呼ぶ意味が分からない。
 気に食わない。
 見捨てておきたいのは山々だが──
 そうするには、自分の性格は少々──世話焼きに出来ている。
 入口でぐるりと見渡すと、大して広くもない店内はほぼ女性客で埋まっていた。右側がカフェ、左側がベーカリーだ。どうやら焼きたてのパンがウリの店のようだ。なるほど、女子の好きそうな店だ。
 まといつくようないくつかの視線を吉井はあっさりと無視する。
 やがて混雑する店の奥にようやくその姿を見つけた。
 吉井は大股で歩み寄った。
「で?」
 匡孝には聞かせたこともない低い声で吉井は言った。
 俯いた顔が手の中の飲み物から離れて、こちらを見上げる。
 その目が少し気まずそうに逸れた。
「用ってなんだ」
「…用があるから呼んだんだろ」
 と姫野は言った。

  ***

 看板を仕舞って店内に戻ると、バックヤードからクリスマスツリーを抱えてきた浜村がそれをカウンターの横に置いていた。高さは匡孝と同じくらいだ。コンクリート製の巨大な鉢植えに入っており、一見土も入っていて本物のように見えるが、フェイクツリーなのだと浜村は言った。
「うわ、店の中に置くと大きいね」
「結構な迫力だよな、ちょっと遅いけどあった方がクリスマスって感じだな」
 その横にどさっと飾りの入った段ボールを置いて、浜村は言った。
 物珍しそうにあれこれ引っ張り出している匡孝に笑う。
「残業代出すから飾りつけやるか?」
 あれから大沢は匡孝と入れ替わるように外出し、帰りは遅くなるらしく、飾りつけは明日3人でやろうかと言っていたのだった。でも、今日してしまえるのならやっておきたい。
「えっやる!あ、でも残業代はいらないよ」
 慌てて言った匡孝に浜村はニヤッと口の端を吊り上げた。
「俺の出す残業代は金じゃなくてメシ」
 旨い夜食作ってやるよ、と言って厨房に戻って行った。
「1時間で終わらせろよ」
「うん!」
 匡孝はさっそくツリーの飾りつけに取り掛かった。

「おー!結構いい感じになったじゃないか」
 ローストビーフの端切れを集めたサンドイッチの皿を片手に、浜村は感心したように声を上げた。
「いい?」
「おお!いい、おまえ上手いなあ」
 カウンターの正面のテーブルに皿を置き、少し離れたところからまた眺めて浜村は言った。
「浜さんなに飲む?」
 厨房の冷蔵庫を開けながら匡孝は言った。炭酸水、と聞こえたので、それを二人分出して持っていく。
「じゃ乾杯」
「お疲れさまです」
「お互いにな」
 サンドイッチはわさびが効いていて美味しかった。ああこういうのいいなあ、と匡孝は噛み締めるように食べる。
 こういうの、すごく好きだ。
 佐凪や拓巳にも作ってあげたい。
「んー美味しい」
「残業代分か?」
「それ以上だよ。こういうのいいね」
 浜村は笑って、がぶりとサンドイッチを食べた。
「レシピ書いてやるよ」
「うん、ありがとう。でもさ、それもだけどなんかこういうふうに仕事終わった後に食べるのとか、すごく好きだと思って」
 ああ、と浜村は頷いた。「分かるよ。俺もそうだ」
「ほんと?」
「おまえも俺も、裏方気質なんだな。表に出るよりもそういうのに向いてるんだよ」
 匡孝は食べる手を止めて、浜村を見た。何かがすとん、と胸の奥に落ちた気がした。何だろう。何か…
 何かが。
「そうかな…」
「じゃなきゃあんなに楽しそうにおまえ、働かないだろ」
 な、と浜村が何の迷いもなく嬉しそうに笑うので、匡孝もつられて嬉しくなった。手の中のサンドイッチを食べる。
 そうだよね、と頷いた。
 帰り支度をして、大沢を待つという浜村に匡孝は挨拶をして裏口を出た。
「遅くなったから気をつけて帰れよ」
「うん。自転車だし、大丈夫だよ?」
 裏口まで見送りに出た浜村を匡孝は振り返る。鍵を取り出して差し込み、自転車のスタンドを倒したところで、がくん、と車体が沈んだ。
「あれ?…」
「どうした?──パンクか」
 後輪潰れてるぞ、と浜村が言った。
「うわ、なんだろ…なんか踏んでたのかな」
 匡孝はぺたりと潰れてしまったゴムを指で辿るが、見事に空気が抜けてしまっていて、もうどうしようもない。はあ、とため息をついて浜村を見た。
「ごめん浜さん、これ置いてっていい?」
 押して帰るのは少し面倒な気がした。
 いいけど、と浜村が言った。
「送ってやろうか?車出すぞ」
 浜村は車で出勤している。家はこの近くだそうだが、朝仕入れがあるので店の裏に車を置いていた。
「あーでも、そんな距離でもないし」
「物騒だろ」
「大丈夫だよ」
「いいから」
 ちょっと待ってろ、と言って簡単に店の施錠を済ませると、浜村は車のキーを取って戻って来た。裏口を閉め、匡孝を車に促す。深緑色の小さなクーペは大柄な浜村が乗ると車体をギイっとしならせた。助手席に匡孝も乗り込む。
「店長大丈夫かな」
「鍵持ってるしな、裏の明かりつけてるから平気だろう」
 エンジンをかけながら何でもなさそうに浜村は言った。

  ***

 マンションの入り口で匡孝は車を降りた。
「ありがとう浜さん」
「いいって、また明日な」
 うん、と匡孝は手を振った。
「おやすみ」
 浜村も手を上げて、車は走り去った。赤いテールランプが見えなくなるまで見送ってから、匡孝は、あ、と思い出した。
 慌てて鞄の中から携帯を取り出してエントランスに入る。家に着く前にメッセージを送った。


 乱雑に散らばった写真を眺めていた。
 市倉は手を止めた。
 時刻は23時になろうとしている。何かあったかと──落ち着かない気持ちになり始めた時、携帯が鳴った。
『無事に帰宅しました』
 思わず、そのまま通話に切り替える。
「──はい、あれ?」
 どうしたの先生、と変わらない匡孝の声を聞いて市倉は肩の力が抜けた気がした。
「お疲れ」
「うん。ごめん連絡遅くなった。ちょっと残業してて、気がついたらこんな時間になってて…あ、で、送ってもらったから」
 大丈夫だよと匡孝は笑った。
「そうか」
 つられたように市倉も笑い、ふと、自転車は?と尋ねた。
 一瞬間が空いた。
「えーと、置いてきたよ」
「そうなのか?」
 匡孝の声の向こうでドアの閉まる音がした。玄関?今帰宅したのか。
「うん、遅いし、送ってくれるって言うから店に置いてきたよ…」
 なんとなくその言い方に嫌な予感がした。顔を見ていれば一発で嘘だと分かっただろうなと市倉は思った。
「何もなかった?」
「…うん」 
 ふうん。
「何もない」
「本当に?」
「平気だってば」
 平気ってなんだ?
 内心で市倉は嘆息する。言わないのは無理をしてるのか、気がついていないのか。
 おそらく後者だろうと話題を変えた。
「日曜日、帰りに会えるか?」
 電話の向こうが沈黙した。
「え…いいの」
 いいよ、と市倉は言った。
「終わったら連絡して?」
 匡孝の声に嬉しさと驚きが滲んでいて、知らず市倉の頬が緩む。囁く声にも同じ甘やかさが浮かんでいた。
「うん」
「明日も、気をつけて」
 吐息を零すように匡孝が笑う。「大丈夫」
「何かあったら必ず連絡しろ」
 明日は朝からバスケ部の付き添いで出掛け、その後ひとつ予定が入っていた。出来ることならそれを早く済ませ、いつでも駆けつけられる場所にいたいと──そう言ったら、匡孝はどう思うだろう。
 過保護だと、きっと笑うだろうなと市倉は思った。
 少しだけ呆れたような顔をして。
「うん、分かってるよ」
 と匡孝は笑みを含んだ声で言った。
 その声に、思いが込み上げた。
 ほんの数時間前別れたばかりだ。なのにもうその顔を見たいだなんてどうかしてると──らしくもない自分に、市倉はひとり苦笑した。


 帰り着いた浜村は匡孝の自転車に歩み寄った。裏口を開け、その光の中に持っていく。後輪がよく見えるように置いた。
 パンクの状態を見て、直せるものなら明日の朝でもやっておこうと思ったのだった。
 けれど。
(おいおい、こりゃ…)
 一目瞭然だった。暗がりでは分からなかったが、後輪はざっくりと刃物で切りつけられていた。
 直しようもないほどに。
 あそこで匡孝が気がつかなくて良かったと思った。
 これは一体どういう事だ?誰がわざわざ──こんな、人目につかないところに置いてある自転車を傷つける?
 その理由はきっとひとつだ。
(江藤のだから?)
 それは直感だ。
 浜村は顔を上げた。住宅街の暗がりにさっと目を走らせる。
 誰かが見ている気がした。
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