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断章 群青の調律師
第十二話 底知れぬ無
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屋敷を去った鳴海は、帰りの車の中で少しずつ冷静さを取り戻しつつあった。だが彼の脳内は、司城絢の命譜の解析で一杯になっていた。
あの恐ろしい深淵を見てしまったというのに───いや、見てしまったからこそ、彼女を救いたいという気持ちがさらに強くなった。
とはいえ、あれはかなりのクセモノだ。一朝一夕で治せるものではないだろう。だが、壁が高ければ高いほどやりがいがあるというものだ。彼女を完璧に調律できたとき、自分は本当の意味で『神』になれるのかもしれない───いつしか鳴海の目は爛々と輝き始めていた。
*
深夜。寝室の外から聴こえてくるキーボードの音で夏音は目を覚ました。ベッドから起き上がり、ガウンを軽く羽織って寝室を出る。
メロディは、リビングから聴こえてきていた。鳴海がキーボードに向かい、頭をかきむしりながらノートに何か書きなぐっている。
「ねぇ、鳴海。こんな夜中に何やってんの」
彼から返事はない。狂ったようにキーボードを叩きながら、ブツブツと何か呟いている。
夏音は顔をしかめ、彼の首に両手を巻き付けながらノートを覗き込んだ。それは手書きの譜面だった。
「なぁに?作曲?」
「……まぁ、そんなところかな」
鳴海は夏音の腕を振り払うと、また鍵盤を叩き始めた。
「鳴海……その曲、なんか冷たくて怖いよ。ねぇ、もう寝よ?」
夏音の言葉を、鳴海は鼻で笑う。
「専門外の人間にはわからないよ。これは、世界で一番美しい和音を作るための設計図なんだ」
夏音はしばらく心配そうに彼を見つめていたが、やがて諦めたようにとぼとぼと寝床に引き返した。
*
鬱陶しい雨が降る中、鳴海は司城家の屋敷を目指して車を飛ばしていた。対向車のハイビームが雨粒に乱反射して視界を白く焼き切る。光が過ぎ去った後の闇は、先ほどよりも一層深く、重苦しく鳴海の眼前に横たわっていた。
やがて司城家の敷地内に到着した。しかし玄関ポーチには、見慣れない漆黒のマセラティがふんぞり返るように停まっていた。司城家の重厚な石造りの建築を背景に、そのイタリア車は傲慢なまでにその場を支配している。
若干不快感を覚えながらも、鳴海は逸る足取りで司城家の玄関まで歩を進めた。
出迎えてくれた家政婦の安曇は、やや驚いた面持ちで鳴海を見た。というのも、今日は予定外の訪問だったからだ。
「夜分遅くすみません。絢さんに早く、ピアノを聴かせてあげたくて……」
鳴海の鬼気迫る様子に若干たじろぎつつも、家政婦は「お待ちください」と言い残していったん屋敷の中へと引っ込んだ。
鳴海が苛立ちながら待っていると、家政婦が小走りで戻ってきた。
「どうぞお入りください」
家政婦の案内でお馴染みのリビングへと向かう。部屋の近くまできた時、男女の会話が聞こえてきた。一人は絢だとわかったが、もう一人の男の声に聞き覚えはない。
「今回のインクカートリッジは放し飼いか。ちゃんと繋いで管理しておかないと、暴走して手に負えなくなるぞ」
「暴走するほどの熱量がなければ、私のキャンバスは染められませんよ」
(一体、何の話をしてるんだ…?)
鳴海がリビングに入ると、二人は会話をやめた。いつもとは違う光景が、鳴海の視界に広がる。
ソファに座る絢。そして彼女の向かい側で、黒髪の若い男が寛いでいる。その男に、鳴海は見覚えがあった。
圧倒的な超絶技巧で知られる指折りのピアニスト、黒瀬晴臣に違いなかった。生でその姿を見るのは初めてだが、写真や映像で見るよりもずっとオーラがあり、鮮烈な存在感を放っている。
しかし一体なぜ彼が司城家にいるのだろう。鳴海は物問いたげに絢を見る。しかし最初に口を切ったのは、プロピアニストの黒瀬晴臣だった。
「そちらの彼が新しい調律師か。紹介してくれよ、絢さん」
「調律師兼、音楽療法士の五十嵐鳴海さんですよ」
「音楽療法士?随分と胡散臭い響きだな」
黒瀬は蔑んだ視線を鳴海に投げ掛ける。侮辱に耐え兼ねた鳴海は反論しようとしたが、絢に先を越された。
「彼の音楽療法は本物ですよ。演奏を聴かせて頂いた後は、とても気分が良くなりますから」
「いいや、それは違うだろう」
黒瀬は絢の方へ身を乗り出し、意地の悪い笑みで何か囁きかけた。しかし絢は顔色一つ変えなかった。
「こんな質の良いセラピーを無償で提供してくれる五十嵐さんは神様のようですね。鍵盤を叩く指でスロットを回す、芸術の皮を被った俗物ピアニストさんとは大違いです」
絢のフォローと微笑みのお陰で、黒瀬への怒りは幾分か薄れた。
「突然お邪魔してすみません。早く絢さんを治してあげたくて」
「治す?何を治すんだ」
口を挟んできた黒瀬を無視して鳴海は絢の手を取った。
「今度はきっと上手くいくと思うんです。僕の渾身の一曲に、付き合ってもらえますか」
「ええ、喜んで」
鳴海はピアノの前に腰を下ろした。目の前にプロが居たからといって、気後れすることはない。超絶技巧よりも、「聖調」で人の心を救う方がよほど価値があると彼は信じて疑わなかった。
絢の右手の感触を背に感じつつ、彼はゆっくりと鍵盤に十指を下ろした。
命譜を何度も何度も読み込んで策を練り直した末、彼が最終的に選んだのはベートーヴェンの『テンペスト』だった。
絢の深淵が底なしなら、こちらも嵐のような激しさで、その奥底まで音を叩き込むしかない。ベートーヴェンのあの荒れ狂う旋律を借りて、彼女の闇を強引にこじ開け、彼の色で塗りつぶしてやろうと考えたのである。
施設の子供たちの調律が『修理』だとしたら、絢のそれは『解体と再構築』だ。普通の調律ではあの闇には届かない。 もっと重く、もっと執拗で、逃げ場のない旋律が必要だと彼は気付いたのだ。
「見ていてくださいね、絢さん。今僕があなたのその絶望を、最高の音楽に書き換えてあげますから」
鳴海は鍵盤に指を沈めた。従来の『テンペスト』に、独自の「聖調」用アルゴリズムを組み込んだアレンジ曲。
それは演奏というよりも、彼女の闇を標的にした音の弾丸だった。その一打で、彼女の凍てついた深淵を粉砕し、彼の色で染め上げてやるつもりだったのである。
弾き始めた瞬間は、確かな手応えを感じた。しかし、曲が進むにつれて、鳴海は背筋が凍るような感覚に襲われた。
叩き込んだ音の礫が、彼女に届く直前で消えていく。反響がない。まるで、巨大な綿の中に針を刺しているような、手応えのない空虚さ。彼女の深淵は、彼の『攻撃的な和音』さえも、ただの心地よい刺激として飲み込んでいく。
演奏が終わったあと、鳴海は息も絶え絶えに絢を振り返った。彼女は相変わらず余裕の笑みで、いや、まだ足りないと言わんばかりの物欲しそうな目で鳴海を見ていた。
「ありがとうございます。今日は特に濃い、綺麗な群青色でしたね」
彼女が立ち去った後、鳴海は魂が抜けたかのように椅子から崩れ落ちた。
「おいおい。セラピーが必要なのは君の方じゃないのか、坊や」
黒瀬が鳴海の腕を引っ張って無理矢理立たせる。その際、黒瀬は地を這うような低い声で鳴海に囁いた。
「悪いことは言わない。これ以上絢に踏み込むのはやめろ。魂ごと吸い取られるぞ」
その予言めいた言葉は、まるで彼の末路を見透かしているかのようだった。悪ふざけの警告ではないと、鳴海は瞬時に察知した。実際彼は、絢を救うために身を削り続け、もう限界まできていたのだ。
けれど、彼女を見捨てて逃げることなど、彼のプライドが許さなかった。
「離してくれ……。彼女を救えるのは僕だけだ」
鳴海は黒瀬を振り払い、ソファで紅茶を飲む絢の元へと向かった。
「馬鹿馬鹿しい。付き合ってられないな」
黒瀬は鼻を鳴らし、二人を残してリビングを出ていった。
「すみません、絢さん……。今回もあなたを救うことができませんでした」
鳴海は絢の隣に腰掛けると、絶望しながらも粘り強い眼差しで彼女を見つめた。
「ですが僕は決してあなたを見捨てたりはしません……!必ず救ってみせますから」
「もう、いいんですよ…五十嵐さん。あまり無理をしないでください。あなたの方が壊れてしまいますよ」
絢の優しい言葉は、一見すると彼を労っているように聞こえるが、その裏側には、暴発するホースの頭を踏みつけるような冷徹さが同居していた。
吹き出す水飛沫を浴びても瞬き一つせず、悶える獲物を「風変わりな楽器」でも眺めるかのように見据えている──そんな底冷えする無垢な狂気が彼女の瞳には宿っていたが、彼女を救うことしか頭にない鳴海は、まったく気付いていなかった。彼女が「もういい」と言えば言うほど、それが「助けて」の裏返しのように思えてならなかったのだ。
「絢さん。差し支えなけば、あなたの抱えているものを、僕に吐き出してもらえませんか。たとえば、その……左腕のこととか」
鳴海はとうとう、最終手段に出た。相手にトラウマを打ち明けさせ、少しでも闇を暴こうという、外からのアプローチである。
「五十嵐さん。もう充分ですよ」
絢は決して、仮面の下を見せようとしない。鳴海のような感応力を持っていない普通の人間ならば、「ああ、彼女は大丈夫なんだな」と納得してしまいそうなほど、完璧な仮面である。
「あなたの特技であるその独自の音楽療法は、きっと私には合わなかったんでしょう。ですが、あなたの出す鮮やか群青色は、一時的ではありますが、私の心を癒してくれました」
そう言って絢は、右手で自分の左腕を掴み、どこか恍惚とした笑みを浮かべた。
しかし鳴海の心は穏やかではなかった。彼女が気丈に振る舞えば振る舞うほど、「救いたい」という思いは強くなる一方だった。
あの恐ろしい深淵を見てしまったというのに───いや、見てしまったからこそ、彼女を救いたいという気持ちがさらに強くなった。
とはいえ、あれはかなりのクセモノだ。一朝一夕で治せるものではないだろう。だが、壁が高ければ高いほどやりがいがあるというものだ。彼女を完璧に調律できたとき、自分は本当の意味で『神』になれるのかもしれない───いつしか鳴海の目は爛々と輝き始めていた。
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深夜。寝室の外から聴こえてくるキーボードの音で夏音は目を覚ました。ベッドから起き上がり、ガウンを軽く羽織って寝室を出る。
メロディは、リビングから聴こえてきていた。鳴海がキーボードに向かい、頭をかきむしりながらノートに何か書きなぐっている。
「ねぇ、鳴海。こんな夜中に何やってんの」
彼から返事はない。狂ったようにキーボードを叩きながら、ブツブツと何か呟いている。
夏音は顔をしかめ、彼の首に両手を巻き付けながらノートを覗き込んだ。それは手書きの譜面だった。
「なぁに?作曲?」
「……まぁ、そんなところかな」
鳴海は夏音の腕を振り払うと、また鍵盤を叩き始めた。
「鳴海……その曲、なんか冷たくて怖いよ。ねぇ、もう寝よ?」
夏音の言葉を、鳴海は鼻で笑う。
「専門外の人間にはわからないよ。これは、世界で一番美しい和音を作るための設計図なんだ」
夏音はしばらく心配そうに彼を見つめていたが、やがて諦めたようにとぼとぼと寝床に引き返した。
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鬱陶しい雨が降る中、鳴海は司城家の屋敷を目指して車を飛ばしていた。対向車のハイビームが雨粒に乱反射して視界を白く焼き切る。光が過ぎ去った後の闇は、先ほどよりも一層深く、重苦しく鳴海の眼前に横たわっていた。
やがて司城家の敷地内に到着した。しかし玄関ポーチには、見慣れない漆黒のマセラティがふんぞり返るように停まっていた。司城家の重厚な石造りの建築を背景に、そのイタリア車は傲慢なまでにその場を支配している。
若干不快感を覚えながらも、鳴海は逸る足取りで司城家の玄関まで歩を進めた。
出迎えてくれた家政婦の安曇は、やや驚いた面持ちで鳴海を見た。というのも、今日は予定外の訪問だったからだ。
「夜分遅くすみません。絢さんに早く、ピアノを聴かせてあげたくて……」
鳴海の鬼気迫る様子に若干たじろぎつつも、家政婦は「お待ちください」と言い残していったん屋敷の中へと引っ込んだ。
鳴海が苛立ちながら待っていると、家政婦が小走りで戻ってきた。
「どうぞお入りください」
家政婦の案内でお馴染みのリビングへと向かう。部屋の近くまできた時、男女の会話が聞こえてきた。一人は絢だとわかったが、もう一人の男の声に聞き覚えはない。
「今回のインクカートリッジは放し飼いか。ちゃんと繋いで管理しておかないと、暴走して手に負えなくなるぞ」
「暴走するほどの熱量がなければ、私のキャンバスは染められませんよ」
(一体、何の話をしてるんだ…?)
鳴海がリビングに入ると、二人は会話をやめた。いつもとは違う光景が、鳴海の視界に広がる。
ソファに座る絢。そして彼女の向かい側で、黒髪の若い男が寛いでいる。その男に、鳴海は見覚えがあった。
圧倒的な超絶技巧で知られる指折りのピアニスト、黒瀬晴臣に違いなかった。生でその姿を見るのは初めてだが、写真や映像で見るよりもずっとオーラがあり、鮮烈な存在感を放っている。
しかし一体なぜ彼が司城家にいるのだろう。鳴海は物問いたげに絢を見る。しかし最初に口を切ったのは、プロピアニストの黒瀬晴臣だった。
「そちらの彼が新しい調律師か。紹介してくれよ、絢さん」
「調律師兼、音楽療法士の五十嵐鳴海さんですよ」
「音楽療法士?随分と胡散臭い響きだな」
黒瀬は蔑んだ視線を鳴海に投げ掛ける。侮辱に耐え兼ねた鳴海は反論しようとしたが、絢に先を越された。
「彼の音楽療法は本物ですよ。演奏を聴かせて頂いた後は、とても気分が良くなりますから」
「いいや、それは違うだろう」
黒瀬は絢の方へ身を乗り出し、意地の悪い笑みで何か囁きかけた。しかし絢は顔色一つ変えなかった。
「こんな質の良いセラピーを無償で提供してくれる五十嵐さんは神様のようですね。鍵盤を叩く指でスロットを回す、芸術の皮を被った俗物ピアニストさんとは大違いです」
絢のフォローと微笑みのお陰で、黒瀬への怒りは幾分か薄れた。
「突然お邪魔してすみません。早く絢さんを治してあげたくて」
「治す?何を治すんだ」
口を挟んできた黒瀬を無視して鳴海は絢の手を取った。
「今度はきっと上手くいくと思うんです。僕の渾身の一曲に、付き合ってもらえますか」
「ええ、喜んで」
鳴海はピアノの前に腰を下ろした。目の前にプロが居たからといって、気後れすることはない。超絶技巧よりも、「聖調」で人の心を救う方がよほど価値があると彼は信じて疑わなかった。
絢の右手の感触を背に感じつつ、彼はゆっくりと鍵盤に十指を下ろした。
命譜を何度も何度も読み込んで策を練り直した末、彼が最終的に選んだのはベートーヴェンの『テンペスト』だった。
絢の深淵が底なしなら、こちらも嵐のような激しさで、その奥底まで音を叩き込むしかない。ベートーヴェンのあの荒れ狂う旋律を借りて、彼女の闇を強引にこじ開け、彼の色で塗りつぶしてやろうと考えたのである。
施設の子供たちの調律が『修理』だとしたら、絢のそれは『解体と再構築』だ。普通の調律ではあの闇には届かない。 もっと重く、もっと執拗で、逃げ場のない旋律が必要だと彼は気付いたのだ。
「見ていてくださいね、絢さん。今僕があなたのその絶望を、最高の音楽に書き換えてあげますから」
鳴海は鍵盤に指を沈めた。従来の『テンペスト』に、独自の「聖調」用アルゴリズムを組み込んだアレンジ曲。
それは演奏というよりも、彼女の闇を標的にした音の弾丸だった。その一打で、彼女の凍てついた深淵を粉砕し、彼の色で染め上げてやるつもりだったのである。
弾き始めた瞬間は、確かな手応えを感じた。しかし、曲が進むにつれて、鳴海は背筋が凍るような感覚に襲われた。
叩き込んだ音の礫が、彼女に届く直前で消えていく。反響がない。まるで、巨大な綿の中に針を刺しているような、手応えのない空虚さ。彼女の深淵は、彼の『攻撃的な和音』さえも、ただの心地よい刺激として飲み込んでいく。
演奏が終わったあと、鳴海は息も絶え絶えに絢を振り返った。彼女は相変わらず余裕の笑みで、いや、まだ足りないと言わんばかりの物欲しそうな目で鳴海を見ていた。
「ありがとうございます。今日は特に濃い、綺麗な群青色でしたね」
彼女が立ち去った後、鳴海は魂が抜けたかのように椅子から崩れ落ちた。
「おいおい。セラピーが必要なのは君の方じゃないのか、坊や」
黒瀬が鳴海の腕を引っ張って無理矢理立たせる。その際、黒瀬は地を這うような低い声で鳴海に囁いた。
「悪いことは言わない。これ以上絢に踏み込むのはやめろ。魂ごと吸い取られるぞ」
その予言めいた言葉は、まるで彼の末路を見透かしているかのようだった。悪ふざけの警告ではないと、鳴海は瞬時に察知した。実際彼は、絢を救うために身を削り続け、もう限界まできていたのだ。
けれど、彼女を見捨てて逃げることなど、彼のプライドが許さなかった。
「離してくれ……。彼女を救えるのは僕だけだ」
鳴海は黒瀬を振り払い、ソファで紅茶を飲む絢の元へと向かった。
「馬鹿馬鹿しい。付き合ってられないな」
黒瀬は鼻を鳴らし、二人を残してリビングを出ていった。
「すみません、絢さん……。今回もあなたを救うことができませんでした」
鳴海は絢の隣に腰掛けると、絶望しながらも粘り強い眼差しで彼女を見つめた。
「ですが僕は決してあなたを見捨てたりはしません……!必ず救ってみせますから」
「もう、いいんですよ…五十嵐さん。あまり無理をしないでください。あなたの方が壊れてしまいますよ」
絢の優しい言葉は、一見すると彼を労っているように聞こえるが、その裏側には、暴発するホースの頭を踏みつけるような冷徹さが同居していた。
吹き出す水飛沫を浴びても瞬き一つせず、悶える獲物を「風変わりな楽器」でも眺めるかのように見据えている──そんな底冷えする無垢な狂気が彼女の瞳には宿っていたが、彼女を救うことしか頭にない鳴海は、まったく気付いていなかった。彼女が「もういい」と言えば言うほど、それが「助けて」の裏返しのように思えてならなかったのだ。
「絢さん。差し支えなけば、あなたの抱えているものを、僕に吐き出してもらえませんか。たとえば、その……左腕のこととか」
鳴海はとうとう、最終手段に出た。相手にトラウマを打ち明けさせ、少しでも闇を暴こうという、外からのアプローチである。
「五十嵐さん。もう充分ですよ」
絢は決して、仮面の下を見せようとしない。鳴海のような感応力を持っていない普通の人間ならば、「ああ、彼女は大丈夫なんだな」と納得してしまいそうなほど、完璧な仮面である。
「あなたの特技であるその独自の音楽療法は、きっと私には合わなかったんでしょう。ですが、あなたの出す鮮やか群青色は、一時的ではありますが、私の心を癒してくれました」
そう言って絢は、右手で自分の左腕を掴み、どこか恍惚とした笑みを浮かべた。
しかし鳴海の心は穏やかではなかった。彼女が気丈に振る舞えば振る舞うほど、「救いたい」という思いは強くなる一方だった。
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