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第二章 濃赤の葬送曲
第十四話 マセラティの警告
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今日は風が刺すように冷たく、小雨がパラパラと降っていた。
「ちょっと出てくる」
絢に断りを入れて、響介は屋敷を出た。向かった先は、坂を下りた先の小さな教会。この建物を最初に見つけたのは、屋敷に来てわりとすぐの頃だった。赤い鐘楼と白壁のコントラストの美しさを一目で気に入った彼は、ここを姉の祥月命日に祈る場所として決めた。
聖堂は常時解放されており、誰でも自由に参拝できるようになっている。
重厚な扉を押し開ける。乳香の馥郁たる香りと、輝くステンドグラス。冷たく厳かな空間に、彼の靴音が響き渡る。
響介は祭壇まで足を運び、跪いて両手を組み合わせた。そして天国にいる姉に祈りを捧げた。
それから十分後、響介はそっと聖堂を出た。
再び寒空の下に出た彼は、ちょっと散歩しようと駅周辺まで歩いてきた。
郵便局の前を通りがかったその時である。野太いエンジン音を響かせながら、漆黒のマセラティなどが路肩に停まった。 運転席の窓がゆっくりと開き、高価な香水の香りと共に運転手が顔を覗かせる。
「おや、誰かと思えば」
サングラスを外しながら声を掛けてきたのは、キザな俗物ピアニスト、黒瀬晴臣だった。
「……あんたなんでこんな所にいるんだよ」
鼻をつく高価な香水の香りに顔をしかめながら響介が噛み付く。
「これから絢さんの家に行こうと思ってね」
「暇なやつだな。とっとと失せろよ」
「まぁそう吠えるなよ」
黒瀬の唇が歪んだ。その瞳に宿るのは、獲物を追い詰める爬虫類のような冷たい光だ。
「ここで君に会えたのは好都合だ。せっかくだから、絢の目的を教えてあげよう」
「どうせまた、ろくでもないこと吹き込もうとしてんだろ。あんた、あいつに気に入られてる俺が羨ましくて堪らないだけじゃないのか?」
黒瀬の眉がぴくりと跳ねた。だが、彼はすぐに嘲笑を貼り付け、話を繋いだ。
「そんなくだらない話じゃない。君に教えるのは紛れもない事実だ。アリアーヌ・ヴァイスという名を聞いたことはあるか」
「アリアーヌ……ヴァイス?」
アリアーヌという名は初耳だが、『ヴァイス』という姓には聞き覚えがあった。黒瀬の師だった音楽教授の名だ。しかしなぜ急にそんな話を始めたのか。響介の困惑を見て取り、黒瀬は決定的な一撃を投じた。
「やっぱり知らなかったみたいだな。司城絢がかつて、アリアーヌ・ヴァイスだったことを」
「……は?」
「絢が日本に移ってきたのは腕を失ってからだ。あんな悲劇さえなければ今もきっとアリアーヌ・ヴァイスという名を使ってウィーンで暮らしていただろうね。君が馬鹿でなければもう気付いただろうが、彼女は俺が師事していたアーロン・ヴァイス氏の娘さんだよ」
胸に迫るものを感じながらも、響介は黙って黒瀬の話に耳を傾けた。
「彼女の楽才はヴァイス氏も舌を巻くほどだったよ。もし片腕を失わずに成長し続けていたら、今のこの俺を凌駕するほど有名になっていたかもしれない」
「……。つーことは、アイツもピアニストを目指してたのか?」
「目指すも何も、彼女は幼い頃からプロとして活躍していたんだよ」
響介の動悸が早まる。
(アイツが……プロのピアニストだった…?)
「絢がどうして、君みたいな素人を専属に選んだか。本当の理由を教えてあげよう」
黒瀬の瞳に、加虐的な色が濃く滲む。
「彼女は君を、失った左腕の代用品にしているのさ。欠落した自分の欠片を、君で埋めているだけなんだよ」
「……何言ってんだ。なわけねーだろ!」
響介は牙を剥いた。自分を繋ぎ止める世界の屋台骨を、必死に守ろうと声を荒らげる。
「あいつは俺の演奏が気に入ったって言ってくれたんだぞ。俺の出す『旋律』は唯一無二だって……。あんたよりもずっと綺麗な色だって……絵まで描いてくれたんだ!」
「ははっ」
黒瀬は狂ったように笑い声をあげた。
「ああ、そうか。色聴のことは聞いたのか。なら話は早い。彼女は君という質のいいインクで、自分の空白を塗り潰しているんだ。君を消費することで、欠損の痛みを紛らわしているのさ。……いいかい、彼女にとって君は、ただの『鎮痛剤』なんだよ」
響介は自分の喉が、乾燥した砂を飲み込んだようにこわばるのを感じた。
「嘘だ……そんなの」
「嘘じゃない」
黒瀬はさらなる真実を突きつけ、響介を絶望の淵へと突き落とす。
「君の前に司城家に通っていた、五十嵐くんという青年もそうだった。彼は絢に恋をしたが、自分が単なる『交換可能なカートリッジ』に過ぎないことを知って壊れた。彼は絢に精神を吸い尽くされ、ピアノすら弾けなくなったんだよ」
帰宅後、響介は逃げるように自室にこもった。 震える指でスマホを操作し、検索窓に「アリアーヌ・ヴァイス」と打ち込む。ヒットしたのは、数年前にある音楽評論家が綴ったドイツ語の記事だった。自動翻訳を介して現れた言葉が、無機質に画面を埋めていく。
『……十歳でオーケストラと共演したアリアーヌは、十四歳で初のソロリサイタルを開催した。私も会場でその演奏を拝聴したが、終演後も長い間、心地よい余韻から抜け出せなかった。彼女の指先から紡がれるのは、聴衆を深い陶酔へと誘う、まさに天使の旋律だった。(中略)不運な爆発事故によって十六歳で片腕を失った彼女は、日本人の母と共にウィーンを去り、表舞台から姿を消した。あの奇跡のような調べを二度と聴けないのは、音楽界にとって計り知れない損失である』
記事に添えられた写真には、現役時代のアリアーヌ・ヴァイスが写っていた。長いダークブロンドを靡かせ、アイスシルバーのドレスを纏ってピアノに向かうその少女の瞳には、今の絢にはない、溢れんばかりの「生」が宿っていた。
響介は逃げるように画面を閉じた。視線を上げれば、壁に立てかけた大きなキャンバスが目に入る。絢が「あなたの音色だ」と言って贈ってくれた、あの油絵。
『君は、彼女の空白を埋めるためだけのインク……鎮痛剤に過ぎないんだよ』
黒瀬の声が、呪いのように耳底でリフレインする。つい数時間前まで、自分を救う祝福に見えていた色彩の奔流。それが今では、自分の魂を絞り取って塗りつけた、グロテスクな標本に見えてきた。
知らない方が、どれほど幸せだっただろう。 彼女が自分に向けるあの熱を帯びた眼差しは、自分を見ているのか。それとも、失った自らの左腕の残像を見ているだけなのか。今後どんな顔をして彼女と向き合えばいいのか。響介には、もう皆目見当もつかない。
「ちょっと出てくる」
絢に断りを入れて、響介は屋敷を出た。向かった先は、坂を下りた先の小さな教会。この建物を最初に見つけたのは、屋敷に来てわりとすぐの頃だった。赤い鐘楼と白壁のコントラストの美しさを一目で気に入った彼は、ここを姉の祥月命日に祈る場所として決めた。
聖堂は常時解放されており、誰でも自由に参拝できるようになっている。
重厚な扉を押し開ける。乳香の馥郁たる香りと、輝くステンドグラス。冷たく厳かな空間に、彼の靴音が響き渡る。
響介は祭壇まで足を運び、跪いて両手を組み合わせた。そして天国にいる姉に祈りを捧げた。
それから十分後、響介はそっと聖堂を出た。
再び寒空の下に出た彼は、ちょっと散歩しようと駅周辺まで歩いてきた。
郵便局の前を通りがかったその時である。野太いエンジン音を響かせながら、漆黒のマセラティなどが路肩に停まった。 運転席の窓がゆっくりと開き、高価な香水の香りと共に運転手が顔を覗かせる。
「おや、誰かと思えば」
サングラスを外しながら声を掛けてきたのは、キザな俗物ピアニスト、黒瀬晴臣だった。
「……あんたなんでこんな所にいるんだよ」
鼻をつく高価な香水の香りに顔をしかめながら響介が噛み付く。
「これから絢さんの家に行こうと思ってね」
「暇なやつだな。とっとと失せろよ」
「まぁそう吠えるなよ」
黒瀬の唇が歪んだ。その瞳に宿るのは、獲物を追い詰める爬虫類のような冷たい光だ。
「ここで君に会えたのは好都合だ。せっかくだから、絢の目的を教えてあげよう」
「どうせまた、ろくでもないこと吹き込もうとしてんだろ。あんた、あいつに気に入られてる俺が羨ましくて堪らないだけじゃないのか?」
黒瀬の眉がぴくりと跳ねた。だが、彼はすぐに嘲笑を貼り付け、話を繋いだ。
「そんなくだらない話じゃない。君に教えるのは紛れもない事実だ。アリアーヌ・ヴァイスという名を聞いたことはあるか」
「アリアーヌ……ヴァイス?」
アリアーヌという名は初耳だが、『ヴァイス』という姓には聞き覚えがあった。黒瀬の師だった音楽教授の名だ。しかしなぜ急にそんな話を始めたのか。響介の困惑を見て取り、黒瀬は決定的な一撃を投じた。
「やっぱり知らなかったみたいだな。司城絢がかつて、アリアーヌ・ヴァイスだったことを」
「……は?」
「絢が日本に移ってきたのは腕を失ってからだ。あんな悲劇さえなければ今もきっとアリアーヌ・ヴァイスという名を使ってウィーンで暮らしていただろうね。君が馬鹿でなければもう気付いただろうが、彼女は俺が師事していたアーロン・ヴァイス氏の娘さんだよ」
胸に迫るものを感じながらも、響介は黙って黒瀬の話に耳を傾けた。
「彼女の楽才はヴァイス氏も舌を巻くほどだったよ。もし片腕を失わずに成長し続けていたら、今のこの俺を凌駕するほど有名になっていたかもしれない」
「……。つーことは、アイツもピアニストを目指してたのか?」
「目指すも何も、彼女は幼い頃からプロとして活躍していたんだよ」
響介の動悸が早まる。
(アイツが……プロのピアニストだった…?)
「絢がどうして、君みたいな素人を専属に選んだか。本当の理由を教えてあげよう」
黒瀬の瞳に、加虐的な色が濃く滲む。
「彼女は君を、失った左腕の代用品にしているのさ。欠落した自分の欠片を、君で埋めているだけなんだよ」
「……何言ってんだ。なわけねーだろ!」
響介は牙を剥いた。自分を繋ぎ止める世界の屋台骨を、必死に守ろうと声を荒らげる。
「あいつは俺の演奏が気に入ったって言ってくれたんだぞ。俺の出す『旋律』は唯一無二だって……。あんたよりもずっと綺麗な色だって……絵まで描いてくれたんだ!」
「ははっ」
黒瀬は狂ったように笑い声をあげた。
「ああ、そうか。色聴のことは聞いたのか。なら話は早い。彼女は君という質のいいインクで、自分の空白を塗り潰しているんだ。君を消費することで、欠損の痛みを紛らわしているのさ。……いいかい、彼女にとって君は、ただの『鎮痛剤』なんだよ」
響介は自分の喉が、乾燥した砂を飲み込んだようにこわばるのを感じた。
「嘘だ……そんなの」
「嘘じゃない」
黒瀬はさらなる真実を突きつけ、響介を絶望の淵へと突き落とす。
「君の前に司城家に通っていた、五十嵐くんという青年もそうだった。彼は絢に恋をしたが、自分が単なる『交換可能なカートリッジ』に過ぎないことを知って壊れた。彼は絢に精神を吸い尽くされ、ピアノすら弾けなくなったんだよ」
帰宅後、響介は逃げるように自室にこもった。 震える指でスマホを操作し、検索窓に「アリアーヌ・ヴァイス」と打ち込む。ヒットしたのは、数年前にある音楽評論家が綴ったドイツ語の記事だった。自動翻訳を介して現れた言葉が、無機質に画面を埋めていく。
『……十歳でオーケストラと共演したアリアーヌは、十四歳で初のソロリサイタルを開催した。私も会場でその演奏を拝聴したが、終演後も長い間、心地よい余韻から抜け出せなかった。彼女の指先から紡がれるのは、聴衆を深い陶酔へと誘う、まさに天使の旋律だった。(中略)不運な爆発事故によって十六歳で片腕を失った彼女は、日本人の母と共にウィーンを去り、表舞台から姿を消した。あの奇跡のような調べを二度と聴けないのは、音楽界にとって計り知れない損失である』
記事に添えられた写真には、現役時代のアリアーヌ・ヴァイスが写っていた。長いダークブロンドを靡かせ、アイスシルバーのドレスを纏ってピアノに向かうその少女の瞳には、今の絢にはない、溢れんばかりの「生」が宿っていた。
響介は逃げるように画面を閉じた。視線を上げれば、壁に立てかけた大きなキャンバスが目に入る。絢が「あなたの音色だ」と言って贈ってくれた、あの油絵。
『君は、彼女の空白を埋めるためだけのインク……鎮痛剤に過ぎないんだよ』
黒瀬の声が、呪いのように耳底でリフレインする。つい数時間前まで、自分を救う祝福に見えていた色彩の奔流。それが今では、自分の魂を絞り取って塗りつけた、グロテスクな標本に見えてきた。
知らない方が、どれほど幸せだっただろう。 彼女が自分に向けるあの熱を帯びた眼差しは、自分を見ているのか。それとも、失った自らの左腕の残像を見ているだけなのか。今後どんな顔をして彼女と向き合えばいいのか。響介には、もう皆目見当もつかない。
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