36 / 36
エピローグ
しおりを挟む
気が付くと、武蔵小山の於菟春の家にいた。手には古ぼけたランプ。横で眠っている住職の手元には、千夜一夜の古ぼけた本があった。
どうにも現実離れしていたと思ったが、やはり夢だったのか。夢オチとはなかなかに使い古されているではないか。それとも、夢十夜のようにこのあとも続くファンタジックな夢なのだろうか。まぁどちらでも良い。しばしの間、思いがけず楽しい時間を過ごすことができたのだから。
しかし。
「せっかくやったら、もっと市場とか見に行きたかったなぁ。お宝もあったんやし、金銀財宝、お金を持って買い物したら、きっと楽しかったわ」
「今度は中東にでも旅行に行くか?」
私の独り言を受け止める形で、於菟春が言葉をつなぐ。
「起きとったんか」
「ああ」
手元の本を横に置くと、於菟春がぐん、とのびをする。にゃあにゃあと、すぐ後ろにいた飼い猫の餅太郎が文句を言いに来た。
「モチごめん」
片手で彼を抱き上げると、再びにゃあと鳴く。
「変な夢を見た」
「なんや君もか」
「もしかして──そのランプに関わるか?」
「同じ夢を見とったんかもな」
於菟春が読んでいた千夜一夜の物語を指さす。彼らしからぬ本を読んでいるではないか。
「骨董市で見つけたんだ。向こうの文字なんだけど、これがまったくわからなくてな」
手渡されたのでぱらりとめくる。アラビア語で書かれた物語に、美しい影絵のイラストが施されていた。
「君、アラビア語できたんやっけ」
「いや、まったく。右から左に読むことくらいは知ってるけども、正直怒られるかもしれないが、アラビア語とタイ語の区別もつかないんだ」
「なんで買おたんや」
ふくふくと笑うが、買ってしまった気持ちはわからなくもなかった。とても美しい本だと思う。
装丁もしっかりとしていて、子どものための絵本というよりも、大人が楽しむ為の本のように感じる。
「気に入ったならやるよ。持って帰ってかまわない」
私がじっくりとページを捲っていることに気が付いたらしい。於菟春がそんなことを言ってきた。
「ええの? せっかくやし君が読み終わってからでもかまわんよ」
「読み終わるのは当分先だな。見終わったら渡すよ」
「それもそうやね。これはきっと読み終わるのは難儀な本やわぁ」
おそらく下手な学問所よりも難しいだろう。なにしろ言葉がわからないのだから。
「魔法の力でもあれば、すぐに読めるんやろうな」
「まぁな。でもそれじゃ楽しくもなんともないだろう」
目に入ったものが自動的に母国語に変換される。それはまるで便利なようにも感じるが、言葉がもつ一つ一つの意味を知ることが難しくなる。日本語にはない表現も、または日本語にしかない表現も、そのどちらも愛おしいと感じたいのだ。それが、言葉を操るという楽しさなのかもしれない。
「まぁなんでもええわ。そのうちもらいに来る」
「はないちもんめか」
「勝ってうれしいやつやな。あれは幼心に怖かった」
「人買いの歌だからな」
「──そう言えば、夢のあの時代はいつやったんかなぁ」
魔神に聞いたところでわかったのだろうか。ペルシャ帝国の歴史を必死で引き出す。物語で見たり何かの歴史を調べた時のことはわかるのだが、全体像はなかなか浮かんでこない。
「ペルシャ帝国の最盛期はハールーン・アッ=ラシードのアッバース朝時代だった筈。だいたい八世紀くらいだな」
「そのころの日本は──鳴くよ鶯」「平安京」「それやな」
長岡京からの遷都をして、貴族が曙は美しいなどと話していた時代か。どちらの文化が素晴らしいかという話ではないが、随分と雰囲気の違う八世紀ではある。もしも、あの時がその時代だったのならば、ではあるのだが。
「今の中東って旅行できるんかな」
「場所にもよるだろう」
世界の緊張が高まっているのだ。仕方がない。
「そうやねぇ。いつか、俺たちが生きている間に平和な地域になったら、行ってみるのも悪くはないかなって思うわ。絨毯から見た人々の息遣いや、東西交易の熱、あれを肌で感じられたらきっと、最高なんやろうな」
私の言葉に、於菟春も笑う。
ふと目に入ったランプの蓋をついと持ち上げる。中は当然だが空洞。
「そう言えば、どうしてあの山にランプの精がおったんか、聞き忘れとったわ」
「遠い昔に封じられて、遠い昔に呼ばれたきり、長い時間を一人でいたから寂しかったんじゃないのか」
「それもそうやねぇ。結局出会った魔神の中で、彼だけ自由にしてあげれんかったな」
ランプを逆さまにしてみる。中からころりと小さな青い宝石が転がり落ちた。
「ん? なんやろう」
「サファイヤだな。おもちゃだろう」
それもそうだ。随分と大きな石でキラキラと輝いている。まるであのランプの精の肌の色のようだ。
夕方の日差しに翳せば、美しい色が輝く。再びぽとりとランプの中に入れて蓋をした。
「それ、どうするんだ?」
「ふふ。ランプが哀しい気持ちにならんように、毎日使こてやることにするわ」
「ああ、悪くないな」
私の言葉に、於菟春が笑う。
そうして。
にゃあと餅太郎も、笑った。
了
どうにも現実離れしていたと思ったが、やはり夢だったのか。夢オチとはなかなかに使い古されているではないか。それとも、夢十夜のようにこのあとも続くファンタジックな夢なのだろうか。まぁどちらでも良い。しばしの間、思いがけず楽しい時間を過ごすことができたのだから。
しかし。
「せっかくやったら、もっと市場とか見に行きたかったなぁ。お宝もあったんやし、金銀財宝、お金を持って買い物したら、きっと楽しかったわ」
「今度は中東にでも旅行に行くか?」
私の独り言を受け止める形で、於菟春が言葉をつなぐ。
「起きとったんか」
「ああ」
手元の本を横に置くと、於菟春がぐん、とのびをする。にゃあにゃあと、すぐ後ろにいた飼い猫の餅太郎が文句を言いに来た。
「モチごめん」
片手で彼を抱き上げると、再びにゃあと鳴く。
「変な夢を見た」
「なんや君もか」
「もしかして──そのランプに関わるか?」
「同じ夢を見とったんかもな」
於菟春が読んでいた千夜一夜の物語を指さす。彼らしからぬ本を読んでいるではないか。
「骨董市で見つけたんだ。向こうの文字なんだけど、これがまったくわからなくてな」
手渡されたのでぱらりとめくる。アラビア語で書かれた物語に、美しい影絵のイラストが施されていた。
「君、アラビア語できたんやっけ」
「いや、まったく。右から左に読むことくらいは知ってるけども、正直怒られるかもしれないが、アラビア語とタイ語の区別もつかないんだ」
「なんで買おたんや」
ふくふくと笑うが、買ってしまった気持ちはわからなくもなかった。とても美しい本だと思う。
装丁もしっかりとしていて、子どものための絵本というよりも、大人が楽しむ為の本のように感じる。
「気に入ったならやるよ。持って帰ってかまわない」
私がじっくりとページを捲っていることに気が付いたらしい。於菟春がそんなことを言ってきた。
「ええの? せっかくやし君が読み終わってからでもかまわんよ」
「読み終わるのは当分先だな。見終わったら渡すよ」
「それもそうやね。これはきっと読み終わるのは難儀な本やわぁ」
おそらく下手な学問所よりも難しいだろう。なにしろ言葉がわからないのだから。
「魔法の力でもあれば、すぐに読めるんやろうな」
「まぁな。でもそれじゃ楽しくもなんともないだろう」
目に入ったものが自動的に母国語に変換される。それはまるで便利なようにも感じるが、言葉がもつ一つ一つの意味を知ることが難しくなる。日本語にはない表現も、または日本語にしかない表現も、そのどちらも愛おしいと感じたいのだ。それが、言葉を操るという楽しさなのかもしれない。
「まぁなんでもええわ。そのうちもらいに来る」
「はないちもんめか」
「勝ってうれしいやつやな。あれは幼心に怖かった」
「人買いの歌だからな」
「──そう言えば、夢のあの時代はいつやったんかなぁ」
魔神に聞いたところでわかったのだろうか。ペルシャ帝国の歴史を必死で引き出す。物語で見たり何かの歴史を調べた時のことはわかるのだが、全体像はなかなか浮かんでこない。
「ペルシャ帝国の最盛期はハールーン・アッ=ラシードのアッバース朝時代だった筈。だいたい八世紀くらいだな」
「そのころの日本は──鳴くよ鶯」「平安京」「それやな」
長岡京からの遷都をして、貴族が曙は美しいなどと話していた時代か。どちらの文化が素晴らしいかという話ではないが、随分と雰囲気の違う八世紀ではある。もしも、あの時がその時代だったのならば、ではあるのだが。
「今の中東って旅行できるんかな」
「場所にもよるだろう」
世界の緊張が高まっているのだ。仕方がない。
「そうやねぇ。いつか、俺たちが生きている間に平和な地域になったら、行ってみるのも悪くはないかなって思うわ。絨毯から見た人々の息遣いや、東西交易の熱、あれを肌で感じられたらきっと、最高なんやろうな」
私の言葉に、於菟春も笑う。
ふと目に入ったランプの蓋をついと持ち上げる。中は当然だが空洞。
「そう言えば、どうしてあの山にランプの精がおったんか、聞き忘れとったわ」
「遠い昔に封じられて、遠い昔に呼ばれたきり、長い時間を一人でいたから寂しかったんじゃないのか」
「それもそうやねぇ。結局出会った魔神の中で、彼だけ自由にしてあげれんかったな」
ランプを逆さまにしてみる。中からころりと小さな青い宝石が転がり落ちた。
「ん? なんやろう」
「サファイヤだな。おもちゃだろう」
それもそうだ。随分と大きな石でキラキラと輝いている。まるであのランプの精の肌の色のようだ。
夕方の日差しに翳せば、美しい色が輝く。再びぽとりとランプの中に入れて蓋をした。
「それ、どうするんだ?」
「ふふ。ランプが哀しい気持ちにならんように、毎日使こてやることにするわ」
「ああ、悪くないな」
私の言葉に、於菟春が笑う。
そうして。
にゃあと餅太郎も、笑った。
了
10
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います
こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。
※「小説家になろう」にも投稿しています
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
後宮薬師は名を持たない
由香
キャラ文芸
後宮で怪異を診る薬師・玉玲は、母が禁薬により処刑された過去を持つ。
帝と皇子に迫る“鬼”の気配、母の遺した禁薬、鬼神の青年・玄曜との出会い。
救いと犠牲の狭間で、玉玲は母が選ばなかった選択を重ねていく。
後宮が燃え、名を失ってもなお――
彼女は薬師として、人として、生きる道を選ぶ。
香死妃(かしひ)は香りに埋もれて謎を解く
液体猫
キャラ文芸
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞受賞しました(^_^)/
香を操り、死者の想いを知る一族がいる。そう囁かれたのは、ずっと昔の話だった。今ではその一族の生き残りすら見ず、誰もが彼ら、彼女たちの存在を忘れてしまっていた。
ある日のこと、一人の侍女が急死した。原因は不明で、解決されないまま月日が流れていき……
その事件を解決するために一人の青年が動き出す。その過程で出会った少女──香 麗然《コウ レイラン》──は、忘れ去られた一族の者だったと知った。
香 麗然《コウ レイラン》が後宮に現れた瞬間、事態は動いていく。
彼女は香りに秘められた事件を解決。ついでに、ぶっきらぼうな青年兵、幼い妃など。数多の人々を無自覚に誑かしていった。
テンパると田舎娘丸出しになる香 麗然《コウ レイラン》と謎だらけの青年兵がダッグを組み、数々の事件に挑んでいく。
後宮の闇、そして人々の想いを描く、後宮恋愛ミステリーです。
シリアス成分が少し多めとなっています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる