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プロローグ

不幸自慢バトル

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「ねぇ、不幸自慢バトルしようよ」
 青く澄んだ春の海と、淡い煙。制服と、煙草。火のついた煙草片手に、黒髪ショートの彼女は気だるげに宣う。不適に笑う。ある私立高校の、フェンスのない屋上。その縁、それこそたった半歩のスライドで硬い地面に真っ逆さま。そんな場所で、僕と彼女は相対する。
 自殺志願者と喫煙者は、相対する。


 彼女は淡井綾乃あわいあやのと云った。とある公立高校で、入学から二年連続のクラスメイト。それが、彼女と僕、井之上創介いのかみそうすけの、ただそれだけの、関係である。
「……生徒会長様が僕なんかに何か用ですか?」
「今にも飛び降りようとする生徒をほっとくことはできないよ」
 嗚呼、彼女のイメージが崩壊していく。凛としていて、聡明で、堅実。それが、新入生主席として登壇した彼女を見た時から、凛とした振る舞いの彼女を目で追ってきた。生徒会会長選挙では、彼女こそ聡明で、他は愚昧にしか見えなかった。
 無能で無力で無気力で無責任にして無関心な僕にとって、彼女はその対極にあり、僕にとって唯一の関心事であった。
「それで? 井之上くんは一体どんな不幸を抱えてここに立っているの?」
 それが何だ? 痴女の如く制服を着崩し、にやにやとニコチン混じりの煙を吐いている。そんな彼女の目や皮膚は生気を失っているように見えた。本当に同一人物か?
「嫌なら無理に話さなくたっていい。でもその場合、私がこの世でいちばん不幸な人間ということになるけど、それでもいいの?」
「それだと、どうなるんですか?」
「井之上くんはここから飛び降りられない。そんなこと、私が許さない。私より不幸でない人間が自らを手にかけるなんて、許されることではない」
 嗚呼、彼女のイメージが再構築されていく。緩慢で、愚昧で、放漫。今の彼女を一目見たときから、緩慢な振る舞いの彼女に目を奪われていた。彼女こそ愚昧の深淵であり、屋上から見下ろす全てがそれ以下の塵芥にしか見えなかった。
「それで? 井之上くんの不幸って、一体どんなもの? そうやって意味深に笑うあたり、期待してもいいのかな?」
 僕が、笑っていた?
「……え? あ、いや……」
 いや、そんなはずはない。僕が彼女を前にして浮かれているなど、万が一にもあってはならない。
「そんな、気持ちの悪いこと……」
「なるほど。井之上くんの不幸は、気持ち悪いことなんだ」
 ふと彼女が顔を覗かせてくる。思わず僕はのけ反った。さらにその拍子に、春風にも助けられ、外側へと、死へと、片足を踏み外す。
「おっと」
 また彼女に止められた。背から声をかけられたのと、これで二度目である。いずれも本当に死ぬつもりはなかった。もっとも、“今日は”という但し書きは必要なんだけれども。
「許さない。君が君の不幸を話してくれる前に死んでしまうなんて、ね」
 どうしようもない拍動の中、飄々と念を押す彼女の声だけが聞こえる。どうしようもなくなったので、取り敢えず屋上の縁からその内側へ降りる。
「取り敢えず、ありがとう、ございます」
 彼女の、その人形のように美しい相貌を、まともに見ることができない。
「どういたしまして。それで、井之上くんの“気持ち悪い不幸”って、どんなもの?」
 ……落着け。落ち着いて、落ち着いて、落ち着くんだ。溢れんばかりの、どす黒く気持ち悪い感情を鎮めるんだ。
 一つ、深く、深呼吸。そして、縁に立つ彼女の、死んだ魚のような目を斜めに見据える。
「降りたんですよ。文字通りね」
 彼女が首を傾げる。落ち着いて僕は続ける。
「だから、勝負から降りたんですよ。その、“不幸自慢バトル”? ってやつから」
「……そう? ちょっと残念」
 そう言う割には、少し嬉しそうだ。どういうことだろう。僕の自死を阻止できたからだろうか。彼女が少しでも満足できたというのなら、僕は嬉しい。
「しょうがないじゃないですか。だって、多分僕は淡井さんよりも不幸じゃない」
 彼女が抱えている不幸を、僕は知らない。ただ、僕よりも遥かに不幸であることは明白である。だって、僕は。
「そう。なら、私の不戦勝、ってことで」
 彼女はぴょんと縁から内側へと飛び降り、それから軽い足取りで去っていく。
「だって、僕は、不幸なんかじゃないからな」


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