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第1章 夏までのエトセトラ

第1話『幾面相と運動会 前編』

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「さて、今から運動会の出場種目を決めてください!」
 あれから約二週間、四月下旬。多目的教室にて白団二年男子の前に立つ彼女、淡井綾乃あわいあやのは余りにもいつも通りだった。凛としていて、聡明で、堅実。連日、あの日の痴女と教室での委員長とのギャップに眩暈がしていた。
「それじゃ羽沼くん。あとはよろしくね!」
 そのせいか、はたまた春の陽気のせいか。うつらうつらと、ガクガクと。いや、もうクラスの半数が腕まくりする程度には暑かった。……春、どこ?


「……うわ」
「うわって何? まあ、来ると思ってたよ」
 昼休み。屋上にて、煙を吹かす彼女がお出迎え。いくら最近暑くなっているとはいえ、そこまではだけさすのはどうかと思う。
「あの生徒会長が、ねぇ」
 担任や生徒指導が見たら卒倒しそうだ。いや、ワンちゃん本人だとは気づかれないか?
「何か言った?」
「いや、何でもないです」
 取り敢えず屋上入り口の裏手に回り、影に腰を下ろす。息を付き、ネクタイを緩めた。
「隣、いい?」
「……どうぞ」
 なぜ隣に座るんだ淡井綾乃。その必要性がどこにある? うん、取り敢えず、弁当食おう。
「それ、手作り?」
 なんだなんだ。頼むから近寄らんでくれ。冷静に考えたら、この子タバコ臭い。いつもどうしているのだろうか。
「まあ、うん。母さんの」
「えーっ! 美味しそう!」
 まあ目をキラキラと。子供みたいに。
「……食べます?」
「えっ。いいの?」
「いいですよ。何がいいですか?」
「じゃあ、ハンバーグ!」
 この子、よりにもよって僕のお気に入りを。これはお目が高い。
「えっと……」
 彼女が持っているのは、菓子パン。箸は一膳のみ。どうしたものか。
「あーん」
 ちょっと待て。なんで雛鳥みたく口開けてるんですかね。
「え? まさか……」
「そのまさか。ほら、早く」
 深呼吸。生徒会長、不良、そして子供。僕はもう、淡井綾乃という人間が分からなくなった。
「……いや」
 違う。僕はこれまで、彼女の一側面しか知らなかっただけなのではないか。どの側面が彼女本来の姿なのかは知らないが、今は取り敢えず。
「はい、あーん」
 僕はハンバーグを箸で割り、彼女の口に運ぶ。……どうしよう、手が震える。でもどうにか、彼女の小さな口にハンバーグを押し込んだ。
 咀嚼。僕が作った訳ではないのに、僕は酷く緊張していた。彼女が咀嚼するようすを、固唾をのんで見守っていた。
「どう、ですか?」
 だから、僕が作ったんじゃないだろう。母親のお手製だろう。何キョドってるんだ?
「うん、美味しい。凄く、美味しい」
 彼女は、無邪気に、それでいて噛み締めるように、そう言った。
「そうですか。なら、よかった、です」
 どっと、力が抜けた。
「まあ、母さんが作ったものなんですけどね」
「だろうね」
 彼女は菓子パンを齧る。僕は普通に弁当を食べようとする。しかしこのままでは口づけになることに気づき、箸の反対側を使って食べ始めた。
「ところで」
「何? 井之上くん」
「なんで僕が来ると思ったんですか?」
 まあ、何となく想像はつく。それはきっと、まごうことなき僕の失敗によるものである。
「そりゃあ、居眠りしている間にリレー選手にされていたら、誰だって死にたくなるよ」
「ですよね!」
 そうである。目が覚めたときには、この僕が、帰宅部であるはずの僕が、リレーのメンバーに組み込まれていたのである。リレーには最終競技として行われる各学年男女団一名ずつの団対抗と、男女四人ずつの学年別の団対抗のものがある。さすがに僕は後者のメンバーではあるものの、言わずもがな白団二年男子五十名前後の上位五名の中に入ることはない。
「まあ、うちの男子にとっての花形は、リレーじゃなくて騎馬戦だからね」
「いや、別にそれはいいんですよ。問題は、基本的に選択競技は一人ひとつっていう謎制度なんです。リレーも騎馬戦も、やりたい人間に全部やらせればいいんですよ」
 選択競技とは、男女共通宇の百メートル走、二百メートル走、長距離走、学年別代表リレー、玉入れ、借り物競争。そして男子の騎馬戦、女子の棒引きがそれに当たる。僕が参加するのは、先述の通り学年別代表リレーである。
 というか運動会自体、自由参加でいいと僕は思うのだ。
「気持ちはわかるけど、それじゃあ運動会の意味がないからねぇ」
 わかっているさ。まあ、さすが生徒会長。
「でも、だからって僕をリレー選手とか、最早いじめだと思うんですよ」
「でも、井之上くんもそこそこ速いらしいじゃん。確か、五〇メートル走七秒ジャストとか」
 食べ終わった彼女が、指をなめる。
「まぐれですよ。それに、六秒台ごろごろいますよ。……まあ、その面々がみんなして騎馬戦いっちゃったみたいですけど」
 一つ、ため息。あー。さすがに飛び降りはしないまでも、軽く骨を折れないだろうか。
「まあ、私は応援してるから」
「それは、どうも」
 応援された。これは素直に、嬉しい。やっぱ出ようかな。
「ところでさ、なんで箸逆にしてんの?」
「それは……」
 にやにやと。これは気づいてるな。
「……そのままだったら、その、嫌ですよね?」
「何がぁ?」
 にやにやと。もう少しマシなとぼけ方したらどうだろうか。
 一つ、ため息。ここは冷静に。僕はウェットティッシュで箸の先をさっと拭いた。最初からこうすればよかったのだ。
「……」
 彼女はつまんないと言いたげに頬を膨らませる。そして僕が食べ終わるまでの間、彼女はぼんやりとしたり、スマホをいじったり、タバコを吹かしたりしていた。

 ***

「さあ、もう一回!」
 五月、第二週。淡井綾乃の合図にてk―popが大音量で流れ始める。女子全員によるダンスの練習だ。それにしてもこの生徒会長、何でもやってるな。こういうのって、体育委員会の委員長だとか、団の団長だとか、ともかくその辺の偉い人がやるものではなかったか。
「はいワンツーさんし!」
 すくなくとも、生徒会長の仕事ではないだろう。
「よし! 練習再開するぞ!」
 体育委員長らしき野太い声に、僕はよっこらせと重い腰を上げる。こちらはマスゲームと組体操だ。正直、もう帰りたい。
 夏日の暑さと砂埃の中、しかしそれでも男女ともに厳しい練習が続いた。

 ***

「今年のダンス、私が考えたんだよね」
 五月の第三週、金曜日。つまり、運動会前日。その夕方、彼女に呼び出された古い体育倉庫にて。何の用かと聞こうとしたところで、彼女が口を開く。
 一応、さすがにここではタバコを吸い始めるようすはない。
「知ってる。どうりであんなに張り切ってたわけだ」
 ちなみにこの時期になると、彼女に対して敬語で話すことはなくなった。彼女の要望で、どうにかどうにか調整したのである。
「そう。折角生徒会長になれたんだし、いろんなことしたいなって」
 生徒会長、ね。
「……無理、してない?」
「井之上くんこそ」
 小窓から差し込む斜陽に、砂埃のようなものが浮いて見える。その向こうに除く彼女の表情は、酷く疲れているように見えた。
 思えば、先月運動会の練習が始まったあたりから、彼女はまた違う一面を見せていた。それは、運動会を過去最高のものにしようという情熱である。女子のダンスを一新したのも、多分その一環だろう。
 しかし、そのせいか一部生徒から不満も聞く。曰く「総体近いのに、こんなにも負担を強いるのか」というものだ。
「僕は大丈夫。何もしてないから」
「あれだけ文句垂れてたのに、結局練習休まず来てるじゃん」
「……それは、まあ。でも……」
 何かを言いかけて、口をつぐむ。彼女の無理をして作ったような笑顔を見て、今の僕にはこれ以上何も言ってあげられない気がしたのだ。
「ところで、ここに僕を呼んだのは?」
 咄嗟に思いついたことを、問うことしかできない。
「それは大丈夫。目的は達成したから」
「え、でも、僕は何も……」
「井之上くん」
「はい、なんでしょう」
「私、何も手伝ってくれなんて言ってないよ?」
 どうしてだろう。茜が差す彼女は、先ほどよりも少し、自然に笑っているように見えた。

 翌日。雲一つない青の下、運動会の開会が高らかに宣言された。
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