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第1章 夏までのエトセトラ

第3話『幾面相と運動会 後編』

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 午前の部、最後から二番目のプログラム。砂の舞う劇場は、熱気と期待感を帯びていた。
『次は、プログラム○○番、全校女子によるダンスです』
一年全員による謎体操を終え、二、三年女子全員が軽快なポップと共にグラウンドへと駆け出し、整列する。そのポップが止む。
「さあ、行くよ!」
 彼女、淡井綾乃あわいあやのの掛け声を合図に、本編の音楽は流れ出す。彼女曰く有名なk―popらしいが、僕にはよくわからない。ただ、その曲ついて嬉々として語る彼女の表情は嫌いではなかった。
「なあ井之上いのかみ
「なんだい博士はかせ
「その名で呼ぶなって何度言ったらわかる」
「はいはい」
 マッシュ眼鏡の彼、加藤博士かとうひろしは僕の数少ない友人であり、今回は二人組の組体操のペアである。クラスも団も違う二人がなぜこうして組むことになったのか。答えは簡単。それぞれのクラスであぶれたからである。悲しい。
「それで、何用かな」
「いや、生徒会長すごいなって」
「そうだな」
 二人して感嘆を漏らす。言わずもがな、生徒会長とは淡井綾乃(あわいあやの)その人で、センターでダンスを仕切っているであろう子である。
 それも、二年生である彼女が、三年生を差し置いてである。もっとも、舞い踊る彼女の姿は僕のいる場所からは見えないのだが。
「まるで、あの生徒会長みたいだな」
「加藤」
「井之上がいつまでもあの名で呼ぶからだよ。……でもまあ、言い過ぎた」
 あの生徒会長とは、当然現生徒会長のことではない。四年前、当時二年にして生徒会長だった彼は彼女と同じ様に男子の組体操及びマスゲームのプログラムを一新した。そして彼は、その年の運動会を歴代最高の出来と言わしめた。
「いいよ、別に」
 彼の名は、井之上陽介いのかみようすけ。伝説の運動会から一年後、即ち今から三年前に亡くなった、僕の兄の名である。
「……いや」
 彼のことはどうでもいい。少なくとも今は、練習の成果を精一杯に披露する彼女に思いを馳せるべきだ。僕のいる場所から踊る彼女の姿は見えないが、見ればきっと目を奪われることだろう。
「見に行ったら?」
「何を?」
「生徒会長」
「何で?」
 何を出し抜けに。先ほどの話を踏まえたものなら、ナンセンスと言わざるを得ない。それとも、彼は頓珍漢な推測をしているのではあるまいか。
「何となくだよ」
「何となくかよ」
 よかった。何となくだった。少なくとも、僕の友人は邪推を口にすることはなかった。
「ともかく、別にいいよ」
「そうか」
 彼女は、僕に教えてくれた。今年の運動会にかける思いを。今年の運動会を歴代最高のものとしてみせると。そのためにも、女子のダンスを一新し、誰をも魅了するものにすべきだということ。
 そのために、彼女は頑張っていた。とはいっても僕は僕の見える範囲でしか彼女の頑張りを知らない。グラウンドにて遠目で見た彼女。屋上で愚痴と煙を吐く彼女。そして夕方の体育倉庫で不安を覗かせた彼女。
 そして、今精一杯に輝いているに違いない彼女。僕が知っている彼女なんて、このくらいだ。
「やっぱり、見に行ったらどうだ?」
「何を?」
「だから、生徒会長」
「何で? 第一、この話はもう終わったはずだろ」
 一体こいつは何を言いたいんだ? まさか、根拠のない愚かな推測を披露するのではあるまいか。そんなことになれば、本番になって二人組の組体操が瓦解しかねないぞ。
「いや、何となくだよ」
「何となくか。そうか」
 よかった。やはり彼は賢明だった。
「でもやっぱり、すごいよな」
 ふと、そんな言葉が零れる。もしかして、隣に座る友人も似たような感覚だったのだろうか。
「井之上、その話は嫌なんじゃなかった?」
「そうじゃなくて。だって……」
 彼、井之上陽介はその名の通り太陽のような人間だった。少なくとも、彼女、淡井綾乃のように表情に影を差す人間ではなかった。当然、タバコを吸っているところなんて見たことはない。
「いや、なんでもない」
「そうか」
 だから、彼と彼女では前提条件が違う。いうなれば、彼は天才で、彼女は秀才。彼がノリと勢いで成し遂げてきたことを、彼女は血の滲むような努力の果てに成し遂げようとしているのだ。
「淡井さんの方が、凄い」
「何か言った?」
「いや、なんでも」
 そう、彼女の方が、ずっと凄い。
「……いや」
 彼と比べるのは、もうよそう。
ほら、彼女が作り上げた、砂上の華やかな演目はクライマックスを迎える。

 ***

 計画は、ずっと前から始まっていた。
 それは、壮大な計画だった。私を、学校を、丸っきり変えてしまう、そんな計画。そしてそれを達成するためには、幾つかの壁があった。
 まずその一。この高校に合格すること。計画立案当時落ちこぼれだった私にとって、これは途方もなく高い壁だった。
 それでも私は、越えて見せた。
 その二。この高校の定期考査で一位になること。受かることで精一杯だった私にとって、これもまた無理難題に近かった。
 それでも私は、乗り越えて見せた。そして今も継続している。
 その三。この高校の生徒会長になること。ずっと独りぼっちだった私にとって、高校に入ってようやく他人と交わるようになった私は、いよいよ不可能だと思った。
 それでも私は、なってみせた。
 そして、その四。運動会を、歴代最高のものとすること。その一環として、女子のダンスを一新すること。そこには大勢の人の事情が存在し、私一人のわがままだけを通すわけにもいかず、本番までには彼、井之上くんにも話していない紆余曲折があった。
「それでも。私は」
 手の届かぬ太陽の下、舞い踊る。そして、息が上がった自分に言い聞かせる。
「さあ、クライマックス。あとひと踏ん張りだ、私!」

 ***

『再開は十三時五分です。プログラム○○番、部活動紹介及び部活動対抗リレーに出場される方は、十分前には所定の入場門に整列してください』
 午前の部最後の競技、組体操及びマスゲームは終わり、一息つく。
「……よし」
 僕は再び、一人になれるあの木陰へと向かう。ちなみに僕の友人は、唯一あの名で呼ぶことを許す女子にお誘いを受けたらしい。爆発すればいいのに。
 季節外れの真夏日だというのに、木陰のコンクリート壁は相変わらずひんやりとしていた。まるで、十数メートル離れた熱狂とは隔絶されているようである。
「それにしても、凄かったな」
 フィナーレが終わり、静寂。そして聞こえてきたのは、割れんばかりの歓声だった。音がこもる屋内ではなく発散する屋外でこれだから相当だろう。
 そしてその中心には、やはり彼女がいたのだろう。
「……見たかったな」
「何を?」
「うぇっ!?」
 気が付くと、彼女がいた。ポニーテールに、頬には紫色の星。いつもとはまた違った彼女の姿に、そして充実感のあるその表情に、コンマ一秒見入ってしまう。
「いや、井之上くんが朝の場所に行くのが見えたから。隣、いいかな?」
 彼女は腰を下ろすなり、大きく息を吐く。張りつめていた何かが、少しだけ緩んだような感じであった。
「お疲れ様」
「井之上くんこそ」
 その返しに、思わず自嘲が漏れる。
「よしてよ。僕は指示通り動いただけ。あのダンスを一から十まで創り上げた淡井さんには、遠く及ばない」
「そういうのは比べるものじゃないよ」
 彼女は少し頬を膨らましてみせる。その頬を人差し指でつつきたくなったが、さすがに止めておく。無神経なことを言って、彼女を傷つけてしまったことを悔やんだのだ。
「ごめん」
「別に謝らなくても」
 少しの静寂。耐えられなくなった僕が先に口を開く。
「お昼に、しようか」
「う、うん」
 それぞれたどたどしく、僕は弁当、彼女は惣菜パンの袋を開く。そしてしばらく、もくもくと食べていた。
「どう、だった?」
 次に切り出したのは、彼女だった。
「どうって、ダンスのこと?」
 彼女は黙って頷く。さっきまで纏っていた充実感は? ああ、僕が奪ったのか。……よし。
「そりゃあ、大成功だったんじゃないの?」
 これでよかったのか、と不安で彼女の表情を窺う。するとぱあっと表情に花が咲いて、充実感が戻って来た。
「……よかった。うん、そうだよね」
 あるいは、今のは安堵感か。
 そして彼女が仕事に戻るまでの間、いつも通り僕たちは他愛もない話をした。その最中で彼女から「あーん」を求められ、それに応じて等々あったが、あくまでいつも通りである。これに慣れつつある自分が怖い。
 
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