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第1章 夏までのエトセトラ

第4話『幾面相と運動会 終幕。そして日常へ』

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『ただいまから、閉会式を行います。選手のみなさんはグラウンドに整列してください』
 時折吹き荒れる砂埃。しかして、とある公立高校の、今年の運動会。その午後の部はつつがなく進んでいった。一年の謎体操。二、三年女子のダンス。二、三年男子の組体操及びマスゲームが午前のうちに終わったため盛り上がりに少々欠ける心配はどことなくしていたが、それは杞憂だった。三色の団によるこれまでにないデッドヒートによって、終盤に連れボルテージは指数関数的に上昇していった。
 そして茜に影が伸び始める頃、体育館側から赤団、青団、白団というふうに、生徒たちは興奮冷めやらぬ様子で整列していく。とはいっても、各団の点数差が余りにもなかったため、最後の団の代表による全体リレーによる勝敗によっておおよその予測はついてしまっていた。おそらく大抵の人間がそうで、団によって空気感はだいぶ違っていたのだが。
『成績を発表します』
 鉄の壇上に体育委員長が上がり、各団の点数を高らかに発表する。グラウンドの中ごろ、青い鉢巻が歓声と共に波打つ。優勝は、全体リレーを制した青団だった。友人加藤博士かとうひろしの所属する赤団でもなければ、淡井綾乃あわいあやのや僕、井之上創介いのかみそうすけが所属する白団でもなかった。
 そして、フィナーレ。スポーツドリンクのコマーシャルに流れていたJ―popとともに、団も学年も関係なく入り交じり、飛び跳ねる。イントロ、サビ、そして曲が終わる。それとほぼ同時に、様々な色のロケット風船が歓声と共に夕空に舞う。
 こうして、この高校の、いや彼女の運動会は終幕を迎えた。伝説の生徒会長、つまり僕の兄、井之上陽介いのかみようすけのときのそれに匹敵するという、至上に近い評価を残して。

 ***

 昼休み、屋上。じりじりと強さを増す熱と日差しに耐え兼ねて、陰に逃げ込む。まだ五月だというのに真夏日を記録していることに何ら違和感を覚えないことに、少々恐ろしさを覚える。
「あー」と、なんとなくの間抜けな声。
 振替休日を挟み、グラウンドと校舎は落ち着きを取り戻した。かと思いきや、総体や総文祭を一、二週間後に控えた彼らの熱は収まることなく、むしろ増している節すらあった。
「や。となり、いい?」
 スカートの丈は膝上に。そしてリボンを右手に、ワイシャツの第一ボタンが開いている。つまるところ、屋上におけるいつもの淡井綾乃がそこにいた。彼女はいつも通りとなりに腰を下ろす。
 僕は改めて、彼女を労う。
「本当に、お疲れ様」
「何が?」
「運動会」
「ありがと」
 彼女は淡々と受け答え、おにぎりの袋の両側を摘まんで割く。そして頭からかぶりつく。僕は風呂敷を開け、弁当を食す。
「今日はエビフライ?」
 物欲しそうに彼女がのぞき込んでくる。僕はいつも通り、雛鳥のように口を開く彼女にそれを差し出す。彼女はかぶりつく。無論、ちゃんと箸の反対側を用いた。
「おいしい」
「そりゃあ、どうも」
 冷凍だけどね。それはきっと、彼女もわかっているはず。毎日朝から一から作るなんて、母親の負担が大きいに決まっている。ただ、用意してもらえることそのものがありがたいことだという認識が、僕にも彼女にもあったのだ。
 もっとも、何となくではあるが、その重みは僕と彼女とでは大きく違うのだが。それは彼女の昼食がいつも購買かコンビニのおにぎりあるいはパンのせいか。それとも、僕の弁当を初めてみた時の、心底羨ましそうなあの声か。それとも……。
「井之上くんこそ、お疲れ様」
「そんなことはない。なったって出番以外、どこかしらでサボっていたから」
 一応、出番以外は鉄骨の団席で応援することにはなっていた。しかし怠惰なる井之上創介は、みんなが応援の義務を果たしている間も、彼女が運動会運営の責務を果たしている間も、どこかしらの陰でサボっていたのだ。
 そんな僕に、労われる資格などない。ましてや、あの日、最も頑張っていた人間に。
「でも、リレー頑張ったでしょ?」
「抜かれたけどね」
 それも、その時つけられた差でそのままチームは負けた。
「でも、頑張ったでしょ?」
 純粋に、かつ圧をかけるように、彼女は言う。おにぎり一個とエビフライ一本、本日の昼食を終えた彼女。対して、まだ箸と弁当箱を持っていて、手のふさがっている僕。仕方なく僕は、誤魔化すようにもう一本のエビフライを彼女の口に押し込んだ。
 もがもが、と彼女は驚きつつも咀嚼する。そして「もう!」と抗議する。可愛い。
「笑うな!」
「いや、そんなことは……」
 顔に出ていたか。いや僕は今、どんな顔をしていた!?
「まったく、押し込むならミートボールにして欲しかったよ。エビの尾が喉に刺さったらどうするの!?」
「いや、うん。本当にごめん」
「いいよ。おいしかったから」
 それはそれとして、というふうに彼女は言う。ともかく、あの日この僕が頑張ったなどという見当違いな評価を受ける、ということは避けられたのかもしれない。どうにか、誤魔化せたのかもしれない。
 それからまた、二人はいつも通り、他愛もない会話を続ける。運動会のあれやこれやとか、総体や総文祭のこととか、その他諸々。
 その間、彼女はいつも通りタバコを吸っていた。


 
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