暗香浮動 第一章

澪汰

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心を澄まして、

心を澄まして、#06

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◇◆◇


 それからふた月が経ったある日――

 雨月が継続して蛍を買い付けたという噂は、瞬く間に見世中に広がっていった。そんな驚きの声が広がる中、それまで客から逃げ惑っていたはずの蛍が、『自分たちよりも早くに買い付けられた』という事実を良く思わない者達の存在も最近は増えつつある。

「蛍、お前……最近全然食べないけど、何か変な物貰ってきたりしてないだろうな?」
「お前のように碌に客も取らない奴を買い付けるなど、よっぽど物好きなお客人なのだろうなあ」
「……っ、そんなこと――っ!」

 言葉を最後まで言い終わらず、蛍は厠へ駆け込む。
 最近食べても吐いてしまう事が多くなった。食べる前から臭いだけで耐えられない日も多い。それだけではなく、寝ても寝ても毎日異様な程の眠気に襲われたり熱っぽい日が続いたりと、このひと月くらいずっと体調の悪い日が続いている。医者にかかろうにも一人で外出することは叶わず、見世の者に頼んではみたものの『忙しい』の一点張りで誰も取り合ってはくれなかった。
 そんなこともあって、今までよりも一層見世に居辛くなってしまい、部屋に籠ることが多くなった。雨月に時折手紙を出して見るけれど、返事が来たことは一度もなかった。


 蛍と最後に会ってから気付けば早、ふた月が経過していた。

「……雨月――、次こっちもいいか? 多分、もう少しで真澄《ますみ》様がいつもの買いに来る頃だと思うから、作っておかねーと」
「それなら先程少し手が空いたので、仕込みは済ませてありますよ」
「流石! ありがとな、助かるぜ雨月」
「……兄さんには店を任せっきりですから、このくらいは手伝わせてください」

 蛍の事を伏せて、働きたいと言った雨月に雨月の兄、時雨は何も言わず家業を手伝わせてくれた。
今までは雨月が次男という事もあってか、繁忙期以外は店の手伝いをしなくていいと言われていた。それでも時々、兄だけに任せきりにしているのが申し訳なくて、手伝いを買って出たりしていたが、今の様に長い時間は働かせてもらえなかったのだ。

 雨月の兄は童顔と雨月よりも背の低い見た目のせいで誤解されがちだが、雨月よりもずっと頭がいいし、雨月とは真逆の明るい性格。何より周りをよく見ていて、他の人が気付かない事にもいち早く気付く。そんな兄の事だ。『働きたい』と言った雨月が、何か今までとは違う理由でそう言っている事に気付いたのかもしれない。

 昼間は家業を手伝い、それが終わると弥彦のところで歌舞伎座の手伝い。雨月は昼夜を問わず働き詰めていた。

 全ては蛍のため――。

 時折、蛍から手紙が届くことがあった。返事を書こうと思うのに、いざ机に向かうと何を書いていいのか分からなくなってしまう。それに、一度でも返事を書いてしまえばきっと、会いたくてたまらなくなってしまう気がするのだ。蛍の事を考えるだけで、あの匂いがふわりと今でも香る。

「……へい、雨月の旦那にお届け物ですぜ。ここのとこ頻繁ですなあ……。恋文なんて……、私も貰ってみたいものですぜ。それじゃ、確かに届けましたよ、雨月の旦那」
「……ご苦労様です」

 渋い顔で手紙を届けに来た飛脚を見送り、一人で自分を待っている蛍に想いを馳せる。

「……なあ、菓子屋のしののめ屋ってここ?」
「……え、ええ。何か御入用ですか?」

 不意に声をかけられ、現実へと引き戻される。
 今の時代には珍しい長身。身なりはきちんとしているのに、彼の纏う空気はそこらの浪人よりも質が悪かった。少し警戒しながら雨月は目の前の男にそう問う。

「まーちゃんが、お菓子買ってきてくれって。『いつものください』って言えば分かるって、まーちゃん言ってた」
「まーちゃん………?」

 所謂、愛称なのだろうがそんな当人同士でしか分からない呼び名で『いつものください』と言われても、全く要領を得ないと雨月は頭を抱える。

「…… 周防すおう 真澄ますみだから、まーちゃん。まーちゃん来てる店、ここじゃねえの?」

 ようやく理解が追い付く。更に話を聞くと彼は〝 湯川ゆかわ 伊吹いぶき〟と言って、最近周防家に雇われた使用人だと言う。伊吹の言葉を鵜呑みにするのは些か危うい気もするが、売らないわけにもいかず渋々、といった様子で雨月は伊吹に菓子を渡す。

「つっきー、ありがとうな。また来る」
「つ、つっきー……!?」

 話の最中に名前を聞かれたので名乗ったが、まさか早速妙な愛称を付けられるとは思っていなかった。

「……どうした、雨月? すっげえ形容し辛い顔してるぞ」
「……い、いえ。それより……今しがた、周防家の使用人だと名乗る方がいらっしゃいましたが、兄さん知ってますか?」
「あー、今日からだったのか。なんか、事情があって直接買いに来られなくなるかもって、前言ってたな」
「……そうでしたか」
「……それ、また同じやつからか? 最近よく来るよな~、恋文か?」

 雨月の懐にしまわれていた手紙に気付いた時雨が問うてくる。

「こっ、恋文って……に、兄さん!?」
「弥彦さんに聞いたぜー。『雨月が惚れ込んでるのは多分、女じゃねーよ』ってな」
「……なっ!?」

 兄の言葉に絶句する。別に隠していたわけではない。蛍を身請けする準備が出来たら、きちんと話をするつもりだったのだ。だが――

(……あの人という人は!)
「ははっ! また変な顔してっぞ、雨月」
「……そ、それは……っ、」
「……いいんじゃないか?」
「……え?」
「お前が誰を好きになろうと、オレはお前の味方だから心配すんなって! それに最近よく来る外国人が言ってたぜ。異国じゃよく分かんねーけど、研究も進んでるらしいじゃんか!」

 『一体何の研究なんですか』とは聞けなかった。聞いたところで兄さんは知らないだろうし、自分たちは佐幕派でも薩長派でもないけれど、迂闊に異国の話題を出せる程この辺りの治安は良くはないのだ。

「……ありがとうございます……兄さん。京さんが言ったことは事実ですが、決して隠していたとかそういうことでは……」
「分かってるって! 準備が出来たら、ちゃんとオレにも紹介しろよな!」

 慌てふためく雨月を余所に、時雨は明るく笑い飛ばす。どうやら全てお見通しのようだった。
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