エスプレッソとバニラ

伊東悠香

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1巻

1-3

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   3 意外な顔


 約束どおり、月曜日は元気に出社した。せきは出るけど、もう熱はないし元気だ。

「おはよう」
「あ、おはようございます」

 仕事モードの久保さんと挨拶あいさつを交わす。このギャップはどうにもならないようだ。
 昨日の電話で、体調がよくなってきていることを伝えていたから、彼はとくに「どう?」とも聞いてこない。この態度なら、外でのデートを見られない限り、社内で私達が付き合っているのがバレることはなさそうだ。


 お昼休憩の時間になり、社員食堂で今日はハンバーグを食べていた。
 いつもは同じ部署の男性社員三人と一緒なんだけど、今日はみんな仕事が忙しそうだったから、ひとりで食べることにした。

「……ここ、いい?」

 唐突に声をかけられる。
 見上げると、そこに立っていたのは隣のグループの三島みしまさんだった。久保さんと同期で、彼も隣のグループでは実力を発揮しているそうだ。
 ただ、久保さんとはまったく違うタイプで、根っからの女好きという噂を聞いていた。すきさえあれば、すぐに女性に声をかけて、恋人も大勢いるらしい。

「あ……はい」

 なんでいきなり私に声をかけたのかわからないけど、断る理由もないからうなずいた。
 三島さんは、カレーとサラダのとり合わせだ。

「ここの食堂でなんとか食べられるメニューって、そのハンバーグとカレーぐらいだよね」

 ため息まじりに、彼は一口コップの水を飲んだ。

「そうですね……」

 仕事で時々資料を届けるくらいしか面識がないのに、いきなり話しかけられても返事に困る。

「桐原さん、いっつもあの男グループで食べてるから、声かけられなかったよ。今日はなんでひとりなの?」

 あっけらかんとした調子で、そんなことを言ってくる。

「皆さんまだ仕事が残ってるみたいです」
「ところでさ、久保って相変わらずスパルタなんでしょ? よくあいつの下で仕事続けられるね。うちのグループに異動させてもらおうか?」

 冗談でもない調子で、そんなことを言ってくる。

「いえ、大丈夫ですよ。仕事をきちんとやっていれば怒る人じゃないですから」

 久保さんを擁護ようごするようなことを言ったからか、三島さんは探るような目つきをした。

「ふーん。あいつ、あんな感じで冷たいのに、夢中になる女が結構いるからな。君もそのひとり?」

 随分不躾ぶしつけなことを聞いてくる。ちょっと腹が立ったから、その質問にはまともに答えなかった。
 不本意ながら三島さんとご飯を食べていると、私達の横を久保さんが通り過ぎた。仕事が終わって、食堂に来たみたいだ。私と三島さんを無視して、奥の席に座ってひとりで食事を始めた。
 もしかして、この状態って誤解されてる? 久保さんが通ったとき、ちょうど三島さんが私のほうに身を乗り出して話しかけてきていた。
 急に不安になる。

(セクハラな三島さんなんか、なんとも思ってないですよ? 誤解しないでくださいね?)

 そう思いながら食事を終えると、さっさと席を立った。

「桐原さん、また声かけるね」

 私が立ち上がった瞬間、うしろで三島さんが言った。
 軽い。久保さんに比べたら、彼は布っきれみたいに軽い。

「機会がありましたら……」

 それだけ答えて、足早にフロアへ戻った。ほかの人も食事に出たみたいで、そこには誰もいない。
 ため息が出る。久保さん、なんで声をかけてくれなかったのかな。別に、三島さんがいたって、一緒に食べてもよかったのに。ていうか、一緒にいて欲しかった。
 そんなことを考えていると、こちらへやってくる足音がした。
 久保さんが戻って来たようだ。
 私のほうからは、なんだか声をかけづらい。誰もいないんだから、ちょっとくらいプライベートなことを話してもいい気がするのに。
 やっぱり彼はなにも言わない。たとえ周りに人がいなくても、オフの顔は会社では見せないと徹底しているんだろう。
「さっき、三島となに話してたの?」って聞いてくれれば、相手が勝手に隣に座ってきたいきさつを話せたのに。パソコン画面を眺めて、なにやらメールに返信しているみたいだった。
 やっぱり会社での彼は、相変わらず怖い。土曜日に借りたマフラーを返そうと思って持ってきたけど、渡せそうにない。

「桐原さん」

 昨日は「芽衣」って呼んでくれた彼が、私を苗字で呼んだ。

「はい」
「昼休み終わってからでいいから、ちょっと下の倉庫からこの資料出してきてくれる?」

 細かく資料の名前がメモしてある紙を渡される。

「はい。わかりました」

 彼は職場では、私を好きなことすら忘れてるのかもしれない。軽く落ち込む……


 始業ベルが鳴り、私はすごすごと倉庫に向かった。少しカビくさいこの部屋は、めったに人が入らないから、空気がよどんでいる。マスクしないと、ホコリを吸いそう。
 ブツブツ文句を言いつつ、指定された資料を探す。

「えっと、これと、これと……」

 分厚いバインダーに入った資料を三冊も持つと腕が折れそうだ。それを、さっとうしろで受けとってくれた人がいた。

「え?」

 びっくりして振り返ると、久保さんが立っていた。背が高い彼は、私が踏み台に立っても目線を上げないと顔を見られない。

「あの……資料の追加かなにかをお探しですか?」

 ビクビクしながらの質問。

「……」

 彼は無言でしばらく私の顔を見ていた。それからちょっと顔を傾けて、私の唇に自分の唇を重ねた。バラの……〝バラのキス〟。

「……」

 驚きのあまり声を出せないでいる私を置いて、そのまま久保さんは三冊の資料を手にして出て行ってしまった。
 なに……今の。彼なりのやきもちだったんだろうか。言葉にできない思いを、キスで表してくれたんだろうか。よくわからないけど、素直に嬉しい。
 私は今触れた彼の唇の感触を確かめるように、自分の唇を指でなぞった。


 その週は、結局このキス事件以外、彼との接触はなく、久保さんの奴隷のように働いた。
 周りの社員からも、私に同情する声が聞こえるくらい、久保さんにしごかれた。久保さん、あなたは二重人格ですか? それとも……「S」ですか?


 どうにか耐えた五日間。
 待ちに待った週末、金曜にメールが来て「先週と同じ駅前に十時ね」と再びデートのお誘いがあった。
 平日は結局、一度も電話していない。怖くて電話なんかかけられなかった。
 そして当日。先週と同じ服装で、私は再度デートにいどんだ。まさに「いどむ」っていう気持ち。先週のような失態は見せたくない。それに、一週間職場でしごかれたお陰で、恋人同士という甘い気持ちも薄れていて、〝鬼の久保〟モードで冷たい態度をとられるんじゃないかと身構えていた。

「今日は時間通りだね」

 この前と同じく早めに来ていたらしい久保さんは、また文庫本を読んでいた。

「今日は、風邪もひいてないですし、大丈夫です」

 私が仁王立ちしてそう宣言するのを見て、彼は笑った。

「なんでそんな怖い顔してんの?」
(誰のせいだと思ってるんですか!? あなたに一週間しごかれたせいですよ!?)

 彼は本を閉じながら言う。

「じゃあ、今日は俺のアパートにでも来る?」
「は?」

 あっさりすごいことを言われて面食らう。

「寒いだろ、どこ行っても」

 まったく予期しない言葉だった。久保さんは、ひとり暮らしなんだろうか。自宅通勤かと思っていたけど、私を誘ってくれるってことは、やっぱりひとり暮らし?
 よく考えてみると、彼のプライベートについてなにも知らない。……謎の男、久保真太郎。


 言われるままついて行くと、そこは家族で住んでもよさそうなほど広いアパートだった。部屋数が三つもあって、どの部屋も本であふれている。どうやら彼は本が好きらしい。

「その辺に座って」
「はあ……」

 職場にいるときの緊張がとれなくて、私は固まったままソファにぎこちなく腰を下ろす。久保さんは温かいコーヒーをれてくれて、テーブルにそれを置くと、私の隣に座った。
 なにか言うと怒られそうな気がして口が開けない。

「怖いの?」

 私の体をそっと抱き寄せて、久保さんは髪にキスをした。

「だって、昨日までの久保さん、いつもよりもっと冷たかったから……」

 たまらなくなって、彼の腕の中で弱音を漏らす。

「ごめん。なんでもないふりをしようと意識してたら、余計に厳しくなった」

 彼が私を強く抱きしめた。

「あと、三島とはもう親しくするなよ? あいつ、相手かまわずだからな」

 ……やきもち?

「だからって、あんなに冷たくするなんてひどいよ」

 可愛いやきもちなんてレベルじゃない。久保さんのはもっともっと強烈だ。本人はそれほど自覚してないみたいだけど、冷たくされるほうはたまらない。
 むくれながら下を向いていると、いきなり両手で顔を引き上げられる。

「誰にも渡さない。俺だけの芽衣なんだから。三島なんか、絶対ダメだ」
「ん!」

 ほんのりエスプレッソの香りのする部屋の中で、私の唇を強引に奪う。普段は冷静な彼のキスが……こんなに熱いことに驚かされる。

「んん……久保さん、急に……こんなの」

 あせって彼から離れようとしているのにびくともしない。

「真太郎って、名前で呼んで」

 切ない声で耳元にささやかれる。

「私なんかの……どこがいいんですか」

 名前を呼ぶのがやっぱり恥ずかしくて、やっとの思いでそれだけ言った。

「全部。頭の先からつま先まで全部好きだよ。このオレンジのワンピースも可愛いけど、芽衣は、どんな格好してたって可愛いよ。すべてが愛おしいと思ってる。多分、芽衣が俺を好きになる随分前から……俺は君にかれていた」

 こんなに強く彼に思われていたなんて、信じられない。

「優柔不断な性格って言われたから、嫌われてるんだと思ってた」

 まだ信じきれなくて、済んだ話をむし返してしまった。でも、まったく怒ったりしないで、逆に恥ずかしそうな顔で答えてくれる。

「あれは、そういう性格の芽衣が気になるってことだったんだよ。不安定で目が離せない。……本当に愛しくて」
「……」

 私のどのあたりを好いてくれたのかはわからないけど、本気で私を好きだと言ってくれているのがわかって胸が熱くなる。

「私だって、結構前から好きでしたよ? 絶対かなわないって思って、毎日泣きたいくらいつらかった。今だって、これが夢だったらどうしようって思ってる……」
「夢じゃないよ。この感覚が夢だと思う?」

 強引に私の口の中に侵入してきた。
 恋愛経験が浅い私には、初級・中級を飛ばして、いきなり上級テクニックでせまられているようなキスだった。
 頭がショートして、彼のなすがままになる。顔のいたるところにキスされて、何度も舌を絡めとられた。

「ん、んん……」
「芽衣……好きだよ……」

 キスの合間にささやかれる甘い言葉。夢にまで見た彼からの愛のささやき。
 新調したワンピースを優しく脱がされて、あっという間に下着姿にされた。まさかと思ったけど、一応かわいい下着をつけておいてよかった。

「明るいね……カーテン閉めようか」

 遮光しゃこうの効いたカーテンを閉められて、部屋が急に暗くなった。その薄暗がりの中で、真太郎は自分も上半身裸になって私の体にそっと触れてきた。体が震えてしまって、未経験なのはごまかしようがない。

「大丈夫……なにもしないよ」

 下着には手をかけず、私のことを優しく抱きしめてくれた。彼の肌の温もりで、しだいに震えがとまる。

「キスは、平気?」

 私が落ち着いたのを確認して、そう聞いてきた。

「ん……」

 涙目になりながらうなずくと、またキスが繰り返された。


 私のペースに合わせて、真太郎は本当にキスしかしなかった。でもキスはすごく情熱的で、ちょっと予想外だった。おまけに、ちょっと別の男性と話しただけでやきもちをくみたい。いつもクールで冷酷だと思っていた鬼の久保真太郎は、ここにはいなかった。こんなにギャップがあるのを、よく隠せるものだなあと、感心する。
 私の思いのほうがずっとずっと強いと思っていたけれど、今はどっちが上かなんてわからなくなった。


「……コーヒーが冷めちゃった」

 熱いキスを交わした私達は、やわらかい毛布にくるまって、冷めたコーヒーを眺めていた。

「これ、バニラアイスと合わせるとうまいって知ってる?」
「アッフォガート! 私の大好物ですよ」

 嬉しくなって彼を見上げた。

「じゃあ、後でバニラアイスを買ってこようか」

 優しく真太郎が微笑む。

「うん! 私、バニラアイスが一番好き」

 自然に甘えた声になった。徐々に敬語もとれてきている。キスで緊張がほぐれて、真太郎の温かさを再確認できたからかもしれない。

「バニラが一番? 一番は俺だろ?」

 彼はまた私にキスを求める。もう逃れようがないというほどキスされた。
 真太郎は、バニラアイスをとろとろに溶かす、熱いエスプレッソのよう。私がまだお子様だから、これでも手加減してくれているに違いない。本気の彼はどんななのか、鬼の彼を考えるより怖い……
 仕事へ向かう姿勢から考えると、この人は心に決めたことには猛進もうしんするタイプなのかもしれない。その情熱が、思いもかけず私に注がれている。幸せだけど、ちょっとこの先を思うと尻込みしてしまう。
 服を着てから、私達は手をつないでバニラアイスを買いに歩いた。

「この間借りたマフラー、返そうと思ったんだけど、真太郎の香りがするから、もう少し私が持っていてもいい? 枕元に置いてあるの。あなたが側で寝てくれてる気がして」

 歩く道すがら、思い出して尋ねた。

「いいよ、俺はいつでも芽衣の隣にいるけどね」
「……」

 反則。こんなに優しいなんて……ずるい。来週から会社に行きたくなくなってきた。こんな彼は週末しか見られず、来週もまたいじめられるのかな。
 まだ甘ちゃんなバニラアイスの私を溶かすエスプレッソ。火傷やけどするほどじゃなくて、適度な温かさだといいな……なんて思った。



   4 真太郎の過去


 年が明け、一月の仕事を開始した。で、しょっぱなから私は体調を崩していた。お昼休みが終わる十分前。私はトイレの中にいた。
 ……調子にのって正月におせちを食べ過ぎたのが悪かったらしい。それでトイレにこもっていたら、女子社員が三人ほどで化粧直しをしながらしゃべる声が聞こえてきた。

「久保さん、相変わらず怖いよねー」

 その言葉に、思わず体が浮きそうになった。真太郎のことになると、すぐに反応してしまう私。

「そうそう、午前中さ、コピー部数が違うって桐原さん怒られてるの見たよ。久保さん独り占めしてるから、ちょっとムカついてたけど。あれだけいじめられてるのを見ると、笑えてくるよ」
(笑える? ふざけたこと言ってるなあ……)

 ムッとしながらも、私の聞き耳はピンと立っている。

「ほんとー。久保さんて香苗かなえさんと別れて以来、浮いた話聞かないし、もう二度と恋愛する気ないんじゃない? 久保さんのほうが振られたみたいだし」

 これを聞いた瞬間、私は、思わずドアを開けて三人の中に入っていきたい気分になった。香苗さん……って誰?

みなみ 香苗を独り占めした男、で有名だったもんね。男性社員からもブーイング出たらしいよ。まあ、南さんぐらい美人だと私達も文句も言えなかったよねー。仕事もできるし」
「さすがの久保さんも、香苗さんにはやられちゃったって感じなんじゃない。でもさ、彼が女にメロメロになってる姿って想像つかないよね。見てみたくない?」
「見たい、見たい! うわーなんか、すっごいやらしい感じがするー!!」

 三人は異様に盛り上がっていた。まさか、うしろの個室に、今、彼と付き合っている私が入ってるなんて知りもしないだろう。三人がいなくなるまで、もう少しここで待とう。
 それにしても、さっきから手の震えがとまらない。真太郎が、秘書課の南さんと付き合ってたなんて……。その事実は、私の心を見事に打ち砕いた。
 そりゃあ、あれだけのいい男だから、恋愛経験がないほうが不自然だと思う。でも、よりによって相手が南さんだったなんて。
 彼女は東京支社にはいないけど、本社から何度も出張で来たことがあるから顔は知っている。年齢は、多分真太郎と同じくらいだったはず。
 男性社員の人気を独占していて、高嶺たかねの花って感じの美人。
 あの、あの美しい人が真太郎の恋人だった。しかも、彼のほうが振られた。
 そうか。それで私とのことを周りに知られたくないんだ。
 一度失敗してるから、もう二度と社内恋愛をしようと思わなくなったんだ。でも、たまたま私といい雰囲気になって……
 どう考えても、私と南さんでは月とスッポンだ。私なんて、お化粧をしてやっと見られるかなっていう感じだけど、南さんは顔もキレイで、立ち居振る舞いや言葉遣い、プロポーションもパーフェクトだ。
 あの人を、真太郎はかつて愛した。私にしたみたいな〝バラのキス〟をした――

「やだ!!」

 そこまで考えて、トイレの中にしゃがみ込む。
 恋人の過去を知っても、ろくなことがない。謎は謎のままのほうがいい場合もある。とくに、好きな人の過去の恋愛なんて、知らないほうがいいに決まってる。
 予想外の場面で、真太郎の過去を知ってしまった。


 ようやく三人が去ってくれて、私はどんよりとした顔のままトイレから出た。お腹の具合が悪いこととは別に、顔が青くなっている。

「正露丸……ありましたっけ」

 薬箱を探しながら、小田さんに話しかけた。

「ああ、糖衣のがあったはずだけど……どうしたの?」

 小田さんが親切に薬箱を開けて小さなビンを探し出してくれた。

「ありがとうございます。ちょっと……お腹が痛くて」
「大丈夫? 顔色も悪いよ?」
「薬飲めば大丈夫です。ご心配をおかけしてすみません」

 うちのめされた気持ちで、薬を飲む。
 ため息をついて席に座ると、隣の真太郎がちらっと私を見た。一応ちょっとは気にかけてくれているみたいだ。
 私は、それに気づかないふりをした。妄想がとまらない。頭の中では、真太郎と南さんが仲よくしているシーンが浮かんで離れないのだ。
 オフになると、彼がどろどろに甘くなるのを知ってしまっているから余計につらい。私にささやいたのと同じように……いや、それ以上に甘くささやいている真太郎が思い浮かぶ。

「香苗……愛してるよ」

 幻聴まで聞こえてきた。

(やだ! ふたりの甘い場面なんか想像したくない!!)

 そういえば、真太郎はほかの女性社員と話すときよりも、彼女には丁寧に話していた気がする。
 もしかして、まだ真太郎は南さんが好きなんじゃないか、そんな気分にすらなる。


 明日は甘い休日を過ごす予定だったけど、金曜日にこんなことを知って、彼の前でちゃんと笑えるだろうか。
 この日の私は、怒られても表情を変えることもなく、ロボットみたいに働いた。いつもはもっと反省する姿を見せるんだけど、今日はなにを言われても心には響いてこない。

「……どうした?」

 さすがの真太郎も、私の異変に気づいたみたい。でも、今ここでありのままを話すわけにはいかないし、どうにもならない。過去にやきもちをくことほど不毛なことはないのに、妄想はとまらない。

「どうもしません。これ……すぐに直します」

 書類を手にして、パソコンに向き直る。


 ふいに電話が鳴った。本社のランプが点滅している。私は、なんの警戒心もなくその電話をとった。

「はい、Aグループです」
「本社秘書課の南です。おつかれさまです」

 りんとした南さんの声が耳に届く。

「あ、南さん……おつかれさまです」

 あまりのタイミングのよさに、私の声は自然と小さくなる。

「あの、久保さんお願いできますか?」

 ここで「嫌です」なんてバカな選択肢を選べるはずもなく、当然真太郎にこの電話をまわさなくてはならない。

「少々お待ちください」

 保留ボタンを押して、久保さんに取りぐ。

「秘書課の南さんからです」
「そう。はい、お電話代わりました、久保です」

 当たり前だけど、あっさりと電話に出た。会話の内容も仕事のことだった。でも、私はわけのわからない嫉妬で、仕事に集中できない。

(過去にどんなことがあったって、今、真太郎が好きなのは私なのに。なにも心配することはないじゃない)

 そう思ってみるけど、不安は隠しきれなくて、この日はわかりやすいほど落ち込んでいた。

「なにかあった? 具合悪かったみたいだけど、大丈夫なの?」

 夜、珍しく真太郎から電話が来た。
 ほら……仕事を離れると、優しいんだよね。彼は私を好きでいてくれている。わかってるのに、なんでこんなに落ち込んでるんだろう。

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