はじめての恋ではないけれど

伊東悠香

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1巻

1-3

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 でも私は、明らかに距離の取り方を間違ってしまった。
 友達として好意をもたれているわけでもないのに、友達気取りでおせっかいを焼き、その上、マユリから〝なめられている〟。
 機嫌のいい日にはマユリは相変わらず可愛らしく私に話しかけてくるけど、自分の気分が乗らないときや、私がマユリの意に沿わない返事をすると、すぐに不機嫌になる。だからって無視するのも大人げないな……と思い、私はつとめていつもどおりの応対をしていた。
 しかし心の底に芽生えた黒い感情が、マユリと話をするたびに大きく育っていくような気がした。この嫌な感情を早く払拭ふっしょくしてしまいたくて、私は涼が忙しくしているとわかっていながら、今週中に会えないかとメールをした。
 午後、資料を持って廊下を歩いていたら、未来が会議室に入っていくのが見えた。相変わらず美人で憧れてしまう。
 未来の父親は画家で、娘に〝大和なでしこ〟になることを求めているという。だから未来はいつも身なりがきちんとしていて、姿勢もいい。そして彼女にぴったりのフローラル系の香水が傍に寄ってきた男性を瞬時に悩殺する。
 なのに本人は、「あー、男ってしつこいから、嫌い!」なんて言っているのだから面白い。
 そんな未来にも好きな男性のタイプみたいな俗っぽい好みがあるのか興味が湧いて、聞いたことがある。そうしたら、「奈々のとこの樋口さん? あの人超タイプ」なんて言ったから、椅子から転がり落ちそうになった。

「あの人全然優しくないよ!?」

 樋口さんと仕事で直接関わっている私にとっては、「たまには休んでくれないかな」と思ってしまうぐらい煙たい存在。
 でも未来に言わせると、彼は理想の男性だという。

「あのさー、奈々。人間の優しさって、目に見えないものだと思うけど……」
「目に見えない優しさ? あの樋口さんにそういうのがある?」

 私が目を丸くしていると、逆に未来に驚かれた。

「あんないい男に気付かないんだ! 私に誘いをかけてこない男っていったら、彼ぐらいだよ? それが魅力だっていうんじゃないけど、なんていうか……男らしいプライド持ってるよ、あの人」

 未来の言葉には笑い飛ばせない雰囲気があって、私は息をのんで聞いていた。

「樋口さん……夜中まで頑張って、自分の仕事じゃないものまでこなしてるの知ってる?」
「知らない。ていうか、なんで未来がそんなこと知ってるの?」

 部署が違うのに仕事の内容を多少なりとも知っているのは、それだけ強い関心を持っているということだろう。未来は本気で樋口さんを気に入っているのかな……と思った。

「うちの上司が全然仕事をこなせなくて、樋口さんに協力してほしいとか頼んでるのを聞いちゃったんだよね。樋口さん、その仕事引き受けてるんだよ。当然分野が違うから相当苦労してるはずなんだけど……」

 初めて聞く話だった。
 樋口さんが別の部署の仕事を引き受けてるなんて、うちのグループの人は、誰も知らないはずだ。

(……あの樋口さんがねえ)

 未来との会話を思い出して、樋口さんの意外性について考えていると、涼から返信メールが届いた。

『金曜日の夜。仕事が終わったら奈々のアパートに行くよ』

 断られるかもと思ったけど、案外スムーズにOKの返事をもらい、ホッとした。涼にいやしてもらって、心の中の黒い感情を、消してしまいたい。
 そうすれば、また優しい気持ちでマユリに接することができるはず。
 だけど、ちょっと不安なのは、涼がマユリと親しくしていること。
 でもそれは仕事なんだからって自分に言い聞かせる。
 そう。
 涼は浮気とかできるタイプじゃない。外見も素敵で、性格もいい。嘘もつかないし、誠実。
 あと一年ぐらい付き合えば、結婚の話をしたっておかしくないだろう。二人で一緒に暮らす日を空想しながらニヤニヤしてしまうこともしょっちゅうだ。


 涼と会う約束をとりつけたあと、私は気の緩みが出たのか……資料室で作業をしているうちに、頭が痛くなってきてしまった。まずいかな、と思って薬を飲んだけど、どんどんひどくなっていく。そうしているうちに、とうとう私は資料室の床に座り込んでしまった。
 どうやら風邪をひいてしまったようだ。お昼に食べたものもちゃんと消化できていない感じで気持ち悪い。

「どうした?」

 手伝いに来てくれたのだろう、樋口さんが私を見つけ、駆け寄ってくる。

「頭が……頭が痛くて。それに、お腹も気持ち悪くて」

 相手が樋口さんだということも忘れ、私はそのままぐったりと壁によりかかった。

「風邪か? 寒い資料室で仕事させたのは俺だからな……」

 そう言うと樋口さんは私の額に手を当て、熱の具合を見た。その直後、私は彼に抱き上げられた。

「え?」

 さすがに驚いて、ボンヤリしていた頭が一瞬クリアになった。
 だって、社内で上司にお姫様抱っこされるなんて、あり得ない! 

「駄目ですよ! 降ろしてください。こんなの誰かに見られたら……!」

 じたばたする私にかまわず、彼はスタスタと資料室を出る。

「大丈夫だ。医務室まで裏道がある。そこを通れば誰にも見られずに済むだろう」
「……」

 ちゃんと考えたうえでの行動なのだとわかって、私はホッとし……一瞬忘れていた具合の悪さが戻ってきて、再びぐったりしてしまう。
 力の抜けた体がずり落ちないようにしっかりと支えてくれる樋口さん。
 胸板の厚さがスーツ越しにもわかる。たくましい男性の体。

(樋口さんに抱き上げられるなんて……嘘みたい)
「相澤さん」
「はい」
「今日の帰りは送るから。医務室で定時まで休んでろ」
(え? 樋口さんが私を送ってくれる?)

 びっくりして口をきけずにいる私にかまわず、彼は医務室のドアを開け、私を空いているベッドに寝かせてくれた。

「風邪薬程度で治る熱じゃない気がする。保険証があるなら病院に寄ったほうがいいだろう」
「保険証……持ってないです」

 ベッドに寝ていても体が痛い。ゾクゾクして寒気がとれない。もしかしたらインフルエンザかもしれない……
 樋口さんも私の様子を見て同じように思ったようで、保険証はあとでいいからとにかく病院へ寄ろうと言い残し……医務室の温度調整をして、出ていってしまった。
 シンとした医務室に一人残され、急に心細くなる。樋口さんがずっと一緒にいてくれたらよかったのにと思ったくらいだ。

(涼……具合悪いなんてメールしたら心配するよね)

 一度携帯を開いたけれど、涼に余計な負担をかけたくなくて、そのまま何もせずに閉じた。
 その後、樋口さんは本当に定時ちょっと過ぎに私を迎えに来てくれた。

「歩くのもしんどいだろう? 社用車を借りた。後部座席に乗るといい」

 スポーツ飲料を手渡し、彼は私を支えるようにして社用車まで連れていってくれた。

「君のカバンはこれか?」

 キナリのバッグ。間違いなく私のだったから、コクリと頷いた。

「制服は着替えていられないだろうから、今日はそのままで帰るんだな」
「……はい」

 もう樋口さんの言いなりだ。
 涼はこんなふうに状況判断が早くないし、私の世話を焼くというのもあまりない。だからか、樋口さんから受ける親切がなんだかとても新鮮だった。
 言葉は荒くぶっきらぼうだけれど、一分の時間も無駄にできないほど忙しい彼が私のために時間を割いてくれている。未来が言っていた、樋口さんの中に潜む優しさが少しわかったような気がした。


 案の定、病院でインフルエンザという診断を受けた。薬をもらってのむ。再び社用車に乗ると、私は後部座席に寝かされた。

「やっぱりインフルエンザだったな。しかし君も無茶をする……具合が悪いなら、そう言ってくれないとこっちはわからないからな」

 樋口さんは自分のジャケットをフワリと私の体にかけてくれた。あの日……資料室でしてくれたのと同じように。

「すみません。ご迷惑おかけして」
「いや」

 謝る私を制して、樋口さんは私の顔をじっと見た。

「謝るのは俺のほうだ。無理をさせすぎたな……悪かった」
「……」

 樋口さんが私に〝悪かった〟なんて言う場面、想像したこともなかった。そのせいか、彼の低い落ち着いた声が、妙に私の心をざわつかせる。

(病気で心が弱くなっちゃってるのかな。なんだか樋口さんが頼もしく見えてしまう)

 ボンヤリした頭でそんなことを考えつつ、私は自分のアパートまで彼に送ってもらったのだった。



   4 不穏な空気


「ねえ……奈々、気を付けたほうがいいよ」

 三日後、熱も下がり、お医者さんに出社許可をもらってようやく出勤した朝。未来が、私にこそっと耳打ちした。

「え、何を?」
「事情はわからないけど、この前、江藤さんが佐々木くんと一緒に歩いてるの見たんだよ」

 それを聞いて、私はかなり驚いた。
 あのあと、私は涼にインフルエンザで会社を休むことをメールしたけど、涼は忙しいと言って、見舞いにも来てくれなかった。
 忙しいのだからしょうがないと思っていたし、会う約束をしているのは明日の夜だったから……それまで我慢しようと思っていた。
 なのに……マユリと二人で会っていたなんて、かなり衝撃的な話だ。

「単に偶然一緒になったんじゃないの?」
「だといいんだけど、江藤さんが妙に楽しそうに彼に寄り添ってるように見えたからさ……他人事ながら嫌な気分になった。でも私の気のまわしすぎかも。変なこと言ってごめんね」

 それだけ言って、未来は去った。

「……」

 しばし仕事の手を止めて、真面目にパソコンに向かっている涼の顔を見る。
 いつもどおり真剣に仕事に取り組んでいて、時々隣にいるマユリに質問をされている。何が楽しいのかはわからないけど、一緒に書類を覗き込んで、二人で同時に笑顔になるのが見えた。
 その瞬間だ。
 私の中で、何か猛烈な負のエネルギーが湧き出した。
 止めようとしても止まらない……たまらなく嫌な感情の噴出だった。

「相澤さん、おい……相澤さん!」

 涼とマユリの様子に気をとられていて、気付かなかったのだろう。いつの間にか樋口さんが何度も私のことを呼んでいた。

「あ、はい。すみません」
「体調まだ悪いのか? 顔色悪いぞ」
「いえ。大丈夫です……すみません」

 樋口さんは私の様子を気にかけてくれて、本調子になるまでは、と仕事の量も減らしてくれた。
 顔色が悪いのは樋口さんのせいじゃない。でも、その理由をここで言うわけにもいかない……

「無理があったら言えよ?」
「はい。ありがとうございます」

 本当は樋口さんに改めてあの日のお礼を言いたかった。上司としての責任なんだろうけれど、私に優しく接してくれて、おかげで早い段階でインフルエンザを治すことができた。
 でも、今の私は心に余裕がなくて……
 さっき噴出した黒い感情に、まだ支配されている。そのイライラが外に向かって出てしまいそうだった。

「……疲れてるみたいだから、今度食事でもご馳走してやるよ」
「え?」

 樋口さんが冗談でもこんな誘いをかけるなんてあり得ない。
 表情を見てみると、やっぱりいつもの真面目くさった仕事人間の顔だ。

「冗談……ですよね?」
「なんだよ、俺と一緒だと食事がまずくなるとでも言うのか?」

 明らかにご機嫌を損ねた様子。私は慌てて訂正した。

「違います、ええと……樋口さんがそういうことをおっしゃるとは思わなかったので」
「俺だって鬼じゃないんだよ、たまには部下をねぎらおうって気持ちは持ってるつもりだ」

 憤慨しつつも、私を食事に誘ったのは彼の本心らしい。
「樋口さんって絶対ケチだと思う! 一度もご飯とかご馳走になったことがないもの」と常々ぼやいていた自分を思い出し、恥ずかしくなった。

「ありがとうございます」

 まだきちんと約束をしたわけでもないのに、ペコリと頭を下げてお礼を言った。

「フン。じゃあ……月末にでも」

 無愛想なまま樋口さんはそう言うと、私に書類を渡して席に戻った。
 格別優しい言葉には聞こえなかったけれど、彼なりに気を遣ってくれたのかもしれない。


 約束どおり……涼は金曜日の夜七時に、私のアパートを訪れた。

「おかえり! お仕事おつかれさま」

 笑顔で涼を迎え、いつもどおり優しく私を抱きしめてくれるのを待った。
 でも、この日は優しい抱擁もキスもなかった。それどころか、涼は部屋に入るなり、マユリのことを話し始める。

「江藤さんってさ、優しすぎるのかな」
「何の話?」

 突然だったから、私は驚いて涼を見上げた。

「なんか……いろいろな男に言い寄られて大変みたいだから。守ってあげられないかな?」

 何の悪気もなく、涼はあっけらかんと、そんな話をする。

「彼女可愛いから人気あるじゃん。俺なんか、彼女と一緒に仕事をしてるってだけで嫉妬されるんだよ」

 笑う涼と、笑みを作れない私。
 自分の彼女の前で別の女性を「可愛い」と評価する神経にイライラしてしまう。

「そうなんだ……」

 そんな私の様子にちっとも気付かず、今度は嬉しそうにマユリが言っていたという話を口にし始める。

(聞きたくない。マユちゃんとの会話なんか、知りたくない)

 私の心がどんどん暗闇に沈んでゆく。

「マユちゃんのこと……気に入ってるの?」
「な、何言ってんだよ?」

 うろたえた態度から、涼が私に対して後ろめたさを抱いているのがわかってしまった。

「ううん、なんでもない」

 こんなことを言う自分は嫌いだ。
 涼のことは心から信頼してる……疑うなんて、意味のないことだ。そう自分に言い聞かせて、笑顔を作る。涼の前で暗い顔をすることだけは、どうにか回避した。
 私は、こんな人間じゃなかった。
 少なくとも涼の前では、自分の本当の感情を偽ったり演じたりしたことはなかった。
 ありのままの心で、人を素直に信じられることが自分の長所だと思っていた。
 人間関係は難しいから、うかつに深入りするのはトラブルの元だってことは、未来に言われて心得ていたつもりだ。
 でも、マユリに対しては妹ができたみたいで嬉しくて……心を開いた。
 可愛い後輩の笑顔が見たくて、自分なりに努力した。見返りなんか求めていなかった。
 それがまさか、涼を奪われるかもしれない危機におちいるなんて……予測不可能だった。
 私はただ楽しく笑っていたかった。
 マユリと一緒に時々互いの彼氏の自慢話をして盛り上がっていたかった。
 ただそれだけだったのに――――


 この日以来、私は、涼とマユリの仕事風景をなるべく見ないようにした。
 時々お茶をれにマユリが通りかかる。機嫌がいい日は「お疲れさま! 忙しい?」なんて言って立ち止まるのだけど、機嫌が悪かったり何か不満があったりする日は目も合わせずにスルーしていく。当然私もいい気分にはなれない。
 そんなある日。その日は、いつまで経ってもマユリの機嫌が直らなかった。それがずっと気になりつつも、聞くこともできず、私は、仕事を終えると更衣室へ向かう。
 先に着替えを済ませていたマユリが私を見て表情を硬くした。

「お疲れさま」

 私はいつもの調子で明るく挨拶する。それに対して、マユリは、ふてくされたような声で返してきた。

「……お疲れさま」
「どうしたの? 何かあった?」

 マユリの異変を無視しきれず、そう尋ねると、彼女は私から目をそらした。

「ううん。別に」

 そう言い残し、少し怒った表情のままマユリは更衣室を出ていった。

「……」
(あ~……いったい何があったっていうの?)

 マユリの気分に振り回される日々に、いい加減うんざりしてきた……というのが本音だった。
 相手の心を無視して自由奔放じゆうほんぽうに振る舞うマユリ。
 どんなに私が気を遣っても、それが裏目に出て、「うっとうしい」という顔をされることもある。
 それに、涼と話しているときは、明らかにテンションが上がっているのもやっぱり気になる。
 多少の我がままは彼女の可愛らしさだし、男性から見れば「何でもやってあげる」という気持ちにさせられるのかもしれない。
 女の私ですら、マユリを独占したいと思うほど、愛着を感じたのは確かだ。
 今だって、できるなら涼の問題を解決して、マユリとの関係を平穏なものにしておきたい。
 でも……世の中っていうのは、「決して起こってほしくないこと」が、見事に起きてしまったりする。


 その日はめずらしく涼のほうから『会いたい』とメールをしてきた。何か嫌な予感がしたけれど、私はいつもどおり『いいよ』と返答するしかなかった。
 涼は相変わらず時間じかん遵守じゅんしゅで、気を利かせてケーキのお土産まで買ってきてくれた。

「ありがとう。ちょうど甘いもの食べたかったんだ。ねえ、夜ご飯は焼魚でいいかな?」

 涼の顔を見たとたん、なんだか甘えたい気分になって……私は彼に寄り添おうとした。
 でも……涼は私と目を合わせてくれない。

「ここしばらく外食してたから、普通の白いご飯があればそれでいいよ」

 そんなことを言って部屋に入ってくる。身長が高いから、どことなく体を前かがみにして歩く涼の姿。
 いつもはここで「ただいま」って言ってギュッと抱きしめてくれるのに、彼はなんの迷いもなく私の前を素通りした。
 とたん、心に鉛玉でも撃ち込まれたような気持ちになる。

(私がインフルエンザにかかっていても心配すらしない涼。いったいあなたは私の何?)
「ねえ……何かあった?」

 たまらず、強い口調でそう言ってしまった。

「え、なんで?」

 驚いたような顔で涼が振り返る。表情ににじむ罪悪感。隠し事のできない性格が、モロに出る。
 これが涼のいい部分でもあり、め事を最小限にとどめたい場合にはやっかいになる部分でもある。

「一人で外食するの、あまり好きじゃなかったでしょ? どうしたの?」

 なるべく平静を装ってご飯の支度したくをする。ケーキの箱は冷蔵庫にしまっておいた。

「あ、うん。ちょっと相談受けてて……外で話すことが多かったんだよ」

 やや気まずそうにそう言って、涼は食卓に並んだおかずを眺める。
 美味しく食べてもらうには、今は話を進めないほうがいいだろうと思って……とりあえず「そうなんだ」とだけ答えた。

(今クドクド言っても、心証を悪くするだけ)

 そう思って私は炊き立てのご飯を涼専用のお茶碗によそう。
 時間があるときは二人でお味噌汁を作ったりもしていた。涼はあまり器用じゃないから、手伝わせると野菜の形が不揃いになる。それでも二人でキッチンに立って料理をするのは楽しいし、嫌いじゃない。

「また今度簡単なメニューを考えるから、一緒に料理しようよ」

 明るくそんな話題をふってみる。
 それに対して涼は「うん、そうだね」とだけ答えて、ご飯をもくもくと口に運んだ。

(変だ。やっぱり、おかしい)

 以前の涼は、食事中でも私の話にはいつも乗ってくれた。
 今の質問を言えば……「簡単なメニューって例えばどんなの?」とか聞いてくるはず。なのに、私の言葉などほとんど頭に入らないように流された。
 なんだか言いようもなく苦しくなって、私はご飯を残してしまった。でもせっかくケーキを買ってきてくれたんだからと、コーヒーをれる準備をする。
 ちょっと面倒だけど、やっぱり挽きたてのコーヒーのほうが美味しいから、ミルで豆を挽くことにした。
 豆が細かくくだける音が部屋に響く。そのことで、二人の間に全く会話がないことを思い知らされた。

「あのさ、さっき言ってた相談を受けてるっていう相手……誰なの?」

 涼がご飯を食べ終えるのを見計らって、私はたまらず口を開いた。
 すると、涼は茶碗を流しに置きながら、少しだけ沈黙した。

「言いたくない?」

 責めるつもりじゃないのに、言葉が鋭くなってしまう。
 そんな私を見て、涼は困ったような顔を見せた。

「いや、そうじゃなくて。言ったら、奈々が誤解するような気がして」
「誤解? 何を誤解するっていうの?」

 答えがわかっているテストを受けているような感覚で、私はそう質問する。

「前も少し言っただろ? 江藤さん……あの子に会社でのセクハラの相談を受けてるんだよ。本当にそれだけなんだけどさ、奈々もあんまりいい気はしないかなと思って。彼女にも口止めされてたし……言い出せなかった」

 言いたくなかった……という雰囲気で、涼は声を小さくした。
 涼の言葉に、私はしばらく沈黙した。
 美味しそうなケーキと湯気の立つコーヒー。普段の私なら、涼のケーキにのった苺も〝ちょうだい!〟なんて言って、甘えるのだけど……この日はとてもそんな気分になれなかった。
 せっかく涼が買ってきてくれたケーキが乾燥してゆく。そのとき涼がかすかに溜め息を漏らした。私が不愉快になるかもしれないと思ったということは、涼の中に何か後ろめたいことがあるのかもしれない。
 マユリが涼にセクハラの相談をしている。私にも同じ相談をしているというのに、何故涼にまでそんな相談をしているのか……。理由は明白だけれど、認めたくなかった。

「ねえ、誰のセクハラについて言ってた? 私も聞いてるからさ……そんなに深刻なのかな?」

 よどんだ空気を散らそうと、私はわざと明るめの声で聞いた。
 涼はケーキには全く手をつけず、コーヒーだけをすする。

「深刻だから俺なんかにも相談してるんだと思うけど。秋沢さんと梶山さん? なんか、断れない誘い方をされてるみたいで……奈々もそういうの聞いてるの?」

 私の印象では、断れないというほど困ってるようには見えなかった。ただ誘われていることをかすかに自慢したいのかな……という感じだった気がする。
 こういう見方は意地悪だろうか……女特有の意地の悪さが私にも芽生えてるんだろうか。
 そう考えると、とてもみじめな気持ちになる。

「江藤さん若いし、ノリがいいし……だから、男性社員もちょっと浮かれてるところがあるのかなと思って。江藤さんには、不用意に心の中を他人に話さないほうがいいよってアドバイスしてる」
「そうなんだ」

 口下手な涼が、マユリにそこまで丁寧な対応をしているっていうのが、かなり意外だった。

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