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5 本能の疼き

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「はあ……」

 駆け込んだ化粧室で、乱れた髪や服を整え直し、取れてしまったリップを塗る。
 でも、リップを持つ手が震えてしまってちゃんと塗れない。

(驚いた……深瀬くんが、あんなに嫉妬深いなんて)

 心臓がまだドキドキ言っていて、鎮まるまで相当な時間が必要な気がした。

 好意を寄せられるのは嫌ではない。むしろ嬉しい。
 でも、あんな情熱的に気持ちをぶつけられたことは経験がないから、それを受け入れていいのかどうかも判断がつかない。

(会社では冷静で、二人でいる時は優しくて紳士的で、少し可愛いくらい。なのに……さっきの彼はどれでもない。まるで獣みたいだった)

 体が熱くなったことは否定できない。
 それを求めてると言うのなら、彼の判断は外れていないことになる。
 でも……このままでいいんだろうか。

(週末にデートをしたら、きっと流されてしまう)

 とは思ったけれど、約束を断る理由も思い浮かばず、私は鏡の前で頭を抱えた。
***

 深瀬くんの中でも思うところがあったのか、その日の連絡はなかった。
 明日は金曜で、約束している土曜日まで後1日しかない。

(どうしよう)

 その時ちょうど着信があり、私はすぐにスマホを手にとった。
 深瀬くんかと思ったけれど、相手は美桜先輩だった。
 きっと街コンのことだろう。

(メールでは断ったけど、言葉でもちゃんと言わないといけないかな)

「もしもし」

 気が進まないながらも電話に出ると、彼女は案外機嫌が良かった。

『瑠璃ちゃん? この前は強引にごめんね~』
「あ、いえ。私こそせっかくのお誘い断ってしまって……」

 今、深瀬くんへの気持ちで揺らいでいるのに、街コンなんかにはとても参加できないと思って今日のお昼に断りのメールを入れてあったのだ。

『いいの、いいの。私、もう別の人見つけたから』
「え? 見つけた…って、恋人ですか?」
『まだ恋人じゃないんだけど、一応連絡先までは交換できたんだ。結婚はできないけど恋人ならなれそうな人』
「……どういう意味ですか」
『だって相手は既婚者だからね」

 えっと思うことを、先輩は躊躇なく話す。
 だから私はいつも突っ込む言葉も言えず、ただ黙って聞いてしまうのだ。

『しかも彼、財閥の御曹司なのよ? 凄くない?』

 つまり、先輩は愛人候補ということだろうか。
 それでこんなに嬉しがるなんて、美桜先輩の思考回路が全く分からない。

 その彼は現在33歳の既婚者で大倉財閥の御曹司。
 日本で誰もが知っているオークラという自動車会社の次期社長になる人らしい。

(その企業って、うちの会社の一番の取引先だ。出張で何度か本社に行ったけど、すごい大きいところだったな……)

 そこまでは呆気に取られながら聞いてたものの、驚いたのはその後の話だ。

『先日私に失礼な態度だった深瀬って子いるじゃない? あの子、なんと彼の弟なのよ』
「……えっ」

(深瀬くんが?)
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