お狐さまの凶恋

絵馬堂双子

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8、返答

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 金曜日。
 咲良はまだ学校に出てこなかった。
 岡本蓮は昨日のつかさの返事が待ち遠しくて、朝から何度も思わせぶりな視線を送ってきていた。
 つかさにはそれが重く感じられて仕方なかった。
 昼休み。いつもの3人で机をくっつけてお弁当を食べていると、
「つかさ。今日はどしたん?」
 と梓に訊かれた。表には出していないつもりだったが、やはり友人の目は誤摩化されないようだ。蓮はしびれを切らせて友だちとどこかに遊びに出て行って、それを確認したつかさは、まず梓に、
「梓。あんた、口は堅い?」
 と少々睨みを利かせながら訊いた。
 梓は口いっぱいにご飯を頬張り、ぐっと親指を立てた。つかさは、本当?と疑いの目を向けたが、梓の真剣なそしゃくぶりに根負けし、うつむきがちに2人の反応を見ながら小さな声で言った。
「昨日、岡本君に付き合ってくれって告白された」
 梓が一生懸命ひゅーひゅー言おうとするのを「やめろ」と制しつつ、文音に訊いた。
「どう……かな?」
「どう、って」
 文音は肩をすくめた。
「そんなの当人の好き嫌いでしょうが。つかさ、岡本君のこと、好きなんでしょう?」
「うん、まあ、そうなんだけど……」
 つかさは困ってしまって、恨めしそうに文音を睨んだ。
「好きだけど、どうなの? ライバルの伊集院さんがいない時に告白されたのが気になる? 岡本君にどこか信じられないところがある?」
「うーん……」
 文音の鋭い指摘につかさは、やっぱりそうなんだよなあ……、とため息をつきたくなって、ちょっと悲しくなった。ごくん、とご飯を飲み込んだ梓が、
「つかさはかっこいい男の子が好きなんだもんなあ」
 と、これまた親しい友だちならではの的確な評価を下し、ますますつかさをへこませた。文音がそうそうとうなずき、
「つかさが恋に対して少女マンガのヒロインみたいにアグレッシブなど根性を持っているならいいけど……」
 と、真面目な目を向けた。
「そうでないなら、友だちとして、あんまり岡本君はお勧め出来ないかなあ」
「そうなの?」
 文音は岡本蓮と同じ中学の出身だ。
「つかさもやっぱり伊集院さんのことを気にしてるんでしょ?」
「うん……」
 文音はううんとうなって、言おうか言うまいか迷って、決心した。
「わたしの岡本君への評価はね、打算的で小狡い男子、ってとこね」
 思った以上に辛辣な言い方につかさは目をぱちくりさせた。文音はもう思い切って続けた。
「つかさは多分、滑り止めの滑り止めって扱いね。
 4組の美尾みのお亜弓さんって知ってる?」
「知ってる。美人よね?」
「うん。伊集院さんと張り合うレベルの美人よね。しかも1年生にして水泳部のエース。ま、中身に関しては伊集院さんじゃあ太刀打ち出来ないわね。性格もいいみたいだし」
 はは、とつかさは情けなく笑った。
「1組の稲葉君って知ってる?」
「うーん、知らない」
「岡本君が中学時代から張り合ってるサッカー部のライバルなんだけどね。どうも稲葉君、美尾さんとお付き合いを始めたらしいの。ビッグカップルの誕生に周囲の男女は大騒ぎで、つまり、岡本君は失恋したってわけね」
 つかさはすっかり食欲がなくなってしまった。
「伊集院さんが病気にならなかったら、どうだったのかなあ……。美尾さんに張り合えるのはやっぱり伊集院さんよね? でも、本命はあくまで美尾さんで……、伊集院さんはああいう女の子じゃない? あんまり普段から気のあるそぶりを見せていると、本気で迫ってこられるかも知れない、それは困る、保険としてほどほどの距離を保っておきたい、そこで、利用されていたのが、あなた、つかさだった、……と、わたしは見てるんだけど」
「文音え、ひどいよ」
「ごめん。でも、女の子によっては、それもチャンスだ、って思うかも知れないじゃない? まあ、つかさはそういうタイプじゃないと思うんだけど……」
 つかさは箸を動かして、再びお弁当を食べ始めた。のどがつかえてなかなか飲み込めなかったけれど、意地で食べ続けた。
 岡本君はぜんぜん本気じゃないんじゃないか、という疑念は以前からあった。本命の伊集院さんに焼きもちを焼かせるための出しに使われてるんじゃないか、と。
 まさか更に本命がいたとは。
 やっぱり、腹が立つ。
「ごちそうさま」
 黙々食べ続けて、お母さんの作ってくれたお弁当を完食した。
「あー、胸焼けがするう」
 文音と梓はずっとつかさを見守っていた。つかさは2人に、へにゃっ、とつぶれた笑いを見せた。
「もういいや。わたしもそんなに本気で好きだったわけでもないから。かっこいいなあ……、って、見た目に憧れてただけだからね、あんまり岡本君のこと、悪くも言えないや」
 つかさは清々したように伸びをした。
「ま、ドキドキ出来て、得した、と思っておこう。うん」
 梓がケラケラ笑った。
「つかさあ。いい女じゃん」
 文音も力を込めてうなずいた。
「うん、つかさはいい女だ。うちのクラスで伊集院さんの次に美人だ」
「嬉しくない! ……いや、そこそこ嬉しい……かな?」
 3人で笑った。つかさは本当に気分が晴れたように思った。


 放課後。
 授業が終わって早々、つかさは教室出口に向かい、視線で追ってくる岡本に、来て、と指で合図を送りつつ廊下に出た。
 つかさは屋上に向かう面倒はせず、渡り廊下の真ん中まで来て岡本を待った。
 岡本はやってくると通行人を気にしつつ、窓際でつかさと向かい合った。
「返事、聞かせてくれる?」
 癖の強い、つややかな黒髪。濃い眉。輪郭のくっきりした、端の切り上がった目に、黒真珠のように輝く瞳。すっと鼻梁の通った鼻に、形のいい厚い唇。すっとシャープな顎の線。つかさはおよそ60センチの距離で岡本の顔を見上げ、やっぱりかっこいいなあ、と思った。男らしい端正な顔に、ちょっぴり眉の下に不安の陰を作りながら、内からあふれる歓びを隠せず少年のように頬を上気させている。
「岡本君。ごめんなさい」
「え?」
 つかさが下げた頭を上げると、岡本は、今聞いたのは何かの間違いじゃないかと、無理矢理怪訝そうな笑顔を作っていた。
「やっぱりわたし、岡本君とはお付き合い出来ません。ごめんなさい。
 明日、伊集院さんのお見舞いに行ってきます。……えーと、一応、いっしょに神社巡りした、お友だちだから」
 つかさはもう一度、ごめんなさい、と頭を下げて、岡本とすれ違うようにしながら、小走りに教室へ向かった。
 わあ、言っちゃったあ、岡本君を振っちゃったあ、と思いつつ、自分でも意外に思うほど、気持ちは冷静だった。

 文音は図書委員で、今週は貸し出し係の当番に当たっていた。
 通常、昼休み、放課後以外、図書館は鍵がかかっていて、授業で必要な場合は準備室の司書の先生に開けてもらうか、留守の場合は教務室から鍵を借りてこなければならない。
 この日、司書の先生は会議で出張で、図書委員も一々教務室へ鍵を取りに行かなければならなかった。
 放課後、2年生の委員からその役目を仰せつかっていた文音は、授業が終わるとすぐに教務室へ向かった。
 近くの席の先生に断って、貸し出しノートに記入して、ガラスのケースから鍵を受け取って、図書館に向かった。
 教務室はA棟の1階で、図書館はその2階だった。
 廊下を歩きながら、文音は考えていた。
 つかさに余計なことを言ってしまっただろうか?
 言ったことに嘘はないけれど、それが良かったのかは、迷う。
 岡本君が恋いこがれる彼女に失恋して、ライバルへの対抗心という決して褒められたものではない動機からつかさとお付き合いしようとしたにしてもだ、
 つかさはいかにも女の子らしいかわいさを持った、いい子だ。
 付き合い始めたら、そのかわいさに、岡本君も本当の本気になってしまうかも知れない。いや、きっとそうなるんじゃないかと思う。だったら、
 やっぱり余計なおせっかいだったかなあ……
 と、思うのだ。
 階段を前にして、ふと立ち止まった。
 ひょっとして、わたし、嫉妬してる?
 ちょっと考えて、
 ないない、
 と苦笑いした。
 2人が付き合えば、いっときは盛り上がるだろう。でも、あの岡本君のことだ、じきにまた美尾さんへの未練がぶり返して、つかさを悲しませることになるだろう。うん、岡本君の正体を暴露したのは、友として、間違ってなかった。
 そう確認して、文音は階段を上がり始めた。
 たまたまそのとき、階段には誰もいなかった。
 踊り場にさしかかった時だ、
「文音」
 と、背後から呼びかける声がした。
 聞き慣れた声に、立ち止まって、振り返ったが、階段には誰もいなかった。
 おかしいなあ、と思って、その先に交差する廊下も眺めたが、それらしい姿は見受けられなかった。
 空耳かなあ、と小首をかしげて、前に向き直った。
 目の前に人影があって、ギクッと驚いた。踊り場の上の窓の明かりを背後に受けて、人影はまさしく影になっていたが。
 ドン、と、突き出された手に胸を押され、文音は後ろへひっくり返った。視界が上へ流れ、慌てて体を後ろへ反転させて、足場を求めて足をさまよわせたが、勢いに追いつかず、段の端につま先を引っかけてしまい、体をかばって腕から転落した。
 ダダダダダン、と左前腕をしたたかに打ちながら、体全体に連続する衝撃を受けながら、廊下まで滑り落ちた。
 打った腕と、腰と、腿とひざが、ものすごく痛くて、文音は体を丸め、声も出せずに泣いた。
 だが、痛みに泥のように沈み込もうとする気持ちを鼓舞して、キッと、恨みの涙に濡れた目を上に向けた。
 さっと、人影は踊り場から上の階段へ逃れていった。


 教室に帰ったつかさは、梓と2人、まっすぐ帰ろうか、何かして遊ぼうか、相談していた。2人とも部活には入っていなかった。
 廊下から騒ぎが聞こえてきて、教室に駆け込んできた女子が、つかさと梓を見つけると、こわばった顔で言った。
「たいへんだよ、奥村さんが階段から落ちたって!」
「文音が!」
 つかさと梓は教えられた現場に走った。教室のあるB棟2階から、A棟2階の図書館へ向かって渡り廊下を走った。図書館手前の階段から文音が転落した。
 階段付近には10人ほどの生徒が集まって、下を覗いていた。それを
「ごめんなさい、ちょっと通して」
 と、かき分け、踊り場まで出て下の廊下を見た。
 白衣を着た保健室の先生がしゃがみ込み、その前に文音が向こうを向いて寝ていた。男性の教師が2人いて、踊り場に出てきたつかさたちを恐い顔で、
「こら、下りてくるな」
 と制した。保健室の先生の、
「救急車をお願いします」
 の言葉につかさの心臓は破裂しそうに大きく鳴った。教師の1人が廊下の先の教務室に走り、周りに集まっていた生徒たちは不安そうな顔で教師と文音とを見比べた。
 入れ違いにつかさたちの担任の松村先生が慌てた様子でやって来て、保健室の先生にけがの具合を尋ねた。
 松村先生がつかさたちに気づいて顔を上げた。
「お、畑中、金井」
 その声が聞こえたのか、文音が向こうを向いていた顔を、不自由そうに肩を動かしながら、上に向けた。
 つかさは、
「文音。無理しないで」
 と、静かな声で呼びかけた。文音は小さくうなずき、また向こうを向いた。
 じりじりと不安な時間が過ぎ、10分ほどして、救急車のサイレンが聞こえてきて、鼓膜に突き刺さるほど大きくなったかと思ったら、ピタッと止まった。静寂の中、パタパタと忙しい足音をさせて救急隊員がやってきた。その場で文音を診察して、文音の転げ落ちた階段を見上げ、病院への搬送を決めた。無線で病院の手配を要請し、文音を担架に乗せて運んでいった。松村先生が同行し、クラスの生徒のことを思い出し、
「心配するな。大丈夫だから」
 と、どの程度根拠があってのことか分からないけれど、2人に声をかけていった。


 夜になって、文音のお母さんからつかさの家に電話があった。文音は検査の結果、打撲と足の軽いねんざだけで、骨折もしていなくて、大したけがではないから、どうぞ安心してください、とのことだった。文音が、つかさが心配しているだろうからと、お母さんに頼んで電話してもらったのだろう。
 電話に出たお母さんから伝言を聞いて、つかさはほっとした。
 よかった、と安心したが、どうしても気になることがあった。
 階段から落ちたと聞いて駆けつけて、松村先生の声で2人がいることに気づいて顔を上げた時、ほんの一瞬ではあったけれど、どうして文音は、あんなに恐い目で自分を見たのだろう?
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