お狐さまの凶恋

絵馬堂双子

文字の大きさ
上 下
9 / 27

9、押し売り

しおりを挟む
 つかさは普段、夜11時に寝るようにしていた。ついネットの動画を見たくなってしまうのだが、パソコンのブルーライトは睡眠の妨げになると言うことだから、できるだけ見ないように我慢していた。
 この日も10時以降はノートパソコンを閉じ、軽い日常ファンタジーのマンガを読んで過ごしていた。
 11時が近くなって、切りのいい所でマンガを閉じ、トイレに行ってくると、ベッドに横になり、スマホをブルートゥースでシステムコンポに接続し、音を絞って音楽を流した。ピアノとオーケストラの、さらさらとせせらぎのように、内容的になんの引っかかりもない、表面的にひたすら綺麗で心地よいニューエイジ・ミュージックだ。
 明日は土曜で学校は休みで、早く眠る必要もないのだが、岡本に宣言してしまった手前、伊集院咲良のお見舞いに行かねばならない。あんまり早く行っても迷惑だろうから、午後1時半くらいにうかがうのがちょうどいいだろうと思うのだが。
 お土産にケーキでも買って、昼前、10時半くらいに行こうと思っている。長居はしたくないし、きっと伊集院さんも自分に会いたくないだろうと思う。多分、玄関でお母さんに挨拶して、お見舞いを渡して、そこで辞去することになるだろう。
 気の毒な伊集院さん。
 よりにもよって、神社巡りをしてきた後で、皮膚病にかかってしまうなんて。なにより美貌を自慢にしている彼女には堪え難い仕打ちだろう。きっと神様を恨んでいるに違いない。
 伊集院さんは岡本君と恋仲になれるようにお願いしたんだろうなあ。
 きっと、心底恨んでいることだろう。
 神経が高ぶって、とても眠れそうにない。ちょっと音楽のボリュームを上げた。
 明日のお見舞いと共に気がかりなのが、文音の容態だ。すごく痛そうだった。お母さんの電話では、打撲程度で、たいしたことないと言うことで、きっとそうなのだろう……
 打撲って、どれくらい上から転げ落ちたのだろう?
 上の方から廊下まで転げ落ちるって、いったいどうしてそんなことになったのだろう?
 いったいどうして、自分をあんな恐い目で見たのだろう?
 自分はあの時、踊り場にいた。ひょっとして、踊り場にいた誰かに突き飛ばされたんじゃ?
 恐怖に目を見開いた文音の胸を、ドン、と突く手が見えた気がして、つかさはハッとした。
 眠れそうにないと思いながら、いつの間にか音楽の催眠術にはまってうとうとしていたらしい。
 胸がドキドキ鳴っている。
 祟りって、あるのだろうか……
 伊集院さんにしろ、文音にしろ、偶然の病気や事故だろうと思う。
 神様の祟りだなんて、馬鹿馬鹿しい。
 だいたいなんで2人が罰を下すようなことをされなければならない?
 何か失礼でもあったのだろうか?
 だいたい神様なんて、一生懸命お願いしたからって、誰でも願い事が叶えてもらえるわけでもないし。ちょっと女子高生が作法がなっていなかったにしたって、そんなことで怒って罰を下すなんて、あんまりじゃないか? 文音はあの通りいい子だし、伊集院さんなんて、思いっきり一生懸命神様にお願いしていそうじゃないか?
 そんな2人が罰を下されるなんて、やっぱり考えられない。
 そうだ、やっぱり不幸な偶然なのだ。
 文音のけがはたいしたことないし、伊集院さんの皮膚病は……、あの伊集院さんだもの、湿疹なんかが出たのを大げさに気にしているだけなんじゃないだろうか? 人の噂なんて、面白おかしく大げさに言って、それが一人歩きしているだけなんだろう。
 なーんだ、と、じきに笑い話になってしまうに違いない……


 どんどこ どんどこ
 ぴーひゃららら

 和太鼓に、横笛?
 こんな音楽、スマホに入っていただろうか?
 いつの間にアルバムが変わったのだろう? 電源が切れる設定にしていたはずなんだけど?
 軽快な音楽をうるさく思いながら、おっくうにまぶたを開けると、真っ暗だった。
 黒い。
 真夜中だって、なんとなく机や本棚があるのがぼんやり感じられるものだが、そうした一切がなく、黒一色の、透明な暗がりが広がっている感じだ。
 寝ぼけ半分の頭で、ぴーひゃらぴーひゃら、音楽を聞いていると、ぼっ、と、暗がりにオレンジ色の炎がともった。左右に1つずつ、薪を寄せたかがり火が、宙に浮き上がった。
 どっ、と、不明瞭な、大勢の笑い声が響いた。
 かがり火の間に、お祭りの屋台のように、狐の面が縦横に、およそ20も、現れた。
 狐の顔はみんな、上機嫌に笑っていた。

 さてもめでたき満願成就
 惚れた男の心をものにして
 さぞや嬉しかろう嬉しかろう

 やいのやいのと大勢の浮かれ騒ぐ声。
 またあの夢か、と、つかさは不機嫌に思った。
「全然めでたくも嬉しくもありません」
 つかさはわざとむくれた声で呼びかけた。
「あなた方、なんなんですか? 酔っぱらいの中年親父たちが大挙して女子高生の夢にちん入してきて、すっごく嫌なんですけど」
 わはははは、と笑い声が響いた。つかさはうっと顔をしかめた。本当に酔っぱらい集団みたいだ。

 いや、さすがは女子高生、神を相手にずけずけ言いよるわ

「神様なんですか? なんにしても人の夢に勝手に出てきてほしくないんですけど」

 つれない女子おなごよのお
 よしよし分かった、プライベートは尊重せんとのお
 じゃあ、引き上げるとしようかの
 おお、そうそう、
 お礼参りは大事じゃぞ? それこそが肝心じゃ
 油揚げもええが、日持ちのする菓子がええのお
 和菓子もええが、どっちかってえと、洋菓子が好みじゃのお
 期待しとるでなあ。
「評価」も広げるのを忘れんようにな?
 お友だちも寄越しておくれ
 お嬢ちゃんみたいにかわいい子なら特にええのお
 期待しとるでなあ

 何勝手なことを言ってるの? と、腹が立った。
「あなた、どちらの神様です? わたし、お礼をしなくちゃならないようなこと、してもらった覚えないんですけど?」

 こらこら、何を言う?

 驚き、焦ったように言い募る。

 好きな男子といい仲になれただろうが?
 わしが縁を取り持ってやったおかげだぞ?

 つかさはすっかり冷めた調子で言ってやった。
「岡本君のことですか? 岡本君なら、お断りしました。わたしとは縁がありませんでした」
 自称神様はますます焦った。

 これこれ、困った女子じゃ 女心となんとやらと言うが、あんまり心変わりが急過ぎんか?
 ええい、とにかく、わしは望みを叶えてやったんだ、今度はそちらが誠意を見せる番じゃろうが?
 まあまあとにかく、
 お前さんの願いはかなえてやった、うん、間違いなくな。後は、お前さんの事情じゃ、うん、そこまではわしの与り知らんことじゃ、うん、そう、それはお前さんのプライバシーじゃ、わしはノータッチ。
 じゃで、お前さんの願い事に関しては、契約完了。満願成就。な?
 ちゃんとお礼をして、評判を広めて、お友だちをたくさん連れてきてちょ? わし、また張り切って、女の子たちの願い事を叶えてやるから。
 な?

「知りません」
 つかさは冷たく言った。
「まさか、伊集院さんや文音をひどい目に遭わせたのって、あなたの仕業じゃないでしょうね?」

 さあて、知らんのお
 願いの叶え方は企業秘密じゃ

「そらっとぼけてるんじゃないわよ。本当にあなたじゃないの? 神様のくせに、女の子にあんなひどいことして、信じられない。あんなことをするようなのは、邪神よ。まともな神様じゃないわ」

 ええい……
 お前、あの女を嫌っていただろう?
 友だちだって、好きな男を悪く言って、本当は腹が立っただろう?

「嫌ってたって、腹が立ったって、それでひどい目に遭えなんて思うわけないでしょう? それが普通よ。じゃなきゃ、思っただけで警察に逮捕されちゃうじゃない?」

 願いを叶えるのが神の仕事じゃ
 わしは仕事をしたのじゃ

「わたしはそんなこと、願ってません」
 神、狐の面たちは沈黙した。上機嫌に笑っていた顔が、今は困惑して、意気消沈している。
「伊集院さんと文音に謝って、神様なら、早く治してください」
 面たちは、すっかり黙り込んでしまった。
 つかさは、ちょっと言い過ぎたかしら? と思いつつ、ひどいことをしたんだから、ちょっと反省させなくちゃね、と、少しばかり得意になって面たちを眺めていた。
 すると、背中にゾクッと産毛が逆立つ感じがして、にゅうっ、と、顔の横に、白い、獣の尖った鼻先が突き出されてきた。
 獣は、男の声でしゃべった。
「おいおい、勝手が過ぎるんじゃないか?お嬢さん。人のせいに……」
 笑いを含んだ息が漏れた。
「神様のせいにするんじゃねえよ。……思ったじゃないか、ムカつく女、ひどい目に遭えばいいんだ、って」
 つかさはつばを飲み込んで、震える声で言った。
「そんなこと……」
「思ったね」
 男の声は断定し、つかさはビクリと身を震わせた。
「思っただろう?」
 記憶が、空間が、あの時あの場所へワープする。
 同じく、顔の横に鼻先を突き出されて、訊かれている。
「願い事はなんだ? 言ってみな」
 男の声が、わんわんと、頭に響いて浸透していく。
「言ってみな」
 口が動く。
「わたしの願いは、岡本蓮君と恋人になりたい。いつも意地悪する、わがままな伊集院さんは、ひどい目に遭えばいい」
 言葉を発するつかさを、未来から振り返っているつかさの心が必死になって否定した。
 違う、違う、そんなこと思ってない! そんなの本当の本心じゃない! 催眠術にかけられて、無理矢理言わされているのよ!
 くくく、と獣の鼻先が笑う。
「女ってのはまあ、ずいぶん都合良く記憶を作り替えるもんだなあ。感心するぜ。じゃあ……」
 再び時空を移動する。頭の中身が引っ張られるように、つかさはすうっと意識が冷たくなるのを感じた。
 放課後の学校。教務室から鍵を借りた文音が廊下を歩いていき、階段を上がっていく。
「文音」
 文音が小さな驚きを浮かべた顔を振り向かせる。そこに何も見えないように小首をかしげて、前に向き直る。そして、そこ、目の前、踊り場に立っているつかさにビックリする。文音は只ビックリしただけだ。まさか、その直後に自分があんなひどい目に遭うなんて思いもしない。
 やめて! とつかさは悲鳴のように叫ぶが、過去を変えることは出来ない。
 腕を突き出し、ドン、と文音の胸を突き飛ばす。
 ひっくり返って転落していく文音から、つかさは目を背けた。
 嘘だ嘘だ嘘だ! 自分がやったわけがない! いったいどうやって、こんなお化けみたいなことが出来ると言うんだ?
「願ったからさ」
 狐の鼻先が執拗にまとわりついておせっかいにも教えてやる。
「それが神の力だからな」
 再び、現在の夢の世界に戻ってきた。
 かがり火と、縦横に並んだ狐の面の背後に、あの空き地にぽつりと建っていたみすぼらしい社があった。
 とんだ疫病神に関わってしまったわ、と、つかさは激しく後悔し、いや、そうじゃない、と思い出した。
 あの男だ、狐の面を被った酔狂な男。あいつに誘い込まれたんだ。
「あなた……」
 いったい何者?、と振り返ったが、突き出されていた鼻先と、それのつながるべき本体は、真っ暗闇の中に消えていた。

 やれ嬉しや やれめでたや

 自分の汚名がそそがれた狐の面たちはまた、滑稽なほど、満面の笑みを浮かべていた。

 チョコレートが食べたいぞ クッキーが食べたいぞ キャラメルコーンが食べたいぞ
 しょっぱい菓子も食べたいぞ せんべいが食べたいぞ ポテトチップスが食べたいぞ
 焼酎入りのウイスキーボンボンが食べたいぞ 芋焼酎が飲みたいぞ 霧島が飲みたいぞ
 若い女子の参拝客でごったがえしたら、こりゃ、たまらんのお

 わはははは、とすっかり浮かれまくっている。
 つかさは込み上げてくる怒りにブルブル震えた。
「認めない! 絶対認めないから! あなたたちは神様なんかじゃないわ! よこしまな、邪神よ! まともな神様じゃないわ!」
 怒りのまま、指を突きつけて怒鳴りつけてやった。
「消えてよ! わたしの夢から出て行ってよ! この、この、三流の、疫病神!」
 やんややんやという響きが、ピタリとやんだ。
 しん、と、耳の痛くなるような静寂が支配し、つかさはひどい不安感に苛まれた。
 嫌あな予感に、恐怖を感じた。

 なんと申した

 それまでの浮かれてはしゃいだ調子とは打って変わって、低く、怒りをはらんだ声が自問するようにつぶやいた。

 その女子、なんと申した
 三流と申したか
 疫病神と申したか
 そう申したか
 願い事をしておきながら、わしに頼んでおきながら
 三流と 疫病神と
 そう申したか?

 カタカタカタカタ、と、並んだ面が小刻みに揺れ出した。
 白い肌が、桃色から、赤く染まっていき、鬼のように憤怒の顔に変わった。
 拙い、逃げなきゃ、とつかさは焦った。でも、自分の夢の中で、どこに逃げたらいいのだろう?
 かがり火に照らさし出された面と社の他は、底抜けの透明な真っ暗闇が広がるばかりで、どこを向いても、足をすくませた。
 やがて、カタカタ鳴っていた面たちが、バラバラに飛び上がると、次々につかさ目がけて勢いよく飛んできた。
「きゃあっ」
 つかさは悲鳴を上げて、手で頭と顔をかばいながら、突進してくる憤怒の面を避けて、あっちこっちへ逃げ回った。
 いったいいくつあるのか、20? 30? 面はあちこちから飛んできて、逃がすまいと、つかさを囲い込んで攻め立てた。

 この罰当たりめ
 天罰じゃ 神罰じゃ
 ええい、この
 かわいさ余って憎さ千万倍じゃ
 この この
 思い知れ!

 痛い痛い、とつかさは悲鳴を上げた。
 中身のない面にぶつかられて、本当に痛いのか分からないけれど、夢の中では確かに「痛い!」と思った。
 無我夢中で、助けを求めた。
「助けてー! 神様ー!」
 神様。皮肉で滑稽だが、夢の中で助けを求められる相手は、それ以外思いつかなかった。

 あたっ

 バシン、と何かに叩かれて、狐の面が落下した。バシン、バシン、と、空中を勢いよく飛び回る何ものかに、狐の面は次々叩き落とされていった。
 攻撃が緩んで余裕の出来たつかさはその何ものかを見てみた。
 縦横に勢い良く飛び回り、次々狐の面を撃墜しているのは、なんと、小型の「いったんもめん」だった。
 白い布だ。
 よくよく目で追って正体を見極めると、それはあの、「下町神社めぐり」スタンプラリーで景品にもらった手ぬぐいだった。
 なんてありがたい手ぬぐい様なの! と、つかさは感激して感謝した。
 あらかた撃墜されて地面に伏し、よろよろと起き上がり、宙に浮かんだ面たちは、彼らより上から睨みを利かせるように宙に立つ手ぬぐいを恨めしそうに睨み、じろり、とつかさを睨むと、

 この罰当たりめ おまえなんぞ もう知らん
 馬鹿め 馬鹿め 馬鹿め
 おまえなんぞ もう二度と願いなんぞ聞いてやるものか
 この 馬アア鹿

 と捨て台詞を残して、闇の中へ飛び去っていった。
 ふうっ、とかがり火も消えて、真っ暗になったが、心の凍えるような無の闇ではなく、ごちゃごちゃと、生活のあれやこれやの感じられる、安心出来る夜闇だった。
「神様、ありがとうございます」
 お芝居のような夢が終わり、つかさはベッドで布団のぬくもりにくるまれて、幸せな眠りに帰っていった。



 伊集院咲良の家は、萬代地区にあるつかさの家から、南門高校を挟んで、4キロほど離れた上山地区にあった。
 つかさは途中、開店間もないちょっと高級な洋菓子店でケーキを3つ買い、かごに入れて振動でつぶれたらいけないので、トートバッグを肩にかけて、ずり落ちそうになるのを直しながら、自転車をこいで行った。
 家のある通りに入り、ああ、あれだな、とあらかじめグーグルマップで調べておいた伊集院家が確認出来たところでいったん自転車を止めた。
 ごく普通の住宅街にある、ごく普通の一戸建てだ。庭木が見えているところに健全な家庭を感じた。
 気が重い。
 朝、目覚ましのアラームで目が覚めて、ああ、また変な夢を見てしまった、と思った。その時は全部自分の頭が作り出したストーリーだと思って、自分には七福神のご加護があるんだわ、と都合のいい部分だけ信じて、いい気分になっていた。手ぬぐいを出して、ははあー、と拝んだりもした。家を出発するときも軽快にこぎ出せたのだが、お土産のケーキを手持ちのお小遣いと相談してどれにしようかあれこれ迷って、いよいよ伊集院さんの家に向かうと思ったら、どんどんペダルが重くなっていった。
 決して歓迎はされないだろう。自分なんて一番お見舞いに来てもらいたくない相手だろう。それでも、美味しいケーキは、女の子だもの、喜んでくれるだろう。
 そう思ってみても、胸の内にムクムクと、黒い煙のように不安が広がって来て、心臓がドキドキして、キリキリ痛み出しもした。
 多分、まだ誰もお見舞いに来ていないだろう。全然そんな話は出ていなかったし、かつての取り巻き2人は、今や完全に独立していて、伊集院さんを過去の人扱いだ。
 そうだ、これはクラスメートとしての義務なのだ。
 そう思って、家に向かって、自転車を引いて歩き出した。
 伊集院家は表に小さな柵の扉があって、塀にインターホンがあった。
 そのボタンを押そうとした時、家の中から金切り声が聞こえた。
「もうやだ! 死にたい! 死ぬ!」
 ヒステリックな、咲良の声だった。つかさはボタンを押そうとしたポーズのまま固まってしまった。
 大人の男の人の叱りつける厳しい声が聞こえた。ああ、お父さんがいるんだ、と思った。
 喚き散らす咲良と、お母さんの泣き声。
 つかさは体が震えて来て、心臓がバグバグ鳴って、吐き気がした。
 なにこれ、
 まるで、地獄じゃない。
 自分の認識の甘さと、今朝の浮かれた気分を思い切り後悔した。
 本当に甘かった。咲良は本当に、ひどい状態なのだ。
 体の震えが止まらず、涙があふれそうになって来た。
 無理だ、絶対に家の人にも会えない。
 つかさはトートバッグをかごにつめ、そっと自転車のスタンドを上げ、Uターンすると、ハンドルを引きながらとぼとぼ歩き出した。
 鼻をすすり上げ、しゃっくりが出そうになった。少し油断すると嗚咽がせり上がって来て収拾がつかなくなりそうだった。
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返し心の中で謝った。
 咲良の病気に、自分は関係ない、とはとても思えなかった。
 自分のせいなのだろうか?
 だとしたら、どうしたらいいのだろう?
 どうしてこんなことになっちゃったの?
 神様、助けてよ、また、夢の中みたいに……
 ペダルに足を掛け、今一度、伊集院家を振り返ってみた。
 女の人が門扉に向かって立っていた。
 白いスーツ姿で、背中に流したストレートのロングヘアー。
 遠目にも都会的な、すごく綺麗な人だった。
 誰だろう? つかさはいっとき悲惨な心の内も忘れて、女の人の正体に興味を持った。
 女の人はインターホンに向かって挨拶した。
「お早うございます。お電話いたしました、海老丸本舗えびまるほんぽ白樹しらきです」
 決して大声ではないのに、ハキハキした、とても聞き取りやすい声だ。
 許可が出たようで、
「はい」
 と返事して、門扉を開けると、階段を上がって玄関に向かった。
 ちらっと、つかさの方を向いてうなずいた。
 大丈夫よ、と言っているようにつかさには思えた。きっと反対の通りの入り口から、家の前のつかさの様子を見ていたのだろう。
 やがて玄関のドアが開かれて、白樹は「失礼します」と中へ入っていった。
 つかさは考えた。
 海老丸本舗って、確か、テレビでよくCMやってる高級化粧品会社じゃなかったかな?
しおりを挟む

処理中です...