恋するピアノ

紗智

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5.国都海

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※※※日本語のせりふを「」で、英語・ドイツ語のせりふを『』で表しています。



今日は土曜日のせいか、母さんが家にいる。
昼食を終えて僕らが席を立とうとすると、母さんが突然言った。
『諒、覚。今から出掛けるから、身支度をして、辞書を持っていらっしゃい。できるだけカジュアルな格好がいいわね』
言われたとおりにしてくると、母さんは家を出て歩き始めた。
車じゃなくて、歩いて出るのは初めてだ。
ゆっくり歩いて改めて眺めると、結構面白い街並みかも知れない。
近代的な家やマンションに、ヨーロッパ風の小さな家やクールな日本家屋が混ざっている。
風景を見ているのは飽きなかったけど、僕らは行き先が気になっていた。
辞書を持ってきたということは、多分日本語の勉強につながるどこかへ行くんだろう。
でも、図書館とかで母さんが日本語を教えてくれるのなら、服装はなんでもかまわないはずだ。
映画館に行く、というのも考えられたけど、それでもやはりカジュアルな服装でなくてもいい。
母さんがやっと話し始めた。
『これから行くところは、国都海こくとかいと呼ばれている学校の、寮よ。語学ボランティア教師という名目で、あなたたちが自由に出入りしていいと許可をもらったわ』
『『寮……』』
ギムナジウムの寮みたいなものかな。
『そう、寮。ロングレッグスハウスという名前の男子寮よ。小学生、中学生、高校生が暮らす大きなところよ』
ロングレッグス、ということは、施設なんだろうか。
『教えられる英語やドイツ語はなんでも教えてあげなさい。でも、逆に日本語を盗んでくるつもりで行きなさい』
盗んで、というところが母さんらしい。
『生きた日本語が生活する、他にないくらいいいところよ』
『『うん』』
『着いたわ。ここよ』
家から20分くらい歩いたところにあったその建物は、広大な敷地を囲ったコンクリートの壁の中にあった。
聞いていたとおりに大きく、でも三階建てくらいの低層で、けっこう古そうだ。
中に入ると、母さんは受付兼事務所みたいなところで中の職員と少し話をした。
その間待ってた僕らは、とにかくきょろきょろしていた。
小さな男の子が二人通りかかって、僕らを見てものすごく驚いたような顔をして固まったが、少し経つと元気に声を掛けられた。
「こんにちは!」
知らない人に日本語の挨拶をされたのは初めてだ。
僕らもこんにちは、と日本語で元気に返したけど、すぐ二人は通り過ぎていってしまった。
他に誰か通らないかなあ、と思っていると、母さんが一人若い男の人を連れてやってきた。
母さんはその男性に日本語で何か話す。
僕らを紹介してくれているようだ。
『諒、覚』
『『はい』』
『こちらは井上正樹さん。ここで英語も教えている寮父さんよ。他の人は英語はわからないようだけど、井上さんも忙しいから頼るのは本当に困ったときだけにしなさいね』
イノウエマサキさんは、ニッコリ笑って英語で話してくれた。
『はじめまして、諒くんと覚くん。マサキです。よろしくね』
『『はじめまして。よろしくお願いします』』
ん? ……困ったとき?
母さん、何か僕らがこれから困る予定でもあるかのような言い方だけど。
『じゃあ、夕食前には迎えに来るわね』
はあっ!?
『『母さん、帰っちゃうの!?』』
『あら。来週から私は仕事へ行くって言ったでしょう? 自分たちだけで何とかしなさい』
『『はあ……』』
まあ……僕らは二人でいれば大丈夫だけどさ……。
『とりあえず、今日の目標は日本語の発音に慣れることね。一音一音が聞き取れるようになったら大したものだわ』
僕らの音に対する敏感さは、誰にも負けない自信がある。
『『……わかった』』
よろしくお願いします、とか母さんはマサキさんに言って、帰って行ってしまった。
マサキさんは僕らを寮の中に連れて行った。
廊下を歩きながら話しかけられる。
『日本語は全然できないってお母さんは言ってたけど、どう?』
『コンニチハくらいならわかります』
『ちょっと初めは大変かもしれないね。英語が話せる子は少ないから。話せる子を先に紹介するけど、僕はずっと付いていてはあげられないんだ』
『『はい』』
『とりあえずみんなに紹介するよ』
マサキさんは一つの部屋のドアを開けた。
父さんの防音室を4、5つつなげたくらいの大きな部屋に、たくさんの子どもたちがいて、思い思いのことをしていた。
ほとんどの子が黒い髪をしている。
なんだかドキドキした。
マサキさんが大きな声でみんなに話しかけた。
日本語だからよくわからないけど、僕らの名前は聞き取れたし、みんなが僕らを見ているから、紹介をしてくれているのだろう。
とにかく、日本語を聞き取れるようになろうと、聞こえてくる声に集中した。
「あれ、アツキくんいないのか?」
「タカヤセンパイとカイモノいったよ」
「そうかあ……」
マサキさんが急に英語で僕らに話しかけてきた。
『ごめん、英語ができる子が今日出掛けちゃってるみたいだ』
『『はあ……そうなんですか……』』
僕らは無意識にすごく困った顔をしていたようだ。
マサキさんはまた日本語でみんなと話し始めた。
「ほかにエイゴはなせるコいなかったっけ。どうしてキョウはコウトウブのコがいないんだ?」
「ドヨウビにコウトウブのセンパイがこんなところにいるわけないじゃん、マサキセンセイ」
「カイがいるじゃん。コウトウブのひとよりカイのほうができるだろ」
「え、ワタクシですか?」
「ああ、カイくんならはなせなくてもヒツダンできるじゃないか。じゃあ、カイくん、よろしく」
「まあ、かまいませんが」
何とか言ってる音は聞き取れるけど、意味はさっぱり分からない。
そう思っていると、マサキさんが英語で話した。
『諒くん、覚くん。窓際でパソコン触ってる子がなんとか英語わかるから。他に何か困ったら、さっき会った事務所まで来てね』
『『はい。ありがとうございます』』
そう言って、話の人物を探すと、窓際近くの机にノートパソコンを置いてその前に座っている人が、隣で本を広げている人に何かを教えているようだった。
長めの茶色の髪を、後ろでひとつにまとめている。
日本で髪の長い男性は初めて見たような気がする。
マサキさんが出て行って、しばらく僕らは立ち尽くしていた。
ただ、飛び交っている日本語に耳を傾けていた。
音自体は聞き取れそうだけれど、意味がわからないんじゃどうしようもない。
『諒くんと覚くん』
呼びかけられて、顔を向けると、さっきのパソコンの前の人がこっちを向いていた。
『『はい』』
『こちらへどうぞ。席、空いてますから』
日本語の訛りはあるけど、問題のない英語で言われてびっくりした。
僕らは言われるままに座ったけど、すぐ彼は他の子に呼びかけられて席を立ってしまった。
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