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2章
昭和六十二年二月
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少しでも「かっこいい」と呼ばれるなら、銘柄などはどうでも良かった。歩きながら、吸わずに吹かしているものは、酒店の自動販売機で買った、二百円の女性向け、カラフルなパッケージの「メロディ」だった。
空は晴れているが、気温は冷たい。整容加減が行き届いていないぼさついた髪を肩口まで伸ばし、安物のダウン、膝、腿を鋏で滅茶苦茶に切り裂き、繊維の垂れた、つんつるてんの生地の安Gパン、マジックテープの運動靴という出で立ちで、吸い方も知らない煙草を吹かしながら歩いていると、3-25の棟前に、一台の中型バイクを停め、煙草を吸って会話を盛り上がらせている、二人の少年と会った。
市の北部に位置する国道沿いの地域に百六もの住棟をそびえさせ、三千超の戸数を持つ公団の一角だった。遊歩道には自転車が走り、外周からはバイクのエンジン音が聞こえてくる。敷地の到る所には樹木、季節の草花が植えられ、居住者の目を楽しませる工夫がされているが、団地の壁には、オマンコしたい、などという卑猥な落書き、または「特攻」「参上」その他の勢力誇示がスプレーで殴り書きされている。
少年二人は、Gジャンの上に流行りのロングコート、B1ジャンパーという服装で、センスの良いパーマの髪を決めていた。
「おう、佐藤」声を掛けてきたB1ジャンパーの少年に、十七歳の求は、意気揚々とした笑顔で、煙草を挟んだ手を挙げた。
二人は、一昨年に卒業した公立中学で学年を同じくした者達で、覇気、ルックス、変形学生服の着こなしセンス、少しというよりはだいぶやんちゃな素行で、女子の人気をほしいままにするような階層の男子だった。喧嘩も強いと言われていた。
「おお、かっこいい! その長髪、そのGパン、似合うねえ!」コートの少年が、求の服装と煙草を指して上げた声は、囃すような調子が籠っていた。
「その恰好、なんだ」「ロックだよ!」「その煙草は何だ」「メロディだよ!」
二人は、腹をよじらんばかりの笑いを吐いた。
「お前ヤンキーか?」「そうだよ、ロックでヤンキーだよ! 俺、ばりばりだからよ!」「何? お前、いつからヤンキーになったの?」
口籠る求に、二人はさらに笑いを浴びせた。
回れ右して、五街区の方面へ去る求の背中に、げらげらという嘲笑と、はっきりと聞き取れる「馬鹿じゃねえの?」という言葉が届いていた。
求が煙草を吹かしている姿自体が滑稽なのであろうが、その銘柄が、タール数値の少ないメロディであることが、彼らの笑いを誘ったようだ。
求は無職だった。中学卒業後、二次試験で、県内最低の偏差値レベルと言われる私立男子高校へ入学したが、その高校をものの三ヶ月で中退し、その後、地元のクリーニング工場に就職したが、二日目の出勤前にパニックを起こして辞めることになり、それからというもの数ヶ月間、完全なプー太郎状態を続けている。
それでも、煙草代や、カセットテープ代を工面する金は持っている。唯一人の親である父親に、それらをせがんではもらっているからだ。
何気なく歩いて、煙草を踏み消し、協同生活組合のマーケットである「米原ショッピングプラザ」の支店前に来た。求の住む区域には、このショッピングプラザの本店がある。
プラザの前には、お好み焼き、フランクフルト、ソフトクリーム、クレープを売りにする小さなスナックスタンドがある。その店には、いつもと言っていいほど同じ中年の女がおり、懸命な表情でへらを回し、商品を調理している。そばでソフトクリームを舐めている、小学生の二人の少女が、故意に乱雑に切り裂かれた求のGパンの膝を見て、少しの不安を表情に浮かせていた。
「知ってる? あれ、この辺で有名な、おかしい馬鹿息子だよ」プラザ支店から出てきた壮年男二人が、声を潜めて話す言葉は、確かに求の耳に届いていた。
「元々、頭がおかしい血筋なんだよ」「そうだね、関わらないほうがいいね」老いの入口を潜り始めた齢程度をした壮年の男二人は、囁き合いながら、五街区の棟群のほうへ消えていった。
そこへ、ケース入りのエレキギターを背負った、一人の若者が来た。
髪は、この地方の町ではだいぶという以上に目立つ金髪で、黒の革ジャンパー、黒のジーンズ、底の厚い靴というウエアをしている。
「おう、佐藤」若者は、石壁に背中を預けている求に声を掛け、二人は挙手を交わした。
「何やってんだよ」「暇してるから、ちょっと散歩」「クレープ、食うか?」若者が言って、スナックスタンドへ寄った。
「クレープ二つ」若者は言い、尻ポケットから、チェーンに繋がれた財布を出し、小銭を支払った。
「俺、パンクバンドやってっからさ」「パンクとヘビメタって、どう違うんですか?」「メタルは長髪で、パンクはモヒカンかスパイク」「じゃあ、ヘビメタとヤンキーはどう違うんですか?」
禅めいた問答を繰り返すうちに、クレープが出来たと声が掛かった。
若者は名前を松村秀豊(読み:ひでとよ)という。二人の馴れ初めは、お互い中学生と小学生の時、顔を合わせるたびに秀豊が求に凄み、嚇すというコミュニケーションを振ることから始まった。彼は、別の土地から移ってきて、米原の公立校に通うようになった人間で、小学五年当時、一学年下に女子が転校してきたという話は聞いていたが、その兄である秀豊は、いつの間にかいた、という感じだった。
求の何が気になるのか、街中やショッピングプラザで顔を合わせるたびに、「てめえ、ちょっと来いよ」と凄んでくる。求はただ黙っている。そのいつもの文句に、「逃げんじゃねえ、この野郎」が加わったこともあった。
当時付き合いのあった友達が、松村に金を巻き上げられかけたと言っていた。優しい口調で少しちょうだい、と金をせがんできたが、おばさんと語彙表現されたどこかの主婦が来た途端、物凄い勢いで走って逃げた、と、その友達は言っていた。
なお、求も顔を知る松村の妹も、学年の不良グループに所属する女子で、シンナーを吸っては学校をさぼり、男と遊んでいるという噂があった。
松村は、同じ阿原中学校時代は、番長グループにいたわけではないが、標準の学生服の着こなしがルーズだったことなどから、やはり俗にいう真面目という学校生活からは弾き出されているらしいことは充分に察せられた。
なお、部活は一時期剣道部にいたようだが、卒業まで続けていたかどうかは分からない。
中学時代、いじめを理由に不登校気味だった求を、学校帰りに「頑張って学校来いよ」と励ましてくれたことで、「悪い人ではない」と思った。最近、よくこと近場で会い、話をするようになっている。松村は、求の何かが以前から気になるらしい。
中学卒業後は、求と同じく偏差値の高くない男子高へ進んだが、彼と同様に一年で中退し、その後は髪を染め、服を着崩した恰好で団地内をうろついていたが、就いている仕事など、はっきりしたことは分からなかった。
そして、近所では、素行不良児として知られている。
「お前、仕事とかしてんのか?」「俺っすか。俺、今、プー太郎です。親父に言われて、新聞の募集とか見てるんですけど、いい仕事ないから」「その頭じゃ、どこも雇ってくれねえよなあ」松村は言って、肩まで垂れた求の髪に手を伸ばし、撫でた。
クレープが出来たと声が掛かり、松村が受け取ったクレープが、求に渡された。中にバニラアイスとホイップの入ったクレープだった。
「お礼は?」何も言わずにクレープにかじりついた求に、松村が優しい抑揚で注意言を促した。
「ありがとうございます」求はクレープを咀嚼しながら、遅れて礼を述べた。
「ま、今はお互いプー太郎だな。俺もだからさ。今はな」松村は言って、自分のクレープにかぶりついた。
「お前もバンドがやりてえんじゃねえのか。だったら、仕事ぐらいしなきゃ。いい仕事がねえなんて言ってらんねえぞ」「そうですね」
二人は、子供連れの主婦達が立ち話をし、老いた人達の自転車が行き交う街並みに目を馳せながら、クレープをもしゃもしゃと食った。
「俺、知り合いがやってるドカチンで働くことになると思うからさ。金がいいんだよ。手に職にもなるしな」松村は希望を語り、食い終わったクレープの包装紙を丸めて、赤紫色のぺイブメントに投擲した。
「じゃあ、またな。これからスタジオで練習だから」松村は挙手して、終点始点のバス停へ去っていった。
求は、去っていく彼の背中を見送り、クレープの包装紙を、スナックスタンド脇のゴミ箱に捨てた。
丸めたそれを路面に投げ捨てた松村と、きちんとゴミ箱に捨てた自分の違いは、求にはよく分からなかった。
求の家は、三街区端の三階だった。
家に帰ると、リビングで父の一夫がカップそばを食べていた。テレビは、晴れの光に照らされた公園で若い男女が華やぐコークのCⅯを流していた。
「求、ご飯、食べるか」「食う‥」求が父に答えると、父の一夫は炬燵を立ち、テーブルの防虫ネットを外した。
鮭の塩焼きと、逆さに置かれたご飯茶碗と味噌汁碗がある。一夫は味噌汁の鍋が載ったガスレンジのレバーを回し、茶碗に飯をよそり、長男の前に置いた。やがて鍋の味噌汁が温まり、お玉で掬われ、求の前に置かれた。
求がおかしな箸遣いで、茶碗に顔を寄せてそれを食べ始めた時、部屋から次男である知春が出てきて、冷蔵庫からコークのスタイニーボトルを取り、父と兄を見ることもなく引っ込んだ。
彼は食品工場にアルバイト勤務しながら、通信制高校で学んでいるのだ。
知春は、必要最小限のことしか、二人の家族とは会話をしない。父、兄を軽蔑しきっていることは、いつもの表情から、すぐに覗える。
一夫は炬燵に戻り、カップそばの続きを食べ、残ったスープをシンクに捨てた。体の動きは鈍重で、年齢はまだ五十二歳だが、すでに七十代の雰囲気を漂わせている。髪は白髪で、身長は求よりも一つ低く、滲みの浮く肌は皺ばみ、見た目は老人だ。
求は感情がフラットだ。だが、弟の知春が一夫を嫌悪している心的理由は察している。五年前、母の身勝手な出奔を止められなかった。母は新興宗教に狂い、そこで知り合った男と去った。今、我孫子にいるという。
常識というものが概念外で、客観というものがその性格に存在していない、主観的思考を持つ母だった。家では夫を労ることもなく、夫が観ているテレビのチャンネルを勝手に変えてしまう。夫はそれに対し、何も言えない。いつも自分の好きな演歌のカセットテープを、近所の迷惑も顧みず、夜も大音量でかけており、それを近隣の人に注意されると、謝るどころか、意味不明な物言いの反駁を返した。また、いつか家族で飲食店に行った時は、店の中でマニキュアを塗ってシンナーの臭いを撒き、店員に注意されると怒り返し、一家ごと退店させられたものだった。
その妻をどうにも出来なかった父に、男らしさを見出していないのだ。
「お父さん、仕事、行くよ」弱い語勢の声が掛かった。求はそれには答えず、昼の主婦向け番組に虚ろな目を投げかけていた。
一夫は、市内の流通センターでパートタイムで働いている。
かちゃん、とドアの閉まる音が、寂しい響きで求の耳に入った。
求は、テーブルの食器類もそのままに自室へ行った。壁越しに、知春が英文を音読する声が聞こえ続けている。
求の部屋には、「BURRNS!」「ミュージックユース」などの雑誌が、山のように積まれ、付属のアーティストポスターが、センスなくべたべたと貼られている。メタル、パンクなどのジャンル分類はよく分からない。自分が、恰好いいものになることが出来るのなら、呼称は何でもいい。
一度でいいから、「不良」と呼ばれたい。しかし、自分の体は、細い骨格の上に皮膚が貼りついただけの、握力が左右ともに20もない、男とは呼べないものだ。つまり、男の世界に発生する荒い折衝には参加出来ない体だ。
だから、いつも大音量のロックに、独りよがりの虚勢を載せる。
ボリュームをフルにして、ラウドネスの「CRAZY DOCTOR」をかけた。パターン化した想像では、育ちの良い男女で構成されるクラシック楽団が演奏しているところへ、モヒカンや、七色の長髪をし、鋲付きレザーのウエアをまとい、チェーンを持った「ロック」達が乱入し、中年で構成された楽団員に蹴りを入れ、チェーンを振り回して威嚇して追い払い、そこでエレキギターに黒いドラムの演奏が始まるというものだった。
このイメージこそが、求が思い浮かべる、ロック。
「音、うるせえよ」隣部屋から、知春の文句が聞こえた。求はボリュームを落とさず、そのまま、舌を出し、テレビで観たヘッドバンキングを続けた。
未来、と問われると、「ロック」としか答えようがない。自分にとって最も想像が容易な彼の未来は、クラシック楽団を追い散らすモヒカンのレザー集団のようなものしか思い浮かばない。
なお、中学の時、我儘を言って父に買わせた通販のエレキギターは、今も粗末に扱われている。そのギターは、ゲージが切れたまま交換されておらず、表面に埃が生して、部屋の隅に置かれたままだった。
直接的に興味のあることには敏感に反応するが、学校の勉強を始めとする、難しいこと全般には、出来るようにするための努力への意欲がない。それに、感情原理の言動、行動。それが求という人間だった。
それが多くの者から匙を投げられ、また、馬鹿にされる原因でもあることに、彼は気づいてはいなかった。
数えるほどの友達以外の元クラスメート達は、ほとんどが、求に対して呆れの感情さえ失い、無視というスタンスを取っている。
それを何かで覆すことが出来るのなら。思いつく答えは、現実味を帯びない、漠然としたものだった。その年の流行を設定し、流す宣伝業者が、責任、リスクへの注意喚起の伴わない、夢というワードを若者達に焚きつけ、皆が挙ってそれにぶら下がる時代の真中。
それが後世に、国力の衰退を招くことを説いた者は、ほんの一部の人間だけだった。国民の義務を放棄し、気楽さだけを追究するフリーアルバイター、その次段階であるアウトソーシングの、シングルインカム分しか稼ぎ出せない労働仕様が、子を産み育てることを前提とした結婚にありつけぬ中高齢独身者を量産し、身勝手な自己中心の思考から、各種の犯罪を働いた者に衣食住を与え、それを養う刑務所の運営には、真面目な国民の血税が使われ続けた。
それを求が知る、または予測するよしもない求は、大音量のラウドネスに合わせ、実は薄々と分かっているような気もする自分の誤りを吹き飛ばすように、エアギターとヘッドバンキングを続けた。彼の頭に、現実の世界はなかった。あるものは、いかした髪、服、ギターでアクションを決めるステージの白昼夢だけだった。
それと同時に、クラシック楽団を暴力で追い散らす者達にもなりたかった。それが実体を伴わない、求の夢だった。
「うるせえな! 音、絞れよ! お前、この家に迷惑かけてんだぞ! 自覚あんのかよ!」隣部屋から響く弟の怒声に怯んだ求は、しぶしぶボリュームを落とした。ボリュームと同時に、テンションもしょぼしょぼと落ちた。
空は晴れているが、気温は冷たい。整容加減が行き届いていないぼさついた髪を肩口まで伸ばし、安物のダウン、膝、腿を鋏で滅茶苦茶に切り裂き、繊維の垂れた、つんつるてんの生地の安Gパン、マジックテープの運動靴という出で立ちで、吸い方も知らない煙草を吹かしながら歩いていると、3-25の棟前に、一台の中型バイクを停め、煙草を吸って会話を盛り上がらせている、二人の少年と会った。
市の北部に位置する国道沿いの地域に百六もの住棟をそびえさせ、三千超の戸数を持つ公団の一角だった。遊歩道には自転車が走り、外周からはバイクのエンジン音が聞こえてくる。敷地の到る所には樹木、季節の草花が植えられ、居住者の目を楽しませる工夫がされているが、団地の壁には、オマンコしたい、などという卑猥な落書き、または「特攻」「参上」その他の勢力誇示がスプレーで殴り書きされている。
少年二人は、Gジャンの上に流行りのロングコート、B1ジャンパーという服装で、センスの良いパーマの髪を決めていた。
「おう、佐藤」声を掛けてきたB1ジャンパーの少年に、十七歳の求は、意気揚々とした笑顔で、煙草を挟んだ手を挙げた。
二人は、一昨年に卒業した公立中学で学年を同じくした者達で、覇気、ルックス、変形学生服の着こなしセンス、少しというよりはだいぶやんちゃな素行で、女子の人気をほしいままにするような階層の男子だった。喧嘩も強いと言われていた。
「おお、かっこいい! その長髪、そのGパン、似合うねえ!」コートの少年が、求の服装と煙草を指して上げた声は、囃すような調子が籠っていた。
「その恰好、なんだ」「ロックだよ!」「その煙草は何だ」「メロディだよ!」
二人は、腹をよじらんばかりの笑いを吐いた。
「お前ヤンキーか?」「そうだよ、ロックでヤンキーだよ! 俺、ばりばりだからよ!」「何? お前、いつからヤンキーになったの?」
口籠る求に、二人はさらに笑いを浴びせた。
回れ右して、五街区の方面へ去る求の背中に、げらげらという嘲笑と、はっきりと聞き取れる「馬鹿じゃねえの?」という言葉が届いていた。
求が煙草を吹かしている姿自体が滑稽なのであろうが、その銘柄が、タール数値の少ないメロディであることが、彼らの笑いを誘ったようだ。
求は無職だった。中学卒業後、二次試験で、県内最低の偏差値レベルと言われる私立男子高校へ入学したが、その高校をものの三ヶ月で中退し、その後、地元のクリーニング工場に就職したが、二日目の出勤前にパニックを起こして辞めることになり、それからというもの数ヶ月間、完全なプー太郎状態を続けている。
それでも、煙草代や、カセットテープ代を工面する金は持っている。唯一人の親である父親に、それらをせがんではもらっているからだ。
何気なく歩いて、煙草を踏み消し、協同生活組合のマーケットである「米原ショッピングプラザ」の支店前に来た。求の住む区域には、このショッピングプラザの本店がある。
プラザの前には、お好み焼き、フランクフルト、ソフトクリーム、クレープを売りにする小さなスナックスタンドがある。その店には、いつもと言っていいほど同じ中年の女がおり、懸命な表情でへらを回し、商品を調理している。そばでソフトクリームを舐めている、小学生の二人の少女が、故意に乱雑に切り裂かれた求のGパンの膝を見て、少しの不安を表情に浮かせていた。
「知ってる? あれ、この辺で有名な、おかしい馬鹿息子だよ」プラザ支店から出てきた壮年男二人が、声を潜めて話す言葉は、確かに求の耳に届いていた。
「元々、頭がおかしい血筋なんだよ」「そうだね、関わらないほうがいいね」老いの入口を潜り始めた齢程度をした壮年の男二人は、囁き合いながら、五街区の棟群のほうへ消えていった。
そこへ、ケース入りのエレキギターを背負った、一人の若者が来た。
髪は、この地方の町ではだいぶという以上に目立つ金髪で、黒の革ジャンパー、黒のジーンズ、底の厚い靴というウエアをしている。
「おう、佐藤」若者は、石壁に背中を預けている求に声を掛け、二人は挙手を交わした。
「何やってんだよ」「暇してるから、ちょっと散歩」「クレープ、食うか?」若者が言って、スナックスタンドへ寄った。
「クレープ二つ」若者は言い、尻ポケットから、チェーンに繋がれた財布を出し、小銭を支払った。
「俺、パンクバンドやってっからさ」「パンクとヘビメタって、どう違うんですか?」「メタルは長髪で、パンクはモヒカンかスパイク」「じゃあ、ヘビメタとヤンキーはどう違うんですか?」
禅めいた問答を繰り返すうちに、クレープが出来たと声が掛かった。
若者は名前を松村秀豊(読み:ひでとよ)という。二人の馴れ初めは、お互い中学生と小学生の時、顔を合わせるたびに秀豊が求に凄み、嚇すというコミュニケーションを振ることから始まった。彼は、別の土地から移ってきて、米原の公立校に通うようになった人間で、小学五年当時、一学年下に女子が転校してきたという話は聞いていたが、その兄である秀豊は、いつの間にかいた、という感じだった。
求の何が気になるのか、街中やショッピングプラザで顔を合わせるたびに、「てめえ、ちょっと来いよ」と凄んでくる。求はただ黙っている。そのいつもの文句に、「逃げんじゃねえ、この野郎」が加わったこともあった。
当時付き合いのあった友達が、松村に金を巻き上げられかけたと言っていた。優しい口調で少しちょうだい、と金をせがんできたが、おばさんと語彙表現されたどこかの主婦が来た途端、物凄い勢いで走って逃げた、と、その友達は言っていた。
なお、求も顔を知る松村の妹も、学年の不良グループに所属する女子で、シンナーを吸っては学校をさぼり、男と遊んでいるという噂があった。
松村は、同じ阿原中学校時代は、番長グループにいたわけではないが、標準の学生服の着こなしがルーズだったことなどから、やはり俗にいう真面目という学校生活からは弾き出されているらしいことは充分に察せられた。
なお、部活は一時期剣道部にいたようだが、卒業まで続けていたかどうかは分からない。
中学時代、いじめを理由に不登校気味だった求を、学校帰りに「頑張って学校来いよ」と励ましてくれたことで、「悪い人ではない」と思った。最近、よくこと近場で会い、話をするようになっている。松村は、求の何かが以前から気になるらしい。
中学卒業後は、求と同じく偏差値の高くない男子高へ進んだが、彼と同様に一年で中退し、その後は髪を染め、服を着崩した恰好で団地内をうろついていたが、就いている仕事など、はっきりしたことは分からなかった。
そして、近所では、素行不良児として知られている。
「お前、仕事とかしてんのか?」「俺っすか。俺、今、プー太郎です。親父に言われて、新聞の募集とか見てるんですけど、いい仕事ないから」「その頭じゃ、どこも雇ってくれねえよなあ」松村は言って、肩まで垂れた求の髪に手を伸ばし、撫でた。
クレープが出来たと声が掛かり、松村が受け取ったクレープが、求に渡された。中にバニラアイスとホイップの入ったクレープだった。
「お礼は?」何も言わずにクレープにかじりついた求に、松村が優しい抑揚で注意言を促した。
「ありがとうございます」求はクレープを咀嚼しながら、遅れて礼を述べた。
「ま、今はお互いプー太郎だな。俺もだからさ。今はな」松村は言って、自分のクレープにかぶりついた。
「お前もバンドがやりてえんじゃねえのか。だったら、仕事ぐらいしなきゃ。いい仕事がねえなんて言ってらんねえぞ」「そうですね」
二人は、子供連れの主婦達が立ち話をし、老いた人達の自転車が行き交う街並みに目を馳せながら、クレープをもしゃもしゃと食った。
「俺、知り合いがやってるドカチンで働くことになると思うからさ。金がいいんだよ。手に職にもなるしな」松村は希望を語り、食い終わったクレープの包装紙を丸めて、赤紫色のぺイブメントに投擲した。
「じゃあ、またな。これからスタジオで練習だから」松村は挙手して、終点始点のバス停へ去っていった。
求は、去っていく彼の背中を見送り、クレープの包装紙を、スナックスタンド脇のゴミ箱に捨てた。
丸めたそれを路面に投げ捨てた松村と、きちんとゴミ箱に捨てた自分の違いは、求にはよく分からなかった。
求の家は、三街区端の三階だった。
家に帰ると、リビングで父の一夫がカップそばを食べていた。テレビは、晴れの光に照らされた公園で若い男女が華やぐコークのCⅯを流していた。
「求、ご飯、食べるか」「食う‥」求が父に答えると、父の一夫は炬燵を立ち、テーブルの防虫ネットを外した。
鮭の塩焼きと、逆さに置かれたご飯茶碗と味噌汁碗がある。一夫は味噌汁の鍋が載ったガスレンジのレバーを回し、茶碗に飯をよそり、長男の前に置いた。やがて鍋の味噌汁が温まり、お玉で掬われ、求の前に置かれた。
求がおかしな箸遣いで、茶碗に顔を寄せてそれを食べ始めた時、部屋から次男である知春が出てきて、冷蔵庫からコークのスタイニーボトルを取り、父と兄を見ることもなく引っ込んだ。
彼は食品工場にアルバイト勤務しながら、通信制高校で学んでいるのだ。
知春は、必要最小限のことしか、二人の家族とは会話をしない。父、兄を軽蔑しきっていることは、いつもの表情から、すぐに覗える。
一夫は炬燵に戻り、カップそばの続きを食べ、残ったスープをシンクに捨てた。体の動きは鈍重で、年齢はまだ五十二歳だが、すでに七十代の雰囲気を漂わせている。髪は白髪で、身長は求よりも一つ低く、滲みの浮く肌は皺ばみ、見た目は老人だ。
求は感情がフラットだ。だが、弟の知春が一夫を嫌悪している心的理由は察している。五年前、母の身勝手な出奔を止められなかった。母は新興宗教に狂い、そこで知り合った男と去った。今、我孫子にいるという。
常識というものが概念外で、客観というものがその性格に存在していない、主観的思考を持つ母だった。家では夫を労ることもなく、夫が観ているテレビのチャンネルを勝手に変えてしまう。夫はそれに対し、何も言えない。いつも自分の好きな演歌のカセットテープを、近所の迷惑も顧みず、夜も大音量でかけており、それを近隣の人に注意されると、謝るどころか、意味不明な物言いの反駁を返した。また、いつか家族で飲食店に行った時は、店の中でマニキュアを塗ってシンナーの臭いを撒き、店員に注意されると怒り返し、一家ごと退店させられたものだった。
その妻をどうにも出来なかった父に、男らしさを見出していないのだ。
「お父さん、仕事、行くよ」弱い語勢の声が掛かった。求はそれには答えず、昼の主婦向け番組に虚ろな目を投げかけていた。
一夫は、市内の流通センターでパートタイムで働いている。
かちゃん、とドアの閉まる音が、寂しい響きで求の耳に入った。
求は、テーブルの食器類もそのままに自室へ行った。壁越しに、知春が英文を音読する声が聞こえ続けている。
求の部屋には、「BURRNS!」「ミュージックユース」などの雑誌が、山のように積まれ、付属のアーティストポスターが、センスなくべたべたと貼られている。メタル、パンクなどのジャンル分類はよく分からない。自分が、恰好いいものになることが出来るのなら、呼称は何でもいい。
一度でいいから、「不良」と呼ばれたい。しかし、自分の体は、細い骨格の上に皮膚が貼りついただけの、握力が左右ともに20もない、男とは呼べないものだ。つまり、男の世界に発生する荒い折衝には参加出来ない体だ。
だから、いつも大音量のロックに、独りよがりの虚勢を載せる。
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このイメージこそが、求が思い浮かべる、ロック。
「音、うるせえよ」隣部屋から、知春の文句が聞こえた。求はボリュームを落とさず、そのまま、舌を出し、テレビで観たヘッドバンキングを続けた。
未来、と問われると、「ロック」としか答えようがない。自分にとって最も想像が容易な彼の未来は、クラシック楽団を追い散らすモヒカンのレザー集団のようなものしか思い浮かばない。
なお、中学の時、我儘を言って父に買わせた通販のエレキギターは、今も粗末に扱われている。そのギターは、ゲージが切れたまま交換されておらず、表面に埃が生して、部屋の隅に置かれたままだった。
直接的に興味のあることには敏感に反応するが、学校の勉強を始めとする、難しいこと全般には、出来るようにするための努力への意欲がない。それに、感情原理の言動、行動。それが求という人間だった。
それが多くの者から匙を投げられ、また、馬鹿にされる原因でもあることに、彼は気づいてはいなかった。
数えるほどの友達以外の元クラスメート達は、ほとんどが、求に対して呆れの感情さえ失い、無視というスタンスを取っている。
それを何かで覆すことが出来るのなら。思いつく答えは、現実味を帯びない、漠然としたものだった。その年の流行を設定し、流す宣伝業者が、責任、リスクへの注意喚起の伴わない、夢というワードを若者達に焚きつけ、皆が挙ってそれにぶら下がる時代の真中。
それが後世に、国力の衰退を招くことを説いた者は、ほんの一部の人間だけだった。国民の義務を放棄し、気楽さだけを追究するフリーアルバイター、その次段階であるアウトソーシングの、シングルインカム分しか稼ぎ出せない労働仕様が、子を産み育てることを前提とした結婚にありつけぬ中高齢独身者を量産し、身勝手な自己中心の思考から、各種の犯罪を働いた者に衣食住を与え、それを養う刑務所の運営には、真面目な国民の血税が使われ続けた。
それを求が知る、または予測するよしもない求は、大音量のラウドネスに合わせ、実は薄々と分かっているような気もする自分の誤りを吹き飛ばすように、エアギターとヘッドバンキングを続けた。彼の頭に、現実の世界はなかった。あるものは、いかした髪、服、ギターでアクションを決めるステージの白昼夢だけだった。
それと同時に、クラシック楽団を暴力で追い散らす者達にもなりたかった。それが実体を伴わない、求の夢だった。
「うるせえな! 音、絞れよ! お前、この家に迷惑かけてんだぞ! 自覚あんのかよ!」隣部屋から響く弟の怒声に怯んだ求は、しぶしぶボリュームを落とした。ボリュームと同時に、テンションもしょぼしょぼと落ちた。
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