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前略 孤島より
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中世の古戦場であり、田畠、自然林を伐採して国道が通り、その脇にそびえ広がる公団。経済の成長期には、都心通勤者のベッドタウンと呼ばれたこの公団は、私が生まれた年度に造成され、乳飲み子がいる若夫婦からの入居が始まった。団地とは夢の住居、という思いのイメージングが、まだほくほくたる余韻を残していた頃だった。
各々の家庭の福韻たる幸せがある一方、この国の社会は禍々と騒乱していた。ジャック、爆破、乱射でその動乱を起こしていた者達は、今やその正体が、人の理想とは程遠いものであるとはっきりと分かっているイデオロギーに、ただ自己の存在目的のみを見出して、それに酔った若者達だった。
だが、市井の風景はまだ牧歌的で、仮想敵国はせいぜいソ連、これといった外的脅威は叫ばれておらず、パンデミックもなければ、大災害リスクも、たとえるところの「親父」程度の意識留めだった。
それでもこの公団には、入居開始から何年かのうちは区域内に医療機関もなく、夜な夜な救急車のサイレンが鉄筋コンクリートの外壁にリバーブし、住民達は不安に慄いていた。食料品や日用品、薬品の買い出しは、まだ本数も少なかった路線バス、自家用車を使い、私鉄の駅を擁する隣町まで行かなくてはならず、みんな買い置き、買いだめの必要に迫られて暮らしていた。入居開始から三年目にようやくマーケット、外周外れの医院がオープンするまでは。
生前退位により令和が始まりはや数年、今、この町には、社会生活からリタイアして緩やかに死に水取りを待つ人々が、この公団始まりの時以来残存し、私がデニムの半ズボンを履いていた頃の半分以下に減った子供の姿を見るつど、その服装、遣う言葉、稚くして枯れた荒みを身に着けた態度、すでに決まった人相に、この街の「らしさ」を感じ取る。私の頃にはいなかった、アフリカ系や中央アジア系の少年少女がざらにおり、その態度は、将来は参政権まで手にするのだ、とばかりに、でかい。それはそのはずで、この公団は、人権擁護、護憲を掲げる左派政党が自治会を組織しているからだ。
私が幼児期から青春期を経て、青年期まで実家住まいをしていたこの町に戻り、すでにいくつかの春夏秋冬を越えていたが、それはそんな、残暑の厳しい日曜の昼時に起こった再会劇だった。
生協が町から撤収、老朽化して傷みに傷んだ、昔の建物をそのまま利用して営業している、経営会社の違うスーパー前で、ベンチを利用した角度付きプッシュアップの回数を、私は頭の中で七十三回数えたところだった。中年の声を聞く頃に習慣づいた隔日の日課だが、これにより、私は何とか見られる程度の体を手に入れた。骨皮の体で、いつもおどおどと他者の顔色を窺い、この街で、黄昏時から深夜にかけて、改造車両を携えて辻にとぐろを巻く連中への怯えを常に持ちながら、同時にそういった者達に対して同化願望を抱いていた。その心持ちを服、言葉、態度などの表に出すことで、それが半端者達の注意を引き、しまいに実際的な知的程度や気の弱さを露呈し、嗤われ、いじめられることになった。それらに対して採ってきた処理の手段は、性別だけがたまたま男として生まれながら、尋常な男が採るものでは到底ないそれだった。
挙動の一つごとに、弱さと愚かさが作ってきた数々の汚点をぷちぷちと潰していくイメージを込め、かつ、紅蓮の怒りを投入することもある。今の私にとり、トレーニングの時間とは、反省、内省の時間でもある。
七十四回、と脳裏にカウントの声を響かせた時、誰かが私の苗字を呼ぶ声を聞いた。それは自分の内側から響くような幻聴とも思えた。聞き覚え確かな男の声だが、その時点では、幻聴、霊聴に過ぎないものとしか捉えられず、相手にする気も起きなかった。
八十一、と声に出さず数えた時、外殻部から確かに、その声がもう一度、私を呼んだ。私はベンチの背もたれに腕を突き立てたまま、ゆっくりと顔を声のほうへ向けた。その数瞬前に、ぱっと記憶中枢に映ったものそのものの目鼻をした男が立ち、私を見ていた。
百八十越えの身長はそのままだったが、かつて筋肉質だった体には、中年の贅が載っており、顔も丸みを帯びている。特徴的な伸び方の髪は、今も豊かだが、前髪、もみ上げには白いものが混じっていた。服装のセンスは、上がTシャツ、下がそのまま寝間着に転用できるジャージのズボンだが、安全靴履きというセンスがあの頃そのままで、手には麻の袋を提げている。顔以上に、そのセンスと、髪の生え方で分かると言ってよかった。顔は、年齢相応に老けていた。
四半世紀前、あの頃の世相と言えば、タイ米。米不足が騒がれ、形、色合いともに日本のものとは違うそれをタイから分けてもらったが、有毒性があると噂され、その好意は粗末にされた。あの夏の私は、痩せっぽちの体をし、何かに怯えるおどつきと卑屈な愛想笑いを交互に繰り返す表情をした、食品会社で働くフリーターだった。
その頃、私は水曜と土曜が近づくごとに、胸にどす黒い塊が閊えたような思いになり、両耳たぶが発赤し、ちぎれんばかりにぴりぴりと痛んだ。何故なら、今、隣から私を見下ろしている男は、他人の余暇、リラクゼーションの時間、金も、私物、他物の区別がつかない男だからだ。
他人の事情や迷惑の感覚は、彼の概念にはない。それでいて、触法行為の手癖も持っている。創造性豊かな、虚実の入り混じった話は確かに面白いが、普遍的に自己の欲求が第一で、常識、衛生は思考界に存在しない人。
杉野(すぎの)。中学一年の時にクラスを同じくした時は、ある種威圧的な見た目に反して、周りに物を言うことは少なく、体が偉丈夫のわりには気が弱く、少し頭がとろい、程度の印象だった。それが中学卒業後の後年にばったり会って話し込むようになってから、私は彼に、事実上従えられたと呼べる関係性になった。それは学年の喧嘩猛者連と軍事同盟を結び、地区の有力者である父親が侠客とも五寸の関係にある人だという、「切れたら人を殺す」と振り込む、体格が自分よりも勝る男などに、当時の私は抗おうにも抗えなかったからだった。その頃、同時に私の肩に食い込んでいたものは、彼同様に軽いとは言えないハンデを持ちながら、その認定を受けていない恋人だった。福祉の拡充、啓蒙もなく、障害者は人を殺しても罪に問われないなどという間違った知識がまかり通っていたあの頃、私は片や言いなり、片やひたすら傍にいてやることで、二人の知的障害者との関係を紡いでいたのだ。
杉野は、ノーマスクの顔をにちゃりとほころばせ、三上、ともう一度私の姓を呼んだ。その顔には、普通に言うところの再会の喜びがあった。彼を避け出して二年目の夏、団地内の公園でばったりと会った時はスマイルだけを返して立ち去ったが、今回それをしまいと思った理由は、肉体鍛練が軌道に乗った頃、心に誓ったことに則ろうと意思を決めたからこそだった。
言いたいことも言わずに避ける、逃げるという対人的態度は二度と取らない、と。今、恐怖は微かに覚えているが、年輪数を持つ一人の男としていかに、という自らへの問いが、その恐怖を確かに押し戻していることが分かる。毅然。それは当たり前の一般常識。
「おう、杉野。久しぶりなんてもんじゃないよな。元気してたか」私はベンチの背もたれから半身を起こし、普通に旧友と再会した時らしい反応を努めた。顔色に拒絶は決して出すことはなく、和顔の表情を向けた。
「三上も久しぶりだな。何? 今、ここに戻って暮らしてるの?」杉野は変わらない北関東訛りで問うてきた。
「いや、今は違うよ。今、駐屯地のほうなんだ。だけど、親がまだこっちにいる関係で時玉来るんだ。今日はちょっと届け物があったからね。そのついでに筋トレしてたんだよ」私は方便を捻った。「今、仕事、何してるの?」
「障害お持ちの人が入居するグループホームの世話人、足掛け十年やって、それから特別支援学校の環境整備員やって、今、失業保険もらいながら休んでるところだね。杉野はまだ、ご実家の会社、まだ手伝ってるの?」
全くもって、何の変哲もない旧友同士の会話になり、そのやり取りにけばはない。
「俺、今、りんどう更生舎にいるんだ」こぼすように言った杉野の口許に、無念が刻まれたように見えた。
りんどう更生舎とは、市外れの、自然林が豊かな地域にある成人知的障害者の入所施設で、実はだいぶ以前に面接を受けたことがあったが不採用となり、その際に内部を見学したが、職員の表情が皆一様に暗く、殺風景な内観の上に清掃も行き届いていないように見え、利用者が生活する場所としては良いとは言えない環境だという印象を持った。ただ、基準が厳正された今は改善されている可能性もある。その施設は、男性と女性で二つの棟に分かれているが、日中の受注作業の時間は、セクション分けされた工房で男女の利用者が会し、工賃を稼ぐための仕事を行う。
「知恵遅れが集まって暮らしてる施設でさ、俺、もう二十年ぐらい入れられてるんだ。その間にお父ちゃんもお母ちゃんも死んじゃって、お姉ちゃんの所帯が新しい家建てて、旦那さんと子供二人と棲んでるのね。俺、そっちで一緒に住みたいって言ったんだけど、旦那さんが駄目だって言ったんだ。お父ちゃんの会社、その人が継いでるんだけど、うちにはもうお前にやる仕事も金もないって言われてさ。たまの土日とか、お盆とか正月の時だけ、そっちに帰ることが許されてるんだよ」
愚痴のような調子だが、その内容は間違いなく悲しみ、悔情を含むものだった。それは今の私が、曲がりなりにも福祉職員としてのキャリアを持ち、自分自身の背負うハンデも受容しているからこそ、ひとしおに分かる気持ちだ。
「大変だったね。親父さんもお袋さんも、俺、覚えてるよ。だけど俺達、もうそういう年代だものね。うちはお袋がまだ元気だけど、親父が認知を発症し始めてね。年齢的に言っても、もうそんなに長く生きるわけじゃないから、別れの準備は、もう心でしているところだよ」「三上、あの時写真見せてくれた彼女とは結婚したの?」「いや、いろいろあって、あの人とは道を分けたんだ。そのあと、年上の人とちょっと付き合ったんだけど、それも失敗して、それからずっと一人‥」私はありのままを述べた。
「そうなんだ。でも、いいじゃん。付き合ってくれる人がいただけでさ」呟いた杉野の顔に寂寥が挿した。私には彼の気持ちが手に取るように分かったが、私に恋人がいることをしきりに羨ましがり、「コンピューターで彼女を探そうかな」と明るい振る舞いで言った時のことをことを思い出した。
「俺、あれから二回、お見合いしたんだ。だけど、どっちも駄目だったんだ。俺が知恵遅れだっていうことが分かっちゃって、向こうの家から断られちゃってさ、それで、やっちゃったんだよ」その言葉を聞いた私の背筋に、不快を伴う悪寒が走り、同時に、それが軽い咎に留まるものであることを祈る気持ちが生まれた。
「寂しくて、溜まってて、もうどうしようもなくてさ、電車で触っちゃったんだ、女の子。それで刑務所には行かないで済んだんだけど、駅で、人がたくさん見てる前で顔の写真撮られて、何っていうのか分からないけど、一人の部屋に何日も泊まらされたんだ。大変だったよ。新聞に名前が載って、お父ちゃんにはすごい怒られたしさ」
おそらく、初犯扱いで拘留されたが、執行猶予がついたのだろう。もしもその頃に私がまだ傍にいたなら、という自責が一瞬涌いた。確かに健全な関係性とは呼べるものではなかった。だが、当時の私は彼にとり、傾聴役としてきちんと機能していたのだと、改めて自分で思えた。
スーパーの周りには、いつものように着回した夏服姿の老いた人の姿ばかりが目立つ。どこからか、高く張り潰した、幼ギャング達が勢力を誇示する気勢上げが聞こえてくる。私の予想では、この公団に棲むリタイア後の人々の命が尽きることでその数が減少、それに伴って、外国人が続々と入居、その子供の世代が、文化的孤立の下に非行化しいく。この街の治安は、昔も今も不安定な線がキープされているのだ。
「三上、煙草いいかな」あの頃から使い古しているボキャブラリー表現で、杉野は煙草をせがんできた。私はラッキーストライクの6ミリをウエストバッグから出し、一本抜いて杉野に差し出した。「火はある?」訊くと、彼は麻袋から百円ライターを出し、咥えた煙草に点火し、唇の端から煙を吐き出した。彼がちゃんと自分の煙草を持っていることは、あの頃から分かっていた、煙草だけではない。自分が飲むジュースを買う、また、自分が飲み食いする割り勘分も。
真後ろを、キックボードを駆る少年が二人通り過ぎた。スーパー前の老男女は、それぞれ立ち話をしていたり、杖を着いて、袋を提げて家路へ姿を遠ざけていく姿が見られる。数十匹の蝉が、誦経のような合唱を始めた。
「三上、俺、今、酒が飲みてえ」杉野は私が与えた煙草の煙を燻らせながら、不満の抑揚を含む声を搾り出した。
「りんどう、厭な所なんだよ。職員の奴らはうるせえし、飯は不味いし、酒も飲めねえしさ。昨日も作業の時間に、職員の野郎が遅いだのなんだのって、俺にうるせえこと言ってきやがってさ。そんで今朝も、お姉ちゃんの旦那からいろいろ言われるしさ。俺、今ここで誰かが喧嘩引っかけてきたら、ぼこぼこにしてるよ。いや、下手したら、殺しちまうかもしんねえよ」
日本の法律、自分の年齢、現実に刑罰を受けることの恐ろしさを、彼の薄い理性はスルーする。あの頃は勿論、令和も数年目の今も。なお、杉野の家は、言うなれば戦後成金で、昭和の桁二つの頃から、この隣の地区でネジ、バネなどの部品を製造販売する会社を経営する一族であり、彼の父親は市議会議員選への立候補歴を持つが、落選している。その父親は、杉野が言うには、空手、柔道、剣道、合気道の高段者だとのことだが、これそのものの真偽は、考えるだけ無駄だ。彼曰く、一ヶ月に数回、どこかでやくざを百人とか、暴走族を千人ぼこぼこにしているそうだが、それを誇らしげに、興奮気味に語る彼には、可愛げがあったものだった。杉野は、父親が社長をしているその部品製造会社で、ごく簡単な、業務のうちにも入らない雑務をあてがわれ、給与とは違う形態の金を支給されている「家業手伝い」の社会的身分で、もらっていた金は、一ヶ月で二、三万円程度だったと聞いている。
父親は、若い頃の写真を見る限りでは、いかにも血気盛んな押し出し者という感じがし、ひょっとしたら空手初段くらいは持っているのかもしれないと思わせた。
杉野の父親は議員選には落ちながらも、この市を経済的に潤してきた実力者であり、名士であり、その威光は、長く保たれていたと見るべきだが、この父親による「障害とは障り」に近い因信じみた考えに基づく独善が、彼に誤りの男らしさへの憧れを刷り込み、体だけを人並み以上に大きくしたのだ。
「三上、これから、まんほうで飯食わねえ?」煙草の灰を路面に落とし落とし、杉野が口にした号名は、萬宝という、古くから国道沿いに軒を構えるチェーンのラーメン店で、こしの強い太麺は、私の代が子供時分から馴染んだ味だ。
その魂胆は分かりきっており、意を得た誘いだった。時間的におそらくと、予期していた運びとなった。
「いいね。ちょうど昼飯時だし、久々に行こうか」「俺、今、苛ついてて、ばーんと切れそうなんだよ。三上、断らないでよかったな、もし、断ってたら」杉野は言って、手に提げた麻袋から一本の金槌を取り出した。
「青木啓二の脳天かち割った、伝説のハンマー‥」杉野は中年顔に悦々とした薄笑いを浮かべ、木柄の両口ハンマーを私の顔の前に掲げた。私は努めて表情を動かさなかった。柄に3の数字が書かれているこの金槌は、あの頃、会うたびに持ってきては見せびらかしたものと同一のものだ。
「行こうぜ」杉野は金槌を麻袋にしまい、投げるような口調で言って、国道の方面へ体を反転させた。
住宅街の道中では、馴染んだ先生方の出世の話題を取り止めなく話した。母校の中学で理科を教えていた先生が、後年に市内の小学校で校長になった、数学のあの先生が教育委員会の役員をしている、という内容だった。また、杉野が憧れ羨んでいた猛者連の話題になり、小学校時代、杉野がその頭に金槌を打ち下ろして血濡れの気絶に追い込んだという学年の喧嘩最強が、今、県の港湾沿いの都市で居酒屋と立ち飲み屋を経営する実業家をしており、その店が流行っているという話、その男の側近的存在だった男が、会社の社長をしているという話も聞いた。他、みんな、押し出しのいい人間になっているということだった。
虚実は著しく入り混じるが、その場の思いつきを一つの絵、一話完結の物語のようなものに昇華させ、飽きない話で場を繋ぐことが、言ってみれば即興力であり、それこそが杉野の持つ才能だと、あの頃から今に至るまで一貫して思う。不快を伴うものも少なくなく、常識的に言い、あしらうことが妥当だという話も多数あるが、これこそが彼のコーピングであり、自己のかけがえない存在主張なのだ。
副業的に働いていた小さな商店の配達に行った際、飼犬の糞だらけで、家人がみんな糞を被っていたという外国人の家の話、一人で店番をしている時、どこかの老人ホームから脱走してきたと思われる可愛らしいお婆ちゃんが来て、お金を持っていないのに声高々と「コシヒカリを下さい」などと言って引き下がらず、対応に困り果てたという話には普通に爆笑したし、お父ちゃんが家近くの畑で百人ほどのやくざと喧嘩になり、幼い杉野が固唾を飲んで見守っているところへ、お父ちゃんの友達であるやくざ親分がジェット戦闘機で助けに来て、その喧嘩を収めたという話、また、隣町の私鉄駅の立ち食いそば屋を、お父ちゃんの友達のやくざ達が占拠し、喧嘩を始めた勢いで、立ち食いそば屋が店ごと路上へ落ちてしまったという話には、ハリウッドチックなものを感じた。
彼の母校小学校を同じくし、中学では生徒会の副会長をしており、その学区のミスと呼んでも差し支えなしだった、私も知る美しい女子と、小学校時代から結婚の約束をしており、その頃から「いいこと」をしていたなどという話は、通常なら「はいはい」というところだが、知性的なだけでなく、容姿に優れ、気立てが良くて、優しく面倒見のいい彼女から、何かと世話を焼いてもらっていたことを誇張したもののはずだ。憎めない。ここまでは。
彼がマシンガントーク加減に語る、まるで現実味のない世界の話は、元々強い願望として頭の中に置いていたこと、その瞬間、頭に降ってくることを即興的に出すものとの両方に分かれ、シュールだが広がりの良い、しばしばインパクトを伴う話を形成する。
なお、義兄弟の絆と言えるまでに親しかったとされる、現在実業家であるという青木啓二とともに作ったという喧嘩の武勇伝、崇拝する父親の伝説的、神話的武勇伝、「ばーんと切れた」自分には青木やその周辺者さえもひれ伏すというシリーズは、彼の切実な訴えであり、これこそが最も聞いてほしいことなのだが、同じ臍の味を知る私には、これは良く理解出来る。
杉野の饒舌を聞きながら、そんなことを思っているうちに、横断歩道を渡りきり、萬宝の駐車場を臨んだ。
駐車場は主にワンボックスタイプのファミリーカーで埋まり、その中にトラックなどの業務用車両も目立つ。今は日曜のランチタイムであり、ある程度以上の時間は待つことになるだろう。
二十年少し前に店の外装、内装がリニューアルされた萬宝の赤暖簾、自動ドアの出入口を潜り、いらっしゃいませ、の声を受けながら中を見回すと、子供を擁する家族連れメインにテーブル、座敷席が埋まり、カウンター席は単身の来客で空きがない。
黒キャップに黒の半袖ポロシャツというユニフォーム姿をした中年の女性店員が、スタンドに置かれた用紙に来客人数と名前を書くように促した。待機席も埋まり、立っている人もいる。私達も立つことになった。
レジキャッシャーカウンターでは、小さなキャンディバーを一本づつもらった幼い姉妹らしい女の子達が、ドレスタイプのサマーワンピースの裾を翻して、小走りに出入口へ向かい、その後ろから、祖父母と、こちらよりもだいぶ若い年齢域にある両親が続いた。
「日曜だもんね。無理ないよ」私が言うと、杉野は露骨な苛立ちを顔一面に出し、周囲で座り、または立って席への案内を待つ家族連れに睨む視線を注いだ。威嚇のつもりらしい。
「うるせえな」杉野が小さく呟いて睨んだ先には、ソファに座るローティーンの少女と、小学生の少年の姉弟がいた。姉の少女が不意に出した高い笑い声が障ったらしかった。
「面白くねえな。これ以上待つとか、あんましうるせえとか、そしたら俺、ばーんと切れて、こん中の誰か殺しちまうかもしんねえよ。三上が一発殴らしてくれたら収まるかもしんねえけどさ」杉野は私の顔に視線を戻して言い、目だけが笑っていないような笑いを浮かべた。
彼がこの公共の場で漏らしたこの言葉が、今、ソファに座っている大人しそうな父親や、まだ幼い子供達の耳に届いていないことを祈った。
「日曜の昼じゃしかたないよ。夕飯時まで待たされて昼夕が一緒になっちゃうとかはないはずだからさ、気長に待とう、杉野。だから、俺を殴るとかは勘弁してよ。杉野のパンチなんか食らったら、俺なんて死んじゃうから」私は変わらない従属者の三上を努めて演じた。杉野は、ああ、と苛立たしげに返して、客席を睥睨した。
赤く塗装された壁に、トム・クルーズなどのハリウッドスターや、世界的な名声を持つミュージシャンのポートレートが飾られた店内には、ボリュームほどほどに流れるエイティーズポップに、ミドルからハイエイジの店員達が発する接客とオーダー要請、具材を炒める調理音、お玉と鉄鍋がかち合わされる乾いた音が賑々と交わっている。
ソファがちょうど二人分空き、それから十分ほど待ち、「威あって猛なし」という人物的雰囲気を持つ、眼鏡を掛けた壮年の男性店員が、私と杉野を窓際の四人掛けテーブル席に案内し、程なくして、私達を最初に接客した中年の女性がお冷を持って席に来た。
「三上、ビールいいかな」杉野はお冷が自分の前に置かればな言い、私は頷いた。「ラーメン、安いのでいいよ」と言ったが、これはすでに使い古されているまでに意味が分かる。
あの頃、彼のために使った私の給料は、それをそのまま貯金でもすれば、いくらになったことだろう。飲食代は元より、煙草の一本に至るまでたかり尽くし、付き合わされる形で市外へ出る時には、交通費、公衆電話料金まで私に支払わせ、それがさも当たり前の習慣と化していた。ただし、落ち度は私にもあってのことだったが。
あの頃の自分には二度と逆戻りしたくないという一心で、自分を変えるための活動を行ってきた。恐怖はある。威の圧迫も確かに感じている。だが、今、負けたら、これまで積み重ねてきたものが水泡に帰してしまう。
「いいんじゃないかな、好きなの飲んで食えば」私が言い、杉野は、ビール、と女性店員に注文した。店員は、ボタンをタップして、ハンディな装置に注文内容を打ち込んだ。
「あと、これ」杉野はメニュー写真のうま煮そばを指した。彼が準文盲であることを知っている。字は書けなくはないが、所々、自分の知らない字をアレンジし、漢字を作ってしまう。中学の卒業文集にはそれがもろに出ていたが、私には、彼が伝えようとするものを解読することはさほど難はなかった。それは私自身も、自分の便宜や、時に格好つけのために言葉を勝手に作ってきた人間であるため、彼のような人をよく理解出来る。それ以上でも以下でもない。
私は酒類は頼まず、味噌ラーメンをオーダーした。私達と同年配の女性店員は、オーダーを復唱して確認を取り、少々お待ち下さい、と残し、可憐な動作で席を去った。
多忙なわりにはさほど待たず、杉野の生ビールが来た。彼は不遜な表情、手つきでジョッキの柄を持ち、縁に唇を付けて、ビールを鯨飲した。
「うち、お母ちゃんが先に死んで、それからお父ちゃんが死んだんだけどさ、そん時、お父ちゃんの友達のやくざが、外車十万台ぐらいで来たんだよ。実はそん時さ、その友達の人から、組の跡目継いでくれないかって言われたんだよ」杉野の目が得意げな輝きを放ち始めた。
「その人、日本中に手下が百億人いるんだ。自分ももう若くないから、誰かすげえ喧嘩の強さ持つ奴に、組を束ねてほしかったみたいなんだ。俺、前からその人に言われてたんだ。その人ももう六十年やくざやってるけど、今も俺の目見ただけでびびりそうになるんだって。でも、俺、お父ちゃんの部品作る会社継ぎたかったから、その話、断ったんだよね。だけど、何かあったら、すぐに手下飛ばすって言ってくれたよ。そりゃそうだよな。青木啓二だって、これまで喧嘩やった奴ん中で、俺が一番怖かったって言ってるもん。ばーんと切れた俺の怖さは、どんなに喧嘩の強い奴でも恐れるって」杉野の目、口ぶりには、目の前の私も威嚇対象となっていることが表れているが、これはあの頃からのものだ。
「りんどう入る前、入ったら喧嘩出来なくなるから、喧嘩やり納めだと思って、俺、喧嘩やりまくったよ。いつだったか、ロビンフッドの前で、変なチンピラ三十人ぐらいとやった時、凄かったな。一人で三十人だぜ、三十人。俺、ばーんと切れて、そいつらのこと、ばっこんばっこんやっちまったんだよ。道が血まみれになってさ、目玉飛び出して気絶してんのもいたよ。そんで、もう向こう、すみません、すみませんっつって泣いてるのに、ばかすか、ばかすか殴って、蹴り入れて、そんで、そいつらが乗ってたバイク、片手で一台づつ掴んで引きずり回して投げたら、どっかーんって爆発してさ、キノコ雲が上がったんだぜ。半端じゃねえよ」
昼の飲食店の席で、周囲を憚ることなく、どこの世界のものとも分からない話を喜々と語る杉野の目は、爛とした輝きを見せている。
「あ、思い出した。そこへ伊佐岡が来たんだよ」杉野は笑いを新たにして手を叩いた。この伊佐岡とは、青木ともども、杉野とは小学校から同じで、中学では男子バレーボール部に所属していた、半分体育会系、半分ヤンキー系の猛者連の一人だが、当然、私が友達になれるようなタイプの人間ではなかった。勿論、接点もない。
「そいつら、目ん玉飛び出て、脳味噌も出て血まみれなのに、一人づつ引き起こして、ぱかぱかぱかーってぶん殴ってさ、腹に蹴り入れて、馬鹿野郎、てめえら、杉ちゃん怒らせたら死ぬぞ、この野郎!って怒鳴ったんだよ。あいつも今、会社の社長で家庭あるけど、やっぱり怒ると昔のあいつに帰るよな。でも、その喧嘩見て、伊佐岡もびびったって言ってたよ。そりゃ青木も伊佐岡も新沼もみんな強えけど、俺がばーんと切れたらどれだけ怖えか知ってるからさ。青木がいつも下の奴らに言ってたよ。死にたくなきゃ、ぜってえ杉ちゃんだけは怒らせんなよって」
周りの客は、私から見て前の出入口側が、小学生の兄妹を含む四人の家族連れだった。後ろは、座る際にちらりと見た限りでは、夫婦風の年配の男女だった。前に座る家族の、主人の表情が暗く、さっさと食事を済ませて会計したいという感情が見えるように思える。
「あ、そうだ、また思い出した。実はさ」杉野は声を潜めて顔を寄せてきて、照れ笑いという風な笑いを浮かせた。
「俺、殺しちまったんだよ」
その発言に正気を疑う気持ちも、別段は起こらなかった。これは彼による、限られた思考範囲、縛りくくられた語彙力の自己アピール、その一端に過ぎない。この男が自分の身丈を伸び上がらせて物を話す時は、何が飛び出してもおかしくはない。私がそう落着させることが出来るのは、社会的意味での同胞として、そう長くはないながら濃い関わりをしてきたからこそだ。
「あれ、まだお父ちゃんとお母ちゃんが生きてる頃だったな」杉野はぐいと生ビールを呷り、底を叩きつけるようにしてジョッキを置いた。
「湊町の伯母さんの家行った帰り、ちょっと困って、駅で、サラリーマンみたいな人にお願いしたのね」
それを聞いた私は合点する思いになった。あれは杉野との付き合いに嫌気が挿し、彼から逃げていくらか経った頃、私鉄駅の構内に注意喚起の貼り紙を見た。杉野と同じ伸び方をした髪、酷似した目鼻をした男の人相覚書が簡易的に描かれたその貼り紙には、こういう顔をした男に乗客が金をせびられる事案が多発しているので気をつけるように、とのことだった。もっとも現在であるなら、監視カメラの映像からすぐに足がつき、早期に解決することは間違いなく言える。
「そしたらその野郎が、俺に、いい大人なんだから、だらしないとか、いろいろ言ってきやがってさ、そん時、俺、機嫌悪かったから、ばーんと切れて、これで脳天一発」杉野はまた金槌を出し、かざした。
「そいつ、脳味噌と目玉飛び出て、死んじまったんだよ」杉野は言い、哄笑を撒いた。向かいの席に座る家族連れの主人がチャイムを鳴らした。すぐ傍を通りかかった店員が伺うと、父親はオーダーのキャンセルを要請し、席を立つように妻、子供を促した。女の子は、杏仁豆腐、食べたい、と訴え、父親はコンビニで買ってあげる、と声掛けした。先頭を妻が歩き、主人が子供二人の背中を押して、こちらにそれとない目を配りながら、会計カウンターへ進んだ。私は目で、その父親に詫びた。
「みんな俺にびびって、誰も止めらんねえの。そりゃそうだよ。あの青木啓二だってびびってた、この俺だもん」
杉野は、その会社員に言われたことが、よほど図星のように刺さったのだろう。そもそも会社員職が尋常に務まるような人間相手に、論理の応酬などで勝てるべくもない彼には、以下の行動を自分の空想の中で行うことしか出来なかったのだ。
「それで駅員のとこ連れてかれたんだけど、お父ちゃんの友達のやくざが迎えに来て、それでちゃら。お父ちゃんの友達、やくざだけじゃなくて、弁護士も検事も裁判官もいるからな。それでみんな揉み消してくれるんだよ。あと、青木も伊佐岡も、喧嘩強え奴ら、みんな俺が呼べばすぐ来るしな」杉野は生ビールを飲み干し、ジョッキを空にした。
「だから、三上ももう少しでやばかったよ。俺の電話出なくなった時。あん時、俺‥」
杉野の目が据わり、私の心に負い目が疼いた時、杉野のうま煮そばと、私の味噌ラーメンが席に届けられた。
不同意猥褻で逮捕拘留された男が、殺人事件を起こして咎を受けないという矛盾は、彼の棲む世界では問う意味がない。虚実はさておき、話す、語るという作業が、彼にとって最も重要なことだからだ。
私が居合わせなかった、猥褻で身柄を拘束された時の情景は、見ずともありありと思い浮かぶ。公衆の面前で、刑事達に両脇を持たれ、写真を撮られる際の泣き顔。取調室で撒かれる泣き声。お父ちゃんに怒られる、を連呼したことは間違いないと見ていいだろう。
「三上、いただくよ」杉野は言って割箸を麺面に挿したが、私はそれには答えず、自分の割箸を抜いた。
だいぶ前の年度だった。市内の大型ショッピングモールで元の恋人と会い、連絡先交換を求められたが、自分達はそれはやめたほうがいい、と残して立ち去った。彼女は「これまで悪かったね」と会話が始まりばなに言ったが、この人、杉野ともども、明らかに普通に社会生活を営むことの困難を持ちながら、何の支援にも医療的ケアにも繋がっていない者同士、これまで、という語彙の中には、遠い過去のことも含まれる。少なくとも、恋人だった久子さんは、平成前期から令和の現在に至るまでの時間軸が同じで、時代の厳密な違いも分からないことだろう。何故なら、とある知人を介して聞く話では、彼女は今もフォーマルな支援の輪の外に生きているとのことだからだ。彼女の中には、今もあの茅の棒の体をした私がおり、一方、杉野は、やくざや不良が街中で大手を振る、腕力が第一的な男の値打ちとされていた時代の時空間に今も棲み続けている。今、私と向かい合って、周囲に睨み散らす視線を配りながら、うま煮そばを貪り食っている、五十代の男は。
店内BGMは、中学時代の私がそのメロディに胸をときめかせた、ナイトレンジャーの「クローズ・ユア・アイズ」が流れている。
味噌ラーメンは美味かった。トレーニング後の胃は、麺とスープをよく吸収した。ちゃんと味がするというところで、私は今の自分がリラックスしていることが分かった。
「噂で聞いたんだけど、町野佳子さん、今、ドイツに住んでて、日本語講師やってるんだってね」私が言うと、空ジョッキと、空の丼を前にした杉野は、諦念の浮き出た相を見せ、窓の外を見遣った。この町野佳子とは、かつて杉野が八割方が虚である、小学校時代に結婚の約束をしていたと語る相手だ。
「あの子、俺と結婚するはずだったんだよ。小学校の時、もう、家同士で取り決めてたんだよ」「結婚っていう制度だけじゃないよ。自由に恋愛する権利は、人間何歳になってもあるものなんだから。それは俺達にもあるよ。いいんじゃないかな。これからも、誰かを好きになったって‥」私のコメントに、杉野は寂しく俯いた。
五分ほど、言葉なく食休みをしてから、私は伝票を取り、杉野に促して席を立った。杉野は安全靴の踵を鳴らしながら、ゆっくりと私のあとをついてきた。
「別々でお願いします」レジに立つ、私達を席に案内した男性店員に、伝票を置いた私が言った時、後ろの杉野が不審な顔をしている気配が伝わってきた。
「お客様は、1451円になります」自分の食べたものを伝え、843円の代金を私が支払ったあと、店員は杉野に声を掛けた。
杉野は肥えた体を棒立ちに立たせ、店員と私を交互に見た。その顔色が、不審を経て、驚きになり、たちまち怒りに変わった。
「おい!」杉野は怒りの声を私に投げた。
「俺は奢るとは最初から言ってないよ。自分が食った分は、自分で払いな。人の財布や銀行口座に入ってる金は、その人が生活するためのものだよ。当たり前だろ」私が杉野の目をまっすぐに見据えながら言うと、ビールで紅潮したその顔に、みるみるうちに狼狽が満ちた。
「あのさ、俺、金、持ってるんだけど、その金、お姉ちゃんの預かり物なんだよ。だから、悪い。お願い」杉野は、白々とした笑顔を作り、両手を顔の前で合わせ、もう一度、お願い、と繰り返した。
「それはお前が昔から使い古してる弁明だよな。だけど、仮に本当にそうだとしても、それが他人にたかる理由にはならないはずだよ。金を持ってるから、自分から飯に誘ったはずだ。人に奢る、奢られるっていうのは、仕事をこれからよろしく一緒にお願いしますっていう契約や、お世話になりましたっていう感謝の場で行われることなんだよ。だけど、あの頃の俺は愚かだったから、奢ったり奢られたりすることの意味と、金というもののことが分かってなかったんだ。それでお前に、金のかかるもの、全てを奢り続けたんだ」「てめえ‥」杉野の顔から作り笑顔が消え、歪んだ怒りの相が刻まれた。
「俺、今、ばーんと切れたぞ。てめえ、脳天、出せ」杉野は言いながら、手の麻袋から金槌を取り出し、私の顔の前に突き出した。
「俺の脳天をどうする気なの?」「俺がばーんと切れたら、目と耳と手がぶわーっと真っ赤になって、このハンマーで、相手の脳味噌が飛び出すまで、めためたに殴っちまうんだ。そいつがどこへ逃げても、超能力で探し出して、殺しちまうんだ」私は、遠い昔の耳胼胝の述べに、敢えて言葉を返さなかった。
顰蹙と恐れの視線が気配となって感じられ、後ろを見ると、子供連れの家族と、運転手らしい二人の男の二組の他客が並んでいた。
「どうもすみません。どうぞ」私は後ろの他客達の気持ちを汲み取ってスペースを空け、手でレジキャッシャーカウンターを指した。
「すみません、外の暖簾の脇で話します。お金は必ず支払わせますので」私が言うと、店員は全てを理解した顔で頷いた。肚の据わった顔だった。
私が先に店外へ出て、自販機の前まで進み、杉野が逆駁の怒りを刻んだ顔でついてきた。
杉野が手の金槌を頭上高くに降り上げた。本気のようだった。その刹那に、私は彼の、薄く、弱い理性に改めて憐みを覚えた。
私は、自分から見て左側へ体を捌いた。杉野の体が前へ泳いだ。体を泳がせた彼の耳下に、自分の耳上から降り被った手刀を打ち下ろした。杉野の口から小さな声が上がり、彼は鼻から路面に落ち、伏せた。
月謝を納めて受けた訓練により、身についた動きだったが、這いつくばった杉野の顔に鼻血が滴っていることで、自分の未熟さを思い知る気持ちになった。これでも体は傷つけない配慮をするつもりだったのだ。
「大丈夫か」私は声を掛け、杉野の体脇にしゃがんだ。杉野は呻くばかりだった。
私は呻く杉野の腰に腕を、回し、彼を座位の体勢にした。これはかつて取得した、旧ヘルパー2級の杵柄だった。鼻血がTシャツに滴り落ちた。その鼻血を、私はポケットから出したハンカチで拭ってやった。金槌は、麻袋とともに、悲しい景観を湛えて、路面に落ちていた。
後ろを見ると、レジの壮年男性店員と、私達のテーブルにオーダーを取りに来た中年の女性店員が立っていた。女性店員の手には、スタンバイさせた携帯が持たれている。
「一部始終、見てました。あなた様の正当防衛が保証されると思いますので、警察に連絡させていただきたいのですが」男性店員が言うと、杉野は喉の奥から反転した声を上げ、鼻血の溜まった顔で振り返って、二人の店員を見た。
「嫌だ‥」杉野は弱々しく言い、体を震わせた。
「警察行くの、嫌だ!」杉野は叫んで、空を仰ぎ、涙と唾液を流し、しゃくり上げ始めた。
「警察、嫌だぁ! 刑務所行くのなんて嫌だぁ! お父ちゃーん! お母ちゃーん!」杉野の哭叫がが辺り一面に撒かれた。店に入っていくトラックドライバー風の三人連れ、その後ろに続く老齢の男女が、ぽかんと呆気に取られた顔を向けた。
私は杉野の肩に手を置いた。激しい肩の震え、背中の波打ちが、心底からの悲しみと、拭おうにも拭えない、時として不安、恐怖の色も帯びる寂漠を、痛く表している。虚言交じりに崇拝していた父親、優しかった母親は、今の彼がどれだけその存在を求めても、すでにいないのだ。これが彼にとり、どれだけ恐ろしいことなのかと察しようとした時、私の目の奥にも涙気が起こった。
理解はしているつもりだった。今、自分の前で慟哭を振り撒いている男が、これまでの人生で背負ってきたものを。その重さが齎す、時として耐え難くなる痛みを。
私も彼も変わりはしない。不本意に背負った生まれの荷物から、欲し、望むものを散々取り上げられてきた、硬く冷たい、臍の味を知っている者同士というところでは。
杉野の号咽は、三分ほどして、啜り泣きに変わった。
「三上。あの時、どうして俺の前からいなくなったの?」顔を涙と洟で光らせた杉野が訊いてきた。
「杉野。あの時言わないで、溜めちゃったことは本当に悪いと思ってる。水野忠之(みずのただゆき)、覚えてるか。あの眼鏡の、俺の友達」私の問い返しを、杉野が理解したか否やかは分からないが、私は、あの時言わずにいた気持ちを、包み隠さず打ち明けようと思った。
「あいつはハンディキャップを持ってるけど、いい奴だ。俺の家で、俺達が二人で話してる時、遊びに来たあいつを威嚇したこと、覚えてるか」私の問いかけに、杉野は彼なりに記憶を引き上げようとしているらしいことが見て取れた。
「その上、あいつが帰ったあと、友達である俺の前で、あいつを馬鹿にしたことも覚えてるか。あいつの吃音、吃りのことを、あいつ、何言ってんだか分かんねえよ、ああいうのがうちに来たら、うちのお父ちゃん、ああいうの嫌いだから、アイウエオから練習させられるよ、とかって言ったんだ。覚えてるか。これで、俺はもうお前とは付き合えないと思ったんだ」杉野の表情には、それを思い出しかけている様子が覗えた。
「辛いことを言うけれど、お前がせっかく友達になった人間から去られるのは、当たり前だったんだ。お前がどんなに寂しくたって、将来のことが不安だったってな」私が言い、杉野は洟を啜りながらうなだれた。
「三上と連絡取れなくなった時、俺、話聞いてもらいたくてしかたなかったんだよ。うちに出入りしてた叔母さんの態度のこととか、他のいろいろなこととか。それなのに、俺の電話に出なくなって、お前のおばさんからはもうかけてこないでって言われるし、俺、誰に自分の気持ち、話していいか分からなかったんだよ」
水野の件には無答だった。だが、そこで私は改めて、長い間、自分に癖づいていた問題の処理方法に胸が痛む思いになった。その方法を取ることで、相手の人となりはどうであれ、事実的に人を傷つけてきた罪の重さが胸に押し寄せていた。それにより傷つけ、悲しませてきた人間は、彼だけではない。
彼だけでは‥
「杉野、あの時は本当に悪かったよ。謝っても謝りきれないぐらいに申し訳ないと思ってる」私は彼の両肩を掌で抱きながら、心からの言葉を掛けた。
「あれはあの頃の俺の愚かさと、もはや男とは呼べないへなちょこさ加減が作った、大きな罪なんだよ。出来ることと出来ないことをはっきりさせなかったことで、お前を傷つけて、悲しませることになったんだ。それと、さっきの水野のことで、お前にちゃんと怒らなかったこと。この辺りをしっかりさせれば、お前と長く友達でいることが出来たんだ」私が言い、杉野はうなだれたまま、また啼泣を始めた。
「だけど、あの時、自分だけじゃどうにも出来ない悲しみを抱えてたのは、お前だけじゃないんだ。お前は俺に彼女がいることを羨ましがってたよね。だけど、お前も写真を見て顔を知ってるあの子は、普通の人じゃなかったんだ」私が打ち明けた時、杉野ははっとなった顔を上げ、私を見た。
「あの子、池野久子さんは、お前と同じ立場の人なんだよ。一般就労が困難な知的障害を持ちながら、支援にも医療にも繋がってなかったんだ。それは彼女の親が、娘の障害を受け入れられないばかりか、障害者に偏見を持ってたからなんだ。自分達が働きづめで余裕がないから、ああいう人達が楽をしてるように思えてたんだとも思うんだ。俺は久子さんの保護者同然の状態で、八年間、傍に付き添ったんだ。一緒にいることで、世間の無知さ、冷たさもたくさんみなくちゃならなかった。そんな冷たい風に晒されて、凍てつくような悲しみの世界に棲んでる久子さんを、本当に唯の一人で支えてたんだ。それでも俺は、自分は普通の可愛い女の子と付き合ってると思い込むようにして、周りにもそう思わせたかった。まだ障害が色眼鏡で見られてたあの頃、俺は彼女の障害を、誰にも打ち明けようにも打ち明けられなかった。それで、それを自分の胸の中だけに留め置こうと決めて、たった一人で彼女に寄り添ってきたんだ。その中で、俺がどんな地獄を見てきたか、想像出来るか?」
杉野は水を打たれたような面持ちで、ただ私の顔を見ていた。
「その久子さんと、どうしてそういう関係になったかというと、他ならない俺自身も、彼女やお前と同じ立場だったからだ」私はウエストバッグから、緑色の障害者手帳を出し、杉野の前にかざした。
「87。何の数字か分かるか。俺のIQだ。言語性、言葉のほうは高いけど、動作性、知覚統合というのが精神遅滞の域なんだ。この精神遅滞というのは、そのもの、知恵遅れだ。俺はそこそこ言葉を上手に操ることは出来ても、実用的な知能がないんだ。つまり俺は、実質上の知的障害なんだよ」
あの頃には分かるべくもなかった私の打ち明けに、杉野の顔が改まったことが分かった。
「そんなハンデを持つ上に、握力が二十もない俺が、ボス猿が支配する猿山みたいな倉庫や、明らかに無能な奴が上に祭り上げられてる陰険な職場で、どういう扱いを受けてきたかも分かるか?」
杉野はじっと私の顔を見据えているが、濡れたままのその顔は言葉を発さなかった。
「だから、福祉の仕事で身を立てようとしたんだ。自分自身の苦しみもそうだけど、お前や、久子さんみたいな人を一人でも、自分の出来る手段で助けたかったからだ。その仕事は足掛け十年やったよ。だけど最後には、自分の望まない結果を突きつけられて辞めることになったんだ。こういう風に、俺達みたいな人間は、一途な気持ちがいつも裏目に出るんだ。それで、欲しいものはみんな取り上げられるんだ。世間一般の恋愛も、結婚もない。一般枠で人並みの金を稼ごうとしても、潰されて職場を追われるし、施設の作業工賃なんてものは小遣い程度のものしかもらえない。綺麗な異性と結婚して、幸せな家庭を築くなんていう人生は人のものなんだよ」
最後のセンテンスを言った時、私は自分の声が詰まったことが分かった。
「俺は久子さんだけじゃなくて、お前にも寄り添って、傍にいてやろうと思ってたんだ。それはお前が抱えてきたものが痛いほど分かってたからなんだ。だけど、これはお前だけじゃなくて、俺も、誰かとの距離感とか、金というもののことを分かってなかった。それでしまいに、お前のことも、久子さんのことも、抱えきれなくなって捨てたんだ。申し訳ないことをしたよ。だけど、分かってくれ。久子さんはあのあと、私生児の子供を産んで、シングルで養育したその息子を、お祖母ちゃんに小遣いを渡すような孝行な青年に育て上げたんだ。立派に、一人の人間を作ったんだよ。だから、お前だって、価値のない人間なんかでは絶対にないはずなんだ。俺が知ってるお前は、本来的に親思いで、お年寄りや子供に優しくて、動物好きな人間だよ。お前のトークも面白かったよ。だけど、間違ったことを教えられる縁の中に育っちゃったからね、俺達は‥」
私が涙を指で拭いながら言った時、後ろから、崩れた笑い声がした。前で事の経過を見守る二人の店員の目も、そちらに向いた。
Tシャツの腕に彫物を露わにし、印台の指輪を嵌めた男と、荒れた肌を下品な化粧で汚した金髪の女、同じく、凝ったカットを施された髪を茶髪に染められた二人の子供という四人の人間がいた。その大人側のほうは、いかにも職業不詳風に見えた。小学校低学年に見える長男は、一緒にいる親の気風をそのまま継いだような目つき、表情をし、未就学児らしい長女は、親から強いられたのも同じの髪色をしていながら、焦点の合わない視線をさまよわせている。
彫物の父親が、嘲る笑いを浮かべて、私と杉野に携帯を向けていた。その妻も、父親である男の行動を煽り立てるような表情を見せている。
「携帯を向けるようなものじゃないですよ」壮年の男性店員が、ぴしゃりと響く声の短い注意を飛ばすと、男は謝るでも切れを返すでもなく、何も言わずに歩道橋へ足を向け、後ろに妻子をずらずらと従えて歩み去った。
幼若の時分に誤ったことを教えられたら、それは違うと正す人間と、自分自身がその正しを受け入れることが必要だが、その受け入れを自分に促す心を作ることに教育の意味があると思う。
私はこの町の、徳育不在の環境下に生きる子供達の未来を思った。
「三上」杉野が立ち上がり、鼻を鳴らして、拳で涙を拭った。
「俺と友達やり直してくれないかな」言った杉野の目を、私はまっすぐに見つめた。
「それは出来ないんだ、杉野」私が言うと、杉野の目に、また涙が湧き光った。涙と涙の視線が交わった。
「障害同士で固まって、周りから孤立するっていうことが、一番いけないことなんだ。これは俺の経験なんだ。俺やお前みたいな人間は、障害に対して理解のある健常の人と付き合って、知恵を授けてもらうことなんだよ。俺達は、もう生活圏が違うんだ」私が言い、杉野の頬にまた涙が伝った。
「俺には夢があるんだ。書くことだけは子供の頃から得意だったから、小説を書いて、これまで自分が溜めてきた思いを、少しでも世の中に広めようと思ってるところなんだ。お前も、りんどうが嫌だったら、グループホームに移るのもいいだろう。お前には、気持ちをちゃんと伝える力があるから、りんどうの人やお姉ちゃんに、こういう所、行きたいんだって話すのがいいと思うぞ」「三上」すがり、訴えるように言った杉野の許から、私は信号機のほうへ足向きを変えた。
「大変ご迷惑をお掛けしまして、申し訳ございませんでした。彼からお金をもらって下さい」私は言い、二人の店員と辞儀を交わし、横断歩道へ向かった。国道はいつもと変わらず、大小の車両が振動を響かせて通過していた。
バス停側の歩行者用信号機が青を点灯させ、渡り始めた時に萬宝を振り返ると、店員、杉野の姿はなかった。事が終わったことを示すように、彼らのいた空間が空いていた。
横断歩道を渡りながら、私は思った。これからの日本社会を含む、世の中の移ろいは分からないが、私が少年だった頃には、このコンクリートの孤島が、老いた人々が晩年の時間を送る場所、多国籍のゲットーになることは誰一人とて想像していなかった。この孤島がいつ、老朽化による取り壊しという形で終わりを迎えるのか、その後は何に変わり、そこには何が息づいているかは分からない。その頃、私は寿命の灯が消える手前かもしれないし、すでに世を去っているかもしれない。
だが、誰がどのような手を加えても変わらないものがある。それを守る人間として、私は生を全うしたいと願う。
その中で、久子や杉野のような人が一人でも多く、幸せを手にする縁を掴めるような社会へと進んでほしいと祈り、願う。
人の評価が変わり、協力者を得ることが出来る時は、その人の心が変わった時だ。
気持ちは爽としていた。あの頃から、言わなくてはいけなかったが言えなかったことを、言うべき相手に余すところなく言うことが出来たからだ。
公団入口のバス停には、小中を同じくした、堀川が立ち、バスを待っていた。低身長でずんぐりした体形、変わらない下膨れの顔をした彼は、意味の窺い知れない笑いを浮かべながら、缶ジュースを飲んでいる。体は肥満が進み、頸の肉が段を作っている。
小学校時代に猫を殺していたという噂のあった彼は、高校卒業後すぐに統合失調症を発症し、入退院を繰り返していたが、噂では、母親も精神障害者だという。その母親は、現在存命ではないと、私には思える。
堀川にはないのか。この孤島から抜け出したいと言う気持ちが。彼も経済的自立に困難を抱えているため、縛りつけられたようにここから動けないことを、自分でどう思っているのか。
背負った親、環境への怨嗟はないのか。
彼は元より、私、杉野、久子と、背負うものは互いに遠くない。だが、自分が持つ能力の範囲内で出来ることを知り、助けてくれる人を探すことによって、その人生が成り立つ。
きちんと自分を持って生きることだ。今の久子が、あれからきちんと親の務めを果たし、周囲の心ある人達を味方につけ、子供を立派に育て上げたように。
最後に測られる魂の価値は、決してペーパーテストの点数ではない。その人の心がいかに聡明か、ということに尽きる。
彼ら、彼女達の幸せを心から祈りながら仰ぎ見た残暑時の空は、雲一つなく晴れていた。完。
各々の家庭の福韻たる幸せがある一方、この国の社会は禍々と騒乱していた。ジャック、爆破、乱射でその動乱を起こしていた者達は、今やその正体が、人の理想とは程遠いものであるとはっきりと分かっているイデオロギーに、ただ自己の存在目的のみを見出して、それに酔った若者達だった。
だが、市井の風景はまだ牧歌的で、仮想敵国はせいぜいソ連、これといった外的脅威は叫ばれておらず、パンデミックもなければ、大災害リスクも、たとえるところの「親父」程度の意識留めだった。
それでもこの公団には、入居開始から何年かのうちは区域内に医療機関もなく、夜な夜な救急車のサイレンが鉄筋コンクリートの外壁にリバーブし、住民達は不安に慄いていた。食料品や日用品、薬品の買い出しは、まだ本数も少なかった路線バス、自家用車を使い、私鉄の駅を擁する隣町まで行かなくてはならず、みんな買い置き、買いだめの必要に迫られて暮らしていた。入居開始から三年目にようやくマーケット、外周外れの医院がオープンするまでは。
生前退位により令和が始まりはや数年、今、この町には、社会生活からリタイアして緩やかに死に水取りを待つ人々が、この公団始まりの時以来残存し、私がデニムの半ズボンを履いていた頃の半分以下に減った子供の姿を見るつど、その服装、遣う言葉、稚くして枯れた荒みを身に着けた態度、すでに決まった人相に、この街の「らしさ」を感じ取る。私の頃にはいなかった、アフリカ系や中央アジア系の少年少女がざらにおり、その態度は、将来は参政権まで手にするのだ、とばかりに、でかい。それはそのはずで、この公団は、人権擁護、護憲を掲げる左派政党が自治会を組織しているからだ。
私が幼児期から青春期を経て、青年期まで実家住まいをしていたこの町に戻り、すでにいくつかの春夏秋冬を越えていたが、それはそんな、残暑の厳しい日曜の昼時に起こった再会劇だった。
生協が町から撤収、老朽化して傷みに傷んだ、昔の建物をそのまま利用して営業している、経営会社の違うスーパー前で、ベンチを利用した角度付きプッシュアップの回数を、私は頭の中で七十三回数えたところだった。中年の声を聞く頃に習慣づいた隔日の日課だが、これにより、私は何とか見られる程度の体を手に入れた。骨皮の体で、いつもおどおどと他者の顔色を窺い、この街で、黄昏時から深夜にかけて、改造車両を携えて辻にとぐろを巻く連中への怯えを常に持ちながら、同時にそういった者達に対して同化願望を抱いていた。その心持ちを服、言葉、態度などの表に出すことで、それが半端者達の注意を引き、しまいに実際的な知的程度や気の弱さを露呈し、嗤われ、いじめられることになった。それらに対して採ってきた処理の手段は、性別だけがたまたま男として生まれながら、尋常な男が採るものでは到底ないそれだった。
挙動の一つごとに、弱さと愚かさが作ってきた数々の汚点をぷちぷちと潰していくイメージを込め、かつ、紅蓮の怒りを投入することもある。今の私にとり、トレーニングの時間とは、反省、内省の時間でもある。
七十四回、と脳裏にカウントの声を響かせた時、誰かが私の苗字を呼ぶ声を聞いた。それは自分の内側から響くような幻聴とも思えた。聞き覚え確かな男の声だが、その時点では、幻聴、霊聴に過ぎないものとしか捉えられず、相手にする気も起きなかった。
八十一、と声に出さず数えた時、外殻部から確かに、その声がもう一度、私を呼んだ。私はベンチの背もたれに腕を突き立てたまま、ゆっくりと顔を声のほうへ向けた。その数瞬前に、ぱっと記憶中枢に映ったものそのものの目鼻をした男が立ち、私を見ていた。
百八十越えの身長はそのままだったが、かつて筋肉質だった体には、中年の贅が載っており、顔も丸みを帯びている。特徴的な伸び方の髪は、今も豊かだが、前髪、もみ上げには白いものが混じっていた。服装のセンスは、上がTシャツ、下がそのまま寝間着に転用できるジャージのズボンだが、安全靴履きというセンスがあの頃そのままで、手には麻の袋を提げている。顔以上に、そのセンスと、髪の生え方で分かると言ってよかった。顔は、年齢相応に老けていた。
四半世紀前、あの頃の世相と言えば、タイ米。米不足が騒がれ、形、色合いともに日本のものとは違うそれをタイから分けてもらったが、有毒性があると噂され、その好意は粗末にされた。あの夏の私は、痩せっぽちの体をし、何かに怯えるおどつきと卑屈な愛想笑いを交互に繰り返す表情をした、食品会社で働くフリーターだった。
その頃、私は水曜と土曜が近づくごとに、胸にどす黒い塊が閊えたような思いになり、両耳たぶが発赤し、ちぎれんばかりにぴりぴりと痛んだ。何故なら、今、隣から私を見下ろしている男は、他人の余暇、リラクゼーションの時間、金も、私物、他物の区別がつかない男だからだ。
他人の事情や迷惑の感覚は、彼の概念にはない。それでいて、触法行為の手癖も持っている。創造性豊かな、虚実の入り混じった話は確かに面白いが、普遍的に自己の欲求が第一で、常識、衛生は思考界に存在しない人。
杉野(すぎの)。中学一年の時にクラスを同じくした時は、ある種威圧的な見た目に反して、周りに物を言うことは少なく、体が偉丈夫のわりには気が弱く、少し頭がとろい、程度の印象だった。それが中学卒業後の後年にばったり会って話し込むようになってから、私は彼に、事実上従えられたと呼べる関係性になった。それは学年の喧嘩猛者連と軍事同盟を結び、地区の有力者である父親が侠客とも五寸の関係にある人だという、「切れたら人を殺す」と振り込む、体格が自分よりも勝る男などに、当時の私は抗おうにも抗えなかったからだった。その頃、同時に私の肩に食い込んでいたものは、彼同様に軽いとは言えないハンデを持ちながら、その認定を受けていない恋人だった。福祉の拡充、啓蒙もなく、障害者は人を殺しても罪に問われないなどという間違った知識がまかり通っていたあの頃、私は片や言いなり、片やひたすら傍にいてやることで、二人の知的障害者との関係を紡いでいたのだ。
杉野は、ノーマスクの顔をにちゃりとほころばせ、三上、ともう一度私の姓を呼んだ。その顔には、普通に言うところの再会の喜びがあった。彼を避け出して二年目の夏、団地内の公園でばったりと会った時はスマイルだけを返して立ち去ったが、今回それをしまいと思った理由は、肉体鍛練が軌道に乗った頃、心に誓ったことに則ろうと意思を決めたからこそだった。
言いたいことも言わずに避ける、逃げるという対人的態度は二度と取らない、と。今、恐怖は微かに覚えているが、年輪数を持つ一人の男としていかに、という自らへの問いが、その恐怖を確かに押し戻していることが分かる。毅然。それは当たり前の一般常識。
「おう、杉野。久しぶりなんてもんじゃないよな。元気してたか」私はベンチの背もたれから半身を起こし、普通に旧友と再会した時らしい反応を努めた。顔色に拒絶は決して出すことはなく、和顔の表情を向けた。
「三上も久しぶりだな。何? 今、ここに戻って暮らしてるの?」杉野は変わらない北関東訛りで問うてきた。
「いや、今は違うよ。今、駐屯地のほうなんだ。だけど、親がまだこっちにいる関係で時玉来るんだ。今日はちょっと届け物があったからね。そのついでに筋トレしてたんだよ」私は方便を捻った。「今、仕事、何してるの?」
「障害お持ちの人が入居するグループホームの世話人、足掛け十年やって、それから特別支援学校の環境整備員やって、今、失業保険もらいながら休んでるところだね。杉野はまだ、ご実家の会社、まだ手伝ってるの?」
全くもって、何の変哲もない旧友同士の会話になり、そのやり取りにけばはない。
「俺、今、りんどう更生舎にいるんだ」こぼすように言った杉野の口許に、無念が刻まれたように見えた。
りんどう更生舎とは、市外れの、自然林が豊かな地域にある成人知的障害者の入所施設で、実はだいぶ以前に面接を受けたことがあったが不採用となり、その際に内部を見学したが、職員の表情が皆一様に暗く、殺風景な内観の上に清掃も行き届いていないように見え、利用者が生活する場所としては良いとは言えない環境だという印象を持った。ただ、基準が厳正された今は改善されている可能性もある。その施設は、男性と女性で二つの棟に分かれているが、日中の受注作業の時間は、セクション分けされた工房で男女の利用者が会し、工賃を稼ぐための仕事を行う。
「知恵遅れが集まって暮らしてる施設でさ、俺、もう二十年ぐらい入れられてるんだ。その間にお父ちゃんもお母ちゃんも死んじゃって、お姉ちゃんの所帯が新しい家建てて、旦那さんと子供二人と棲んでるのね。俺、そっちで一緒に住みたいって言ったんだけど、旦那さんが駄目だって言ったんだ。お父ちゃんの会社、その人が継いでるんだけど、うちにはもうお前にやる仕事も金もないって言われてさ。たまの土日とか、お盆とか正月の時だけ、そっちに帰ることが許されてるんだよ」
愚痴のような調子だが、その内容は間違いなく悲しみ、悔情を含むものだった。それは今の私が、曲がりなりにも福祉職員としてのキャリアを持ち、自分自身の背負うハンデも受容しているからこそ、ひとしおに分かる気持ちだ。
「大変だったね。親父さんもお袋さんも、俺、覚えてるよ。だけど俺達、もうそういう年代だものね。うちはお袋がまだ元気だけど、親父が認知を発症し始めてね。年齢的に言っても、もうそんなに長く生きるわけじゃないから、別れの準備は、もう心でしているところだよ」「三上、あの時写真見せてくれた彼女とは結婚したの?」「いや、いろいろあって、あの人とは道を分けたんだ。そのあと、年上の人とちょっと付き合ったんだけど、それも失敗して、それからずっと一人‥」私はありのままを述べた。
「そうなんだ。でも、いいじゃん。付き合ってくれる人がいただけでさ」呟いた杉野の顔に寂寥が挿した。私には彼の気持ちが手に取るように分かったが、私に恋人がいることをしきりに羨ましがり、「コンピューターで彼女を探そうかな」と明るい振る舞いで言った時のことをことを思い出した。
「俺、あれから二回、お見合いしたんだ。だけど、どっちも駄目だったんだ。俺が知恵遅れだっていうことが分かっちゃって、向こうの家から断られちゃってさ、それで、やっちゃったんだよ」その言葉を聞いた私の背筋に、不快を伴う悪寒が走り、同時に、それが軽い咎に留まるものであることを祈る気持ちが生まれた。
「寂しくて、溜まってて、もうどうしようもなくてさ、電車で触っちゃったんだ、女の子。それで刑務所には行かないで済んだんだけど、駅で、人がたくさん見てる前で顔の写真撮られて、何っていうのか分からないけど、一人の部屋に何日も泊まらされたんだ。大変だったよ。新聞に名前が載って、お父ちゃんにはすごい怒られたしさ」
おそらく、初犯扱いで拘留されたが、執行猶予がついたのだろう。もしもその頃に私がまだ傍にいたなら、という自責が一瞬涌いた。確かに健全な関係性とは呼べるものではなかった。だが、当時の私は彼にとり、傾聴役としてきちんと機能していたのだと、改めて自分で思えた。
スーパーの周りには、いつものように着回した夏服姿の老いた人の姿ばかりが目立つ。どこからか、高く張り潰した、幼ギャング達が勢力を誇示する気勢上げが聞こえてくる。私の予想では、この公団に棲むリタイア後の人々の命が尽きることでその数が減少、それに伴って、外国人が続々と入居、その子供の世代が、文化的孤立の下に非行化しいく。この街の治安は、昔も今も不安定な線がキープされているのだ。
「三上、煙草いいかな」あの頃から使い古しているボキャブラリー表現で、杉野は煙草をせがんできた。私はラッキーストライクの6ミリをウエストバッグから出し、一本抜いて杉野に差し出した。「火はある?」訊くと、彼は麻袋から百円ライターを出し、咥えた煙草に点火し、唇の端から煙を吐き出した。彼がちゃんと自分の煙草を持っていることは、あの頃から分かっていた、煙草だけではない。自分が飲むジュースを買う、また、自分が飲み食いする割り勘分も。
真後ろを、キックボードを駆る少年が二人通り過ぎた。スーパー前の老男女は、それぞれ立ち話をしていたり、杖を着いて、袋を提げて家路へ姿を遠ざけていく姿が見られる。数十匹の蝉が、誦経のような合唱を始めた。
「三上、俺、今、酒が飲みてえ」杉野は私が与えた煙草の煙を燻らせながら、不満の抑揚を含む声を搾り出した。
「りんどう、厭な所なんだよ。職員の奴らはうるせえし、飯は不味いし、酒も飲めねえしさ。昨日も作業の時間に、職員の野郎が遅いだのなんだのって、俺にうるせえこと言ってきやがってさ。そんで今朝も、お姉ちゃんの旦那からいろいろ言われるしさ。俺、今ここで誰かが喧嘩引っかけてきたら、ぼこぼこにしてるよ。いや、下手したら、殺しちまうかもしんねえよ」
日本の法律、自分の年齢、現実に刑罰を受けることの恐ろしさを、彼の薄い理性はスルーする。あの頃は勿論、令和も数年目の今も。なお、杉野の家は、言うなれば戦後成金で、昭和の桁二つの頃から、この隣の地区でネジ、バネなどの部品を製造販売する会社を経営する一族であり、彼の父親は市議会議員選への立候補歴を持つが、落選している。その父親は、杉野が言うには、空手、柔道、剣道、合気道の高段者だとのことだが、これそのものの真偽は、考えるだけ無駄だ。彼曰く、一ヶ月に数回、どこかでやくざを百人とか、暴走族を千人ぼこぼこにしているそうだが、それを誇らしげに、興奮気味に語る彼には、可愛げがあったものだった。杉野は、父親が社長をしているその部品製造会社で、ごく簡単な、業務のうちにも入らない雑務をあてがわれ、給与とは違う形態の金を支給されている「家業手伝い」の社会的身分で、もらっていた金は、一ヶ月で二、三万円程度だったと聞いている。
父親は、若い頃の写真を見る限りでは、いかにも血気盛んな押し出し者という感じがし、ひょっとしたら空手初段くらいは持っているのかもしれないと思わせた。
杉野の父親は議員選には落ちながらも、この市を経済的に潤してきた実力者であり、名士であり、その威光は、長く保たれていたと見るべきだが、この父親による「障害とは障り」に近い因信じみた考えに基づく独善が、彼に誤りの男らしさへの憧れを刷り込み、体だけを人並み以上に大きくしたのだ。
「三上、これから、まんほうで飯食わねえ?」煙草の灰を路面に落とし落とし、杉野が口にした号名は、萬宝という、古くから国道沿いに軒を構えるチェーンのラーメン店で、こしの強い太麺は、私の代が子供時分から馴染んだ味だ。
その魂胆は分かりきっており、意を得た誘いだった。時間的におそらくと、予期していた運びとなった。
「いいね。ちょうど昼飯時だし、久々に行こうか」「俺、今、苛ついてて、ばーんと切れそうなんだよ。三上、断らないでよかったな、もし、断ってたら」杉野は言って、手に提げた麻袋から一本の金槌を取り出した。
「青木啓二の脳天かち割った、伝説のハンマー‥」杉野は中年顔に悦々とした薄笑いを浮かべ、木柄の両口ハンマーを私の顔の前に掲げた。私は努めて表情を動かさなかった。柄に3の数字が書かれているこの金槌は、あの頃、会うたびに持ってきては見せびらかしたものと同一のものだ。
「行こうぜ」杉野は金槌を麻袋にしまい、投げるような口調で言って、国道の方面へ体を反転させた。
住宅街の道中では、馴染んだ先生方の出世の話題を取り止めなく話した。母校の中学で理科を教えていた先生が、後年に市内の小学校で校長になった、数学のあの先生が教育委員会の役員をしている、という内容だった。また、杉野が憧れ羨んでいた猛者連の話題になり、小学校時代、杉野がその頭に金槌を打ち下ろして血濡れの気絶に追い込んだという学年の喧嘩最強が、今、県の港湾沿いの都市で居酒屋と立ち飲み屋を経営する実業家をしており、その店が流行っているという話、その男の側近的存在だった男が、会社の社長をしているという話も聞いた。他、みんな、押し出しのいい人間になっているということだった。
虚実は著しく入り混じるが、その場の思いつきを一つの絵、一話完結の物語のようなものに昇華させ、飽きない話で場を繋ぐことが、言ってみれば即興力であり、それこそが杉野の持つ才能だと、あの頃から今に至るまで一貫して思う。不快を伴うものも少なくなく、常識的に言い、あしらうことが妥当だという話も多数あるが、これこそが彼のコーピングであり、自己のかけがえない存在主張なのだ。
副業的に働いていた小さな商店の配達に行った際、飼犬の糞だらけで、家人がみんな糞を被っていたという外国人の家の話、一人で店番をしている時、どこかの老人ホームから脱走してきたと思われる可愛らしいお婆ちゃんが来て、お金を持っていないのに声高々と「コシヒカリを下さい」などと言って引き下がらず、対応に困り果てたという話には普通に爆笑したし、お父ちゃんが家近くの畑で百人ほどのやくざと喧嘩になり、幼い杉野が固唾を飲んで見守っているところへ、お父ちゃんの友達であるやくざ親分がジェット戦闘機で助けに来て、その喧嘩を収めたという話、また、隣町の私鉄駅の立ち食いそば屋を、お父ちゃんの友達のやくざ達が占拠し、喧嘩を始めた勢いで、立ち食いそば屋が店ごと路上へ落ちてしまったという話には、ハリウッドチックなものを感じた。
彼の母校小学校を同じくし、中学では生徒会の副会長をしており、その学区のミスと呼んでも差し支えなしだった、私も知る美しい女子と、小学校時代から結婚の約束をしており、その頃から「いいこと」をしていたなどという話は、通常なら「はいはい」というところだが、知性的なだけでなく、容姿に優れ、気立てが良くて、優しく面倒見のいい彼女から、何かと世話を焼いてもらっていたことを誇張したもののはずだ。憎めない。ここまでは。
彼がマシンガントーク加減に語る、まるで現実味のない世界の話は、元々強い願望として頭の中に置いていたこと、その瞬間、頭に降ってくることを即興的に出すものとの両方に分かれ、シュールだが広がりの良い、しばしばインパクトを伴う話を形成する。
なお、義兄弟の絆と言えるまでに親しかったとされる、現在実業家であるという青木啓二とともに作ったという喧嘩の武勇伝、崇拝する父親の伝説的、神話的武勇伝、「ばーんと切れた」自分には青木やその周辺者さえもひれ伏すというシリーズは、彼の切実な訴えであり、これこそが最も聞いてほしいことなのだが、同じ臍の味を知る私には、これは良く理解出来る。
杉野の饒舌を聞きながら、そんなことを思っているうちに、横断歩道を渡りきり、萬宝の駐車場を臨んだ。
駐車場は主にワンボックスタイプのファミリーカーで埋まり、その中にトラックなどの業務用車両も目立つ。今は日曜のランチタイムであり、ある程度以上の時間は待つことになるだろう。
二十年少し前に店の外装、内装がリニューアルされた萬宝の赤暖簾、自動ドアの出入口を潜り、いらっしゃいませ、の声を受けながら中を見回すと、子供を擁する家族連れメインにテーブル、座敷席が埋まり、カウンター席は単身の来客で空きがない。
黒キャップに黒の半袖ポロシャツというユニフォーム姿をした中年の女性店員が、スタンドに置かれた用紙に来客人数と名前を書くように促した。待機席も埋まり、立っている人もいる。私達も立つことになった。
レジキャッシャーカウンターでは、小さなキャンディバーを一本づつもらった幼い姉妹らしい女の子達が、ドレスタイプのサマーワンピースの裾を翻して、小走りに出入口へ向かい、その後ろから、祖父母と、こちらよりもだいぶ若い年齢域にある両親が続いた。
「日曜だもんね。無理ないよ」私が言うと、杉野は露骨な苛立ちを顔一面に出し、周囲で座り、または立って席への案内を待つ家族連れに睨む視線を注いだ。威嚇のつもりらしい。
「うるせえな」杉野が小さく呟いて睨んだ先には、ソファに座るローティーンの少女と、小学生の少年の姉弟がいた。姉の少女が不意に出した高い笑い声が障ったらしかった。
「面白くねえな。これ以上待つとか、あんましうるせえとか、そしたら俺、ばーんと切れて、こん中の誰か殺しちまうかもしんねえよ。三上が一発殴らしてくれたら収まるかもしんねえけどさ」杉野は私の顔に視線を戻して言い、目だけが笑っていないような笑いを浮かべた。
彼がこの公共の場で漏らしたこの言葉が、今、ソファに座っている大人しそうな父親や、まだ幼い子供達の耳に届いていないことを祈った。
「日曜の昼じゃしかたないよ。夕飯時まで待たされて昼夕が一緒になっちゃうとかはないはずだからさ、気長に待とう、杉野。だから、俺を殴るとかは勘弁してよ。杉野のパンチなんか食らったら、俺なんて死んじゃうから」私は変わらない従属者の三上を努めて演じた。杉野は、ああ、と苛立たしげに返して、客席を睥睨した。
赤く塗装された壁に、トム・クルーズなどのハリウッドスターや、世界的な名声を持つミュージシャンのポートレートが飾られた店内には、ボリュームほどほどに流れるエイティーズポップに、ミドルからハイエイジの店員達が発する接客とオーダー要請、具材を炒める調理音、お玉と鉄鍋がかち合わされる乾いた音が賑々と交わっている。
ソファがちょうど二人分空き、それから十分ほど待ち、「威あって猛なし」という人物的雰囲気を持つ、眼鏡を掛けた壮年の男性店員が、私と杉野を窓際の四人掛けテーブル席に案内し、程なくして、私達を最初に接客した中年の女性がお冷を持って席に来た。
「三上、ビールいいかな」杉野はお冷が自分の前に置かればな言い、私は頷いた。「ラーメン、安いのでいいよ」と言ったが、これはすでに使い古されているまでに意味が分かる。
あの頃、彼のために使った私の給料は、それをそのまま貯金でもすれば、いくらになったことだろう。飲食代は元より、煙草の一本に至るまでたかり尽くし、付き合わされる形で市外へ出る時には、交通費、公衆電話料金まで私に支払わせ、それがさも当たり前の習慣と化していた。ただし、落ち度は私にもあってのことだったが。
あの頃の自分には二度と逆戻りしたくないという一心で、自分を変えるための活動を行ってきた。恐怖はある。威の圧迫も確かに感じている。だが、今、負けたら、これまで積み重ねてきたものが水泡に帰してしまう。
「いいんじゃないかな、好きなの飲んで食えば」私が言い、杉野は、ビール、と女性店員に注文した。店員は、ボタンをタップして、ハンディな装置に注文内容を打ち込んだ。
「あと、これ」杉野はメニュー写真のうま煮そばを指した。彼が準文盲であることを知っている。字は書けなくはないが、所々、自分の知らない字をアレンジし、漢字を作ってしまう。中学の卒業文集にはそれがもろに出ていたが、私には、彼が伝えようとするものを解読することはさほど難はなかった。それは私自身も、自分の便宜や、時に格好つけのために言葉を勝手に作ってきた人間であるため、彼のような人をよく理解出来る。それ以上でも以下でもない。
私は酒類は頼まず、味噌ラーメンをオーダーした。私達と同年配の女性店員は、オーダーを復唱して確認を取り、少々お待ち下さい、と残し、可憐な動作で席を去った。
多忙なわりにはさほど待たず、杉野の生ビールが来た。彼は不遜な表情、手つきでジョッキの柄を持ち、縁に唇を付けて、ビールを鯨飲した。
「うち、お母ちゃんが先に死んで、それからお父ちゃんが死んだんだけどさ、そん時、お父ちゃんの友達のやくざが、外車十万台ぐらいで来たんだよ。実はそん時さ、その友達の人から、組の跡目継いでくれないかって言われたんだよ」杉野の目が得意げな輝きを放ち始めた。
「その人、日本中に手下が百億人いるんだ。自分ももう若くないから、誰かすげえ喧嘩の強さ持つ奴に、組を束ねてほしかったみたいなんだ。俺、前からその人に言われてたんだ。その人ももう六十年やくざやってるけど、今も俺の目見ただけでびびりそうになるんだって。でも、俺、お父ちゃんの部品作る会社継ぎたかったから、その話、断ったんだよね。だけど、何かあったら、すぐに手下飛ばすって言ってくれたよ。そりゃそうだよな。青木啓二だって、これまで喧嘩やった奴ん中で、俺が一番怖かったって言ってるもん。ばーんと切れた俺の怖さは、どんなに喧嘩の強い奴でも恐れるって」杉野の目、口ぶりには、目の前の私も威嚇対象となっていることが表れているが、これはあの頃からのものだ。
「りんどう入る前、入ったら喧嘩出来なくなるから、喧嘩やり納めだと思って、俺、喧嘩やりまくったよ。いつだったか、ロビンフッドの前で、変なチンピラ三十人ぐらいとやった時、凄かったな。一人で三十人だぜ、三十人。俺、ばーんと切れて、そいつらのこと、ばっこんばっこんやっちまったんだよ。道が血まみれになってさ、目玉飛び出して気絶してんのもいたよ。そんで、もう向こう、すみません、すみませんっつって泣いてるのに、ばかすか、ばかすか殴って、蹴り入れて、そんで、そいつらが乗ってたバイク、片手で一台づつ掴んで引きずり回して投げたら、どっかーんって爆発してさ、キノコ雲が上がったんだぜ。半端じゃねえよ」
昼の飲食店の席で、周囲を憚ることなく、どこの世界のものとも分からない話を喜々と語る杉野の目は、爛とした輝きを見せている。
「あ、思い出した。そこへ伊佐岡が来たんだよ」杉野は笑いを新たにして手を叩いた。この伊佐岡とは、青木ともども、杉野とは小学校から同じで、中学では男子バレーボール部に所属していた、半分体育会系、半分ヤンキー系の猛者連の一人だが、当然、私が友達になれるようなタイプの人間ではなかった。勿論、接点もない。
「そいつら、目ん玉飛び出て、脳味噌も出て血まみれなのに、一人づつ引き起こして、ぱかぱかぱかーってぶん殴ってさ、腹に蹴り入れて、馬鹿野郎、てめえら、杉ちゃん怒らせたら死ぬぞ、この野郎!って怒鳴ったんだよ。あいつも今、会社の社長で家庭あるけど、やっぱり怒ると昔のあいつに帰るよな。でも、その喧嘩見て、伊佐岡もびびったって言ってたよ。そりゃ青木も伊佐岡も新沼もみんな強えけど、俺がばーんと切れたらどれだけ怖えか知ってるからさ。青木がいつも下の奴らに言ってたよ。死にたくなきゃ、ぜってえ杉ちゃんだけは怒らせんなよって」
周りの客は、私から見て前の出入口側が、小学生の兄妹を含む四人の家族連れだった。後ろは、座る際にちらりと見た限りでは、夫婦風の年配の男女だった。前に座る家族の、主人の表情が暗く、さっさと食事を済ませて会計したいという感情が見えるように思える。
「あ、そうだ、また思い出した。実はさ」杉野は声を潜めて顔を寄せてきて、照れ笑いという風な笑いを浮かせた。
「俺、殺しちまったんだよ」
その発言に正気を疑う気持ちも、別段は起こらなかった。これは彼による、限られた思考範囲、縛りくくられた語彙力の自己アピール、その一端に過ぎない。この男が自分の身丈を伸び上がらせて物を話す時は、何が飛び出してもおかしくはない。私がそう落着させることが出来るのは、社会的意味での同胞として、そう長くはないながら濃い関わりをしてきたからこそだ。
「あれ、まだお父ちゃんとお母ちゃんが生きてる頃だったな」杉野はぐいと生ビールを呷り、底を叩きつけるようにしてジョッキを置いた。
「湊町の伯母さんの家行った帰り、ちょっと困って、駅で、サラリーマンみたいな人にお願いしたのね」
それを聞いた私は合点する思いになった。あれは杉野との付き合いに嫌気が挿し、彼から逃げていくらか経った頃、私鉄駅の構内に注意喚起の貼り紙を見た。杉野と同じ伸び方をした髪、酷似した目鼻をした男の人相覚書が簡易的に描かれたその貼り紙には、こういう顔をした男に乗客が金をせびられる事案が多発しているので気をつけるように、とのことだった。もっとも現在であるなら、監視カメラの映像からすぐに足がつき、早期に解決することは間違いなく言える。
「そしたらその野郎が、俺に、いい大人なんだから、だらしないとか、いろいろ言ってきやがってさ、そん時、俺、機嫌悪かったから、ばーんと切れて、これで脳天一発」杉野はまた金槌を出し、かざした。
「そいつ、脳味噌と目玉飛び出て、死んじまったんだよ」杉野は言い、哄笑を撒いた。向かいの席に座る家族連れの主人がチャイムを鳴らした。すぐ傍を通りかかった店員が伺うと、父親はオーダーのキャンセルを要請し、席を立つように妻、子供を促した。女の子は、杏仁豆腐、食べたい、と訴え、父親はコンビニで買ってあげる、と声掛けした。先頭を妻が歩き、主人が子供二人の背中を押して、こちらにそれとない目を配りながら、会計カウンターへ進んだ。私は目で、その父親に詫びた。
「みんな俺にびびって、誰も止めらんねえの。そりゃそうだよ。あの青木啓二だってびびってた、この俺だもん」
杉野は、その会社員に言われたことが、よほど図星のように刺さったのだろう。そもそも会社員職が尋常に務まるような人間相手に、論理の応酬などで勝てるべくもない彼には、以下の行動を自分の空想の中で行うことしか出来なかったのだ。
「それで駅員のとこ連れてかれたんだけど、お父ちゃんの友達のやくざが迎えに来て、それでちゃら。お父ちゃんの友達、やくざだけじゃなくて、弁護士も検事も裁判官もいるからな。それでみんな揉み消してくれるんだよ。あと、青木も伊佐岡も、喧嘩強え奴ら、みんな俺が呼べばすぐ来るしな」杉野は生ビールを飲み干し、ジョッキを空にした。
「だから、三上ももう少しでやばかったよ。俺の電話出なくなった時。あん時、俺‥」
杉野の目が据わり、私の心に負い目が疼いた時、杉野のうま煮そばと、私の味噌ラーメンが席に届けられた。
不同意猥褻で逮捕拘留された男が、殺人事件を起こして咎を受けないという矛盾は、彼の棲む世界では問う意味がない。虚実はさておき、話す、語るという作業が、彼にとって最も重要なことだからだ。
私が居合わせなかった、猥褻で身柄を拘束された時の情景は、見ずともありありと思い浮かぶ。公衆の面前で、刑事達に両脇を持たれ、写真を撮られる際の泣き顔。取調室で撒かれる泣き声。お父ちゃんに怒られる、を連呼したことは間違いないと見ていいだろう。
「三上、いただくよ」杉野は言って割箸を麺面に挿したが、私はそれには答えず、自分の割箸を抜いた。
だいぶ前の年度だった。市内の大型ショッピングモールで元の恋人と会い、連絡先交換を求められたが、自分達はそれはやめたほうがいい、と残して立ち去った。彼女は「これまで悪かったね」と会話が始まりばなに言ったが、この人、杉野ともども、明らかに普通に社会生活を営むことの困難を持ちながら、何の支援にも医療的ケアにも繋がっていない者同士、これまで、という語彙の中には、遠い過去のことも含まれる。少なくとも、恋人だった久子さんは、平成前期から令和の現在に至るまでの時間軸が同じで、時代の厳密な違いも分からないことだろう。何故なら、とある知人を介して聞く話では、彼女は今もフォーマルな支援の輪の外に生きているとのことだからだ。彼女の中には、今もあの茅の棒の体をした私がおり、一方、杉野は、やくざや不良が街中で大手を振る、腕力が第一的な男の値打ちとされていた時代の時空間に今も棲み続けている。今、私と向かい合って、周囲に睨み散らす視線を配りながら、うま煮そばを貪り食っている、五十代の男は。
店内BGMは、中学時代の私がそのメロディに胸をときめかせた、ナイトレンジャーの「クローズ・ユア・アイズ」が流れている。
味噌ラーメンは美味かった。トレーニング後の胃は、麺とスープをよく吸収した。ちゃんと味がするというところで、私は今の自分がリラックスしていることが分かった。
「噂で聞いたんだけど、町野佳子さん、今、ドイツに住んでて、日本語講師やってるんだってね」私が言うと、空ジョッキと、空の丼を前にした杉野は、諦念の浮き出た相を見せ、窓の外を見遣った。この町野佳子とは、かつて杉野が八割方が虚である、小学校時代に結婚の約束をしていたと語る相手だ。
「あの子、俺と結婚するはずだったんだよ。小学校の時、もう、家同士で取り決めてたんだよ」「結婚っていう制度だけじゃないよ。自由に恋愛する権利は、人間何歳になってもあるものなんだから。それは俺達にもあるよ。いいんじゃないかな。これからも、誰かを好きになったって‥」私のコメントに、杉野は寂しく俯いた。
五分ほど、言葉なく食休みをしてから、私は伝票を取り、杉野に促して席を立った。杉野は安全靴の踵を鳴らしながら、ゆっくりと私のあとをついてきた。
「別々でお願いします」レジに立つ、私達を席に案内した男性店員に、伝票を置いた私が言った時、後ろの杉野が不審な顔をしている気配が伝わってきた。
「お客様は、1451円になります」自分の食べたものを伝え、843円の代金を私が支払ったあと、店員は杉野に声を掛けた。
杉野は肥えた体を棒立ちに立たせ、店員と私を交互に見た。その顔色が、不審を経て、驚きになり、たちまち怒りに変わった。
「おい!」杉野は怒りの声を私に投げた。
「俺は奢るとは最初から言ってないよ。自分が食った分は、自分で払いな。人の財布や銀行口座に入ってる金は、その人が生活するためのものだよ。当たり前だろ」私が杉野の目をまっすぐに見据えながら言うと、ビールで紅潮したその顔に、みるみるうちに狼狽が満ちた。
「あのさ、俺、金、持ってるんだけど、その金、お姉ちゃんの預かり物なんだよ。だから、悪い。お願い」杉野は、白々とした笑顔を作り、両手を顔の前で合わせ、もう一度、お願い、と繰り返した。
「それはお前が昔から使い古してる弁明だよな。だけど、仮に本当にそうだとしても、それが他人にたかる理由にはならないはずだよ。金を持ってるから、自分から飯に誘ったはずだ。人に奢る、奢られるっていうのは、仕事をこれからよろしく一緒にお願いしますっていう契約や、お世話になりましたっていう感謝の場で行われることなんだよ。だけど、あの頃の俺は愚かだったから、奢ったり奢られたりすることの意味と、金というもののことが分かってなかったんだ。それでお前に、金のかかるもの、全てを奢り続けたんだ」「てめえ‥」杉野の顔から作り笑顔が消え、歪んだ怒りの相が刻まれた。
「俺、今、ばーんと切れたぞ。てめえ、脳天、出せ」杉野は言いながら、手の麻袋から金槌を取り出し、私の顔の前に突き出した。
「俺の脳天をどうする気なの?」「俺がばーんと切れたら、目と耳と手がぶわーっと真っ赤になって、このハンマーで、相手の脳味噌が飛び出すまで、めためたに殴っちまうんだ。そいつがどこへ逃げても、超能力で探し出して、殺しちまうんだ」私は、遠い昔の耳胼胝の述べに、敢えて言葉を返さなかった。
顰蹙と恐れの視線が気配となって感じられ、後ろを見ると、子供連れの家族と、運転手らしい二人の男の二組の他客が並んでいた。
「どうもすみません。どうぞ」私は後ろの他客達の気持ちを汲み取ってスペースを空け、手でレジキャッシャーカウンターを指した。
「すみません、外の暖簾の脇で話します。お金は必ず支払わせますので」私が言うと、店員は全てを理解した顔で頷いた。肚の据わった顔だった。
私が先に店外へ出て、自販機の前まで進み、杉野が逆駁の怒りを刻んだ顔でついてきた。
杉野が手の金槌を頭上高くに降り上げた。本気のようだった。その刹那に、私は彼の、薄く、弱い理性に改めて憐みを覚えた。
私は、自分から見て左側へ体を捌いた。杉野の体が前へ泳いだ。体を泳がせた彼の耳下に、自分の耳上から降り被った手刀を打ち下ろした。杉野の口から小さな声が上がり、彼は鼻から路面に落ち、伏せた。
月謝を納めて受けた訓練により、身についた動きだったが、這いつくばった杉野の顔に鼻血が滴っていることで、自分の未熟さを思い知る気持ちになった。これでも体は傷つけない配慮をするつもりだったのだ。
「大丈夫か」私は声を掛け、杉野の体脇にしゃがんだ。杉野は呻くばかりだった。
私は呻く杉野の腰に腕を、回し、彼を座位の体勢にした。これはかつて取得した、旧ヘルパー2級の杵柄だった。鼻血がTシャツに滴り落ちた。その鼻血を、私はポケットから出したハンカチで拭ってやった。金槌は、麻袋とともに、悲しい景観を湛えて、路面に落ちていた。
後ろを見ると、レジの壮年男性店員と、私達のテーブルにオーダーを取りに来た中年の女性店員が立っていた。女性店員の手には、スタンバイさせた携帯が持たれている。
「一部始終、見てました。あなた様の正当防衛が保証されると思いますので、警察に連絡させていただきたいのですが」男性店員が言うと、杉野は喉の奥から反転した声を上げ、鼻血の溜まった顔で振り返って、二人の店員を見た。
「嫌だ‥」杉野は弱々しく言い、体を震わせた。
「警察行くの、嫌だ!」杉野は叫んで、空を仰ぎ、涙と唾液を流し、しゃくり上げ始めた。
「警察、嫌だぁ! 刑務所行くのなんて嫌だぁ! お父ちゃーん! お母ちゃーん!」杉野の哭叫がが辺り一面に撒かれた。店に入っていくトラックドライバー風の三人連れ、その後ろに続く老齢の男女が、ぽかんと呆気に取られた顔を向けた。
私は杉野の肩に手を置いた。激しい肩の震え、背中の波打ちが、心底からの悲しみと、拭おうにも拭えない、時として不安、恐怖の色も帯びる寂漠を、痛く表している。虚言交じりに崇拝していた父親、優しかった母親は、今の彼がどれだけその存在を求めても、すでにいないのだ。これが彼にとり、どれだけ恐ろしいことなのかと察しようとした時、私の目の奥にも涙気が起こった。
理解はしているつもりだった。今、自分の前で慟哭を振り撒いている男が、これまでの人生で背負ってきたものを。その重さが齎す、時として耐え難くなる痛みを。
私も彼も変わりはしない。不本意に背負った生まれの荷物から、欲し、望むものを散々取り上げられてきた、硬く冷たい、臍の味を知っている者同士というところでは。
杉野の号咽は、三分ほどして、啜り泣きに変わった。
「三上。あの時、どうして俺の前からいなくなったの?」顔を涙と洟で光らせた杉野が訊いてきた。
「杉野。あの時言わないで、溜めちゃったことは本当に悪いと思ってる。水野忠之(みずのただゆき)、覚えてるか。あの眼鏡の、俺の友達」私の問い返しを、杉野が理解したか否やかは分からないが、私は、あの時言わずにいた気持ちを、包み隠さず打ち明けようと思った。
「あいつはハンディキャップを持ってるけど、いい奴だ。俺の家で、俺達が二人で話してる時、遊びに来たあいつを威嚇したこと、覚えてるか」私の問いかけに、杉野は彼なりに記憶を引き上げようとしているらしいことが見て取れた。
「その上、あいつが帰ったあと、友達である俺の前で、あいつを馬鹿にしたことも覚えてるか。あいつの吃音、吃りのことを、あいつ、何言ってんだか分かんねえよ、ああいうのがうちに来たら、うちのお父ちゃん、ああいうの嫌いだから、アイウエオから練習させられるよ、とかって言ったんだ。覚えてるか。これで、俺はもうお前とは付き合えないと思ったんだ」杉野の表情には、それを思い出しかけている様子が覗えた。
「辛いことを言うけれど、お前がせっかく友達になった人間から去られるのは、当たり前だったんだ。お前がどんなに寂しくたって、将来のことが不安だったってな」私が言い、杉野は洟を啜りながらうなだれた。
「三上と連絡取れなくなった時、俺、話聞いてもらいたくてしかたなかったんだよ。うちに出入りしてた叔母さんの態度のこととか、他のいろいろなこととか。それなのに、俺の電話に出なくなって、お前のおばさんからはもうかけてこないでって言われるし、俺、誰に自分の気持ち、話していいか分からなかったんだよ」
水野の件には無答だった。だが、そこで私は改めて、長い間、自分に癖づいていた問題の処理方法に胸が痛む思いになった。その方法を取ることで、相手の人となりはどうであれ、事実的に人を傷つけてきた罪の重さが胸に押し寄せていた。それにより傷つけ、悲しませてきた人間は、彼だけではない。
彼だけでは‥
「杉野、あの時は本当に悪かったよ。謝っても謝りきれないぐらいに申し訳ないと思ってる」私は彼の両肩を掌で抱きながら、心からの言葉を掛けた。
「あれはあの頃の俺の愚かさと、もはや男とは呼べないへなちょこさ加減が作った、大きな罪なんだよ。出来ることと出来ないことをはっきりさせなかったことで、お前を傷つけて、悲しませることになったんだ。それと、さっきの水野のことで、お前にちゃんと怒らなかったこと。この辺りをしっかりさせれば、お前と長く友達でいることが出来たんだ」私が言い、杉野はうなだれたまま、また啼泣を始めた。
「だけど、あの時、自分だけじゃどうにも出来ない悲しみを抱えてたのは、お前だけじゃないんだ。お前は俺に彼女がいることを羨ましがってたよね。だけど、お前も写真を見て顔を知ってるあの子は、普通の人じゃなかったんだ」私が打ち明けた時、杉野ははっとなった顔を上げ、私を見た。
「あの子、池野久子さんは、お前と同じ立場の人なんだよ。一般就労が困難な知的障害を持ちながら、支援にも医療にも繋がってなかったんだ。それは彼女の親が、娘の障害を受け入れられないばかりか、障害者に偏見を持ってたからなんだ。自分達が働きづめで余裕がないから、ああいう人達が楽をしてるように思えてたんだとも思うんだ。俺は久子さんの保護者同然の状態で、八年間、傍に付き添ったんだ。一緒にいることで、世間の無知さ、冷たさもたくさんみなくちゃならなかった。そんな冷たい風に晒されて、凍てつくような悲しみの世界に棲んでる久子さんを、本当に唯の一人で支えてたんだ。それでも俺は、自分は普通の可愛い女の子と付き合ってると思い込むようにして、周りにもそう思わせたかった。まだ障害が色眼鏡で見られてたあの頃、俺は彼女の障害を、誰にも打ち明けようにも打ち明けられなかった。それで、それを自分の胸の中だけに留め置こうと決めて、たった一人で彼女に寄り添ってきたんだ。その中で、俺がどんな地獄を見てきたか、想像出来るか?」
杉野は水を打たれたような面持ちで、ただ私の顔を見ていた。
「その久子さんと、どうしてそういう関係になったかというと、他ならない俺自身も、彼女やお前と同じ立場だったからだ」私はウエストバッグから、緑色の障害者手帳を出し、杉野の前にかざした。
「87。何の数字か分かるか。俺のIQだ。言語性、言葉のほうは高いけど、動作性、知覚統合というのが精神遅滞の域なんだ。この精神遅滞というのは、そのもの、知恵遅れだ。俺はそこそこ言葉を上手に操ることは出来ても、実用的な知能がないんだ。つまり俺は、実質上の知的障害なんだよ」
あの頃には分かるべくもなかった私の打ち明けに、杉野の顔が改まったことが分かった。
「そんなハンデを持つ上に、握力が二十もない俺が、ボス猿が支配する猿山みたいな倉庫や、明らかに無能な奴が上に祭り上げられてる陰険な職場で、どういう扱いを受けてきたかも分かるか?」
杉野はじっと私の顔を見据えているが、濡れたままのその顔は言葉を発さなかった。
「だから、福祉の仕事で身を立てようとしたんだ。自分自身の苦しみもそうだけど、お前や、久子さんみたいな人を一人でも、自分の出来る手段で助けたかったからだ。その仕事は足掛け十年やったよ。だけど最後には、自分の望まない結果を突きつけられて辞めることになったんだ。こういう風に、俺達みたいな人間は、一途な気持ちがいつも裏目に出るんだ。それで、欲しいものはみんな取り上げられるんだ。世間一般の恋愛も、結婚もない。一般枠で人並みの金を稼ごうとしても、潰されて職場を追われるし、施設の作業工賃なんてものは小遣い程度のものしかもらえない。綺麗な異性と結婚して、幸せな家庭を築くなんていう人生は人のものなんだよ」
最後のセンテンスを言った時、私は自分の声が詰まったことが分かった。
「俺は久子さんだけじゃなくて、お前にも寄り添って、傍にいてやろうと思ってたんだ。それはお前が抱えてきたものが痛いほど分かってたからなんだ。だけど、これはお前だけじゃなくて、俺も、誰かとの距離感とか、金というもののことを分かってなかった。それでしまいに、お前のことも、久子さんのことも、抱えきれなくなって捨てたんだ。申し訳ないことをしたよ。だけど、分かってくれ。久子さんはあのあと、私生児の子供を産んで、シングルで養育したその息子を、お祖母ちゃんに小遣いを渡すような孝行な青年に育て上げたんだ。立派に、一人の人間を作ったんだよ。だから、お前だって、価値のない人間なんかでは絶対にないはずなんだ。俺が知ってるお前は、本来的に親思いで、お年寄りや子供に優しくて、動物好きな人間だよ。お前のトークも面白かったよ。だけど、間違ったことを教えられる縁の中に育っちゃったからね、俺達は‥」
私が涙を指で拭いながら言った時、後ろから、崩れた笑い声がした。前で事の経過を見守る二人の店員の目も、そちらに向いた。
Tシャツの腕に彫物を露わにし、印台の指輪を嵌めた男と、荒れた肌を下品な化粧で汚した金髪の女、同じく、凝ったカットを施された髪を茶髪に染められた二人の子供という四人の人間がいた。その大人側のほうは、いかにも職業不詳風に見えた。小学校低学年に見える長男は、一緒にいる親の気風をそのまま継いだような目つき、表情をし、未就学児らしい長女は、親から強いられたのも同じの髪色をしていながら、焦点の合わない視線をさまよわせている。
彫物の父親が、嘲る笑いを浮かべて、私と杉野に携帯を向けていた。その妻も、父親である男の行動を煽り立てるような表情を見せている。
「携帯を向けるようなものじゃないですよ」壮年の男性店員が、ぴしゃりと響く声の短い注意を飛ばすと、男は謝るでも切れを返すでもなく、何も言わずに歩道橋へ足を向け、後ろに妻子をずらずらと従えて歩み去った。
幼若の時分に誤ったことを教えられたら、それは違うと正す人間と、自分自身がその正しを受け入れることが必要だが、その受け入れを自分に促す心を作ることに教育の意味があると思う。
私はこの町の、徳育不在の環境下に生きる子供達の未来を思った。
「三上」杉野が立ち上がり、鼻を鳴らして、拳で涙を拭った。
「俺と友達やり直してくれないかな」言った杉野の目を、私はまっすぐに見つめた。
「それは出来ないんだ、杉野」私が言うと、杉野の目に、また涙が湧き光った。涙と涙の視線が交わった。
「障害同士で固まって、周りから孤立するっていうことが、一番いけないことなんだ。これは俺の経験なんだ。俺やお前みたいな人間は、障害に対して理解のある健常の人と付き合って、知恵を授けてもらうことなんだよ。俺達は、もう生活圏が違うんだ」私が言い、杉野の頬にまた涙が伝った。
「俺には夢があるんだ。書くことだけは子供の頃から得意だったから、小説を書いて、これまで自分が溜めてきた思いを、少しでも世の中に広めようと思ってるところなんだ。お前も、りんどうが嫌だったら、グループホームに移るのもいいだろう。お前には、気持ちをちゃんと伝える力があるから、りんどうの人やお姉ちゃんに、こういう所、行きたいんだって話すのがいいと思うぞ」「三上」すがり、訴えるように言った杉野の許から、私は信号機のほうへ足向きを変えた。
「大変ご迷惑をお掛けしまして、申し訳ございませんでした。彼からお金をもらって下さい」私は言い、二人の店員と辞儀を交わし、横断歩道へ向かった。国道はいつもと変わらず、大小の車両が振動を響かせて通過していた。
バス停側の歩行者用信号機が青を点灯させ、渡り始めた時に萬宝を振り返ると、店員、杉野の姿はなかった。事が終わったことを示すように、彼らのいた空間が空いていた。
横断歩道を渡りながら、私は思った。これからの日本社会を含む、世の中の移ろいは分からないが、私が少年だった頃には、このコンクリートの孤島が、老いた人々が晩年の時間を送る場所、多国籍のゲットーになることは誰一人とて想像していなかった。この孤島がいつ、老朽化による取り壊しという形で終わりを迎えるのか、その後は何に変わり、そこには何が息づいているかは分からない。その頃、私は寿命の灯が消える手前かもしれないし、すでに世を去っているかもしれない。
だが、誰がどのような手を加えても変わらないものがある。それを守る人間として、私は生を全うしたいと願う。
その中で、久子や杉野のような人が一人でも多く、幸せを手にする縁を掴めるような社会へと進んでほしいと祈り、願う。
人の評価が変わり、協力者を得ることが出来る時は、その人の心が変わった時だ。
気持ちは爽としていた。あの頃から、言わなくてはいけなかったが言えなかったことを、言うべき相手に余すところなく言うことが出来たからだ。
公団入口のバス停には、小中を同じくした、堀川が立ち、バスを待っていた。低身長でずんぐりした体形、変わらない下膨れの顔をした彼は、意味の窺い知れない笑いを浮かべながら、缶ジュースを飲んでいる。体は肥満が進み、頸の肉が段を作っている。
小学校時代に猫を殺していたという噂のあった彼は、高校卒業後すぐに統合失調症を発症し、入退院を繰り返していたが、噂では、母親も精神障害者だという。その母親は、現在存命ではないと、私には思える。
堀川にはないのか。この孤島から抜け出したいと言う気持ちが。彼も経済的自立に困難を抱えているため、縛りつけられたようにここから動けないことを、自分でどう思っているのか。
背負った親、環境への怨嗟はないのか。
彼は元より、私、杉野、久子と、背負うものは互いに遠くない。だが、自分が持つ能力の範囲内で出来ることを知り、助けてくれる人を探すことによって、その人生が成り立つ。
きちんと自分を持って生きることだ。今の久子が、あれからきちんと親の務めを果たし、周囲の心ある人達を味方につけ、子供を立派に育て上げたように。
最後に測られる魂の価値は、決してペーパーテストの点数ではない。その人の心がいかに聡明か、ということに尽きる。
彼ら、彼女達の幸せを心から祈りながら仰ぎ見た残暑時の空は、雲一つなく晴れていた。完。
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