ふたり

よこぎハル

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ふたり

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「センセイはね、髪の毛は真っ白で、顔はけっこう可愛かったんだけどね、いっつもしかめっ面してたんだよ。そう、性格! 性格が似てないの」
 強い日差しが降り注ぐカフェテラス。フロートに浮いたアイスはあっさりと溶けて、スプーンで撫でるととろりと流れて青く弾けた。彼女の話には、いつも『センセイ』が出てくる。
「センセイったら、遺伝子上は私と全く同じらしいんだ。でもぜんっぜん似てないでしょ。ほら、私の髪真っ黒だもん」
「一卵性双生児、ってやつ?」
「んん、似たようなものかな」

『ラットの研究者、その最後の一人が拘束された。政府に利用されていたとしても、その非道は到底看過できるものではなく、終身刑が妥当と……』
 すぐ近くの高層ビルに、お昼のニュースが流れている。どんな人なの、緩い相槌を打って彼女の話に耳を傾けた。
 

 
「センセイ」
「喋るな。回復が遅れる」
 センセイ、そう呼び始めたのがいつかは覚えていない。けれども白衣とビニールの手袋を身につける人は、そう呼ばれるものだと思っていた。
「やさしーい」
 センセイは、身長も見た目も私とあまり変わらないくせに、白い色の髪をしていた。本当のところ私は自分の顔をよく見たことがなかった。ぐるりと並ぶ手術室のライト、それに映る自分の顔とメスを持つセンセイ、そのふたつがなんとなく似ていると思っただけだ。
「センセイはさ、私の事可哀想だ、って思ったことある?」
 開いて閉じて、それは定期的に訪れたり、ぱたりと止んで点滴だけになったりした。全部センセイがやってくれる。怖くはないし慣れっこだけど、痛いことは痛かった。
「……お前は飼育されている豚や牛を見て、可哀想だと思うのか?」
 ほら採血だ、そう言って腕を持ち上げられる。白い指先はいつも冷たかった。
「豚! 私牛より豚が好き!」
 細い針が血管を探して皮下組織に潜る。ここに穴が空いてれば便利なのにねえ、そんなことを幾度も尋ねた気がした。
「センセイもさ、血って流れてるの?」
「流れてるよ」
「センセイの血の色も同じ?」
「同じ赤だ」
「センセイの採血は誰がするの?」
「自分でできるから自分でする」
 センセイは、私と比べると喋るのが好きじゃない。真っ黒な目はいつだって伏せられていて、瞳の半分も見えていなかった。会話が途切れ、暇になって足を揺すろうと試みる。しばらく動かしていなかったからか、下半身にはあまり力が入らなかった。
「しばらく休息だ。血だけ調べる」
「はーい」
 能天気に手を振った。
 豚も牛も生で見たことはない。肉の形のその前があった、それは聞いたことがあった。黒髪だった頃のセンセイから教えてもらった、ような気がする。
「牛も豚も、可哀想だって思ったことはないかもなあ」
「まだ続いてたのか」
 戻ってきたセンセイは、後ろ手にドアを閉めロックをかけた。この部屋は結構広い。この隣は手術室で、そのさらに隣はなんだか知らない。
「家畜は食べるために飼われる。お前は、手術されるために生かされている。私は何とも思わない」
「なるほどねえ」
 うんうんと頷いた。当たり前のこときいちゃったなあ、そう漏らす。閉じられたばかりの腹がびきんと痛んだ。
 センセイは隣のベッドに眠る。
 白衣を端にかけて、その日着た服を全部四角い箱に入れて、お前のも寄越せと腕を伸ばした。手術着は頭から簡単に脱げる。着ない方が早いんじゃないかなあ、それも時々思うことだ。
「おやすみ、センセイ」
 センセイは隣のベッドに起きる。センセイは隣でご飯を食べる。センセイは隣の部屋で私の身体を開く。
「……おやすみ」
 三秒遅れて返される挨拶。
 名前を呼ばれたことがなかった。名前という概念がなかった。センセイの言葉はいつも私ひとりの為にあるのだから、それで全然構わなかった。
 

 
「元気そうだな」
「……元気、に、見えるー……?」
 休息期間を挟んだあとは、(彼女曰くインターバルらしい)時々何度も身体を切られることもあった。もちろん執刀は彼女だ。彼女の手にこびりつく赤は、今は捨てられ白い指先だけが残っている。
「一昨日は子宮で、昨日は脾臓。今日は、なんだっけ……あと明日、明後日と……お腹、閉じて開けてって、忙し……」
 はふはふと浅い息を繰り返す。点滴が繋がっている上横向きにはなれない。腹をかばって寝たかった。服をいれる箱みたいに、お腹が元々開いていればとも思う。
「別の実験も入った。動けないとは思うが、動くなよ」
 彼女の頭がちらちらと見える。どうやら虫取り網とプラスチック製の板を持っているようだ。虫は見たことがない。素直にネズミ捕り網に名前を変えたらどうなんだろう。
「ネズミ? いいなあ、見せて」
 彼女は暫し考えたあと、籠ごと持ち上げて見せてくれた。
「ほら」
 顔の真横に、プラスチックと金属の箱が下ろされる。中にいたのは何の変哲もないマウス、それが二匹仲良く収まっていた。
「二匹一緒なの?」
 普段なら一匹ずつ入るケージに、模様の微妙に違う斑マウスが二匹。ちょこまか動いて駆けずり回って、かと思えば床材を軽く掘って、唐突に寝たりした。ちょうど子供と大人の中間ぐらい、固形飼料に頑張って手を伸ばしている。
「クローンのマウスだ。本来一つの受精卵だったものを分割した」
「クローンなのに、毛皮が違うねえ」
「ああ」
 二匹は互いに干渉せず、と思えば毛繕いをし出す。片方はずっと動いていて、片方はマイペースに寝たりしている。自分が二人いたら案外こんなふうに自由なのかもしれない。見ているうちに段々と情が湧き始め、うずうずとして声をかけた。
「ここで飼っていいの⁉」
「飼育室の外に出したから、四十八時間以内に殺す」
「なんだあ」
 よく見れば目の端、やたらと大きなネズミ用の麻酔装備もあった。箱がひょい、と持ち上げられる。ここで捌くのかあ、別にいいんだけどね、独り言のようにそう漏らした。
「気をつけろよ。人権派の奴ら、ここの場所を特定しようとしている」
 マウスは持ち上げられたのか、チチッと抗議の声を上げた。透明な箱の中に入れられてしまえばすぐに意識を失う。静かになった空間に、私の声はやけに響いた。
「ジンケン……? って、なに?」
「……」
 マウスが持ち上げられる。手足を虫ピンで止められ、布の上に固定された。あれもネズミピンでいいんじゃないかな、わざわざ虫ピンと言う意味が分からなかった。
「難しい概念だから、私も深くは理解出来ていない」
「うーん。ガイネン、ってやつなのね」
 お腹にハサミを入れられて、麻酔の切れたマウスが喚きだす。持ち上がった頭にはアルコールの染みた脱脂綿籠が被せられる。そうするとまた大人しくなって、あとは横隔膜を切られるまでそのままだ。今日は五段階中の三。ぎりぎりで安楽死。言葉の意味はよくわかっていない。
「例えば、マウスにも人権のようなものが決まりとしてあった」
「え? そうなの?」
「それを保証するための決まりなら教えられる。例えば、実験に使うマウスは一日で殺すだろう」
「うん?」
「動物実験にも規定があり、無駄な苦痛を与えることは禁止されている。術後の痛みを感じないようにするためだ。言うなれば動物版の人権だろう」
 事切れたマウスから、手際よく内臓が抜き取られていく。ひとつひとつホルマリンの入った瓶で固定されて、マウスは十二の小瓶に変化した。
「お前は殺されない。何度も使われる。これはお前がその権利を有していないからだ」
 それを見ていたもう一方のマウスは、同じ運命を辿るとも知らず能天気に走り回っている。同じテーブルにいてもこうなのだ、センセイが可哀想だと感じないのも概ね理解出来る。
「ふーん……むずかしいね」
 話していると不思議と痛みから意識が逸れてくる。どさりと言う音でマウスがビニール袋に落ちた。センセイが上手いからなのか、血は案外出ない。見れなくても分かるぐらい熟知していた。センセイは私だけではなく、マウスも解剖する。そのマウスにあって私にないものが人権なのだろうか。分からないからそのまま寝てしまった。
 
 
 
 二ヶ月くらい後の、確か雨が降る日だった。
 その頃たまたま実験は落ち着いていて、今は投薬のものだった。一時的に血圧が下がって意識が飛ぶものの、それさえ過ぎればなんてことはない。朝からずっと空が灰色で、どれくらい気絶していたかよく分からない。時計を見る。十時半、お昼とも呼べる時間だろう。センセイは横で器具を洗っている。立ち上がってうろうろと歩いて、四角い窓のところで立ち止まった。
「今日は人権派の人が多いねえ」
「そうだな。騒がしい」
 この施設は海沿いのようで、随分高い所にある。入口である階段はひとつだけ、そっちの方はよく見えない。けれども今日は、そこに収まらないくらい大勢の人がいるらしい。
「あ」
 ふと、その中の人達が掲げているプラカードが見えた。白地に黒い線。カタカナと平仮名は読めた。
『ラット達に人権を』
「ねえセンセイ、ラット、に、を、って書いてあるよ。ラットってなに?」
「……隠語で、マウスの更に上の、実験動物のことだ」
「へえー」
 センセイは尋ねたら、何でも教えてくれた。
 下の人たちの口が同時に動く。声を合わせて叫んでいるのだろう。元気だねえ、そう手を振った。
 
 
「参ったな。物資が届かないらしい」
 次の次の日になって、センセイはそう苦言を漏らした。投薬は急遽中止になり、休息期間となったたらしい。それもこれも、唯一の階段が人権派とやらによって占領されているからみたいだ。
「大変だねえ」
「食料もいつまで持つかな……」
 センセイはキューブ状の野菜と肉をかじってひとつため息をついた。もうやる、そう言われ投げ出されたそれにかじりつく。センセイこそ細いんだからもっと食べればいいのに。術後の点滴で自然と健康体になってしまう私は、そう思ってもう一度センセイに近づいた。
「センセイがさ、あの人たちの首も全部落としちゃえばいいんだ! それなら安楽死だから、人権のあるネズミにもできるよ」
「ダメだ。犯罪になる。あいつらは人権あるヒトだ」
「ふーん……」
 提案はあっさり却下される。人権派とやらはずっといた。センセイはいつもの部屋と別の部屋との往復もやめにして、一日一緒にいてくれる。つまらない話を沢山してしまった。
「センセイはさ、私のことを可哀想だって思ったりする?」
「農家が野菜を出荷する時と同じことだ。食べるために埋めたものに罪悪感なんて感じない」
 同じ答弁を何度もした。でも、センセイは全部答えてくれる。甘えるように喋り続けた。そう言えば今日は採血もない。服の取り換えもない。身体を拭くタオルも来なかった。
「まずいな」
 センセイが寝言のように呟いて、その一日も終わった。
 

 まだ夜だった。
「人権派が突入‼」
 サイレンに呼び起こされる。
 咄嗟に時計を見る。非常灯は足元にしかつかないので、よく見えなかった。多分五時。センセイも飛び起きて、昨日回収されなかった服に袖を通した。この部屋はかなり高いところにある。通風口から悲鳴が聞こえた。人権派が何なのかは分からなかったけれど、いいものじゃないらしい。
「センセイ……」
 見るとセンセイは顔を真っ青にして、窓の外をじっと眺めていた。センセイが窓の外を見るのを初めて見た。頭が弱いからすぐ思考があっちこっちに行ってしまう。その転回の速さは、この時だけは救いだった。
「逃げてセンセイ、こっち‼」
 センセイが左手をドアに当てる、それでドアが開くことは知っていた。手首を掴んで無理やり押し当てる。初めて廊下に出た。初めて反対側の窓を見た。海だ。海の向こうに、まだ目覚めていない高い建物がある。廊下は随分静かだった。私とセンセイにしかこのスペースは使われていないみたいだった。
「逃げよう!」
「いや待て、私たちには、ここから先には、……」
 ひとつ階段を下がった所にまたドアがある。けれどそれは開けられなかった。けれど分かる。流通経路が他にもあるはずだ。
「センセイ、いつもあの服とかマウスとか入った四角い箱、どこに入れてた?」
 警報は相変わらず唸っているし、下の人達はざわざわと蠢いている。けれどまだここは静かだった。いつも通り世界に二人きりだった。
「ダストボックス。飼育室の、隣にある」
 自分たちの部屋、手術室、飼育室。その先にダストボックスはあった。人ひとり、なんとか滑れる隙間がある。早くと急かした。
「どうせ病棟の外に出たこともないんでしょ。私はね違うよ。いつも眺めてたもん!」
 センセイの手首は細かった。
 手術前の私と同じで、少し脈拍が速かった。
 無理やり先生を押し込んで、狭い通路をつるつると滑り落ちる。下に落ちるまでに何度か減速を試みて、なんとか広いところへ辿り着いた。
「ゴミを捨てることもできなかったんだな。よかった、マウスに手を出していなくて」
 ダストボックスに捨てたと思しき、紙に包まれた注射器や一昨日の服、似たようなものがいくつかの穴から零れていた。ビニール袋に包まれた、マウスの塊みたいなのも見える。なるほどあの上にお尻はつけたくない。
「地上か……?」
「わかんない。あ、みて、ドアがあるよ」
「産廃出口……」
 ドアのように見えたけれど、スイッチも何もついていなかった。短い円柱、それがくっついているだけで開け方がさっぱり分からない。
「……こうか」
 センセイはそれをぐるりとひねる。きいいと嫌な音がして、ドアがゆっくりと開いた。
「やった!」
 足元には砂混じりの草があって、そのすぐ側まで道路が伸びていた。人権派とは違う側に出たらしい、この道路には人はいなかった。
「あ。ほら、反対側にたくさんいるね! 車もあるよ」
「こっちに逃げよう」
 センセイが私の手を引いた。さっきまで固まっていたのが嘘みたいで、嬉しくなってつられて走った。
「ねえ、どこまで行くの?」
「……」
 センセイは何も話さなかった。喋りながら走るとちょっと身体が痛い。途中でそれを学んで、その頃ようやく返事が帰ってきた。
「分からない」
 道路は長い。少女がふたり手を取って逃げるのには少し長すぎた。やがて太陽が登ってきて、センセイの髪がきらきらと朝日に光る。はあはあと何度も息が荒れた。センセイもそれは同じようで、隠れよう、そんな提案をされた。
「道路は、目立つ。それに車が走る。海岸沿いに行こう」
「うん! 海に行きたい!」
 断る理由もなく、私たちは道路を外れ海岸に向かった。対岸には高い建物、振り返って見えた施設のようなものがたくさんあった。
「あれもみんな、施設なのかな?」
「いいや。あれは街だ」
「街ってどんなところ?」
「……詳しくはないけれど、人が沢山いて、食べ物とか服を得るところだ」
「へー。部屋にいればもらえるのにね。めんどくさいね」
 対岸の街とやらにはまだ陽が当たっていたが、こっちは段々と陰り始めた。雲の影が私たちをさっと追い越して、その数がじわじわ増えてくる。気づけばもう海はすぐ隣だった。冷えつつある砂が心地よい。
「水は怖いね。私もセンセイも見た事ないもん……とりゃっ‼」
 言いながらも勝手に身体が動いた。水は冷たくて、踏み込むと飛沫が高く上がる。服の裾はもう濡れつつある。水を含んだ砂は、乾いた砂とも違う質感だ。ぎゅうっと奥底に引きずり込まれそうになって、それが楽しくてきゃあきゃあと笑う。
「センセイもほら! あははは、冷たい冷たい!」
「……濡れるなら、服を脱いだ方がいい」
 遠回しに、「私は入らない」と伝えられたみたいだった。そんなこと気にしないふりをして、もう一度あの細い手首を掴む。
「ねえ、このままあっちの対岸まで行こうよ!」
「お前泳げないだろ。やめておけ」
「泳ぐ⁉ センセー、泳ぐってどうやるの⁉」
「この深さじゃだめだな。もっと深いところにいかないと」
「このぐらい⁉」
「あー……服が……もういい」
 ざぶざぶと海を歩いた。腰まで水が着ていて、下着もついに濡れてしまった。このまま水から上がると、張り付いて少し気持ち悪い。だからもっと深くまで歩いて、センセイはもっと嫌そうな顔をした。
「……手足を動かして、水への反動で前に進む」
 諦めたように先生が話す。ばしゃばしゃ、デタラメに手足を動かした。砂に足がついたら跳ねるように蹴りあげて、水面を叩くように腕を振り下ろす。
「顔を水につけろ。息をしたい時だけ上げるようにするんだ」
 頭を下げると、不思議なことに身体が安定した。上半身を上げて息をする。すると下半身が沈む。繰り返すうち足を伸ばした方がいいことに気がついて、少しずつ進んでいる気がした。
「覚えた!」
「嘘つけ」
 立ち上がろうとして膝に砂がつく。どうやら波で浜辺まで打ち上げられたようだった。立ち上がると砂もへばりついて不快感がすごい。泳ぐって難しいね、にこにこ笑ってそれを誤魔化す。彼女に向かって、両の手を差し出した。センセイは少し首を傾げたあと、汲み取ったのかその手を掴む。
「センセイもこっち来て!」
「こら、ばか……」
 水の中の砂は、思ったよりも不安定だった。引っ張った身体がよろめいてバランスを崩し、二人は海の中に転ける。シャツも何もかもびしょ濡れだ。
「センセっ、大丈夫?」
「……」
 センセイは無言だった。頭についてしまった砂を必死ではらう。水に濡れた髪はぺたりと頭に張り付いて、砂を取りきるのはちょっと難しい。
「あ……! ねえ、このキズ、私にもあるんだ! お揃いだね!」
 髪をかきわける私の指の中、センセイの頭に、大きな縫い目を見つけた。
 それはちょうど私と同じ、頭の上半分をぐるりと一周するものである。
「お前の脳みその半分は、私の頭蓋にいれてある」
 ふと、センセイから意外な事実を聞いた。
「だからセンセイって賢いのかー! ねえねえ、センセイは自分で自分を手術したの?」
「いや。センセイにも、先生がいるということだな」
 そう言えば確かに、七歳の時までは、私たちは誰かに同じようなことをされていた記憶がある。首、背中、胸部の真ん中。水で肌に張り付いたシャツは、センセイにも昔の傷があることを教えてくれた。
「センセイがセンセイで良かったなあ。私、手術痛いから、あんまり好きじゃないの。でもセンセイだから大丈夫!」
 何度腹を開けられ、洗われ、切り取られたか分からない。けどセンセイのことは嫌いになれなかった。なんでだろう。今もこうして丁寧に砂をはらって、乱れてしまった髪を梳かしている。
「ねえ……私、こんなに色々痛いことされたのに、なんでセンセイのこと嫌いになれないんだろう」
 海水で頬にへばりついた髪を摘む。白い髪は花曇りの中灰色に見えた。
「当然だ。だって私たちは……」
「わっ⁉」
「⁉」
 高い波に頭から洗われて、二人とも更に岸辺に押し上げられる。風がもっと強くなって、雨もぽつぽつと降ってきた。逃げ帰るように木の下へ行く。寒い。服は二人ともぐしょ濡れで、乾く見込みもあまりなかった。
「このままじゃ風邪を引く。脱いだ方がいい」
「分かった!」
 躊躇いなく全部脱ぎ捨て、いつものくせでついセンセイに渡してしまった。替えられないぶんちょうどよかったかもね、少しそう思う。汗の匂いはしない代わりに、二人とも海水でべたついていた。
「なんか疲れちゃった……」
 突然、身体にどっと負荷がかかって、ごろりと草地に寝転んだ。そう言えば、こんなに身体を動かしたことは初めてだ。草がちくちくと身体を刺す。心地好い倦怠感に長い息を吐くと、すぐ隣にセンセイも寝転んでいた。
「センセイ」
「……」
 ベッドは隣同士だったけれど、隣に寝転んだことはない。さっきの流れで手首を掴んだ。やっぱり細い。なんとなく、本当になんとなくその手を上へとなぞっていく。骨を囲む脂肪が次第に増えてきて、逆に肘は骨ばっていて硬かった。上腕には筋肉と脂肪が程よく乗り、特に柔らかい胴体側はひどく熱い。ああ血が流れてる。センセイの血を見た覚えがないからああ言ってしまったけれど、やっぱりセンセイも生き物だ。丸い肩を、薄い喉の皮膚を上がり、小さな耳のふちに触れる。
「くすぐったい」
 間近で言われてすごく驚いた。咄嗟に指を引っ込めてごめんねと返す。自分の体温も上がっているようで、さっきより不思議と寒くない。
「センセイ、私にはよく触れるじゃない」
「まあな」
 触れるにカウントしていいかは分からない。メス越しの方が、ひょっとしたら多いかもしれない。それは思っても黙っておいた。柔らかい指に指を絡ませる。
「私が触れるのは、ダメ?」
「いや、……」

「……おい。なんで今、キスをした」
「キス⁉ キスっていうの、これ」
 柔らかい指に指を絡ませて、その延長線上で唇をくっつけただけだった。指は脱力したままだし、ダメではないみたいだし。けどこの行為に名前と、おそらくは意味があること。それは初めて知った。
「センセイの身体、熱いねえ。私と同じ」
「違う、二人とも冷えているんだ」
 絡んでいた指を外し、もう一度触れる。触れた身体はどこもかしこも熱かった。狭い肩を撫で、隆起した胸を辿り、浮き出た肋骨、細い腹、固い腰骨となぞっていく。やたらと指先に馴染むラインだった。指だけじゃ足りない。疲れた身体を引きずって、ぴたりと彼女に擦り寄った。あつい。海水が肌を繋ぐように間をつたう。
「気持ちいいねえ」
「……」
 彼女は特に抵抗もしなかったので、鼻を擦り寄せ額をぶつけた。潰れた胸の奥から心音が伝わってきて、皮一枚隔てれば、彼女の中にも同じ心臓が眠っていることを知る。私もセンセイの心臓を見てみたい。センセイばっかり、私のことを知っていてずるい。
「さっきの質問の答え、なんだが」
 不意に、目の前の唇が動いた。吐息がかかる。少しくすぐったい。
「なあに? センセイ」
「身体が、ひとつに戻りたがっているんだ」
「からだが?」
 予想外の答えだった。確かにこうしてくっついていると、不思議と落ち着いてくる。草の上、頭の下敷きにされた髪同士が混ざっていた。
「私たちは、二人で一つ、だったんだから」

「そうなの?」

「ああ。受精卵の時に半分に分けられたらしい。お前も私も、普通の人間よりも遥かに回復力が高く作られている」


「そうなんだ。だから何回でも使えるんだね」
 たわいのない話だ。いつも通り。ただ距離が近いだけ。その後また色々話して、疲れて眠くなってきたところで、センセイが私の身体に腕を回した。
「センセイ、かしこいね。やっぱり頭がいい」
「うん、うん……」
 センセイはもうだいぶ眠たそうだった。やり返すように、私も彼女の身体を腕で引き寄せる。
「毎日一緒に寝よ、ここで暮らそうよ、ね、センセイ」
「うん……」
 センセイは、眠りに落ちる一瞬前、笑ったような顔をした。気がした。
 

 
「……ふあ……」
 どのくらい眠っていたんだろう。ひどくひどく疲れていたから、どうやらそのまま朝を迎えてしまったらしい。お腹空いた、そう思ってセンセイを揺すり起こす。
「センセイ、センセイ起きて」
「……んん……」
 ようやく起き上がったセンセイに服を渡す。さすがに一晩過ぎればもう乾いていた。空は雲が多少あれどいい天気だ。朝焼けも消えた頃だけど、日差しはまだ柔らかかった。
「……センセイ、あれ、あれ見て」
「なんだ」
 ようやくシャツを閉め終わり、眠そうな顔をしたセンセイに聞く。元いた施設が、前よりももっと沢山の人に取り囲まれていてた。けれども少し様相が違う。昨日のカラフルな服を着た人々ではなく、変な飾り付きの車や、黒いヘルメットを被り板を持った男性が沢山いた。
「ネズミの、板……?」
 その板は、ネズミが逃げないように部屋に栓をするあのプラスチックにそっくりで。あそこにはネズミが沢山いたけれど、かといって流石に大げさなんじゃないかと思うくらい沢山ある。
「……‼」
 センセイにはもう、あれが何なのか分かっているみたいだった。けれども、あの人権派の時のように青くなったりはせず、息をつめたのも一瞬、ただぼんやりとそれを眺めている。風にたなびく髪が、青空に白く線を引いた。
「お前はあそこに行きなさい」
 センセイはそう言った。
 お前「は」行きなさいと言った。
 私はセンセイと沢山お喋りしたからか、前より少し頭が良くなっていた。だからセンセイの手を握りしめて、彼女の話を遮るように、続けた。
「あそこに行けば、お前は保護してもらえる。もう痛いことはされない。だから」
「ねえっ、センセイも一緒に行こうよ! わたし、痛いのは嫌だけど、でもセンセイと一緒にいたい!」
「ダメだ」
「なんで?」
「私は、行ってはダメなんだ」
 センセイは頑なだった。頑張って、全身の体重をかけて腕を引いたけれど、ついに歩いてはくれなかった。
「……じゃ、じゃあ、私もセンセイと一緒に残る……」
 センセイは一瞬目を見開いた。瞬きを重ねて、何度も何度も言葉につまって、「いいんだ」と声を絞り出した。
「行きなさい。どの道、飼育室を出たマウスは四十八時間以内に殺されなければならない。お前が生き残るにはこうするしかないんだ。ほら早く」
「ねえ、何を言っているの? よく分からないよセンセイ」
 両の手を握りしめた。痛い時に出る涙がでた。多分きっと、痛かった。半身を切り取られる大手術だ。痛いに決まっている。
「大丈夫だ。私なら大丈夫。いつかまた会おう」
「やくそく、やくそくだからね? センセイ、センセイ……」
 センセイは、私の背中に両手を回した。あ、これ、立ってる方がやりやすいね。やっぱセンセイはすごいや。いつもなら軽口を叩けたけど、今日は息をするのもやっとなぐらい泣いていたから、言えなかった。
「そうだな。こう約束しよう。この海岸に、花を持って現れる。会えなければそれを置いていく。置いてあれば前来たことが分かる。そうすればすぐに気づける」

 脳みそが半分、欠けていたからかなあ。
 私には、その時のセンセイの感情を説明できなかった。離れ難いような、でも行ってはいけないような、罪悪感、今だったらそんな言葉に収まるような顔をしていた。
 私の脳みそ、もしくは元々のセンセイの脳みそは、多分センセイの頭の中で、私のことを『可哀想だ』とずっと思っていたんだと思う。

「ごめんな」

 かなり歩いたところで、そう聞こえた気がした。振り返ってみたけれど、泣きじゃくった目では分からなかった。
 
 
 
『ラットの実験には、脳を移植し人工的に賢い人間を作ることもあったそうです。その際元の大脳は押し潰され、人格はがらりと変わってしまうのだとか』

「私がね、センセイって呼んで慕ってた彼女は、私と同じ十七歳の女の子だった」
 あの事件のことは、私の記憶にもまだ新しい。彼女は大々的に報じられ、一時期は外に出るのも一苦労だったそうだ。この街からあの海岸までは、バス一本で行けてしまうこと。それもあったからかもしれない。
「白い髪はね、実験の代償で出来たものだった。実験の結果を知るために、早く成長するようにしてたんだって」
 黒い髪だと暑いのか、彼女は時々白い帽子を被ってくる。今日は一段と暑い。彼女はレモン入りの水をぐいっと飲み干した。
「でもねー! センセイのことだから、きっとどこかで生きて、今日ものんびりぼーっとしてるんじゃないかって思うんだ! センセイはね、生きることがとっても下手くそなんだ。実験以外ぜんぜんダメ!」
 彼女とここに座る時、彼女は大抵大きな花束を持っている。オレンジ色の時もあったり、ピンク色の時もあったり。今日のそれは淡い色だ。陽光を照り返して、白いライラックがきらきらと光った。
「だからね、いつか見つけてあげなきゃなって。だって私たち、二人で一つなんだから」
 彼女は自分の名前を覚えたことがない。首から迷子札を下げていた。「センセイ」から名前を呼ばれたことがないので、必要のないものだと思っているらしい。
「『半分のオレンジ』みたいだね」
「え? なあに、それ」
「人間は元々オレンジのように丸かったんだけれど、次第に頭ふたつ手足よっつに姿を変えたから、神様が怒って半分にしたの。だから人間には片割れがいる、人間はそれを探している、っていう伝説」
「へー! すごいなあ、センセイと私も、きっとそれだったんだ」
 彼女は明るく笑う。彼女が注文した紅茶とオレンジのケーキが先に届いた。まだ少し乱雑な動きでフォークを動かし、ぎこちなくぱくりと口に運ぶ。
「教えてあげなくちゃ。センセイに、それも」
 お昼のニュースは終わり、今はどこかの企業のCMが流れている。海岸線は淡くきらめいて、空と溶け合ってしまいそうなぐらい青かった。
 それを恋とも言うんだよ、付け加えるようにそんな話をした。
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